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アモス6, 8, 5

6:1 「わざわいなるかな、安らかにシオンにいる者、また安心してサマリヤの山にいる者、諸国民のかしらのうちの著名な人々で、イスラエルの家がきて従う者よ。
6 鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。
13 あなたがたはロデバルを喜び、「われわれは自分の力で/カルナイムを得たではないか」と言う。

イスラエルは裕福だった。しかし、その裕福さが彼らを滅びへと導いてしまった。裕福さを愛し、自分たちの強さに誇りをもっていた。神はそんな誇りを嫌い、建て上げた宮殿を憎んだ (6:8)。神が心の拠り所でなくなると、この世の娯楽と快適さに執着してしまう。この快適さへの依存が、真実を曲げることにつながり、貧しい人に対して無関心にさせてしまう。

これは今日においてどんな人に当てはまるだろうか?快適を求めて生活し、建物を大きくすることにこだわり、滅びに向かっている人を悲しまず、安定した環境作りに固執し、自分を愛することと自分を正当化するのに長け、隣人を愛することと尊重することを二の次にしている。そんな人に対して神はこう言う:「わたしはまた冬の家と夏の家とを撃つ、象牙の家は滅び、大いなる家は消えうせる」(3:15)

8:4 あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。5 あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、6 乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう」。

4:1ではサマリアの裕福な人たちが貧しい人たちを虐げていることが描かれている。5:12では腐敗と無関心がおり混ざって、賄賂を受け取り、正しい人までも虐げているのが分かる。そして8:4-6では宗教的偽善と富への愛、不誠実と硬直性がおり混ざっていく。

教会に行っていても、礼拝に参加していても、心は神に向いておらず、反抗している。裕福と快適に依存している。真実を無視している。貧しい人へは無関心。これらはアモスの時代で神の怒りを買ったが、当時も今も同じ神が世を治めている。

5:6 あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。
14 善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。15 悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。万軍の神、主は、あるいは/ヨセフの残りの者をあわれまれるであろう。

神に立ち返り、神を求めることが解決法だが、これは神に対する考えを変えるだけではない。快適さへの愛を、善と正義への愛に置き換えること。善を愛するようになれば、自分たちの富や伝統が脅かされたから怒るのでなく、人が飢えていることに怒り、それに対応するアクションを起こすようになる。正義を愛するようになれば、全員同じ考えを持った人を集め、制約を利用して考えの違った人を指摘・迫害するのではなく、互いを尊重し理解することに努め、相手を思いやる愛をもって本当の「純潔と平和と一致を守る」ことができる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
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アモス4

4 「あなたがたはベテルへ行って罪を犯し、ギルガルへ行って、とがを増し加えよ。朝ごとに、あなたがたの犠牲を携えて行け、三日ごとに、あなたがたの十分の一を携えて行け。5 種を入れたパンの感謝祭をささげ、心よりの供え物をふれ示せ。イスラエルの人々よ、あなたがたはこのようにするのを好んでいる」と/主なる神は言われる。

イスラエルはとても宗教熱心だった。毎日いけにえを捧げ、3日おきに十一献金を捧げ、感謝献金を捧げ、特別献金を募った。しかもこれを喜んで行っていた。しかし、彼らは「罪を犯し」「とがを増し加えた」。神が記した律法と似たようなことをしていて、同じYHWHという名を使って讃えているが、実際には偶像礼拝をしていた。

1 「バシャンの雌牛どもよ、この言葉を聞け。あなたがたはサマリヤの山におり、弱い者をしえたげ、貧しい者を圧迫し、またその主人に向かって、『持ってきて、わたしたちに飲ませよ』と言う。

そしてそれが生き方にも現れていた。イスラエルはとても裕福になっていて、その富を程なく愛していた。しかし、貧しい人を虐げ、圧迫した。

6〜11節では、神が複数回に渡ってイスラエルに立ち返るよう促していることが記されている。飢饉があった (6節)。神が雨を降らせなかったので干ばつがあった (7-8節)。草木を枯らし、いなごで彼らを撃った (9節)。疫病とつるぎをもたらした (10節)。ソドムとゴメラみたいに滅ぼし、火の中から取り出した (11節)。こんなことがあっても、「それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった と主は言われる。」神は複数回に渡って、本当の神なしに喜びを求めることをやめるよう、イスラエルの歩みを止めようとしていた。

12 「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。

神の裁きは確実に近づいていて、止めることはできない。そんな中で希望はある。「神に会う備えをせよ」。ベテルで聖さと真理を持って神に出会う準備をしないのであれば、最後の裁きで神と会う備えができる。その後はもう備えることはできない。

礼拝においても、クリスチャンは神に会う備えをする必要がある。この箇所から以下のことが考えられる。

  1. 真理(聖書)が尊重されている教会に行く。イスラエルは宗教熱心だったが本当の神を礼拝していなかった。通っている教会はただ宗教熱心なのか、本当の神を礼拝しているのか?
  2. 私たちの罪を全て神に告白する。イスラエルは他人を虐げながら神を礼拝しようとしていた。罪を隠したままだと礼拝はただの行事に成り下がってしまう。
  3. 神が私たちの人生でどう働いているか思い返す。神はイスラエルに立ち返るよう何度も促した。自分たちの思いでコントロールしようとするのではなく、神に立ち返り、神に信頼する道を歩むことによって礼拝に備えることができる。
  4. 心で神に近づく。イスラエルは宗教的行為は立派のように見えたが、心で神に近づいていなかった。神を礼拝する時、口だけで神を敬うことは避けたい (マタイ15:)。
上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
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アモス1-2

アモスは北の王国だったイスラエルに向けて神の予言を伝えた。1章ではまず、イスラエルの周りの国に対して裁きを予言した。まるでイスラエルの首の周りに縄を置き、徐々に締めていったようだ。それぞれの国に対して3つの咎、4つの咎とあるが、この数字は「完成されたも (3) のと溢れたもの (+1)」を表す。つまり、神はこの国々の罪を許してきたが、それが上限に達したので、溢れ出て裁かれることになる。

Kingdoms around Israel 830 map
830 B.C.ごろのパレスチナ

「咎」と訳されている言葉はヘブル語で「ペシャ」もしくは「パシャ」。意味は「法的な罪を犯すこと」。この国々は社会的に、道徳的に違反を犯していた。彼らの罪は次のものを含む: 残酷な社会的抑圧と経済的搾取 (1:3)、奴隷取引と人身売買 (1:6, 9)、親族の裏切りと容赦ない暴力 (1:11)、母と胎児に対する卑劣な残虐行為 (1:13)、死者の冒涜 (2:1)。

4 主はこう言われる、「ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた/偽りの物に惑わされたからである。5 それゆえ、わたしはユダに火を送り、エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす」。

ユダは主の律法を捨てた。これは契約破棄であり、神の権威を拒絶する行為。ユダが契約破棄をしたので、神は呪いを執行する権利があると契約にある。それは罪に対して7倍の罰を与える権限があるということ。ユダが律法を捨てたことは、周りの国々が犯した罪と匹敵する。そしてユダに対する聖なる火の裁きは周りの国々と変わらないものとなる。

6 主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。7 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。8 彼らはすべての祭壇のかたわらに/質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。

イスラエルに対する裁きも周りの国々と匹敵する。イスラエルの罪は次のものを含む:人々を奴隷として売り飛ばす (2:6)、貧しい者を虐げる (2:7)、性的な罪を犯す (2:7)、正義を歪める (2:8)、酔っ払う (2:8)、ナザレ人に対する罪 (2:12)。この中で最も大きな罪は貧困層への虐待と抑圧である。

13 見よ、わたしは麦束をいっぱい積んだ車が/物を圧するように、あなたがたをその所で圧する。14 速く走る者も逃げ場を失い、強い者もその力をふるうことができず、勇士もその命を救うことができない。15 弓をとる者も立つことができず、足早の者も自分を救うことができず、馬に乗る者もその命を救うことができない。16 勇士のうちの雄々しい心の者も/その日には裸で逃げる」と/主は言われる。

この箇所では、イスラエルに対する裁きを火によるものとして現していないが、確実に裁かれることは書かれている。この違いは、聖なる裁きをより鮮明にするために、アモスは予言の表現に変化を加えている。アモス書はこのように複数のトピックとジャンルを織り交ぜることによって、予言の鮮明度を上げ、聞き手がより注目するようになっている。

また、アモス書は神の裁きがすぐそこまで来ていると訴えている。アッシリアによる捕虜は、アモスが予言した一世代後に起きようとしていた。神はイスラエルの民に対して哀れみをもって、裁きの出来事を前もって知らせている。実に、神は誰の死も喜ばない。

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないー神である主のことばー。だから立ち返って生きよ。

エゼキエル18:32
上記の内容はThe Gospel Coalitionの記事を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/amos/#section-29