Categories
1 John

1ヨハネ5:16-17

16 もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。17 不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。

「死に至ることのない罪」

  • これは誰が犯しているのか?信者か未信者?
  • 神に願い求めるとどのような「命を賜る」のか?肉体的に長生きすることか?未信者が信者になったときに得る永遠の命か?罪を悔い改める信者に与えられる蘇り後の永遠の命か?確実に永遠の命を得られることの事実を指しているのか?
  • これはどのような罪なのか?間違って犯してしまった罪?許されるほど小さな罪?信者が犯す罪全般?
  • 罪を犯している人のためにどのように祈れるか?悔い改めるようにして下さるよう祈る?肉体的な罰が与えられないように祈る?未信者がキリスト信じ、永遠の命を得られるように祈る?

「死に至る罪」

  • これは誰が犯しているのか?信者?未信者?背信の罪を犯す人?
  • 罪を犯した者に対する「死」は何を指しているのか?肉体的な死か?永遠の死か?
  • どのような罪なのか?故意に犯した罪?ひどく赦されない罪(殺人とか)?聖霊に対する赦されない罪?未信者が犯す罪全般 (特に背信)?
  • 何故ヨハネは罪を犯す人のために祈ることを進めないのか?ヨハネは神のみこころを祈ることを語っているので、信者は未信者のことに関して自信を持って祈ることができないと言っているかもしれない?もしくは、背信の罪を犯した人の為に祈るのは意味がない?死者のために祈るべきではない?

これらの答えに4つの見方がある。

1. 信者が両方の罪を犯し、二人目は背信している

「死に至ることのない罪」を犯した信者は罪を悔い改め、永遠の命の確証を得る。二人目の信者はイエスを否定し背信し、永遠の滅び(死)に至ってしまう。

この見方は明らかに違う。特に1ヨハネ2:19の言葉を思い出す。「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」ある人は信者だと言うことはできるが、背信してしまうなら元々信者ではなかったということ。なので、「死に至る罪」を犯すのは、信者には不可能、ということになる。

2. 未信者が両方の罪を犯す

神が片方の未信者にいのちを与えるが、もう片方は滅ぼされてしまう。なので、「死に至ることのない罪」は「背信」以外の罪といえる。

しかし、1ヨハネ5:16でヨハネは最初の罪人を「兄弟」と呼んでいる。「兄弟」というのは本当の信者に対して向けられる言葉。また、永遠の滅びに向かわせる罪は背信だけではなく、すべての罪がそれに該当する(ローマ6:23)。

3. 信者が両方の罪を犯し、神は二人目を肉体的な死で罰する

「死に至ることのない罪」は肉体的に死なないほどの罪だが、「死に至る罪」は、神に罰せられ肉体的に死んでしまうこと (例:1コリント11:30)。

しかし、ヨハネが「命」と「死」をペアで語る時、必ず永遠の命と永遠の死について語っている (命:1:1, 2; 2:25; 3:14, 15; 5:11, 12, 13, 16; 死:3:14)。また、ヨハネは最初の罪人を「兄弟」と呼んでいるが、二人目はこのように呼んでいない。

4. 信者は死に至らない罪を犯すが、未信者は死に至る罪を犯す

神は、罪を犯し悔い改める信者に対して永遠の命を与える (2:25)。しかし、未信者は永遠の滅び(死)に向かってしまう。なので「死に至らない罪」は信者が犯す罪で、「死に至る罪」は未信者が犯す罪と言える。特に偽預言者である未信者が犯す背信の罪がこれに該当する。また、ヨハネは何度も信者だと言いながらキリストから離れ(2:19)、兄弟たちを愛さない形で神の戒めを守っていない人たちにたいして警鐘を鳴らしている。このような罪を犯し続けるといずれ滅びに向かってしまう。

この解釈では信者を「兄弟」とし、永遠の命と死を扱い、ヨハネの手紙にかかれている罪を取り上げているので、最も適切な解釈だと言える。

信者は罪を犯すが、私たちは罪を告白し、赦していただくことによって清められることを信じている(1:9)。また、「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」永遠の死に至る罪は犯すことはない。希望を持って生きていられる。

上記の内容はThe Gospel Coalitionから引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/essay/sin-unto-death/
Categories
1 John

1ヨハネ5:1-12

1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

クリスチャンは神から生まれた者。生んでくれた親を愛するように、クリスチャンとして下さった神を愛する。神を愛するから、神の戒めを行う。その戒めは何か?まず、「神の子たちを愛している」。これは、同じようにイエス・キリストを信じ、キリストに従って生きようとしているクリスチャンを愛すること。もう一つは、「世に勝つこと」。これは、世の中の流れに任せず、神が何を求めるか聖書を探り、それを追い求めること。神を求めればそれだけで全てが満たされるので、世の中のものは求める必要がなくなる。この生き方は「むずかしいもの」(=負担が大きいもの)ではなく、負いやすく、軽い荷 (マタイ11:30) である。私たちは世の中に左右されるのではなく、神に向かって生きる選択肢が与えられる。これが本当の自由で、本当の勝利。

6 このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。7 あかしをするものが、三つある。8 御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。9 わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。10 神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。

ここに記されている水と血の意味については様々な解釈がある。1)イエスが十字架にかかったときに流れ出た血と水。2)聖餐と洗礼。3)バプテスマのヨハネによるバプテスマと、十字架で流した血。これらの解釈からも読み取れるのはまず、キリストは確かに十字架にかかって死なれたこと。血と水が出たということは、キリストは気を失ったということではなく、医学的にも死んだことが証明される。これは重要なポイントで、罪の代価は死 (ローマ6:23) なので、キリストが死んでいなければ罪の代価は支払われなかったことになる。確かに死んだ、ということは私たちの罪の代価は確かに支払われた。水は、旧約聖書において清めの儀式に必要なもの。イエスは清い存在だからこそ、いけにえとなることができた。そして流された血によって、私たちは義とみなされている (ヘブル9:22)。このことを神である聖霊が証していて、私たちはこれを信じることによってキリストの証を受け入れている。

11 そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。12 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。

私たちが受け入れている証は、キリストの内にある永遠のいのちを授かったこと。これは単に死んだら天国に行くだけのことではなく、キリストの内に生きることによって、いのちのある生き方をすること。その生き方によって、生活の全てにおいて福音を浸透させ、キリストの光と愛と恵みを示していく。

Categories
1 John

1ヨハネ4:7-21

この箇所では愛を取り上げている。神は愛で、私たちは神の愛を与えられて愛することができる。何故愛すべきか、どのように愛すべきかを考えていきたい。

何故愛すべきなのか?

7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

理由① 神は愛であるから。クリスチャンである私たちは神から生まれた者。子供が親のDNAを受け継ぐように、私たちも神の愛というDNAを受け継いでいる。なので私たちはクリスチャンであるならば、神から出る愛を受け継ぎ、私たちも愛するものであるべき。愛することができれば、神を知っている証拠となる。つまり本当にクリスチャンであるという証拠になる。

9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。

理由② イエス・キリストが私たちを愛して下さったから。私たちは罪に犯されているので死と裁きに向かっている存在だったが、キリストの十字架によって私たちを生きるようにしてくださった。これが神の愛。私たちは何かをしたからではなく、神の一方的な愛によって救われた。クリスチャンであれば、この愛に答えるために互いに愛すべきである。

12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

理由③ 神の愛が全うされるから。クリスチャンが互いに愛し合うことができれば、神の愛の性質と、キリストの十字架の愛が、私たちが見えて実感できる形へとなっていく。そして、互いへの愛が本物であれば、まだクリスチャンでない人たちに神の愛を表すようにもなっていく。神の愛はクリスチャン同士の身内にとどまるのではなく、世の中を影響するまでの力があり、福音を生活の全てに適用することができる。神の愛は世の中に広がり全うされる。

どのように愛すべきなのか?

13 神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。

方法① 聖霊によって。クリスチャンは聖霊が与えられている。聖霊は私たちに聖書の真理を照らし出してくださるし、私たちにキリストが教えたことを日々示して下さる。自分たちで努力して愛するのには限界があるが、神である聖霊は私たちを突き動かし、心を変え、神の愛を示すようにして下さる。聖霊により頼むことが愛するための最初のステップ。

14 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。15 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。

方法② イエス・キリストを証する。私たちがイエスを神の子と告白すれば、神は私たちのうちにいて、私たちは神のうちにいる。つまり、イエス・キリストを証することが、私たちが神の愛を示す効果的な方法。これは教会の中で互いにキリストを証しあうこともできるが、世の中で生活し、日々キリストを証することも重要。神の愛は内に秘めるものではなく、公に証するものだ。

17 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

方法③ イエス・キリストのように生きる。クリスチャンであればイエスのように生きる。イエスのように人々に寄り添い、イエスのように隣人を助け、イエスのように神の真理を見出し語る。この行動が伴っていればさばきの日を恐れる必要はない。イエスのように生きていれば何も恐れる必要はないし、神の愛が私たちの内に全うされていく。

19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

方法④ 互いを愛する。クリスチャン同士が愛することができない、または憎むことはあってはならない。しかし、相手が愛のない行動に出たとき、私たちは愛することが非常に難しい。神は私たちに常に愛を示して下さるが、人間はそうもいかない。互いに罪人だから傷つけ合うことはある。それでも互いを愛すべき、という戒めが与えられている。これを可能にするのは方法1〜3にあったように聖霊により頼み、イエス・キリストに焦点を当ていくこと以外に、互いを愛することにはつながらない。たた戒めを守るだけでは、上辺だけの心がこもっていない礼儀正しい「愛」にすぎない。心から神を愛するのと同じように互いを愛することができるように、イエスから学び、聖霊に心を変えて頂きたい。

Categories
1 John

1ヨハネ4:1-6

1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。

「すべての霊を信じることはしない」世の中には様々な教えや考えが飛び交っているが、すべてが真理ではない。だから聞いたことをそのまま鵜呑みにせず、聖書と照らし合わせ、祈り聖霊に習うことによって、真理かどうかを判断する必要がある。前の章でも確認したように偽預言者は世の中にいて、教会の中からも出てきているのだから、一人ひとりが聖書を理解して神とつながることが重要になる。

2 あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

ここで記されているテストは、イエス・キリストについて 1) 神から来ていて 2) 肉体をとってこられた、と告白しているかどうか。イエス・キリストは予言者だったが神から来ていなかったと言う人がいたのと、「神は霊である」ので、肉体を持ってこの世に現れるはずがないと言う人がいたからだ。でもイエス・キリストはたしかに神から来ていて、肉体をとってこられた。その理由は、人として私たちの罪の代価を払うためにこの世に来られたからだ。そして肉体をとることによって、私たちの罪との葛藤を理解してくださり、肉体の弱さを経験してくださり、哀れみと希望を与えて下さった。この愛を完璧に表したイエスを告白しない者は「神から出ているものではない。」

4 子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。5 彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。6 しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。

もう一つのテストは、キリストの言うことを聞くかどうか。この世の者は、世のことを聞いてそれを語る。それはテレビや雑誌など、明らかに世の中に出回っているものだけでなく、聖書をないがいしろにして偉い人の言うことやその人が書いたものを聖書より上に置くことも含んでいる。だからキリストの教えることに反したことを語り、教会員を混乱させ、不必要なルールを制定し、リーダーへの服従を促す。一人ひとりが聖書を読んで語り合うことを進めず、それをする者を締め出す。このような「迷いの霊」を区別し、聖書に記されている真理を見出したい。

19 御霊を消してはいけない。20 預言を軽んじてはならない。21 すべてのものを識別して、良いものを守り、22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

1テサロニケ5:19-22
Categories
1 John

1ヨハネ3:19-24

私たちはイエス・キリストに信頼をおき、キリストのために生きている。しかし、私たちの罪や弱さゆえに、私たちは本当に救われているか分からなくなることもある。今日の箇所はそんな時のために与えられているような気がする。

19 それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。

「それによって」とは、前の箇所で書かれているように、キリストは私たちを愛して下さったから、私たちは兄弟を愛する、ということを指していると捉えられる。つまり、兄弟を愛することができていて、行動にも現れているなら、私たちはキリストの内にいる。なぜなら、キリストが内にいないと兄弟を愛することができないから。

20 なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

私たちの心は弱く、罪を犯したり、他人に間違いを指摘されると、心を神に向けるのが難しい時がある。それでも神はすべてをご存知で、私たちのもろい心を守り、癒やして下さる。そして私たちが神に立ち返ることができるように私たちを導いて下さる。私たちが頑張る必要はない。神が心を変えて下さる。エジプトやバビロンなどの大国の王の心を変えることができる神に信頼をおくことができる。

21 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。22 そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。

心が神に向いていれば、「願い求めるものは、なんでもいただける」。それは、私たちの欲を満たして下さるということではなく、私たちが「みこころにかなうこと」を理解することができ、それを願うようになるから。心を神に向けることによって、神が何を望んでいるのか、何について喜ばれるか、私たちに何を求めているのか、などを知ることができる。それを願い求めれば、神は必ず与えて下さる。

23 その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。24 神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。

「神の戒めを守る」ことについて、「戒め」の定義がされている。それはイエス・キリスを信じ、互いに愛し合うこと。それだけ。私たちは組織に入ると多くのルールを作りたがるが、神が求めていることは神を愛し(イエスに信頼し)、隣人を愛すること。それを守っている人がキリストの内にいる。誰に何を言われようと、キリストを求めていることこそが信仰がある証拠。そして聖霊が私たちに信仰の確信を与えて下さる。

Categories
1 John

1ヨハネ3:11-18

11 わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。

互いに愛する、ということは聖書で良く見かけるが、どのように愛すべきだろうか?

12 カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。
15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。

まず愛さないことが何なのか考える。世界で初めての殺人として、カインがアベルを殺したことが記されている。その理由は「(カインは)悪しき者から出て」いたから。つまり、カインは悪魔の側にいた。神のうちに留まっていなかった。だからカインは「わざが悪い」とされ、彼の捧げものは神に認められなかった。神のうちにいなければ、心が神に向いていない。自分の正しさを保つためや、他人の目を気にしているから善い行いをする。このような善い行いは「汚れた布のよう」であり(イザヤ64:6)、神に受け入れられなくて当然のこと。そして兄弟が神に受け入れられたことに嫉妬し、兄弟にたいして憎しみが溢れ、殺人に至ってしまった。

13 兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。14 わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。

神の内に留まっているならまず、死からいのちへ移ってきたことを再確認したい。私たちは元々神を知らず、自分のために生きていた。自分の罪を償うために努力し、善い行いをしてきた。しかし、いくら努力しても罪の病は癒やされない。それを癒すことができるのはイエス・キリストの十字架。イエスだけが私たちの罪を取り除いてくださる。イエスの十字架があるから私たちは本当のいのちを受けて生きることができる。

16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。

イエスが十字架でいのちを捨ててまで私たちの罪の代価を支払ってくださったことこそ本当の愛。私たちが何かをしたからではないし、私たちはその愛を受ける資格さえなかった。それでもイエスはいのちを捧げて下さった。それほどまでに私たちを愛してくださった。この愛に答えて私たちは兄弟を愛すべき。同じイエスの十字架で贖われた兄弟だからこそ、互いを愛し、互いのために尽くす必要がある。いのちを捨てるまでに。

17 世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。18 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。

これも何度も聖書で記されているが、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合う」。兄弟に対して「祈っている」とか「思ってる」と言うことは簡単。実際に思っているのだろうか?実際に祈っているのだろうか?祈祷会の週報にたまたま書かれていたから、その時間枠で祈っただけで、いのちを捨てるほど愛したと言えるだろうか?日々の祈りの時間を長くしてまで、いのちと同じぐらい貴重な一日の時間を費やしてまで兄弟のために祈ることが求められている。そこまで祈れば、世の富を分け与えたり、哀れみの心を示すことはそれほど難しいことではないだろう。

Categories
1 John

1ヨハネ3:1-10

1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。

キリストの十字架によって、私たちは「神の子」と呼ばれるようになった。そして世の中が私たちのアイデンティティを理解できないのは、父なる神を知らないから。聖書の時代、子供は親によって知られていた。名前に「だれだれの子」をつけるぐらいだった。子供が誰だから知らない、ということは親が誰だか分からない、ということに結びついていた。クリスチャンは神の子なので、私たちの生き方や行動は父なる神の性質を表すものでなければならない。だから自らを清くすることに努力しようとするが、自分の力では完璧にならない。キリストがいつか再臨して私たちを完璧にさせて下さることに望みを置きつつ、日々キリストに習っていきたい。

4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。

「罪を犯す者は、不法を行う者である。」私たちは不法を行うもの。そんな不法者のために、イエスは十字架で罪を取り除いて下さった。だから罪を犯し続けるのではなく、聖霊に罪を気付かされてそこから悔い改めるよう努力する。しかし、罪を認めず、罪を正当化し、神に立ち返らない者はイエスをしらない。つまり、その人はイエスを「知ったこともない者」で、そもそもクリスチャンではなかったことになる。

7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

クリスチャンはどのように見分けることができるのか?

「義を行う者は義人である」クリスチャンは義を行う。神に対して、隣人に対して善い行いをする。自分と神だけを考えて、隣人をおろそかにしていないか?人の目を気にしすぎて、神との関係を深めることをおろそかにしていないか?クリスチャンであれば、神と隣人どちらにも義を行うようになる。

「罪を犯さない」もしくは、「罪を犯し続けない。」「神の種」、つまり聖霊が内に宿っているので、罪を犯したら必ず聖霊に罪悪感を植え付けられる。神が悲しむことを理解し、イエスの十字架に立ち返るようになる。

「兄弟を愛する者」愛にはいくつかの形がある。正しい方向に修正する愛があり、哀れみを持って相手を理解しようとする愛がある。自分が正しいことを押し付けるのは愛ではない。キリストが弟子たちと接したように、寄り添って同じ目線で会話し、その中で神の愛と神の求めることを示していきたい。

Categories
1 John

1ヨハネ2:26-27

26 わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。27 あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。

「あなたがたを惑わす者たち」とは誰だろう?「私たちから出ていった」(19節)反キリストを指している。

この人達は真理を知ってキリストを受け入れ、その後にキリストに背いたのではない。もともと「私たちに属する者ではなかった」から、実際にはキリストを受け入れていなかったことになる。だから彼らは、イエスがキリスト(油注がれた選ばれた者)であることと、神であることを否定する。否定の形は様々で、イエスの権威を否定することから、イエスの教えを否定すること、またイエスの生き方から学びイエスのようになろうとしない者もイエスを否定している。さらにイエスのことを聖書から学ばず、人が作り上げた教えだけに従うのも、イエスを否定することと言える。このような反キリスト的な行動をする人たちがクリスチャンを惑わす。

「キリストからいただいた油がとどまっている」

キリストの油とは何だろうか?旧約聖書で油は、王や祭祀を特別に選び、取り分けるために使われた。神に選ばれた者として、特別な存在として、その人を特定の役割に任命ことを表すために、油を頭から注がれた。同じように、神に選ばれてクリスチャンとされた私たちは、キリストの油を注がれている。私たちは罪を赦され、神の子供とされ、天の国を相続する者とされた。これは確定していることで、誰も私たちを神から引き離すことはできない。(ヨハネ10:28)

「だれにも教えてもらう必要はない。」

何を教えてもらう必要がないのか?キリストの油を注がれ、クリスチャンとされた事実は、誰にも教わることも否定されることもできない。聖書に掲示された救いのプロセスを理解し、キリストを受け入れてキリストに従う者とされたことは、確実に起きたこと。神がその人を選び、キリストがその人のために十字架にかかり、聖霊がその人に信じる心を与えた。これは教会が教え込んで救いを起こさせることではなく、教会がその人が救われたと断定することでもない。信仰はあくまで神が与えている。教会はこの大前提に立って洗礼を授け、会員として受け入れる判断をしなければならない。「正しい答え」や「特定の言葉」、「牧師の承認」は判断材料にはならない。

「その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい」

神に選ばれ、神の確かな救いを私たちに授けて下さったのだから、私たちはキリストの内にとどまる使命がある。ときにそれは、キリストにとどまらない行動を指示されたら、キリストの教えを確認した上でその指示にあらがう必要もある。それを正しく判断するためには、人からではなく聖書から学び、間違いを感知できるように目を覚ましていなければならない。(1ペテロ5:8) 反キリストは教会の中に潜んでいるので、惑わされないように注意しておきたい。

Categories
1 John

1ヨハネ2:1-11

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

「これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。」
これは1章に記されていることを指していて、闇の中で歩み、罪が無いと思い込むこと。この罪を犯さないようにヨハネは警告している。

「罪を犯す者があれば・・・イエス・キリストがおられる。」
罪を犯したとしても、イエス・キリストは十字架でその罪の代価を支払っている。「あがないの供え物」となって下さった。それは私たちの罪だけでなく、私たちに対して罪を犯す多くの人、イエスを信じる全世界の人のために代価が支払われた。それだけイエスの十字架は大きな効力を発揮している。なので私たちは自分の手で罪を裁くことや、復習することに注力しなくても良い。十字架によってすでに赦されているから。

3 もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。

「彼を知っている」というのはイエス・キリストを知っていること。イエスの教えや生きざまを聖書から学び理解していて、それと同じように生きようとしている。それが本当のクリスチャン。イエスに従わず、自分でルールを作って正当化する人は「偽り者」とされている。

5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。

イエスに従う者であれば「神の愛が真に全うされる」。イエスが愛したように神を愛する。日曜礼拝以外に神と時間を過ごし、祈りと聖書を通して深い関係を育む。イエスが愛したように隣人を愛する。「清い」とされている人たちだけでなく、世の中から見放された人たちや、組織と違う考えの持った人たちに対しても寄り添って接した。その関係の中から組織や指導者へではなく、神へと導いた。

7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。8 しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。

「わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。」
神を愛する事、隣人を愛することは旧約の戒めから変わっていない。十戒においても、これを厳密に言葉通り守るというよりも、十戒のそれぞれが神を愛すること、隣人を愛することにどう繋がっているか考え、適用していくことが重要。ヨハネが新たに記している理由は、キリストの十字架の業が完成され、キリストを信じ従う者が起こされているので、古い戒めに戻らないように注意するため。

9 「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。10 兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。

「兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいる」
お互いキリストに従う兄弟であるのなら、お互いを愛する必要がある。聖書の解釈が違っても、教会の役割や方向性の意見が違っても、宣教の範囲に関する見解が違っても、互いを愛する。憎む者は闇の中で、キリストを知らない存在。愛する者は光の中で、キリストに導かれて躓くことはない。

Categories
1 John

1ヨハネ1:5-10

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

「神は光であって、神には少しの暗いところもない。」
神は罪をもって誘惑することはない。「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」(ヤコブ1:13)

「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。」
いくら「礼拝を守っている」と主張しても、聖書を読まず、イエスの教えに従っていないのであれば、その「礼拝」は偽りの行為。闇の中を歩いているのと同じ。真理を理解していると主張しながら「愛」という大前提から離れて「裁き」を主張するのは、闇の中でしか行われない。

「光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち」
もし光の中を歩くのであれば、交わりを持つことができる。この交わりはイエスの十字架によって与えられた。また神との垂直な交わりと同時に、人との横の交わりが与えられた。だからイエスは律法を、神を愛することと、隣人を愛することに要約した。

「光の中を歩くならば・・・御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめ」
光の中を歩くのであれば、罪の赦しがある。どんな罪を犯しても、イエスの血が私たちを清めて下さる。人はみな罪人だから、人の手では罪を裁けない。神の裁きはイエスの十字架で成就されている。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

主張を正当化し、スケープゴートを探して人を悪者に仕立てる。たとえ偽りが混ざっているとしても、悪く見せるためのストーリーを組み立てる。自分は全く悪くない。罪はない。このような考えは「自分を欺くことであって、真理は・・・ない。」むしろ、自分の間違えを認められないのであれば、「神を偽り者とする」行為で、神に対する冒涜。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

闇の中で歩んでいても、神を冒涜したとしても、罪を告白すれば神は罪を赦してくださる。それだけ神の愛は深く、それだけキリストの十字架は効力を発揮する。