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エペソ6:10~24

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 エフェソの信徒への手紙 6:11‭-‬13 新共同訳

First, he means that there is no such thing as a merely human adversary of the gospel; they don’t exist. While this world is under the sway of the evil one — “the whole world lies in the power of the evil one” (1 John 5:19) — unbelieving humans are always influenced by and in step with the devil. We don’t wrestle against mere human forces because there aren’t any.

福音に敵対するものは人間だけではない。この世は悪魔の支配下にある (1ヨハネ5:19)。不信仰な人間は常に悪魔の影響を受け、悪魔と歩調を合わせている。単なる人間の力と闘うのではない。

https://www.desiringgod.org/interviews/are-our-enemies-spiritual-human-or-both

Second, I think he mentions blood first in the pair — “we don’t wrestle against blood and flesh” — because he’s drawing our attention to the fact that this warfare is not like the ordinary battlefield warfare among people, marked by blood and gore. That’s not what he’s talking about, in other words. We don’t fight like that. It’s not a matter of chopping off arms or heads and blood and flesh. Our warfare is always fought at a level that includes the supernatural.

パウロが「血肉」で最初に血に言及しているのは、この戦いが、普通の戦場での人と人との戦いのように、血と血に彩られたものではないということに注意を向けているからだと思う・・・我々はそのような戦いはしない。腕や頭、血や肉を切り落としたりしない。私たちの戦いは、常に超自然的なものを含んだレベルで戦われる。

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また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 エフェソの信徒への手紙 6:17‭-‬19 新共同訳

And he goes on and on, just speaking directly to us, to our minds, to our hearts, to our wills. In fact, he says, the great challenge for Christians is that we are new creatures in Christ by faith, and we need to put off the old self and put on the new self (Ephesians 4:22–24).

パウロは、ただひたすら私たちの知性に、心に、意志に直接語りかけている。実際、クリスチャンにとっての大きな課題は、私たちが信仰によってキリストにあって新しく造られた者であり、古い自分を捨てて新しい自分を身につける必要があることだと言っている(エペソ4:22-24)。

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So, Paul’s whole approach to helping Christians fight for holiness almost never mentions the devil. That’s not surprising, since three of the six pieces of spiritual armor are truth (Ephesians 6:14), gospel (Ephesians 6:15), and the word of God (Ephesians 6:17). And those are all things that Paul speaks directly into the human mind and the human heart. He doesn’t speak those things to the devil; he speaks them to people.
キリスト者が聖化のために戦うのを助けるためのパウロのアプローチ全体では、悪魔についてはほとんど言及されていない。霊的な武具の6つの部分のうち3つは、真理(エペソ6:14)、福音(エペソ6:15)、神の言葉(エペソ6:17)。これらはすべて、パウロが人間の知性や心に直接語りかけるもの。悪魔に向かってではなく、人に向かって語っている。

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この2つの考えを合わさえると

  • 人は悪魔と罪の影響を常に受けている
  • その影響の結果、自然的に罪に向かう性質がある
  • キリスト者が「敵」としているのは悪魔と罪の性質両方
  • その両者と戦うための武具は真理、正義、福音、信仰、救い、みことば
  • この内3つ(真理、福音、みことば)は悪魔ではなく人の知性や心に語りかける
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エペソ6:1~9

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。 エフェソの信徒への手紙 6:1‭, ‬4 新共同訳

子供は両親に従い、両親は子供を怒らせず、諭されるように育てる。子供が従うためには親が正しく育てる必要がある。

怒らせる=parorgizo=挑発して怒るように仕向ける、常にまとわりついて苛立たせる。

ガミガミ言うことや、子供の人権を傷つける言葉、必要以上の体罰などが考えられる。

しつけ=paideia=訓練や教育、指導、懲らしめ、矯正
諭される=nouthesia=警告、諭し、助言

怒らせてはならないが、しつけはすべき。言葉が通じない小さい頃は懲らしめ(お尻を叩く)ことも必要。paideiaのような親からの一方的な指導は必要だし、nouthesiaのように助言をして子供に判断させる場面も必要。

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。 エフェソの信徒への手紙 6:5‭, ‬9 新共同訳

奴隷と主人の関係も双方の歩み寄りが必要。奴隷は従い、主人は脅さない。立場は違ってもどちらも人であって、どちらも神の権威の下にある。どちらも天に主人がいて、天の主人に従うことが最終目的。

主人への指示はリーダーの立場にいる人にも当てはまる。脅して従わせ、権力で人々を黙らせる。批判を受け入れず、自分たちだけの考えだけで押し進む。このようなリーダーシップには限界があるし、そもそも人としての尊厳を無視している。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話しなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れ模範となりなさい。

1ペテロ5:2~3

教会のリーダーに対しての指示ではあるが、主人の立場にいる世の中の人にも当てはまる。「神に従って自発的に」部下や同僚を世話する。「卑しい利得を求めてではなく」、自分が評価されるのを求めるのではなく、部下や同僚が成長でき、評価され、キャリアを進められるように手助けする。支配ではなく模範となる。こういうリーダーには自然と従いたくなる。

人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。 エフェソの信徒への手紙 6:7‭-‬8 新共同訳

リーダーが駄目でも、人ではなく主に仕える。教会においては、キリスト者はキリストに仕えている。教会(人)でなければそのリーダーでもない。キリストに仕え、「善いことを行えば、だれでも主から報いを受ける」。主からの報い=主に満たされることに期待したい。

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エペソ5:22-33

'また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 ' エフェソの信徒への手紙 5:24

教会はキリストに仕えている。この箇所で「教会」=ekklesias=ekklesiaの複数形。つまり、教会はいくつもあるが、どれもキリストに仕えている。教団でなければ、その教団を治める人達でもない。教会はキリストに仕えている。キリストが何を教えたか、何を求めているか理解し、教会で行われていることがキリストの教えに沿っているか吟味する。キリストは神を愛し、隣人を愛せよと教えた(マタイ22:36-40)。キリストは全ての国民を弟子とし、バプテスマを授け、キリストが教えた事を教える様に命じた (マタイ28:16-20)。礼拝することが全てではないし、人道的な働きをして隣人を助けるのも全てではない。どちらもキリストの弟子として生きるのに欠かせない。

'夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 ' エフェソの信徒への手紙 5:25-27

キリストは教会(=キリスト者)を神のために取り分け(=聖なるものとし)た。そのために御自分が十字架にかかって罪の代価を支払った。キリスト者はこれを外見的に表すために水を用いて洗礼を受ける、と同時に聖霊によって清くされていく(聖化)。この事実を伝達するのは言葉=聖書。聖書を読んで聖霊に聖化されることによって、キリストの前に「聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」となることができる。

'わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 ' エフェソの信徒への手紙 5:29

キリストは教会(=キリスト者)の頭で、教会はキリストの体。キリストは体(教会)を養い、いたわる。キリストに養ってもらうにはキリストに注目しなければならない。自分たちが正しい方向だと思いこんで進む、もしくは伝統を守る、ということではマルタのように自分のことで精一杯になること(ルカ10:38-42)。マリアのようにイエスの足元で学びたい。

'「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 ' エフェソの信徒への手紙 5:31-32

夫婦が一体となる、という神秘があるように、キリストと教会も一体である。キリストの教えと戒めに従っていない教会はキリストと一体と言えるのだろうか?キリストと一体となっていない教会は教会なのだろうか?

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エペソ5:1~21

5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。

みだらな行い (porneia, 1コリント7:2, 6:18, マタイ15:19)、身を汚す行為 (エペソが陥っていた性的状況, ローマ1:24, 26-27)、貪欲 (ヘブル13:5, 1テモテ6:8)。これらは「偶像礼拝」とされている。何故なら、これらの行いは自分に目を向けている。自分の欲を満たす性的行い (ポルノ)、自分が正しいと思った性の形 (「自然に反するもの」)、自分が望むものを追い求める。自分に目を向けた状態というのは、神を王座から引きずり下ろしているのと同じこと。神の主権、神の意思を無視して生きることが偶像礼拝。このような生き方をする人たちに「神の怒り」が下る。

11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 13 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。 死者の中から立ち上がれ。 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

キリスト者として、これらの「業に加わらない」のと「明るみに」する役割がある。ただし、目的を忘れてはならない。それは「明らかにされるものはみな、光となる」こと。世の中と距離をおいて、全く関わらないことは難しいことではない。しかし、それではキリストの光を当てることはできない。間違っていることを指摘することは簡単。しかし、それでは相手が「光となる」目的を達成することはできない。むしろ、つまづきを与えてしまい、キリスト者が罪を犯すことになる(ローマ14:12-13)。地の塩、世の光として生きることがキリスト者の役割。

15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

「賢い者」として生きるのは、細かく気を配り、時をよく用いること。これは11節の明らかにして光とすることからつながっている。生活の中で、職場で、隣人との付き合いの中で、どのような「時」があるだろうか?どのような話が出たらキリストを伝えられるか?どのような状況にあったらキリスト者としての生き方を証できるか?誰に対してキリストの愛を示すことができるか?「細かく気を配り、時をよく用いる」のはキリストの味をいかなる場面で出すことによって「賢い者として生きる」こと。

18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

酒で満たされ、酒の力を借りて本音で話すことは楽かもしれない。しかし、聖霊で満たされることが求められているし、聖霊で満たされるのは酒よりも多くの利点がある。聖霊で満たされることによって神に向かうことができる。神に向いたままお互いを見ることができ、人間として欠けている部分は見ないようになれる。人に対する言葉でなく、神に対する「詩篇と賛美と霊的な歌」を用いて互いと会話することができ、キリストに仕えるように互いに仕える事ができる。

ちなみに、「詩篇と賛美と霊的な歌」は「賛美歌」や「聖歌」だけに限らない。聖書にある詩篇はもちろん、聖霊に動かされて語る「霊的な歌」も神への賛美にふさわしい。

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エペソ4:25~32

25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。 怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。 悪魔にすきを与えてはなりません。

怒ることは罪ではない。イエスも神殿が汚されているのを見て怒った (ヨハネ2:13~16)。神の義を保つために、神の真理を守るために怒るのは正しいことだ。しかし怒りを心に留めてそのままにしておくことは「悪魔にすきを与える」ことになる。これは「隣人に対して真実を語る」こととリンクしているように思える。隣人に対して怒りがあるなら、真実として語っておく必要がある。もちろん、ただ怒りに任せた言葉の殴り合いでは何も解決しない。感情の出どころを整理し、状況や情報をならべ、互いを尊重し理解し合う体制を作っていくことが大事。話し合いの場を避ける、感情に任せて一方的なメッセージを投げつける。このような行動は怒りを残す形となり、悪魔にすきを与える。

29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

どのような言葉を、誰にたいして整理し語るべきか?「聞く人に」が大前提。自分が伝えたいことではなく、相手がどう受け取るかをしっかり考えた上で言葉を整理する。その人に「恵みを与え」「造り上げるのに役立つ言葉」を考える。中心は自分ではなく、ルールを守る義でもなく、「聞く人」つまり「隣人」が中心。まさにイエスが命じた2つ目の戒め、「隣人を愛する」ことそのものだ。キリストが地上で示したように、「親切」と「憐れみ」あるキリスト者としての言葉を語る。

30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

聖霊がキリスト者の内に宿っていることを忘れてはならない。聖霊はキリスト者を日々変えて(聖化)いるが、「 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」の言葉を語ると聖霊は悲しむ。せっかく聖の方向に進んだのに、この言葉によって逆方向に向かってしまう。聖霊の働きに答えるためにも「隣人」を中心とした対話と言葉を考えたい。

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エペソ4:17~24

17 'そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。 

「愚かな考え」とは、自分の欲を満たすこと、地位を守ることに注力すること、もしくは現状に満足して神に近づくことを怠ること。「知性が暗くなり」とは自分だけの考えが正しいと思い込み、他の考えを受け付けず、しまいには神の考えも受け付けなくなること。結果として「無知」とかたくなな心が出来てしまい、「神の命から遠く離れて」しまう。

これはキリスト者にも当てはまりうる言葉でもある。

‘「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 ‘

マタイによる福音書 7:21-23
21 キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 '

キリストについて聞き、キリストから真理を教えられる。信仰問答、人の書いた本、説教。これらからキリストについて、キリストの教えが得られないのであれば、真理にたどり着くことはできない。聖書を読み、聖書について思いを巡らせることによって、キリストが教える真理を得ることができる。

「真理に基づいた正しく清い生活」とは、完璧にルールを守って、間違いなく奉仕を担って、人に全く避難されないような人になるべき、という意味ではない。地上にいる限りこれは不可能。これを自分でも成し遂げることができないのに、他人に押し付けるのはもってのほか。最も大事なことはキリストを追い求め続けること。そうすることによって聖霊が清い生活へと変えていってくれる。

‘神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 ‘

フィリピの信徒への手紙 3:14
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エペソ4:1~16

4 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 

多くの宗派があり、それぞれが主張することがある。教会の中でも考えの違いがある。ある人は良く考えず昔ながらの伝統にしがみつく。ある人は聖書を日々吟味して真理を導きだそうとする。ある人はただ流れに任せている。人は様々だが、神は唯一。すべてにおいて主権を持っている。どんな状況であっても、どんな弱さを抱えている人でも、神はすべてのものを通して働かれる。そして、キリスト者全員の内に聖霊が宿っているので内部から突き動かしてくださる。その導きに身を委ねられるか?

7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 そこで、 「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、 人々に賜物を分け与えられた」 と言われています。 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。

「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、 人々に賜物を分け与えられた」は詩編68を引用している。旧約で神が宿っていた契約の箱が先頭を進み、敵に打ち勝ったあかつきに、バシャン山に上り契約の箱を永住させ、神はそこから地を支配する。バシャン山に上る際に打ち勝った敵を捕虜として引き連れて、勝利を広く知らせる。また、神の支配の恩恵をイスラエルの民は約束の地に住むことによって受ける。

同じようにキリストは罪と死、悪魔と悪霊に打ち勝ち、天の御座に付くことによって支配する。「捕らわれ人」は打ち勝った相手(罪と死、悪魔と悪霊)。天に上ることによってキリストは聖霊をキリスト者に与え、神との直接対話、聖霊による聖書の理解、聖化のプロセスが可能になった。これらの恩恵は「わたしたち一人一人に」与えられていて、教会組織や一定の聖職者から受ける必要はない。「キリストの賜物」である。

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エペソ3:14~21

17 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

キリスト者を強めるのは聖霊。この聖霊がキリスト者の内に宿り、愛に根ざし、愛に立つものとしてくださる。

18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

1コリント13:2

信仰問答の知識を身に着けても、多くの書物を読んで何でも答えられるようになっても、愛がないなら無に等しい。この愛を与えてくださるのは聖霊なので、聖霊に満たされる環境作りが必要。みことばを明らかにしてくださるのが聖霊なので、日々聖書を読み、思いを巡らし、祈ることによって環境が構築される。

20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

聖霊に満たされることによって神の愛を示すことができ、神を愛し、隣人を愛することがより誠実に実行できるようになる。神を愛することによって神のみこころを知ること、神が望むことを行う意欲が掻き立てられる。「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべて」は自分の思いでなく、神の思いへと変わっていく。神はこの求めることに対して、私達が思い浮かべるより「はるかに超えてかなえる」ことができる。

神の求めることはキリスト者としての成長、霊と真の礼拝、世界に向けた宣教。これらが教会により実行されていくことが求められている。

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エペソ3:1~13

3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。
5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

創世記22:18

アブラハムに約束されたことが、キリストの十字架によって果たされた。イスラエルの民は神の律法を守ることに自信を持ちすぎて、預言者が語ったキリストのことには耳を傾けなかった。

彼ら(イスラエル)の背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせた。

ローマ11:11

結果として異邦人にも福音が伝わったのだが、神の計画は「一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者」をつくることだった。

9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。 こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。
「解き明かす」= photoizo = 明るみにする、悟るようにする、光を当てる

すべての人々に対して福音を伝えるには、その人達がわかるように解き明かす必要がある。福音に光を当て、誰でも気づくようにする。福音について理解しにくい部分を明るみにして、分かるように丁寧に説明する。聖霊の働きかけの流れに乗せ、悟るようにする。一方的に伝えるのではなく、相手が理解する形で伝えるのが重要。

この福音を伝える役割は教会に与えられている。以前は福音は「天井の支配や権威」にさえも知らされていなかったが、教会の働きによって明らかになった。それほど大きく重い責任が教会に与えられている。最も、これは神が「実現された永遠の計画に沿うもの」なので、人が定めた教会の方向性や形はこれを凌駕することはできない。

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エペソ2:11~22

12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

私達は異邦人として、神を知ることも、キリストと関わることも、神の民の属すこともなかった。全く無関係の人たちで、罪によって滅びるしかなかった。しかし、イエスが全人類の罪のために十字架にて罪の罰を受けたことによって、異邦人である私達も神と関係を持つことができた。隣人と接するとき、この前提を忘れてはならない。信仰や宗教を盾に他人を排除するのではなく、イエスがしたように、その人の立場や言葉を理解する時間を取る必要がある。

14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

イスラエルに課せられた規制や規律は廃棄された。安息日や十一献金、十戒もイエスを基準に考えなければならない。まずイエスが示した2つに限る。

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 

マタイ22:37‭-‬39

不必要なルールを作って人を縛り付けるのはキリストの求めることではない。「祈る時、このような言葉を使わなければならない」「礼拝奉仕をする時、事前に完璧に準備をして、礼拝中は完璧な動きをしなければならない」「奉仕するのであれば車が故障しても、雪の中を歩いてでも参加すべき」「聖書の朗読はクセをなくして、NHKアナウンサーのようにすべき」 これらはキリストの教えが基準になっているだろうか?

18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

キリスト者は神に直接対話でき、神に近づく事ができる。聖書を読んで、聖霊の助けによって理解することができる。神学校に行く必要もないし、牧師・長老だけに頼る必要もない。

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

ヘブライ4:14‭-‬16
19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

キリスト者は皆「神の家族」。地上においては日本人、アメリカ人、中国人、韓国人ではあっても、キリスト者は「聖なる民に属する者」。従って、意見や話を聞く際に、その人の背景や人種で差別するのではなく、意見そのものをしっかりと理解して受け止める必要がある。

この「神の家族」は「使徒や預言者」が神について伝えてきたこと(今は聖書にまとまっている)を土台にしているが、要石はイエスであることを忘れてはならない。イエスの教えを理解し、イエスに従うことによって、「神の家族」が一つになることができる。その内に聖霊が働き、成長と共に福音を述べ伝える原動力になる。