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Colossians

コロサイ1:1~14

こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 コロサイの信徒への手紙 1:9‭-‬10 新共同訳

パウロのコロサイ人に対しての祈りと願いは「神をますます深く知る」こと。「知る」=epignosis=個人的に、実際に体験して知ること。つまり、神のことを知的に知るだけでなく、神が喜ぶことや御心を認識し、行動に移すことによって関係を強める。そうなるために内に宿っている聖霊に頼る。

そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。 コロサイの信徒への手紙 1:11‭-‬12 新共同訳

神との関係が強まることによって世の中に対して根気強く耐え忍ぶことができる。どんな困難な状況であっても、私達は相続人である。キリストによる赦しを相続している。父なる神と直接対話ができる親子関係を相続している。そして未来には天の御国や永遠の命を相続する。永遠を考えると、この世の一時的な困難は小さく見える。

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 コロサイの信徒への手紙 1:13‭-‬14 新共同訳

私達はかつて闇の力に支配されていた。自分のために生きていたと思ったが、いくら頑張っても満たされない欲のサイクルに囚われていた。自分を正当化するために他人を見下し、弱い立場の人を支配することによって優越感を浸っていたが、どこに行っても自分以上の権威には逆らえない。こんな、いくら求めても足りない、自分中心の闇の生き方から開放された。キリスト者として求めるのは光であるキリスト。

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Jonah

ヨナ2

'あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。 潮の流れがわたしを巻き込み 波また波がわたしの上を越えて行く。 わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。 生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。 ' ヨナ書 2:4-5

「深い海」のような状況に陥るのは、自分の行動の結果であると同時に、神がその状態をもたらしたとも言える。これを考えると「愛の神はどこにいる?」と問う人がいるが、逆にこれが愛の業だと考えることができる。

主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。

ヘブル12:6

ここで出てくる「訓練」は「paideuei」=子供を鍛える、懲らしめる、矯正する。つまり、神は私達の父として、愛を持って正しい方向に向けてくださる。このままの状態では滅びに向かってしまうので、私達の注意を引くために動いてくださる。無関心で愛がなければ正すことはしない。

'息絶えようとするとき わたしは主の御名を唱えた。 わたしの祈りがあなたに届き 聖なる神殿に達した。 ' ヨナ書 2:8

どうしようもない状態に陥ったとき、誰に、何に頼るかが試される。趣味や仕事に没頭して気を紛らわす。友人や家族に悩みを打ち明けて心を軽くする。教会の仲間に励ましの言葉をもらおうと頼り切る。これらは全く悪いことではないが、「主の御名を唱える」ことが最も大きな励みになることを気づきたい。

'偽りの神々に従う者たちが 忠節を捨て去ろうとも わたしは感謝の声をあげ いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。 救いは、主にこそある。 ' ヨナ書 2:9-10

趣味、仕事、友人、家族、教会。どれも一時的に頼れるかもしれない。しかし、趣味や仕事はいくらしても完全に満たされることはないし、問題は解決されない。友人や家族や教会は、一時助けてくれるかもしれないが、献身的に助けてくれる人はそれほどいないし、裏切る時もある。

永遠である神だけがいつでも頼ることができる。いつでも最適な解決を示してくださるし、裏切ることは絶対ない。

神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強きたすけ。

詩篇46:1
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Philippians

ピリピ4:14~23

'また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。 ' フィリピの信徒への手紙 4:16

ピリピ教会は宣教師であるパウロの窮乏を把握し、何度も支援をした。教会は宣教師の活動実態と、どんな状況下にあって、何が必要なのかを把握しておくべき。衣食住の必要性はもちろん、子供の教育や、心のケアも重要。必要を把握した上でそれを支援する行動に移る。祈ることと献金をすることも大事だが、実際に物資を送ること、現地に会いに行って励ますこと。こういったことも教会の重要な役割。

'わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。 ' フィリピの信徒への手紙 4:18

教会で、礼拝で捧げる献金が全てではない。宣教のために捧げられる献金や贈り物も「神が喜んで受け入れてくださるいけにえ」。宣教師にしたことも、イエスにしたこととみなされる。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、こおれらのわたしの兄弟たち、それに最も小さい者たちの一人にしたこおとは、わたしにしたのです。 

マタイ25:40

初代教会では教会という一つの場所に献金を集めて、代表者が実際に宣教師のいるところに持っていき、身の回りの世話をすることが一般的だった。しかし、今日においては献金や贈り物をする方法は様々で、教会に集める必要性はなくなったし、神学的に教会が全てを管理する必要性はない。同時に、実際に宣教師に合うこと、宣教師のいる場所に行って手助けをすることの重要性も初代教会から学びたい。

'わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。 ' フィリピの信徒への手紙 4:19

神が「必要なものをすべて満たしてくださる」ことは常に覚えておきたい。それは金銭面かもしれないし、心理面かもしれない。しかし、これらが与えられなかったとしても神に満たされることも考えられる。キリスト者として成長する中で、これらの「必要」よりも神ご自身に満たされることが体験できる。聖書を読み思い巡らすことによって、神のみことばで満たされる。日々の生活の中で聖霊の働きを実感することに満たされる。永遠に向けて走り続けることに取り憑かれることによって満たされる。満たされることによって隣人を愛することが自然にできるようになる。

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Philippians

ピリピ4:8~13

'わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 '
フィリピの信徒への手紙 4:9

What he desires them to copy is his self-distrust, his willingness to sacrifice all things to win Christ, his clear sense of his own shortcomings, and his eager straining towards as yet unreached perfection. 
パウロがエペソ人に真似してほしいと思っているのは、彼の自己不信、キリストを獲得するためにすべてのものを犠牲にしようとする意志、自分の欠点をはっきりと認識すること、そしてまだ到達していない完璧な状態に向かって熱心に努力すること。

MacLaren’s Expositions

there the “peace” is evidently Christian social peace, rather than that which resides in the spirit of the saint, or has to do with his personal relations with God (and cp. 2 Corinthians 13:11). But the two are closely connected; the Divine peace in the individual tends always, in its right development and action, to the peace of the community, for it means the dethronement of the spirit of self. St Paul may thus have had in view here the need of more harmony among the Philippians, and of a nobler moral and spiritual tone (Php 4:8) as an aid towards it. 
ここでいう「平和」とは、キリスト者の精神に宿るものや、神との個人的な関係に関係するものではなく、キリスト教的な社会の平和(2コリント13:11)。個人の中にある神の平和は、その正しい発展と行動において、常に共同体の平和につながるものであり、それは自己の精神の退位を意味する。パウロはここで、ピリピ人の間にもっと調和が必要であること、そしてそれを助けるものとして、より高貴な道徳的・霊的な思考(ピリピ 4:8)が必要であることを指摘している。

Cambridge Bible for Schools and Colleges
'物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。 '
フィリピの信徒への手紙 4:11-13

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」という言葉は、「神に頼れば何でもできる」という考えよりは、「いかなる場合にも対処する秘訣」を指している。それは「置かれた環境に満足すること」。金銭的に困っていても神に頼る信仰。豊かである時は神に感謝して隣人を助ける。自分が満腹するだけに留まらず、空腹で苦しんでいる人に食料を届けることによって神の愛を示す。祈ることも献金をすることも大事だが、見える形で届ける大切さがある(ヤコブ2:16)。

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Philippians

ピリピ4:1~7

わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 フィリピの信徒への手紙 4:2-3 新共同訳

エボディアとシンティケについてあまり情報はないが、使徒16:11~16 に記されている女性の集まりが関係していたと考えられる。パウロがピリピを訪れた時、女性の集まりに福音を伝え、それを受け入れた彼女たちが教会を初め、エボディアとシンティケはその中の一人だった可能性が高い。彼女たちが教会のリーダーだったかは定かではないが、意見の違いがあったことは確かである。この違いが神学的な内容であればパウロは言及したはずだが、していないことから真理に中心的な違いではなかったことが推測できる。パウロが勧めているのは「同じ思いを抱く」こと。ピリピ書で語ってきたキリストの救い、聖霊による成長、福音を述べ伝えること。これに「同じ思いを抱く」ことによって、小さな違いは容認し前に進むことができる。

「同じ思いを抱く」状態になるには対話が必要。対話というのは双方の意見がしっかり聞かれることが前提。一方が発言している時に、聞く側がその発言を正すことを考え、発言の真意を理解しようと努力していない状態は「対話」とは言わない。「同じ思いを抱く」は「聞く」ことを学び実践することから始まる。

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 フィリピの信徒への手紙 4:4‭-‬7 新共同訳

「主において常に喜びなさい」

キリスト者に喜びがないと、だれがキリストを受け入れたくなるだろうか?罪を赦され、永遠の命を約束され、神に仕えることができるようになった。これより大きな喜びはあるだろうか?世の中の働きから得られる喜びには限界がある。給料はいくら上がっても足りない。仕事を多くこなしても感謝されないし報われない。でも神に仕えると必ず報われるし、神のことばと約束は必ず「望むことを成し遂げ・・・言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:11)。

「広い心がすべての人に知られるように」

喜びを持つキリスト者は心も広い。礼拝だけ、みことばだけ、を求める人に対してキリストの愛を示すのではなく、広い心をもって働きかける。教会でただ楽しいことをし、人と会話するのは悪いことではない。むしろ、そのような環境と会話から、キリストを伝えるきっかけを見出すことができる。また、キリストが重視していた人と人の関係、隣人を愛することを実行することができる。教会は礼拝の場だけではない。

「求めているものを神に打ち明けなさい」

キリストにある喜び、広い心で福音を伝える、感謝を込めて祈る。この流れで見ると、求めているものが単に自分の欲を満た願いを祈るのではない。むしろ、自分の願うことが喜び、広い心、感謝となるように祈りたい。これを願うことが本当の平和につながり、心と考えが守られることになる。

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Philippians

ピリピ3:15~21

だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 フィリピの信徒への手紙 3:15‭-‬16 新共同訳

「このように考えるべきです」

「このように」というのは14節にまとめっている。「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っている」。常に成長し続けることがキリスト者のあり方。そのためには日々の神との関係が不可欠で、それを養うために聖書を読み、内容を精査し、祈りを通して神と対話をする。また、他のクリスチャンと礼拝し、祈り、聖書を語り合うことも重要。礼拝においては式典の完璧さよりも、心を合わせられる礼拝を模索する。祈りにおいては決められた内容をやっつけるよりも、互いの心の内を分かち合い、心が通った祈りをする。聖書を語り合うときは人の書いた解説をベースにするよりも、聖書を共に読んで理解と適用を分かち合う。これが本当のkoinonia(交わり)。

「何か別の考えがあるなら、神はそのことも明らかにしてくださいます」

「別の考え」というのはキリストを「目標として走る」ことをする必要のない、という考え。「過去に聖書の学びをした」「信仰問答を学んだから基礎ができている」「説教でみことばが語られている」。こういったおごりによって、自分たちはすでに到達した、自分たちは大丈夫だ、という考えが満足感を生み、過去への栄光にプライドを持ち、これに到達していない人たちを批判するようになる。結果として、「到達した」という幻想を人々に与えてしまい、成長を阻害してしまう。こんな危機的状況であっても、「神はそのことも明らかにして」下さり、神がそれを正して下さる。人の言葉で説得するのには限界があるが、神が成すことは絶対なのでそれに期待したい。

「到達したところに基づいて進む」

キリスト者はイエスの十字架によって罪を赦された。信じることによって滅びから救われ、天国とキリストを相続した。聖霊を与えられる事によって聖なる者として変えられていくプロセスに乗せられた。現代においては完成された聖書が与えられていて、神のことを知る方法が与えられている。また、キリストが仲裁者であるため父なる神との親密な関係があり、「アバ・父」と呼ぶことができる。ここに到達していることに立ち返りつつ、前に進んで行きたい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 フィリピの信徒への手紙 3:18‭-‬19 新共同訳

「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」は、キリストを否定する人だけとは限らない。キリストを信じていると言いながらキリストの教えに従っていない人も「敵」とみなされる(マタイ7:21-23)。キリストは大宣教命令によってキリストの教えを守る弟子を増やすように指示している。しかし、キリスト者の成長を阻害すると神との関係を深めること、聖書の理解を深めることがおろそかになり、イエスの教えよりも人の教えを守るようになる。結果的にキリストの教えに従わない人たちとなってしまう。キリストの「敵」とみなされないように常に吟味しなければならない(ヤコブ3:1)。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 フィリピの信徒への手紙 3:21 新共同訳

キリストには力がある。被造物すべてを支配下に置くことができるし、私達の体や心を支配することもできる。キリストの支配に委ねれば、キリストは「光ある体と同じ形に変えてくださる」。キリストに委ねていきたい。

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Philippians

ピリピ3:10~14

'わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 ' フィリピの信徒への手紙 3:10-12

「キリストとその復活の力とを知り」

キリストは創造主であり、全ての被造物はキリストによって創られた(ヨハネ1:3)。それほど力を持っている方が、人としてこの世に来てくださり、多くの奇跡を起こした。時には病を治し、死者も復活させた。創造主が被造物と共に歩んだことを考えると、どれだけキリストはへりくだったのだろうか(ピリピ2)。どれだけ私たちを愛していただろうか(ヨハネ3:16)。さらに全世代・全世界の罪の罰を十字架で背負い、さらに父なる神に見放される孤独を味わった(マタイ27:46)。蘇りを通して死に打ち勝つ力を見せつけ(1コリント15:54~55)、後に悪魔を葬る権利を握っている(黙示録20:14)。

「その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」

キリストは罪を侵すことはなかったが、全世代・全世界の罪の罰を十字架で背負った。律法における「罪の報酬」(=死)(ローマ6:23)を成就し、キリスト者は自分の罪の罰を受ける必要はなくなった。それでもキリスト者が罪を侵してしまうのはこの世の弱い肉体に生きているから。そんな状態でも罪との戦いは要求されている。悪魔の企みを理解するために気を貼る(1ペテロ5:8)。罪からの逃げ道を見つけ出し、全力で逃げる(1コリント10:13)。罪を侵すような要素は捨て去る(マタイ5:29)。罪に入り込む隙間がないほど聖霊で満たされる(エペソ5:18)。

「 何とかして死者の中からの復活に達したいのです」

キリスト者はキリストを信じて受け入れた時点で聖霊によって証印が押され、天国と永遠の命を相続するまで失うことは無い(エペソ1:13~14)。だが信じた時点で完璧なキリスト者ではなく、常に聖霊によって変えられている(ピリピ1:6)。命を授けるキリストの声を聞けるように、聖書を学び、祈り、聖霊で満たされなければならない(ヨハネ10:27~30)。常に自分を吟味し、キリストを求めているか問いかけなければならない(2コリント13:5)。学んだことを行動に移しているかも一つのテスト(2ペテロ1:10)。

努力をする最も大きな理由は「キリスト・イエスに捕らえられているから」。イエスの素晴らしさ、イエスがして下さったことへの感謝、救いを保障してくれる聖霊に突き動かされて、キリスト者は「既にそれを得た」と思わず、「既に完全な者」と思わず、「何とかしてとらえようと務める」。「礼拝していればそれで良い」ではない。「すでに一度学んでいるからもう学ぶ必要はない」とも言えない。キリストという高みに向かっていくことこそ、キリスト者の生きる目的。

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Philippians

ピリピ3:1~9

'あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 ' フィリピの信徒への手紙 3:2

エペソ教会にいたユダヤ人は、キリストを信じること以外に律法を守る必要性を強調していた。特に割礼を重要視していて、「神の民」であるならばその印である割礼を受けなければならないと教えていた。同じ神を畏れ敬っていても、キリストが律法を成就し、新たな契約を提供していることを理解し受け入れていない状況によって、不必要なルールや風習を取り入れ守ることに必死になってしまった。まさにイスラエルがアッシリアに制覇された理由と似たような状況。

'このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。 ' 列王記下 17:33

イスラエルはカナンの地に元々あった風習を取り入れていくうちに、神を畏れ敬うことをしなくなってしまったために、契約に基づいて神はカナンの地をイスラエルから取り上げた。今日の教会でも宗教改革時代からの風習を取り入れ、それを守り通すことに注力してしまう場合がある。その結果、オンラインの可能性を無視して排除し、制約を重んじるあまりに隣人を愛するのではなく罰することに情熱を注いでしまう。風習を守る前に、キリストが教えたことは何なのかを考えたい。

'そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 ' フィリピの信徒への手紙 3:8-9

まずはキリストを知ることの素晴らしさを理解し、それ以外のことを「損失」と捉えること。ルールや風習は「塵あくた」。キリストの内にいる者(クリスチャン)はキリストを得たことによって大きな価値を持ち、価値ある者として扱われなければならない。ルールや風習を守っているかのチェック対象でなく、一人の人として見ていきたい。

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Philippians

ピリピ2:19~30

ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。 そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。 わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。 フィリピの信徒への手紙 2:25‭-‬30 新共同訳

エパフロディトは誰だ?ピリピ教会がパウロの世話をするためにローマに送った人。また、パウロからの感謝の手紙をピリピ教会に持ち帰った人。そしてピリピ教会から献金を任されるほどの人だったことから、教会の中で信頼された存在(もしくはリーダー)だった可能性が高い。パウロといたときに「瀕死の重病」にかかったが、奇跡的に回復した。また、聖書においてはピリピだけに登場する。

「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。」エパフロディトは教会のビジョンと神学的方針を定める牧師や長老でなければ、教会内の動きを管理する執事でもなかった。(長老や執事であった可能性があるが、パウロを助けに行った時点で教会内の働きはできなくなっている)しかし、ピリピがある慣れ親しんだマケドニアの地を離れ、遠く離れた都会であるローマに行き、何もできないパウロの身の回りの世話をした。長老や執事のように教会全体に見られる舞台で、教会にとっては直接的な働きではないが、イエスが教えたように「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」エパフロディトのしたことは「大いに歓迎」するに値する働きだ。教会の礼拝奉仕をするよりも、教会に通えない弱い立場の人たちに奉仕することが「大いに歓迎」されるべき。そしてそのような人々を「敬い」、キリストの「隣人を愛する」教えを実行する者としてその人達から学びたい。

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Philippians

ピリピ2:12~18

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。〜フィリピの信徒への手紙 2:12‭-‬13 新共同訳

「だから」は前の箇所にて「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つに」することをピリピ教会に促していることを指している。わだかまりを無かったことにせず、しっかりと対話し、一致することに務めることが教会に求められている。「一致」にたどり着くには牧師や長老ですべてを決め、それを教会員に発表する、という方法がある。しかし、それではトップから提示された方針に同意しない教会員と認識齟齬が生まれる。トップからのビジョンや神学的方向性は必要だが、それに対して教会員のインプットを得るとなお一致を生みやすい。トップダウン・ボトムアップを合わせることによって、全員参加型の教会を立てあげることが同じ方向を向いて、同じ目標に向かう結果を生み出す。

「自分の救いを達成するように努めなさい。」信じることによって救われることは間違いない。しかし、生まれたての赤ちゃんのままでいるのは神が望むことではない。教会の一致に参画するには一人ひとりの成長が不可欠。聖書を毎日読んで思いを巡らすことを促すデボーションやバイブルスタディ。毎日の祈りを通して神との関係を深めることを促すスモールグループや祈祷会。(祈祷会においては決められた内容だけでなく、互いのために祈ることも必要)一人ひとりが神のみこころを知り、理解できることの体制を築くことによって、全員参加型の一致した教会が可能になる。

最も、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」ことを覚えたい。自分の力、能力、経験だけでは「救いを達成」できない。年長だから、長く教会に通っているから、神のみこころを成すことはできない。若いから、子育てを始めたばかりで大変だから、神のみこころを成すことができないわけではない。私達の内に働いている聖霊が私達に能力を与え(御霊の実)、私達が神のみこころを成すように突き動かして下さる。

聖霊に導かれる生き方が「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つ」キリスト者を生む。自分の力で成したことではないから「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」。(14~16節)