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2テサロニケ3:14~18

もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。 しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。テサロニケの信徒への手紙二 3:14‭-‬15 新共同訳

「従わない者」はどんな人を指しているのか?分脈からは11節の「怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たち」が濃厚。働かないで教会の施しばかりを受ける人。それだけでなく、おせっかいを焼いて教会員をかき回す。自分たちが上の立場だと勘違いし、他人の間違いを指摘する「警察官」になり下がる。

この箇所は戒規のことを書いているのか?「従わない者」は「怠惰な歩みをしている人たち」であることから、必ずしも信仰に背を向けている人とは限らない。戒規が必要な場合は背信行為であり、戒規を執行するにはそれなりのプロセスがある。そのプロセスもここでは触れていないし、「かかわりを持たない」としている事から戒規の意図と違う。

では、このような人たちと本当にかかわりを持たないようにするべきなのか?「関わりを持たない」は他の聖書箇所(1コリ5:9、1コリ5:11)では罪に浸かっている人の事を指している。そのような人と同じ行動を取らない、そのような人に影響されない、逆の行動に出るべきだと考えられる。つまり、教会の施しや地位にすがり、他人の指摘しまわるのではなく、自分の状況を理解し、自分から神にすがり、神に与えられた恵みを他人に振舞うことが、「関わりを持たない」ことにつながる。

そうすることによって、この怠惰な人は「あるべき姿」を見ることができ、自分の愚かさに気づく。「恥じ入る」ことによって、怠惰な生活に背を向け、キリストに「従う者」になる。また、「警告」する方法も、「戒規」というプロセスを突きつけるのはそもそも状況に見合わない。「敵ではなく兄弟」として、まず自分がどのように生きるべきか例を示し、その証から兄弟を正しい方向に導く。指摘し、何かしらの罰を与えるのではなく、正しい方向を示すことが、キリストが教えた「弟子づくり」に誓い形。

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2テサロニケ3:6~13

兄弟たち、わたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた教えに従わないでいるすべての兄弟を避けなさい。テサロニケの信徒への手紙二 3:6 新共同訳

「怠惰な生活」=atakos=乱れ、階級を破る、みことばに従わないので実がない。文脈から、生活自体が整っておらず、働こうともしないことを指す。教会が配っていた食べ物や物資に頼り切っていて、自分で生活しようとしていなかった。同時に、この言葉は心の乱れや霊的な反抗も指す。自分の生活が整っておらず、世間的立場がないので、心の乱れから他人の欠けを指摘するようになる。New International Versionでは”idle and disruptive” (怠け者で妨害する) と訳している。他人の霊的成長を、不必要なルールや聖書的でない教えで妨害する。常に誰の間違えを指摘できるか、教会のリーダーに報告できるかを狙っている。自分の霊的成長に対しては怠けていて、自分自身がみことばには従わず、実のない生活を送っている。

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 7章 1〜5節
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2テサロニケ3:1~5

そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。 テサロニケの信徒への手紙二 3:4 新共同訳

パウロたちが命令したことは何か?2テサロニケを見返していくつかのことが確認できる。

1)キリストに召してくださった者として相応しく生きること。善=神が喜ぶことを求めて自分自身が変えられること。信仰の働きを実現していくこと=他人に善を押し付けるのではなく、隣人をイエスが愛したように愛すること。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。 

テサロニケ人への手紙第二 1章 11節

2)イエスの再臨について人の言葉に頼り過ぎで惑わされることをせず、自分で聖書を読んでよく考え、正しいことを見定める。

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。 

テサロニケ人への手紙第二 2章 3節

3)イエスによる救い、イエスを愛し求める生き方、イエスの示した行動に習って隣人と接すること。

ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。 

テサロニケ人への手紙第二 2章 15節

4)主のことば=福音を伝えていき、速やかに広まるように福音伝道に励む。

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。

テサロニケ人への手紙第二 3章 1節
また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。 テサロニケの信徒への手紙二 3:2 新共同訳

信仰があると自負しておきながら、そのように振る舞わない人は「道に外れた悪人」。ルールで人を縛り、一つの考えに統一させるカルト的な行動。違った考えに対して話し合いではなく排除の道を選ぶ。聖書が神のことばと言いながら人の書いた信仰問答や参考書を聖書より重要視する。信者が聖書を読むことによって間違った考えを持つことを恐れ、聖書を読むことを拒む。「道に外れた悪人」はこのような行動に出るので、「逃れる」ことがベスト。

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2テサロニケ2:13~17

しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。 テサロニケの信徒への手紙二 2:13 新共同訳

キリスト者は「霊の力」と「真理に対する信仰」でなりたっている。私達が罪人であることを聖書から知り、聖霊によって自覚させられる。イエス・キリストが私達の罪のために十字架にかかって代価を払い、三日目に蘇ったことを聖書と歴史から知らされる。イエス・キリストを信じることによって救われる、という事実を信じるように聖霊が促す。そしてキリストのようになるように変えて下さるのも聖霊で、キリストのためにどう生きるべきか知るのには聖書を読む。まさに「聖霊」と「真理=聖書」と「信仰」が共に働いてキリスト者の全体を担っている。

ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。 テサロニケの信徒への手紙二 2:15 新共同訳

パウロが教えてしっかり立って守るべき教えとは何なのか?

神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。 テサロニケの信徒への手紙二 2:14 新共同訳

守るべき教えは、「イエス・キリストの栄光にあずかる」こと。キリストの内にあるキリスト者は、その栄光をも受けられる。私達はキリストと共に相続人となり天国に行くことが約束されている。

またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。 

エペソ人への手紙 1章 11節

またこの世においてもキリストのために生き、キリストに栄光を返す日々を送ることが、キリスト者の努め。日曜日の朝だけに神礼拝をすることに留まらず、キリストの栄光にあずかる者として生きることが目的。

あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。

エペソ人への手紙 5章 8節
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2テサロニケ2:1~12

霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。 この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。 テサロニケの信徒への手紙二 2:2-‬4 新共同訳

「主の日」はここでは「安息日」の置き換わりだったり、日曜日の礼拝のことを指しているのではなく、イエスの再臨を指している。すでにイエスが再臨している、という考えは「無千年王国説」に近い。この考えでは、イエスが再臨したときに地上で千年間王として治める設を否定し、イエスはすでにこの世を治めていること、また普遍的教会が地上で広まり、神の霊的な国が広まっていくことだと主張する。この根幹には、聖書に書かれている予言の解釈の違いがある。

無千年王国説は、実現していない預言にはある解釈方法を用い、預言ではない聖句や成就した預言には別の解釈方法を用いることから来ています。非預言的な聖句や成就した預言は、文字通り、あるいは直接的に解釈されます。しかし、無千年王国主義者によれば、満たされていない預言は霊的に、つまり文字通りではない方法で解釈されます。無千年王国主義を堅持する人々は、満たされていない預言を「霊的に」読むことが、聖書の通常の読み方であると考えています。これを解釈学では「二重解釈」といいます。(解釈学とは、解釈の原則を研究する学問です) 無千年王国主義者は、未達成の預言のほとんど、あるいはすべてが、象徴的、比喩的、霊的な言葉で書かれていると考えています。したがって、無千年王国主義者は、聖書のそれらの部分に、それらの言葉の通常の、文脈上の意味ではなく、別の意味を割り当てます。

https://www.gotquestions.org/amillennialism.html

予言の解釈には様々なスタンスがあるが、成就していない全てのみことばが「象徴」としてしまうと、聖書を書いた筆者、時代背景、文脈、などを無視することになってしまう。聖書の解釈は一つで、神が筆者に与えた意図も一つ。「象徴」とまとめるのではなく、神が聖書を通して何を伝えたいのかを探求し続ける姿勢が問われる。

不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。 それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。 テサロニケの信徒への手紙二 2:9‭-‬12 新共同訳

再臨の前に現れる「不法の者」はいわば、「アンチキリスト」と呼ばれる存在で、キリストのように王として、神としてふるまい、人々を惑わす。その惑わす方法は、「あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い」「惑わす力を送られ、その人達は偽りを信じるようになる」「真理を信じないで不義を喜ぶ」。自分の功績を讃え、考えを改めることを忘れてしまった人々が最も惑わされやすい。これに当てはまるかのテストは、これまで積み上げ肯定していることを評価し、万が一にも間違っていたと認めることができるか?常に自分を吟味し、神に向かっているかテストし考えることが、惑わされることから守る一つの手立て。全てを試し、考えることが、「自分たちの救いとなる真理を愛」することにつながる。

最近読んだ記事に、日本人の持つイデオロギーに、考えることを妨げる根幹的な内容が記載されていた(投稿元はプライバシーのため省略)。この内容は政治家だけにとどまらず、教会の中でも大きく影響しており、外国人や異なった考えを持つ人が教会の中で虐げられている実態がある。「アメリカ的な考えだね」や「アメリカ人だから分からない」「アメリカでしかできない」などと意見に蓋をすることが目立つ。教会においてもこのような考えや行動を改める必要がある。

日本の難民認定率は諸外国と比べてけた違いに低いのです。なぜでしょうか。その答えの一つは、万世一系の天皇の国である日本国こそ思想の統治であり、そこにこそ日本人のアイデンティティがあると説くイデオロギーにあるとみています。こうした思想に傾倒する政治家たちから見れば、異なった文化、宗教、習慣のある外国人の数が増えるのは、脅威なのです。

プライバシーのため投稿元は省略
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2テサロニケ1:8~12

主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。 彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。 テサロニケの信徒への手紙二 1:8‭-‬9 新共同訳

最近あまり語られなくなったが、神を認めない者や福音に聞き従わない者は罰を受ける。神から切り離されて、永遠の破滅の罰を受ける。だから私達はキリストと福音を伝えている。自分たちの家族や友人、愛する人が一人も破滅の罰を受けなくて良いように、神を認めるように説得する。

かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。 テサロニケの信徒への手紙二 1:10 新共同訳

「主の日」=キリストの再臨の時、神を認めている人たちも、認めていない人たちも、神を認めざるを得なくなる。実際にその場にいて、栄光が表になるから。また、キリスト者にとって何に焦点を当てるべきか考えさせる。礼拝の式典での言葉遣いなのか?人が制定したルールに基づいているかなのか?そうでなく、「信じる者たちの間で(神が)ほめたたえられる」こと。「礼拝」という限定的な場ではなく、キリスト者がいるいかなる場所でキリストがあがめられること。

このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。 テサロニケの信徒への手紙二 1:11‭-‬12 新共同訳

キリスト者としての本当のゴールは「日曜日の朝に教会で式典をもって礼拝する礼拝者となる」ことではない。「招きにふさわしいもの」となること。「善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださる」こと。つまり、日曜礼拝を「守って」いるだけではキリスト者としてのゴールは達成していない。聖霊の聖化の働きにより、信仰を完璧なものにして下さること。これがゴールで、結果的に起きることは「あなたがたの間で」イエスがあがめられ、キリスト者もキリストと並ぶことにより「主によって誉れを受ける」。

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2テサロニケ1:1~7

それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。 テサロニケの信徒への手紙二 1:4‭-‬5 新共同訳

「神の国にふさわしい者」である証拠は何か?「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難」と「忍耐と信仰を示す」。この世のために生きていたら、この世に愛される。キリストのために生きているなら、この世はキリスト者を憎む。

もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

ヨハネの福音書 15章 19節

キリストのために生き続けていくならば、本当に救われたという証拠になる。キリスト者となった人は、キリストのことを考え、キリストのために日々生きていくから。逆に、日々の生活の中でキリストを証しておらず、仕事と信仰を分離するようなことをしているなら、本当にキリスト者なのかを考える必要がある。日曜日だけに礼拝し、日々の生活で神を礼拝していなければ、本当にキリスト者として変えられたかを吟味しなければならない。

彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。

ヨハネの手紙第一 2章 19節

キリストに救われ、その喜びをもって日々神に感謝を捧げ、キリストのために世の中で証する。結果として「神の国のために苦しみを受ける。」これがキリスト者である「証拠」。そして神はその苦しみに対して、「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき・・・報いを実現なさいます。」

神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、 また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。 テサロニケの信徒への手紙二 1:6‭-‬7 新共同訳
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1テサロニケ5:12~28

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、 また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。 テサロニケの信徒への手紙一 5:12‭-‬13 新共同訳

「導き戒めている人々を重んじ」ここは一般信者ではなく、長老の働きをしている人のことを指している。神のみことばを解読し、信者に教えていく。教会のビジョンとミッションを明確にし、それに向かって行けるように教会員を整える。信仰問答を暗記し、長老に頼るように仕向けるのではない。各々が聖書に基づいた考えでビジョンとミッションを達成していけるように整える。「そのように働いてくれる」人々を重んじ、愛をもって心から尊敬することができる。

では、このように働いていない指導者や長老に対してどのように振る舞うべきか?同じように重んじ、「愛をもって心から尊敬」することには変わりない。しかし、指導者はこの尊敬を軽く取るべきではない。指導者として厳しく裁かれることを理解していなければならない。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブの手紙 3章 1節

人々を支配することではなく、模範となることを目標としなければならない。ビジョンとミッションは示すが、どのようにそこにたどり着くかを細かく指導していく立場ではない。このように双方が尊重される関係により、健全な教会が建てられる。

割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

ペテロの手紙第一 5章 3節
兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。 テサロニケの信徒への手紙一 5:14‭-‬15 新共同訳

「怠けている者たちを戒めなさい」当然のことだが、怠けていれば働くことを勧めるべき。間違いを犯していれば正しい方向に導くべき。同時に、「気落ちしている者たち」「弱い者たち」を励まし助ける必要がある。長い間教会に来れていない人が教会に戻ってきたら、まず必要なのは励ましと助けであり、戒め(ましてや戒規)ではない。この状態で戒めを課すのは「悪をもって悪に報いる」のと同じこと。過ちがあった時、どのように「善を行う」ことができるかまず考えたい。

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1テサロニケ5:1~11

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。 盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。 テサロニケの信徒への手紙一 5:1‭-‬3 新共同訳

主の日=イエスの再臨はいつなのか?過去に何度も再臨や世紀末について予告してきた人がいるが、「その時と時期について・・・書き記す必要はありません」とパウロは伝えている。イエスの再臨は必ず起きることなので、キリスト者は神の計画と約束を信じるだけ。一つ分かる「時期」としては「人々が『無事だ。安全だ』と言っている」ときにキリストが再臨すること。まだ神を信じなくても、神に信頼しなくても大丈夫。もう少し年をとったら神のことを考えられる、と言っていても手遅れになる。

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。

コリント人への手紙第二 6章 2節
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。 従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。 しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。 テサロニケの信徒への手紙一 5:4‭-‬8‭, ‬11 新共同訳

キリスト者は「目を覚まし、身を慎んで」いるべき。対象の言葉は「酔っ払う」こと。酔っぱらいはある日突然酔っぱらいになるのではなく、日常的に酒を飲み、酒に頼るようになり、いつのまにか酒なしでは生きていけなくなっている。宗教や伝統も同じことを引き起こす。日常的に宗教や伝統に入り浸る中、自分で考えるのをやめて他人の書いた本や、他人が語る宗教的な言葉に頼りきってしまう。夜でなく「昼に属している」キリスト者であれば酔っぱらいにならず、目を覚まして自分で考えられるようにすべき。また、立ち止まることを守るのではなく、「お互いの向上に」努めたい。

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1テサロニケ4:11~18

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 テサロニケの信徒への手紙一 4:13‭-‬14 新共同訳

キリスト者にとって大きな望みは、先に亡くなったキリスト者とまた出会うことができること。一般的な葬儀に出るとまず目立つのが、嘆き悲しむ人がいること。キリスト教の葬儀では嘆き悲しむ必要はなく、一時的に悲しむことはあるが、同時に、亡くなった方が永遠に神と共に過ごすことができる喜びもある。私の祖父の葬儀ではキリストの素晴らしさを称える賛美をもって、祖父の天国での体験を再現することができた。嘆き悲しむ必要はない、また出会えるのだから。

主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。 テサロニケの信徒への手紙一 4:15‭-‬18 新共同訳

もう一つの望みはキリストの再臨。キリストは天から上空に現れ、まずすでに亡くなった方の体が新しくされ魂と再び融合される。神は私達を魂と体として創られたのだから、永遠においても魂と体が合わさった形で永遠に神と過ごす。なので、地上で生きている間も魂はもちろん、体の健康も守ることも神が求めること。そして、キリストの再臨の時に生きているキリスト者は、上空でキリストと以前亡くなった方と一緒になり、天まで引き上げられる。永遠にキリストと共にいられることは励ましになるはず。ならなければ、自分にとっての喜びを見直す機会になりそう。