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コロサイ4:10~18

・・・アリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが・・・ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。 
コロサイの信徒への手紙 4:11 新共同訳

ユダヤ人がキリスト者になった時にはすでに割礼を受けていた。しかし異邦人は律法を知らないままキリスト者になったので、割礼を受けていない人がほとんどだった。それに納得しないユダヤ人は異邦人も割礼を受けるべきだと主張した。これを救いの要件に含む事によって、神の国を広めることを阻んでいた。しかし、この三人は「神の国のために共に働く者」とされていることから、彼らは割礼の必要性を主張していなかったと推測できる。福音のメッセージに何か付け加えていないか?(信じること以外に完璧に諮問に答えなければならない、とか)神の国を広めることの弊害になっていないか?(教会の風習に合わなから参画させない、とか)常に吟味する必要がある。

あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。 
コロサイの信徒への手紙 4:12 新共同訳

完全な者となり、神の御心をすべて確信することがキリスト者のゴール。礼拝をすることはキリスト者が当たり前にすることだが、ゴールではない。では「完全な者」とはどのような状態だろう?

“あなたの天の父が完全であるように、あなたも完全でありなさい” さて、あなたの天の父は完全であることを覚えておいてください。ですから、もし私たちが神の姿を映し出すのであれば、私たちは神の道徳的な卓越性においても、またその他の点においても、神を映し出す必要があります。実際、この世の人への基本的な呼びかけは、神の人格を反映する者になることです。それが、神の姿に似せて創られたということです。

https://www.ligonier.org/learn/qas/when-jesus-says-be-ye-perfect-your-father-heaven-p/
ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。 
コロサイの信徒への手紙 4:15 新共同訳

「教会」という建物で集まる人たちだけが教会ではない。信者がキリストの名によって集まると「教会」と呼べる。誰かの家であっても、カフェであっても、Zoom会議であっても、そこに集まる人達が教会。「無教会」と呼ばれている人たちがいるが、その人達が集まってやっていることを聞くと、賛美、祈り、聖書の学び、交わり、が含まれていることから、立派な「教会」と呼べる。

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

マタイの福音書 18章 20節
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コロサイ4:1~9

目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。 コロサイの信徒への手紙 4:1 新共同訳

“私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。” コリント人への手紙第二 10章 3〜4節

つまり、ミニストリーは戦争なのです。私の心の中の信仰のための戦いは、戦争です。人の魂のために戦うことは戦争です。クリスチャン・ライフのすべての側面が戦争なのです。

ほとんどの人はこのことを信じていません。どうやって祈るように促すことができるでしょうか?信じていると言っていても、自分の人生を考えてみてください。教会では、平時の気軽さ、霊的なことに対する気軽さがあります。彼らの人生には、爆弾が落ちてくることもなく、頭上で弾丸が飛び交うこともなく、地雷を避ける必要もなく、地平線上に轟音が響くこともありません。宇宙のディズニーランドと呼ばれるアメリカでは、すべてが順調なのです。なぜ祈るのか?

信者の手の中で祈りが誤作動を起こす一番の理由は、戦時中のトランシーバーを家庭用のインターホンに変えて、メイドに枕を持ってくるように呼び出そうとするからだ。祈りは戦車用に作られている。塹壕のために作られている。戦争のために作られている。ヨットに取り付けても動かない。湖畔のキャビンでは使えない。2台目、3台目、4台目の車には使えない。

人生は戦争だと思うまでは、何のために祈りをするのか分かることはできない。

https://www.desiringgod.org/interviews/why-comfortable-christians-go-prayerless
同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。 わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。 コロサイの信徒への手紙 4:3‭-‬4 新共同訳

祈る第一の理由は、自分たちの欲を満たすことや、楽を求めるためではない。霊的な戦争における、魂の救いのための祈り。その最前線にいる福音を語る宣教師や牧師のために祈る。また、「しかるべく語る」ことができるように祈る。自分の思いや神学的スタンスを押し付けるのではなく、救いをもたらす福音を伝えるように祈る。

時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。 コロサイの信徒への手紙 4:5‭-‬6 新共同訳

牧師や宣教師でなくても、一般信者にも福音を伝える義務がある。「時をよく用い」日々接している人とキリストにある人生を分かち合う。その関係から福音を伝える機会を常に見定める。知らない人に対していきなり神や魂や天国や地獄の話をしても伝わらない。私達が相手のベストを求めている、と思ってくれるほどの信頼関係が必要。また、「賢くふるまう」こと。カルトのように、ただ指導者に言われたことを信じるのではなく、自分で聖書を読んでよく考え、理論的に組み立てて話せるようにする。そうすることによって「塩で味付けされた快い言葉」を語ることができる。「味付け」は食事の魅力を引き立てるが、「塩辛い」と食べたくなくなる。キリストの福音が引き立つ言葉を語れるようになりたい。

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コロサイ3:15~25

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。 コロサイの信徒への手紙 3:15‭-‬17 新共同訳

この箇所はコロサイ教会に向けられた言葉なので、教会のありかたを示している。

「キリストの平和があなたがたの心を支配する」 キリストが十字架でしてくださったこと、私達を救って下さったことを受け入れ、常に感謝の心をもつこと。この心が真の平和を生む。世の中の状況や心配事、人間関係や異文化に疲れた事で心を支配されるのではなく、キリストの平和に支配してもらう。

「あなたがたは招かれて一つの体とされた」 「教会」は新約聖書で「ekklesia」。この言葉は「ek」と「kaleo」の2つの言葉で構成されていいる。この箇所で使われている「招かれて」も「kaleo」を使っていて、意味は「呼び出す」「招く」。「ek」は「〜から」という意味がある。合わせると、「〜から呼び出された、〜から招かれた」というのが教会。集められた人たちに焦点があたっていて、建物や場所は指していない(シナゴーグという言葉は使っていない)。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る」 キリストの言葉は人が語る説教だけでは得られない。自分でキリストの言葉(聖書)を読み、理解を得られるように聖霊に頼ることが必要。「内に豊かに宿る」には日々続けて行うことが大事だが、ただ読むだけでなく思い巡らすことも必要。思ったことを書き留めることも助けになる。

「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」 キリストの言葉が内に豊かに宿れば、教会で集まった時に互いを高め合うことができる(箴言27:17)。誰かが一方的に教えるのではなく、「教え合う」。誰であってもお互い学び合うことができる環境が望ましい。一人の考えを全員に押し付けるのではなく、「論し合う」。これには相手の言っていることを理解しようとする姿勢が必要。常に間違ったことを正そう、という考えがあっては聞くことができない。

「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」 教会音楽は「讃美歌」や「聖歌」だけではない。讃美歌や聖歌は「賛美」の部分しか扱っていない。「詩篇」で聖書のことば自体を歌うことや、「霊的な歌」で聖霊が個人の心を動かして書いた歌も含まれる。これらはオルガンやピアノというスタイルに固執したものではなく、エレキギターやドラムでも表現できる。大事なのは「心から神をほめたたえる」こと。オルガンやピアノでも正確さに焦点を当てすぎて心からの賛美がでなくなる場合がある。エレキやドラムの方が心からの賛美を促すことができることもある。

「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い」 教会が言うこと、行うことは「イエスの名によって」行う必要がある。イエスが教えた、「神を愛し、人を愛する」新たな律法。イエスが地上で示した愛の行動や活動方法。イエスが出した大宣教命令。イエスに習うことが「イエスの名によって」行動することにつながる。人よりも聖書、律法よりもイエスを見て「イエスの名によって」行動していきたい。

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コロサイ3:1~10

'あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。 ' コロサイの信徒への手紙 3:3-4

このイエスとの祝福された結びつきから得られる結論は、私たちはクリスチャンとして、霊的実態の事実に忠実に行動し、私達の仮の住処であるこの世に背を向けて、上にあるものに心を向けなければならない。「神の右に座している」キリストは、磁石のように、私たちの意識をご自身にき寄せてくださる。キリストと結びつくことで私たちはこの世に対して死に、キリストと共に、願望、思考、要求、 愛、従順に生きるようになる。そしてキリストは、信仰によって地上に展開される天の御国で新しい生活を送るようにされた。私達の魂を支配し、祝福される。

MacLaren’s Expositions
'造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。 ' コロサイの信徒への手紙 3:10

外側の人が衰えても、新しくされた内なる人は、日ごとに新しくされ、聖さと義を増し、恵みを増し、特に “知識 “を増していく・・・恵みの原理は、霊的な知識から始まり、それに合わせて形成され、恵みの増加は霊的な知識の中にあるということ。

Gill’s Exposition of the Entire Bible

キリストに結びついていることを認識する。キリストご自身が私たちを引き寄せてくださる。この事実があるから私たちはこの世に背を向けられるようになる。天の御国は未来の出来事だけではなく、現在地上において展開されている御国もある。この場所で「真の知識に達する」まで御言葉を読み、聖霊に教えられていく。知識とは、ただ情報を知るだけでなく、恵みとして体感していく。この体感した恵みを広め、結果的に御国を広めていく。

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コロサイ2:16~23

'だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。' コロサイの信徒への手紙 2:16

「食べ物や飲み物のこと・・・でだれにも評価されてはなりません」

教会によって聖餐の考え方やとり方は違う。ルーテル教会では「実体共存説」(consubstantiation) に基づいて、パンとブドウ酒と共にキリストが共存する、という考えで聖餐をとっているので、聖職者がパンとブドウ酒を祝福し、聖別する必要がある。改革派は聖餐を「印」としていて、「神の民」として一つのパンを分け合って、民の一員であることを覚えるので、実際に一つの場所に集まって聖餐を取る以外に方法はない。

もう一つの考えは、聖餐はイエスの十字架を覚える機会であること。イエスはパンとブドウ酒を弟子たちに渡したとき、「覚える」ことを言葉の中心に置いている (1コリ11:24)。「覚える」= anamnesis = 思い起こす、起きた出来事(イエスの十字架)の効力を認識し感謝する。パンとブドウ酒自体に特別な効力はない。イエスの十字架に効力がある。「神の民」を重要視するイベントではない。イエスの十字架を覚えるのが重要。こう考えると、「教会」と呼ばれる建物で集まって聖餐を取る必要はなく、「覚える」事を重要視できる環境が整えば十分なはず。なので、リモートで個別にパンとブドウ酒を準備し、他のキリスト者と心を合わせて聖餐をとることも考えられる。また、家庭内で親と子供がキリストを覚えて聖餐を取ることも考えられる。

'あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。 'コロサイの信徒への手紙 2:20-23

「手をつけるな。味わうな。触れるな」

舌触りの良い食べ物は一切許さず、乾いた粗いパンを食べ、水しか飲まなかった。彼らの多くは、日没まで何も食べず、自分の宗派に属さない人が触れると、最も深く汚されたかのように身を洗った。

Barnes’ Notes on the Bible

ユダヤ人の律法学者は宗教的に清くあることを常に追求し、他人にも要求していた。律法に書かれている通りの生き方に留まらず、さらに飛躍した解釈によって人々を縛った。かつて免罪符を売ったカトリック教会もこのような動きがあったが、今日でも「教会戒規」という「脅し」を使って、人々を教会に縛り付ける事が見られる。神の言葉(律法、聖書)を人々が読まないことを良いことに、リーダーは無知な人々に不必要なルールを押し付ける。しかし、「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」人が作ったルールは「肉」を満足させるだけ。「天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)。

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コロサイ2:8~15

'人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 ' コロサイの信徒への手紙 2:8

神の存在を否定する「科学」にのっとった教育。神は様々な所に宿っていて、気を付けながら生きなければならない文化。神を信じるならば様々なルールを守らなければならないという、人間の努力を中心とした信仰。神のみことばが与えられているにもかかわらず、神を理解するには専門家の話を聞く必要があるという他人だよりの宗教。どれをとっても、「人間の言い伝えにすぎない哲学・・・むなしいだまし事」。

'あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 ' コロサイの信徒への手紙 2:11-12

ユダヤ人は「神の民」とされていて、それを証明するために割礼を受けた。新約のキリスト者も「神の民」と証明する必要はあるのか?これが「洗礼」だという人がいるが、教会が「救い」を確認し、それを「承認」する行為として洗礼を授けている。割礼のように人に頼る肉体的なプロセスになり下がっている。私たちは「肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」た。キリストが私たちを肉の行いに頼ることから解放して下さった。また、洗礼は「キリストと共に葬られ・・・キリストと共に復活させられた」ことを象徴する行為。キリスト者が「神の民」であることを証明する「印」ではないし、教会の判断に頼る行為でもない。「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じ」る、この一点に限る。

'肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。 ' コロサイの信徒への手紙 2:13-15

「肉に割礼を受けず」にいても、キリストは私たちの罪を赦した。洗礼という「印」を受けなくても「神の民」とされた。「規則によって・・・訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにし」た。もはや律法はキリスト者を拘束する力はなく、キリストによって赦され、生かされた存在となる。「安息日」、「十戒」、「十一献金」、「割礼=洗礼」。どれも神がイスラエルに与えた律法であり、キリスト者には良い「規範」(神が求めたことは理解できる)ではあるが、「規則」(絶対守らないと罰せられるルール)ではない。キリスト者の「規則」はキリストが教えたこと。それを守れない人たちには、キリストと同じように愛をもって接することが求められる。

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コロサイ2:1~7

'知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。 わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。 ' コロサイの信徒への手紙 2:3-4

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内」にある。信仰問答や解説本は人が神の言葉を解釈して書いたものであり、時代的背景や筆者の主観が含まれている。よって、常に聖書を確認し、正しさを吟味しなければならない。ろくに考えもせず、「専門家」や「先生」の言うことや書くことをうのみにするのはカルトと同じ状態。聖書を読み、キリストが言っていることを常に見出さなければならない。

すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。

1テサロニケ5:21
'あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 ' コロサイの信徒への手紙 2:6-7

「キリストに根を下して」ー根を下すところは揺らぎない場所でなければならない。偉い先生、信頼する友人に根を下しても、キリストほど頼れない。むしろ、人は間違いを起こし、簡単に裏切る生き物である。キリストという岩に根を下すと倒れることはない。希望を無くすことはない。キリストに結ばれて歩むことによって、キリスト者として造り上げられ成長し、信仰を守るだけでなく感謝にあふれる。この生き方が本当の証になる。

我が身の望みは ただ主にかかれり
主イェスの外(ほか)には 依(よ)るべき方なし
我が君イェスこそ 救いの岩なれ 救いの岩なれ

「我が身の望みは」讃美歌280番
'わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。 ' コロサイの信徒への手紙 2:5

パウロは、牢につながれているときにコロサイ人への手紙を書いた。それでも「離れていても、霊ではあなたがたと共に」いた。実際に一つの場所に集まらなくても霊と心を一つにすることができる。一つの場所に集まっていたとしても心が一つにならず、礼拝中寝ている人がいたり、礼拝終了後全く会話をせず帰る人もいる(教会員だけでなく、リーダーも同じ動きをする)。これと比べて、オンライン体制をしっかりとり、礼拝中もチャットを通して礼拝への参画を促したり、礼拝後にSmall Groupでディスカッションをるすなど、信者同士が親密に語り合っている事実の方が、霊を一つにしているように見える。

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コロサイ1:15~29

'御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 ' コロサイの信徒への手紙 1:15-17

神の姿は誰も見ることができない。神の顔を見た人は死ぬと言われてきた (出エジプト33:20)。イエス・キリストは「しもべの姿をとり、人間と同じ様になられました。人としての姿をもってあらわれ」た (ピリピ2:7)。だからこそイエスは私達の弱さに同情できる (ヘブル4:15)。イエスは、人間が神になった者ではないし、神によって創られたのではない。イエスは「神の姿」であって、神である。父と聖霊とは違う役割を担い、父と聖霊と世の始まりから存在している。

イエスはこの世の全てのものを造り、全てを支配している。そして全てを支えている。巻時計のようにこの世を創って、放っておいているのではない。この世がどんなに悲惨な状況でも、イエスは全てを支えている。イエスの許しなしに起きることはないし、イエスはどんな状況も変える力と権威がある。

造られたものは全てイエスのために存在する。自然が、私達が創られた理由は、イエスのために生きるため。グランドキャニオンやナイアガラの滝のような大自然を体験すると、まさに石ころが神を讃えていることが理解できる(ルカ19:40)。私達も自然に負けず、日曜日のみならず人生全てを通して神を讃えていきたい。

'また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 ' コロサイの信徒への手紙 1:18-20

イエスは教会=「呼び出されたキリスト者」の頭。イエスが死から蘇ったように、教会も死に向かうだけの罪の中から呼び出され(ローマ6:23)、イエスのために生きるようにされた。神がこの世を見ると罪の影響しか見ることが出来ないが、イエスの内にある教会は聖なる者とされている(ヘブル10:10)。聖なる神と顔をあわせることも出来ない私達だったが、イエスによって神と胸を張って対面することができ、「アバ、父」と呼ぶことができる(ヘブル4:16, ローマ8:15)。神父に罪を打ち明ける必要もなければ、礼拝の場で懺悔する必要もない。私達はすでに赦されている。

'ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 ' コロサイの信徒への手紙 1:23

本当に救いを味わった者は信仰に踏みとどまる。自分の罪をよく理解し、罪に対してどうしようもない状態を実感する。その罪の報酬は死であることをしっかり認識し、神の義を受け入れる。それに対してイエスが十字架で死に、私達の罪の代価を支払ってくださった愛を知る。その事実を受け入れて、蘇ったイエスのために生涯を捧げる。この一連の考えとイエスへのコミットメントをした人が、信仰から迷いでることはないはず。もしそうであれば、罪の意識、イエスの愛、救いの事実、イエスに仕える意思、のどれかが欠如している。(Perseverance of the Saints =「聖徒の永遠堅持」)

最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば・・・私たちはキリストにあずかる者となる

ヘブル3:14
'このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。' コロサイの信徒への手紙 1:28-29

全てを治めていながら全てを支えている。人の姿をとり、私達を理解してくださっている。私達のために救いをもたらしてくださった。この素晴らしいキリストを宣べ伝えたくならないだろうか?礼拝という限られた場所だけにとどめても良いのだろうか?「知恵を尽くしてすべての人を論じ、教えていく」ことが必要。教会内での奉仕に疲れることがあるが、「労苦」すべきことはキリストを宣べ伝えるとき。それも「キリストの力によって戦う」ことができる。

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コロサイ1:1~14

こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 コロサイの信徒への手紙 1:9‭-‬10 新共同訳

パウロのコロサイ人に対しての祈りと願いは「神をますます深く知る」こと。「知る」=epignosis=個人的に、実際に体験して知ること。つまり、神のことを知的に知るだけでなく、神が喜ぶことや御心を認識し、行動に移すことによって関係を強める。そうなるために内に宿っている聖霊に頼る。

そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 コロサイの信徒への手紙 1:11‭-‬12 新共同訳

神との関係が強まることによって世の中に対して根気強く耐え忍ぶことができる。どんな困難な状況であっても、私達は相続人である。キリストによる赦しを相続している。父なる神と直接対話ができる親子関係を相続している。そして未来には天の御国や永遠の命を相続する。永遠を考えると、この世の一時的な困難は小さく見える。

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 コロサイの信徒への手紙 1:13‭-‬14 新共同訳

私達はかつて闇の力に支配されていた。自分のために生きていたと思ったが、いくら頑張っても満たされない欲のサイクルに囚われていた。自分を正当化するために他人を見下し、弱い立場の人を支配することによって優越感を浸っていたが、どこに行っても自分以上の権威には逆らえない。こんな、いくら求めても足りない、自分中心の闇の生き方から開放された。キリスト者として求めるのは光であるキリスト。