「レビ人の祭司は裁く立場にあり、それは現代の警察・司法と一致する。また、教会においては神の前にも問われることがあり、これは教会戒規である。」果たして、教会戒規は裁きなのだろうか?教会戒規はどのように行うべきだろうか?戒規にかけられた人はどう扱うべきなのだろうか?こんなことを考えてみた。
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「レビ人の祭司は裁く立場にあり、それは現代の警察・司法と一致する。また、教会においては神の前にも問われることがあり、これは教会戒規である。」果たして、教会戒規は裁きなのだろうか?教会戒規はどのように行うべきだろうか?戒規にかけられた人はどう扱うべきなのだろうか?こんなことを考えてみた。
最近「交わり」についてこのような定義を聞いたことがある。「交わりとは、神の民が神とつながりを持つこと。それは礼拝でしか実感し体験することができない。」果たして「交わり」は神とつながりを持つことだけなのか?実感し体験するのは礼拝でしかないのか?この定義は本当に聖書が言っていることなのか?こんなことを考えてみた。
先日、使途の働き3章からメッセージをきいた。説教の冒頭でペテロとヨハネがいつものように神殿に行き、ソロモンの回廊で野外礼拝を行ったと。また、これが新約の教会における初の野外礼拝だったという内容だった。もちろん、説教の内容とポイントはここから大きく軌道修正したのだが、冒頭のズレがずっと頭から離れなかった。そこで考えた。初代教会は神殿だけで礼拝したのか?現代の教会において教会という建物で集まるのが唯一の正しい形なのか?