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1 John

1ヨハネ1:5-10

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

「神は光であって、神には少しの暗いところもない。」
神は罪をもって誘惑することはない。「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」(ヤコブ1:13)

「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。」
いくら「礼拝を守っている」と主張しても、聖書を読まず、イエスの教えに従っていないのであれば、その「礼拝」は偽りの行為。闇の中を歩いているのと同じ。真理を理解していると主張しながら「愛」という大前提から離れて「裁き」を主張するのは、闇の中でしか行われない。

「光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち」
もし光の中を歩くのであれば、交わりを持つことができる。この交わりはイエスの十字架によって与えられた。また神との垂直な交わりと同時に、人との横の交わりが与えられた。だからイエスは律法を、神を愛することと、隣人を愛することに要約した。

「光の中を歩くならば・・・御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめ」
光の中を歩くのであれば、罪の赦しがある。どんな罪を犯しても、イエスの血が私たちを清めて下さる。人はみな罪人だから、人の手では罪を裁けない。神の裁きはイエスの十字架で成就されている。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

主張を正当化し、スケープゴートを探して人を悪者に仕立てる。たとえ偽りが混ざっているとしても、悪く見せるためのストーリーを組み立てる。自分は全く悪くない。罪はない。このような考えは「自分を欺くことであって、真理は・・・ない。」むしろ、自分の間違えを認められないのであれば、「神を偽り者とする」行為で、神に対する冒涜。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

闇の中で歩んでいても、神を冒涜したとしても、罪を告白すれば神は罪を赦してくださる。それだけ神の愛は深く、それだけキリストの十字架は効力を発揮する。

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1 John

1ヨハネ1:1-4

1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― 2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――

「いのちの言」もしくは「いのちの言葉」は「初めからあったもの」。創られた存在ではなく、父なる神と共に永遠に存在していた者。「わたしたち」、つまりヨハネと他の弟子たちが「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」とはイエス・キリストのことを指している。イエスは人としてこの世に来たが、初めから父なる神と共に存在していた。これイエスは神である証拠。このことを証し、告げ知らせるために聖書が与えられた。聖書の内容を参考書から学んで知識だけを増やし、礼拝行事を完璧に行うために聖書が与えられたのではない。イエス・キリストを証し、告げ知らせるために聖書は与えられた。

3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

イエスの地上での生き方や教えたことををヨハネと弟子たちは見聞きし、それを聖書に記した。その理由は、「わたしたちの交わりにあずかるようになるため」。イエスにつながり、イエスに従うよう生きている人たち、つまりクリスチャンの交わりに加わる方法と、交わりの中での生き方を知るために聖書が与えられている。クリスチャンの生き方は参考書や一人の牧師の教えだけでは正確に知ることができない。聖書を通してキリストから学ぶ必要がある。キリストの教えを理解し、受け入れた人だけが本当のクリスチャンの交わりに加えられる。聖書がベースでなければただの人間の集まり(クラブ活動)にすぎない。

4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

イエスが与えるいのち、イエスの生き方、イエスの教えから学び、本当の交わりに加えられることによって「喜びが満ち溢れる」。または、「喜びを完璧なものにする。」この世の物や人には与えられない喜びと平安をイエスが与える。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

ヨハネ14:27
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Peter

2ペテロ3:10-18

10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

この世はいずれ焼かれてなくなってしまう。終わりの日に神は今の天地をなくし、新たな天地を創造される。この日に残されるものは立派な建物や伝統や組織ではない。「きよく信心深い行い」だけが残される。私たちは永遠を中心においた生き方をしなければならない。神の見方で物事をみなければならない。そして、燃やされるものではなく、残されるものに身を投じる必要がある。

12節の別の訳では、「神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません」とある。「到来を早める」にはどうすれば良いのか?9節によると、神は「すべての人が悔い改めに進む」ことを忍耐しているため来臨を遅らせている、と書かれている。つまり、福音が述べ伝えられ、悔い改めに進み、「きよく信心深い行い」をする人が増えることが、来臨を早めることにつながる。

13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。

主の日によって焼かれていくものにではなく、「新しい天と新しい地」を得られることに注力することが進められている。そして「新しい天と新しい地」を得られるのだから、私たちは「しみもなくぎずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励む」ことが進められている。どのように励めば良いのか?1ヨハネ1:7にヒントが書かれている。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」イエスの血がすべての罪をきよめて下さるから、私たちはシミも傷もない。光の中を歩んで互いに交わりを持つことによって「安らかな心」をもつことができる。

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Peter

2ペテロ3:1-9

3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

クリスチャンの希望の一つはキリストの再臨。キリストは天に戻る前に、天で私たちの場所を用意してくださることと、また地上に来ることを約束している。しかし、キリストが天に戻って2000年以上経過している。キリストは本当に戻って来るのか?約束を成就して下さるのか?と不安に思う人もいるかもしれない。それこそキリストを信じていない人は、「主の来臨の約束はどうなったのか」とクリスチャンをののしり、キリスト教だけでなく宗教自体の存在を、心の安心のために作り上げた空想の話に引き下げてしまうことがある。

そんな時、キリストの言葉を覚えておきたい。キリストの言葉と約束は絶対で、必ず成就する。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

ヨハネ14:1-4
5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

神は天地をことばによって創造したが、同じことばによって不信仰な人が裁かれ、滅ぼされる。この裁きのことばはまだ実行されていない。ある特定の日のために残されている。今虐げられているクリスチャンにとっては、神が全てを裁き、全てを正す日を待ち望むことができる。だからクリスチャンは復讐せず、他人を裁かない。「自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ローマ12:19)。

8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

同時に、神は哀れみの神でもある。神の一日は千年のようであるので、2000年といえばまだ2日ほどしか経っていない。神は「すべての者が悔い改めに至ることを望」んでいる。罪を悔い改め、キリストに信頼をおくならば、神は必ず赦して下さる。神が用意していた裁きはキリストの十字架によって成就されたものとされる。全てを正して下さる神に感謝しつつ、すべての人が悔い改めることを望む神の忍耐力から学んでいきたい。

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Peter

2ペテロ2:10-22

10 こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。11 しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。

にせ預言者は「栄光ある者たち」をそしる。「栄光ある者たち」というのは、神とキリストのことを指している。それに比べて御使い=天使たちは、にせ予言者たちをそしらず、裁きを神に委ねている。にせ預言者と天使たちの対応に大きな差が見える。一方は自分たちが正しいと主張し、自分たちの考えをベースに神が愛する人たちを (「戒規」という名のプロセスにを利用して) 裁く。もう一方は裁く権利があったとしても神に裁きを委ねる。

12 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。

また、にせ予言者は動物のように例えられている。自分たちが何を語っているか理解せず、その発する言葉でキリストの栄光をそしっている。この人達は動物のように「必ず滅ぼされてしまう」。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:12)。私たちは自分に満足せず、辿り着いた場所におごらず、絶えず神の恵みに頼ることを覚えるべき。

13 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。14 その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は・欲に慣れ、のろいの子となっている。15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。

まるで教会内で宴会が開かれていて、にせ予言者たちは「しみ」や「きず」でありながら平然と参加している (3:14とは正反対)。その人達は常に淫行の目で教会をを見渡し、弱い立場の人を誘惑し、金銭的な欲に潰れる。それはまるでモアブの王がバラムという予言者にに呪いを語らせるように金銭を支払ったかのうよう (民数記22:7)。にせ予言者は、特別な教えを授ける代わりに金銭を要求していたと思われる。誰だって金を払えば、その対価を真面目に受け取るだろう。教会に投資すれば投資するほど、間違った教えにも耳を貸してしまう。

そして、にせ予言者は14節にあるように「定まらない者を誘惑」する。18節でも同じようなことが書かれている。「迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し」つまり、クリスチャンになったばかりの人や、真理が定まっていない人のことを指している。ここで語られているのはまず、自分自身が聖書をしっかりと理解して真理の土台を築くこと。そして自分の子どもたちや新たなクリスチャンに対しても聖書の真理に立てるように育てることが急務。教会として互いに聖書に根付くように励まし合うことが重要。

17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。

教会内で水のない井戸と、生ける水の区別がつくようになる必要がある。一方は永遠の命が溢れ出る。もう一方は闇に落ちていき、泣き叫びや歯がみがあるところに導いてしまう。見極められる人たちになりたい。

18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

にせ予言者は自由を約束して新たなクリスチャンや定まっていない人たちを誘惑する (19節)。しかし、本当の自由は 1) キリストの十字架によって私たちを罪の力から開放したこと、2) 自分の力で律法を守る必要がなくなったこと、3) 聖霊に新たな心が与えられ、聖なる者になることに喜ぶこと。

あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

ガラテヤ5:13
20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

キリストを知れば知るほど、キリストに従わない罰は重くなる。知らなかった状態の方がむしろ良かったと思えるほどになる。ここでは神が選びだしたクリスチャンは救いを無くすことができるとは教えていない。しかし、教会員の中では、信仰を告白し、教会の行事に参加し、教会のルールを守っていても救われていない人もいる可能性があることを指している。ルールに従ってもキリストに従っていなければクリスチャンではない。世の中の人はルールに縛られる生き方に常に戻りがち。まさに「犬は自分の吐いた物に帰り」、豚はどうきれいにしても豚のままであることが分かる。

19 彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。

1ヨハネ2:19

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

ヘブル3:14

救われた者は最後まで信仰を保つ(=キリストに従う)、と聖書は示している。2ペテロ2章は救いを確認するための箇所でもある。私たちを贖った主を否定しないように警告し(1節)、霊的な高慢と自己満足 (11−13節)、金銭を愛すること (14-16節)、みだらな行い(2, 7, 14, 18節) の誘惑に陥らないよう力づけてくれる。

上記の多くはジョン・パイパーが提供するサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/better-never-to-have-known-the-way
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James

2ペテロ2:1-9

2章のポイントは1節、3節、12節、17節に記されているが、そのうちの2つが今日の箇所に含まれている。1節には、主を否定して自分たちに滅びに至らせているとある。3節には、「彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」とある。つまり2章では、にせ預言者とそれに従う人たちに滅びがあることを警告している。

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。3 彼らは、欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。

まず分かるのは、「民の間に、にせ預言者が起こった」こと。外から来たのではなく、すでに集まっていた人たちの中からにせ預言者が現れた。長年リーダーをやっていた人。昔からいて影響力が強い人。取り組んできたことに自信を持ちすぎて「すでに学んだ」と主張する人。こういう人たちからにせ預言者が現れる。

このにせ預言者たちは「自分たちをあがなって下さった主を否定する」。すでに学びきっていると思い込み、自分が正しいと思い込み、違う意見はすべて間違っていると宣言してしまう。そうなるとイエスの教えを見直して自己吟味することを忘れてしまう。イエスが教えたように弱い人に寄り添い、身を低くして同じ目線で会話し、赦しの姿勢を常に保つ、ということを忘れ、否定さえもする。つまりイエスが十字架でしてくださったことを否定していて、イエスご自身をも否定していることになる。

「大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至る」リーダーの中ににせ預言者がいると教会全体に影響してしまう。リーダーは教会の模範であるべきだが、悪い模範だとそれに見習って教会員も同じ振る舞いをしてしまう。「あの教会はうちと違うからダメなんだ」「あの人はうちと違う考えを持っているから勝手に出ていったんだ」自己吟味をせず相手を批判し続けることによって、いつの間にか自分たちもリーダーのようににせ預言者となってしまう。

このようなにせ預言者に対抗するための措置として以下が考えられる。

  • 教会内ににせ預言者が起こされることを理解し、聖書を自分たちでしっかりと理解し、にせ預言者を正していく。(ヘブル4:12)
  • 「彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」ことを覚え、にせ預言者に対する裁きの重大さを受け止める。
  • 裁きを逃れるためには悔い改めしかない。誰でも間違いは犯すが、自己吟味し、イエス・キリストに赦しを求めるならば、必ず赦される。(1ヨハネ1:9)
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Peter

2ペテロ1:12-21

16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

クリスチャンは単なる「宗教」信じているのではない。実際にイエス・キリストと共に過ごし、十字架上の死を目の当たりにし、死から復活したイエスと話して食事をし、天に帰るイエスを見送った目撃者の証言をベースにしている。その目撃者がクリスチャンの集まりだけにとどまり、礼拝を捧げるだけを重要視し、世の中の全てを否定しただけではキリストの教えは広まらない。彼らは、迫害されても、投獄されても、殺されても、福音を宣べ伝えることに人生を注いだ。隠れてプライベートで宗教を守る人は多くいるが、迫害されても信仰を生き抜く人はそれほどいないだろう。その信仰の姿勢を見て、多くの人はキリストに人生を明け渡し、クリスチャンとなってきた。

​​16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

マタイ7:16-20
19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

予言の言葉は神から与えられ、神に選ばれた人がそれを聖書に記している。そのみことばが私たちの「心の中を照らす」ときに、私たちはキリストを受け入れることができる。だから私たちはみことばに「目をとめている」必要がある。また、聖書を理解するために聖霊の働きは不可欠。なぜなら、人間の書いた神学書や参考書や信仰問答の解釈で聖書を読むと、聖書を自分勝手に解釈することにつながるから。聖書そのものを読み、聖霊による理解を得ることによって、みことばは生きたものとなり、私たちを変えていく。

12 神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

ヘブル4:12
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Peter

2ペテロ1:1-11

1 イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。2 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

イエス・キリストとの義によって、わたしたちは信仰に預かる。イエスが十字架にかかって私たちの罪の代価を支払ったことによって、私たちの神に対する負債はなくなった。私たちが犯してきた罪、今も犯している罪、今後犯す罪は全てキリストの十字架によって赦されている。だから私たちは神と義の関係をもつことができる。裁く者と裁かれる者の関係ではなく、「アバ、父よ」と呼べる関係に修復された。だから私たちに「恵みと平安とが・・・豊かに加わる」。イエスを知ること、神を知ることが真の喜びであり、この世が与えられない恵みと平安がイエスとの関係の内にある。

3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

いのちと信仰に係る全てのことは、イエスの力によって、私たちに与えられている。神に直接祈ることができるし、現代では聖書が与えられ、それを読むことによって神からの直接なメッセージを受け取ることができる。教師や牧師の力を借りなくても、自分で聖書を読み、聖霊に明らかにしてくださることによって信仰を育てることができる。また教会で聖書について分かち合うことによって、励まし合い、互いを建てあげることができる。人の書いた本では励まし合いには限界があるが、聖書を分かち合うことは永遠につながる。聖書が全てのベースとなっているからこそ、説教も聖書を忠実に語らなければならない。語り手の神学や人間的理念に聖書のメッセージがかき消されたら説教の良さがなくなってしまう。聖書を読むことを推奨しなければこのような問題をチェックするすべもなくなる。「すべてのものを識別して、良いものを守る」(1テサロニケ5:21) ことが重要なので、聖書を読み続けたい。

5 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。8 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。

キリストを信じて信仰を持つことはスタートにすぎない。信仰に徳を加え、知識、節制、忍耐、信心を加えていく。ここまでは自分の成長に関することだが、クリスチャンは自分さえ成長すれば良いことではない。兄弟愛と愛を加え、互いを思いやり、互いのために祈り、互いのために尽くすことが重要。これはただ日曜礼拝を「守って」いるだけでは起きない。日曜礼拝以外の、共に学ぶ場や祈り合う場、物理的に支え合うことによってクリスチャン同士の兄弟愛を強めることができる。そしてそれが教会に留まらず、教会外の人たちにキリストの愛を示し、「実を結ぶ」ようになっていく。この成長がクリスチャンに求められている。

9 これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。

この成長段階のどこかで止まっていて「成長しきった」「もう聖書は学んだ」と言っている人は「盲目であり、近視の者である」。だから礼拝だけに固執し、教会の体制やビジョンをろくに考えず建物を大きくすることに先走ってしまう。「礼拝を守る」のではなく、キリストに向かっていく姿勢が必要。「ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。」

13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

ピリピ3:13-14
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Romans

ローマ12:19-20

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。20 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

ローマ12:19-20

この箇所で教えているのは、「自分で復讐しない」こと。その代わり、「神の怒りに任せなさい」「敵に食わせ、飲ませなさい」と教えている。その理由は、神が「復讐はわたしのすることである。わたし自信が報復する」と言われているから。

集団的なイジメにあって精神的に追い詰められるような大きな問題もあれば、ちょっとしたイヤミを言われて嫌な気持ちになる小さな問題もある。どの問題も無かったことにするのではなく、実際にある問題だが神に明け渡すことが重要。自分で何とかする必要はなく、神に任せることができる。

22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。

1ペテロ2:22-23

イエスは何をしたのか?ののしりかえさず、おびやかすこともしなかった。その代わり、「正しい裁きをする方に、いっさいを委ねた」。この「いっさいを委ねた」というのは、イエスはご自身の大義名分を父なる神に明け渡したということ。なので私たちの義の精神が相手を傷つけるべきだと思わせてしまうなら、神に明け渡す必要がある。

神は必ずすべての悪に裁きを下す。悔い改めない者に対しては地獄で裁く。悔い改める者に対して、十字架上で裁く。もし自分で裁きを下し、神に委ねていないなら、何を意味するのだろうか?悔い改めない者に対する地獄の裁きは十分でないと主張している。悔い改める者に対して、十字架は十分な犠牲ではなかったと主張している。これはいわば、神がイエス・キリストを捧げたことが不十分だと主張することになる。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/vengeance-is-mine
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Ecclesiastes Special Topics

伝道者の書4:2-3

2 それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。3 しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。

伝道者の書4:2-3

この箇所を読んで、生まれてくる赤ちゃんの人生を考えると、障害をもったり、貧しい環境や、片親しかいない家庭では、この子供が生まれても不幸になるだけだから中絶を選ぶ人がいる。これは正しいのだろうか?

まず、伝道者の書は絶望に陥っている人の言葉として書かれている。信仰に生きる人ではない。この世に希望を持とうとしたが結果として望みがないことを悟っている。聖書にはこのように、神に動かされて書き記されているが、そのまま受け取るべきでない内容が含まれている。ヨブ記もそうだが、書の一部を取り上げるだけでは結論をないがしろにしてしまう。伝道者の書の結論は最後の12章に書かれているので、これを確認した上で4章の内容を考えるべき。

13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

伝道者の書12:13-14

たとえこの箇所が中絶をサポートするように捉えたとしても、殺人を許すことにはならない。子供に対して罪が侵されるかもしれないので、罪を犯してまでその子の人生を止めるべきではない。いつかこの子供が誰かに殺されるから、先に殺す理由にはならない。私達は神ではない。

クリスチャンとして考えるべきことは、このような環境に生まれてくる子供を無くすことではなく、どのようにして、このような環境下に置かれている人たちに関わって助けられるかを考えるべき。障害を持つ子供に対して理解を深め支援すること。貧しい環境にいる家庭には、特に教会を通してどう援助できるか。片親しかいない家庭に対して教会や自宅の場を提供したり、共に育てることを考える。これが「清く汚れのない信心(宗教・信仰)」。

27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ヤコブ1:27
上記の内容はジョン・パイパーが提供しているサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/interviews/what-would-you-say-to-someone-who-uses-ecclesiastes-to-say-that-abortion-is-a-better-alternative-than-the-life-awaiting-some-babies