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聖書の物語に意味を見出すには?

聖書は様々な形で私たちに神からのメッセージを伝えているが、文体によってはメッセージを見出すのが難しい場合がある。その一つは聖書に多く含まれいる物語だ。では、どのようにして聖書の物語に意味を見出すことができるだろうか?

重要なのは、筆者の意図を探ること。筆者はどのような背景で、どのような状態で、誰に対して何を伝えていて、何故それを伝えていたのだろうか。それを探らず呼んでしまうと、神のメッセージを見出すのが難しくなってしまう。イエスもパリサイ人に対して、彼らは聖書の読み方を理解していないと指摘した。「読んだことがないのか」と何度も指摘している (マタイ12:4, 19:4, 22:31)。

また、筆者の意図を知るためのヒントを与えているので、それを探ることも助けになる。物語に含まれるヒントは、繰り返される言葉、物事が起きる順番、対話の内容、特定の事象の影響、筆者による解釈の挿入、などがある。

創世記37~50の例

創世記37~50を例として取り上げる。

この章の主な意図は次の箇所に記されている。

7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。

創世記45:7-8

20 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。

創世記50:20

つまり、主な意図は、神の民の罪深さや神の民に対する人間の罪深さは、神の救いの計画を妨げないばかりか、神の救いの計画を前進させるということ。

ヒント1

この意図につながるヒントは少なくとも2つ提供されている。一つのヒントは次の箇所に記されている。

3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。

創世記39:3

21 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。

創世記39:21

ヨセフの状況はどんどん悪化していくが、この中に物語のヒントが含まれている。状況が悪くなったのはヨセフの罪のせいではない。彼がこの悪い状況を作り出しているのではない。神に見放されたのではない。全ては神の隠れた目的のために起こされた出来事である。

ヒント2

次のヒントは創世記38に記されているが、この話がヨセフの物語の真ん中に挟まれているのは不思議に感じる。この章ではヨセフの兄であるユダが、売春婦と勘違いして義理の娘を妊娠させた話が記されている。何故この話がヨセフの物語に挿入されているのか?モーセは何の意図をもってこのヒントを与えたのだろうか?

一つ考えられることは、ヨセフの義をより鮮明にするために挿入されていること。ヨセフは主人であるパテパルの妻に言い寄られたときに断り続けた。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39:9)。

ユダの罪深い不貞行為と、ヨセフの義なる行動は明らかに対照的で、モーセはこの39章を挿入することによってヨセフが神に認められていることをはっきりとさせている。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているAsk Pastor Johnシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/interviews/how-do-you-find-meaning-in-the-bibles-narratives
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James

1ペテロ5:7-9

7 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

神は私達をかえりみて下さる。神は私達を助けて下さる。なので思い煩いを全て神に委ね、私達は何もしなくてもいい。私達は戦う必要はない。神が戦って下さるのだから。本当にそうなのだろうか?

7節を暗唱聖句にして安心しているクリスチャンがいるが、実は7〜8節はつながっている。7節にあるおもいわずらいは本当にある、ほえたけるししのように、また全世界にいる兄弟たちが体験している苦しみと同じように、キリストとクリスチャンに対抗する敵は数多く存在する。もちろん、このおもいわずらいは神に委ねることができる。しかし、神に委ねると結果として私達は戦うようになる。おもいわずらいや不安を背負いながら戦うのではない。身を謹んで戦う。受動的ではなく、無関心ではなく、抵抗するクリスチャンとなる。

10 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。11 語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。

1ペテロ4:10-11

神は賜物を与える。恵みが与えられたから私達は良き管理人でいなければならない。神から賜る力を与えられたので、私達は奉仕する。

12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。

ピリピ2:12-13

「神が私達のうちに働きかけているなら、救いの達成に務める必要はない。」こう言っている人の内には神は働いていない。いわば、偽物のクリスチャンだ。

10 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。

1コリント15:10

神の恵みは私達の内にあるのだろうか?ならば私達は罪と戦うはず。隣人を愛するはず。

10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

エペソ6:10-11

私達は主にあって強くなる。これは、私達が強くなるか、主に頼るかを選ぶことではない。主の内にあるから、私達は強くなる。悪魔に対抗して立ちうるために強くなる。

神は私達をかえりみて下さる。神は私達の為に戦ってくださる。神は私達のために強い砦でいて下さる。でもそれは私達を受動的にしない。無関心にしない。私達を戦えるように強くして下さる。その強さをもって悪魔に対抗するようになる。クリスチャン人生は身を慎み、目を覚まし、悪魔に抵抗する毎日である。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/are-you-a-passive-christian

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Peter

1ペテロ5:1-7

2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。

この箇所の前提にあるのは、クリスチャンは「羊の群れ」の一部であるべきこと。神と個人的な関係を持つことも大事だが、ローカル教会につながって励まし合い、教え合うことが、新約聖書の示しているクリスチャンの形。そしてその群れを牧するリーダーにそのローカル教会がゆだねられている。他の教会や宗教団体に対して口出しし、批判することは教会のリーダーの範疇にない。「ゆだねられている神の羊の群れを牧する」ことに注力することが求められている。

では、リーダーはどのような動機をもって群れを牧するべきなのか?

まず「こうではない」という動機を取り上げる。「しいられている」というのは、ルールを守らなければならないから、罰せられるから、しかたなくという動機。「利得のため」というのは、自分の欲のため、みかえりや金銭を受けるという動機。「権力をふるう」というのは、プライドを保つため、承認欲求を満たし、相手を従わせるという動機。これらの動機には喜びがなく、世俗的な動機でしかない。

では、「こうしなさい」という動機はどのようなものがあるか?「自らすすんで」キリストに安心を得ているから、喜んでキリストのために仕えるという動機。「本心から」他の何かを得なくても、キリストに満たされているからそれを分け与えたい熱意がある。「模範となる」キリストのように自分を低くして、模範としてキリストに仕える。これらの動機にはキリストが与える喜びがある。

リーダーがこのように教会を牧会すると2つの利点が生まれる。

一つは、キリストを称えることになる。キリストは、1ペテロ1:14-19にあるような、「無知であった時代の欲情」や「空疎な生活」から私達をあがない出してくださった。恐れと欲とプライドから贖い出し、安心からの喜び、満たされた熱意、へりくだり仕えるようにしてくださった。これらはキリストの血によって可能となる。

もう一つは、健全な教会を建てあげるようになる。ヘブル13:17には、「彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」とある。つまり、嘆くリーダーは教会の益にならない。喜びのあるリーダーが人々の助けとなる。安心からの喜び、満たされた熱意、へりくだり仕えることが、キリストにおける喜びを表し、健全な教会を建てあげる。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-not-to-lead-a-church

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Peter

1ペテロ4:12-19

12 愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。

「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(2テモテ3:12) キリストのために生きれば迫害を受ける。これは驚くべきことではない。誰もが正しいことを主張し、伝統や文化に対して真理を語ると反発を受ける。世の中でも、教会の中でも同じ迫害を受けることがあるが、それに驚くのではなく、キリストの苦しみにあずかれることを喜ぶべき。

13 それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。14 キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。

キリストが再臨すると全てが明らかになり、全てが正される。虐げた者は罰せられ、虐げられた者は報われる。最も、キリストの栄光を体験すると、キリストのためにした全てのことが、やったかいがあったと感じるようになる。だから生きている間、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(1コリント10:31)

16 しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。
19 だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。

真理と違うと分かっていながら見過ごすのも神のみこころではない。むしろ罪である。「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」(ヤコブ4:17) 神を愛しているなら善を行いたくなる。「神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:2-3) 

善を行うと、この世において苦しみにつながるかもしれない。しかしそれは神のためにやっている証拠なので、神をあがめるきっかけとなる。善を行う人、それを虐げる人、真理を守ろうとする人、それを捻じ曲げて自分の立場を守ろうとする人。すべてを治める神に自分のたましいを委ねて、やがてすべてを明らかにしてくださる主に信頼していきたい。

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Peter

1ペテロ4:1-11

4 今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。5 彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。6 死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。

「死人にさえ福音が宣べ伝えられた」とはどういう意味なのだろうか? 死人に福音を伝えることはできるのだろうか?「霊においては神に従って生きるようになる」ということは、死んだ後でも福音を信じるチャンスが与えられる、ということなのだろうか?

仮に死んだ後でも福音を信じるチャンスがあると仮定しよう。この箇所の流れとしては、「ののしっている」(4節) 人たちに対してやがて裁きが下る (5節)。その裁きが下った人たちに福音が伝えられ、神に従って生きるようになる。この話の流れはおかしくないか?ののしっている人に対して裁きが下るのに、その人達に神に従うチャンスが与えられるのか?神に立ち返るチャンスは生きているうちにあるのに、それをないがしろにした人たちに対して裁きが無いのは神の義に反していないだろうか?

この箇所の自然な流れからすると、クリスチャンに対して2つの励ましのメッセージが伝えられているように思える。

一つは分かりやすいが、私達をののしっている人たちにたいして、神の裁きが下る。クリスチャンとして私達は以前の生き方のように乱行に加わらない。この世に調子をあわせない。神を第一とする生き方をする。なので世の中は私達の行動に驚きあやしみ、危険な存在だとののしる。やがてこの人達も死ぬときがくるのだが、その時に神はこの人達を裁く。私達はこの世で何度も不当な扱いを受けるが、神の裁きは全てを明らかにし、全てを正して下さる。

もう一つの励ましのメッセージは、クリスチャンが神に従って生きるようになること。6節はののしる人たちに福音が宣べ伝えられるのではなく、生きている間に福音のメッセージを受け入れ、神に従うと決めたクリスチャンのことを指している。そのクリスチャンは人間の「さばき」を受けて投獄され、処刑されたかもしれない。しかし、福音を受け入れたクリスチャンは霊において神に従って永遠に生きるようになる。この世において肉の「さばき」を受けるかもしれないが、この世と肉体を超えて神は私達を生かして下さる。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/is-there-any-hope-for-the-dead

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Peter

1ペテロ3:13-22

18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。20 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。

イエスは「肉においては殺されたが、霊においては生かされた」。そしてその霊をもって「捕らわれている霊」に「宣べ伝えることをされた。」キリストは何を宣べ伝えたのだろうか?また、この「捕らわれている霊」は誰なのか?人なのか、悪霊なのか?仮に人だとしたら、いつの時代の人たちのことを指しているのだろうか?ノアの時代にいた人たちなのか、キリストの死と復活の間に捕らわれていた人なのだろうか?

Thomas R. Schreinerの解説書によると3つの考え方がある。

1. キリストは、ノアという預言者を通して、ノアの時代の人たちに福音を宣べ伝えていた

この根拠は1ペテロ1:10-11とされている。この箇所では預言者「のうちにいますキリストの霊」によって神の言葉が語られていたことが記されている。ノアも預言者のうちの一人なので、キリストはノアを通してその時代の人たちに福音を宣べ伝えていた。そして、それを信じなかった人たちは今、獄に捕らわれている。

2. 旧約の人たちが獄に捕らわれていて、キリストが死んだあと彼らに福音を伝えた。

この根拠はエペソ4:8-9とされている。「彼は高いところに上った時、/とりこを捕えて引き行き、/人々に賜物を分け与えた」キリストは十字架にかかって死に、獄に捕らわれている人たちの所へ行って福音を伝えた。そして復活して天に戻る時、信じた者をも天に引き上げた。

3. キリストは、悪霊に対して勝利を宣言している

この根拠は1ペテロ3:22とされている。キリストは天に上って神の右の座につくことによって、天使と悪霊を従えた。創世記6章に記されているような「ネピリム」(神の子、つまり天使) は今は獄に捕らわれているが、イエスは十字架と復活によってその悪霊たちに対して勝利を宣言している。

この3つの考えを踏まえて、私達はどう判断し適用すれば良いのだろうか?一つできることは、ペテロが何を言いたかったのかを確認することだ。

21 この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

神が洪水で人類を滅ぼすと宣言したとき、8人が箱舟によって洪水から命を救われた。神の裁きは絶対であっても、この少数の神に忠実な人たちは救われた。ペテロが生きていた時代、教会はローマ帝国の中で虐げられていた。「さばきが神の家から始められる時がきた」 (1ペテロ4:17-18)。教会に対してだけでなく、その時代の全ての人に対して裁きが降ろうとしていた。そんな状況下であっても神は教会を救うことができる。批判や迫害や裁きがいかに大きくても、神は私達を救うことができる。これを心にとめて神に信頼したい。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-do-you-decrypt-confusing-bible-verses

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Peter

1ペテロ3:8-12

8 最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。

「あなたがた」教会に対して語っている。

「心をひとつにし」これは単に神学や教理の一致だけにとどまらない。教会としての方向性や目的に対して心をひとつにし、一致しなければならない。これが起きるにはオープンに話し合い、お互いの意見を尊重し、中間点を互いに見つける必要がある。一部の人たち(リーダーなど)が勝手にこれを決めて、それを教会員に押し付けても本当の一致は起きない。ましてや、考えの違う人を排除しているということは「一致」を促しているのではなく、「同調圧力」をかけ従わせるようにしているだけ。結果的に教会員は「無関心」に陥ることになる。これは真に「心をひとつにする」ことには繋がらない。

「同情し合い」相手を思いやることが含まれる。これは単に相手を「可哀そう」思うのではなく、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマ12:15) ことが含まれる。教会の中で虐げられている人がいたら、教会のリーダーに不都合な情報を隠ぺいして「痛みを覚える」で忘れ去るのではなく、しっかりと原因分析をし改善を図る。権威や評判を守る姿勢ではなく、相手の立場に立って物事を考えようとする姿勢が、教会に求められている。

「兄弟愛」ユダヤ人でも異邦人でも、日本人でも外国人でも、私たちは神に救われた罪人。私たちはイエスによって「兄弟」とされ、父なる神の子供とされた。だから互いを愛することができるし、違いがあっても認め合うことができる。愛する家族だったら、伝統に合わないから排除しようとしない。相手がどう思っているか理解する努力をし、自分の考えを少し横に置く必要があっても相手を尊重する。権限やルールよりも愛を優先する。

「憐れみ深く」=「情深く」「心を柔らかく」とも訳せる。これは「同情」することではなく、相手に関心を持つこと。たとえ相手が強い言葉を使ってきても怒ることはせず、強く心を持ち、自分のことばをこらえて受け入れる。そしてキリストが私たちを赦したように相手も許す。相手の気持ちを受け取ることも教会として学ぶべきこと。

「謙虚」行動だけでなく、考えも謙虚でなければならない。もしかして自分の考えが間違ってるかも知れない。もしかしてこの人が言うことは自分の考えを正しい方向に導けるかも知れない。もしかしてこの人の考えによって教会がより聖書における「純潔」を保ち、人々が心から「一致」し、強制されない「平和」が起こされるかもしれない。

上記の内容はEllicott’s Commentary for English Readersを引用している。

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Peter

1ペテロ3:1-7

1 同じように、妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、2 あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。

「同じように」クリスチャンがキリストである牧者に従い、導かれるように、夫に仕える。「御言に従わない夫」つまりキリストを信じていない、クリスチャンになっていない夫に対しても仕える。「うやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって」聖書のことばや教理や議論を重ねて夫が変えられるのではなく、信仰が行動に現れるとき夫に一番響く。「しかたないから」「仕事だから」「おじさんじゃできないから」のような態度でなく、一つの体とされた夫婦として大切にし、キリストの愛を示したいから夫に仕える、という姿勢が求められている。これが「かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾り」であり、「神のみまえに、きわめて尊いものである。」

7 夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、いのちの恵みを共どもに受け継ぐ者として、尊びなさい。それは、あなたがたの祈が妨げられないためである。

夫も「同じように」キリストが牧者として導くように、妻を導く必要がある。「弱い器」だと理解した上で「共に住み」「尊ぶ」ことはどのような意味があるのか、John Piperがうまく表現している。

夫たち、次のことを理解の中心に置きましょう:あなたはクリスチャンの夫として、妻を守り、養い、人生の脅威や困難を乗り越えるよう導くために優れた力が備えられ、その責任と重荷を背負っています。その一方で、あなたのそばにいる妻は神の相続人の仲間であり、「父の王国で太陽のように輝く」(マタイ13:43)息を呑むような輝きを持つ人間であることを理解しましょう。 その人は、来るべき時代には結婚がないので(マタイ22: 30)、来るべき時代にあなたと結婚することはありませんが、王の王の前に、輝かしく栄光に満ちた臣民として立つのです。

ですから、あなたの思いやり、守る力、導く力を、神の相続人と一時的に暮らせることへの驚きと畏敬の念と合わせて共に住みましょう。

https://www.desiringgod.org/interviews/what-makes-women-the-weaker-vessel
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Peter

1ペテロ2:9-25

22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。

キリストは神であり、人である。(Hypostatic Union) 人として地上にいながら罪を犯すことはしなかった。また彼の口には偽り(=欺瞞、狡猾、裏切り)がなかった。世界の救世主としての期待を裏切らなかった。 ずるがしこく十字架にかかることを逃れなかった。私達の罪のために、たしかに十字架にかかり、死んで蘇った。

23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。

ここがイエスのすごいところ。私達は、ののしられたら、ののしり返したくなる。やられたら、やり返したくなる。苦しめられたら、戦いたくなる。しかし、イエスはこのようなことをせず、「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねた。」私達の罪の裁きを十字架で背負った。そして、ののしりや苦しみを与えた人々に対して「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈った。ののしる人を憐れみ、赦しを願う姿勢。神の正しい裁きに委ねる姿勢。イエスの行動を真似するのはものすごく難しいが、クリスチャンと呼ばれるならイエスのようになるべき。

24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

私達はいやされた。義に生きるようにされた。もうさまよわないように、イエスという牧者を与えられた。なので私達は救われたところに立ち止まるのではなく、初歩的な学びに満足するのではなく、礼拝だけに留まるのではなく、リードして下さる牧者がいるので先に進みたい。

1 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、2 洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。3 神の許しを得て、そうすることにしよう。

ヘブル6
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1ペテロ2:1-8

4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。

キリストは私達の罪のために十字架にかかり、死に、葬られた。しかし三日後に死からよみがえり、永遠に生きる教会の礎となった。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(ルカ20:38)。私達も「生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司」となった。私達は律法を守れない状況なので死しかなかったが、キリストが律法を成就してくださったので私達は生きる者となった。律法はキリスト者として生きるためのガイドだが、それを守らなければ罰を受けるわけではない。キリストによって、キリストを信じる者たちと結び合わされ、家族の一員とされた。ある教会のリーダーに認められたから家族の一員になるのではなく、キリストが成したことと、キリストに従う信仰によって家族の一員となる。クリスチャンとして私達はみな「祭司」であり、祈りを通して直接神と対話し、聖書を読んで直接神のみことばを知ることができ、それを伝える使命が与えられている。教会の一部の人間、その役割を担う人たちだけにこれが与えられているわけではない。

6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。

イエスはかしら石。律法でなく、人間のリーダーでなく、イエスにより頼む者は、「決して失望に終わることがない。」イエスは聖書を通して何を教えているか?どのような例を残してくれているのか?どのような使命を私達に与えているのか?それに焦点を当てて人生設計をすると、失望に終わることはない。かならず満たされた人生になるし、生き方を通して神の栄光を表す喜びを体験することができる。

7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。

逆に不信仰な人にとっては、すでに捨てたはずの石がかしら石とされたので、悔しい思いをする。律法を守るだけで十分。礼拝をしていれば十分。形の整った教会形成ができていれば十分。それが正解だと思って守ってきたが、聖書を読めばイエスの教えと一致しないことがわかる。むしろ、このような考えはイエスの根本的な教えと行動の意図を否定することになる。残念ながらリーダーがイエスに従わず、それを聖書から正す人がいなければ、教会全体がイエスに従わない方向に傾く。彼らにとってイエスが「つまづきの石、妨げの岩」となってしまう。こうならないためにも日々聖書を読むことと、イエスに従う生き方をベースに、教会を建て上げることが重要。