ユダ書は、ヤコブとイエスの兄弟であるユダが書いたとされています。彼は、当時のキリスト者に救いの喜びついて書こうと思っていましたが、「不敬虔な者たち」が教会の中に「忍び込んできた」ので、信仰の戦いについて書く必要がありました。(3節)
この人たちはどのように不敬虔だったのでしょうか?まず、神の恵みを放縦に変えたのです。放縦はこのように定義されています:「何の規律もなく勝手にしたいことをすること。」聖書において「規律」というのは神の主権を認め、イエス・キリストの支配を受け入れることだとすると、放縦というのはこれを否定することになります。(4節)不敬虔は人たちは神の主権とイエス・キリストの支配を否定していたのです。
不敬虔な者たちはどのような人たちでしょうか?
彼らは、エジプトでの奴隷生活から救い出されましたが、その後、神に背き、他の神々を拝むようになりました。カナン人が崇拝していた偶像もそうですが、自分たちが作ったルールや、自分たちの地位を神より上に置くようにもなりました。結果的に、イエス・キリストを拒絶したのです。言葉では信じると言っているがイエスを主としていない状態です。(5節)イエスはこのような人たちに対してこう言っています:「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」(マタイ7:21)。
彼らは、「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたち」のようです。(6節)この箇所は、ルシファー(サタン)が天で神の権威を受け入れず、天使の軍勢を引き連れて神に反抗したことを指しています。同じように、不敬虔な者たちはイエスの支配よりも自分たちが支配することに注力しています。また、自分たちに留まらず他人の行動を制限することによって支配を強めていきます。イエスの支配を無視して自分を神としているのです。
自分を神としていることから、「不自然な肉欲を追い求め」たり、(7節)妄想に走り、欲を満たすために肉体を汚し、イエスの権威を認めず、結果的に栄光ある神をののしっています。(8節)しかも、彼らは自分が行っていることが悪だと認識していません。動物の本能のように、自分を守ることに必死になっています。(10節)
恐ろしいことは、こういう人は教会の中にいて、愛餐を共にしているのです。本来なら教会は、互いを励まし合い、互いを立て上げることによって、みなキリストのようになっていく場所です。しかし、この人たちは「自分を養っているだけ」です。(12節)恵みの雨を降らすことはなく、実を結ぶことはなく、間違った教えで周りに悪影響を及ぼし、周りの人々を暗闇へと導いています。(13節)
彼らは、「ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。」(16節)教会内での不満、他教会の不満、世の中に対しての不満をならべつつ、自らが正しいと思ったことだけを行っています。自分が立て上げたものを肯定し、同じことをしない他教会を否定し、自分の考えに同意しない人たちを教会から追い出しています。
これにどう対処すべきでしょうか?
「主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。」(17節)嘲る(あざける)人たち、欲望のままに生きる人たち、分裂を引き起こす人たちが現れると、イエスと使徒たちは教えていました。なので、これは驚くべきことではないのです。
また、彼らは「御霊を持っていない」(19節)、とされていることから、彼らを信者として扱わないと言っています。こういう人たちに対しての最も有効な対処法はミカエルが示しています。ミカエルは、自分で不敬虔な者たちをののしるのではなく、「主がおまえをとがめてくださるように」と神に委ねました。(9節)信者とみなされていない人たちは神に委ねるしかありません。神が彼らを救うか、裁くかを判断します。「主は何万もの聖徒を引き連れて・・・すべての者にさばきを行い、不敬虔に生きる者たち・・・を罪に定める」。(14~15節)
「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」(20節)教会は信者の共同体ですが、一人ひとりがイエス・キリストの上に信仰を築き上げていることが前提です。教会で行事をこなすことが信仰を築き上げることではありません。教会ですべきことは、実のある分かち合いを通して互いを高め合うことです。その過程で、一人ひとりが祈りや聖書を読むことを推奨し、キリストの関係を強めるよう促すことが必要です。(コロサイ3:16)一人ひとりがキリストにある信仰の上に築き上げるのです。
「聖霊によって祈りなさい。」(20節)祈りは一定の言葉を並べて唱えることではありません。「主の祈り」は良い例ですが、毎回このことばのままに祈る必要はありません。また祈りは、教会で立派に聞こえるようにリハーサルされたものでもありません。聖霊によって促され、心から神と会話することが本当の祈りです。
「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(21節)本当の信者は信仰を最後まで保ちます。これを成してくれるのは神の愛とあわれみです。私たちが頑張ってしがみつく必要ななく、神は私たちの内に信仰を保ってくださいます。神に絶対の信頼を置き続けることにより、最後には永遠に神と共に過ごすことができるのです。
「ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。」(22節)まだ信仰がない人の質問をよく聞き、適格な答えを出せるように準備し、時間をかけて説明することを指しています。信仰が弱い人に対しても主にあって励まし、立て上げる言動が必要です。「今すぐ信じなさい」と命令したり、「信仰がないからダメなんだ」とけなすのとは逆の対応です。時には罪の状態(金銭的な困難や虐待など)から実質的に救い出すことも必要です。(23節)
イエス・キリストは「つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる」のです。(24節)イエスは私たちの信仰を最後まで守ってくださいます。つまずく、というのは信仰の道から外れることですが、イエスはつまずかないように守ってくださいます。不敬虔な者たちに惑わされることはありません。多くの傷を負っても、最後には傷が癒され、神の前に立つことができるのです。
だから私たちはイエス・キリストを通して神に栄光、威厳、支配、権威を神に返すのです。