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Malachi

マラキ3:1, 3

ハガイでは神殿の未来の栄光の素晴らしさを示すことによって神殿の再建を励ました。ゼカリヤでは新たな泉が開かれ、それによって民が悔い改め、多くの国民が神にひれ伏すことが記されていた。そしてマラキで人々は、これらの約束が成就されるのを待っていた。そんな中、神に対して「満足しきって」いて怠惰になってしまっていたので、物足りなさからこの世の快楽を求めた。マラキの預言は、約400年後に使わされる救世主によって、この世を求めている人々を清める希望を記している。

3:1「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。―万軍の主は言われる。」

3人の人が来ることが記されている。最初の人は「道を備える」者で、「エリヤ」と呼ばれている (マラキ4:5-6)。バプテスマのヨハネが「エリヤ」だとイエスご自身が確認している (ルカ1:16-17, マタイ17:12, ヨハネ3:28)。そしてイエス・キリストが「神殿に来る」者で、ご自身を捧げることによって罪の代価を支払う。3人目に関しては、「主」と「契約の使者」は別人だと思えるかも知れないが、イエスは神である (ヨハネ1:1, 14) ことから、「主」と呼ばれてもおかしくない。

3:3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。

キリストが来ることによって清めのプロセスが開始するのだが、まず清められるのはレビの子ら。最終的に神は全ての人々を清めるのだが、清めはまず祭司たちから始まらなければならない。彼らが汚れていれば民も汚れる。彼らが清められれば民も神に立ち返る。また、新約聖書でキリスト者は「聖なる祭司」(1ペテロ2:5)、「王である祭司」(1ペテロ2:9) とされていて、キリスト者は皆レビの子と言える。キリストに始まった清めは「聖なる祭司」を通して全ての人に広がっていく。

この清めのプロセスによって全ての罪から清められるのだが、マラキでは2つの例が挙げられている。一つは離婚について (2:14-16)。夫婦関係を保つために努力し、共に神に向かっていくことを励まし合うことが、離婚を回避するための秘訣。イエスはこれを助けるためにこの世に来られた。そしてもう一つは金銭と持ち物を愛することについて (3:8-10)。神を愛することと神に仕えることを忘れると、神を金銭と持ち物に置き換え、それらを拝んでしまう。神を第一にすることによって、金銭や持ち物を捧げることに抵抗は無くなる。10%などとルールを設けなくても、心からあふれるほどの捧げものをすることができる。

マラキで預言されていたイエス・キリストがこの世に来られ、神の栄光のために生きる祭司の民を清めた。これがクリスマスの本当の目的。神の栄光と偉大さに目を向け、神を何よりも愛するようになれば、本当の自由を得ることができる。金銭の愛から自由にされ、姦淫の罪から開放される。自由に喜んで神を礼拝し、善と愛を発見する喜びを体験する。自分が衰えキリストが盛んになる。神の栄光が永遠に讃えられるようになる。

このブログはジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-shall-go-forth-leaping-like-calves

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Church Malachi Worship

マラキ1:6-14

祭司は神殿の捧げものを軽視し、それによって神の名を軽視していた (8節)。祭司たちは盗んだ動物、病気で歩けない動物などを捧げていた。主はこれをい受け入れない (13節)。しかも「損傷のあるものを主に捧げるような、ずるい者はのろわれる」(14節) とある。軽率な礼拝という呪いを放っておくべきではない。

軽率な礼拝が行われる理由

軽率な礼拝は何故行われるのか?神の偉大さを理解できていないから。

神の「わたしはあなたがたを愛している」という言葉に対して人々は軽率に「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と返した (2節)。それに対して神は暖かい愛で答えるよりも、エサウを憎み、ヤコブを愛したことを示した。それはつまり、エサウよりもヤコブを選ぶことによってご自身を主権を示していることになる。愛よりも主権を重視したメッセージである。

また、神は父としての威厳を示している (6節)。子を愛する父を示すこともできた。しかし、愛することではなく、父を敬うことを訴えている。軽率な礼拝によって神を威厳ある父親として見ていないことが問題視されている。

神が捧げ物を受けない理由は、神の名が崇められなければならないから (10-11節)。傷のあるものを主に捧げる者はのろわれる理由は、神は大いなる王だから (13-14節)。軽率な礼拝が許されないのは、神の偉大さを無視する行為になるから。

この軽率な礼拝が行われる理由は、神に対して怠惰になり (13節)、世の中のことに強い興味を持つようになるから。神の偉大さを理解することができなければ、金銭で手に入れられるモノの方が興味を引いてしまう。まさに、天国に宝を置いていなければ、地上に置いてしまう状態になる。

軽率な礼拝の形

軽率な礼拝はどのような形をとるのか?意味のない宗教的行動と考えられる。もしくは、神を小さくしてしまう宗教的行動とも言える。「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火ををもせないようにする人が、一人でもいるであろうか」(10節)。

この「いたずらに」という言葉はヘブライ語で「ヒンナム」で、ダビデが2サムエル24:24で使ったことばと同じ。ダビデは神に捧げものをするためにアラウナから土地を献上されたところ、ダビデはその土地の代価を支払うと言い張った。「費用もかけずに(ヒンナム)、私の神、主に全焼のささげ物を捧げたくない。」

神を尊び、神の主権と父としての威厳によって私の魂が満ち足りている。なので、礼拝するとき神よりも金銭を愛するように見せたくない。私は何かを支払い、この世ではなく神が私の宝であることを証明したい。

軽率ではない礼拝

軽率ではない礼拝はどのような形をとるのか?まず礼拝の真の目的を定義する必要がある。

  • 神の価値と偉大さを表すこと
  • 神の価値と美しさの霊的な感覚を会衆の内に維持させること

また別の角度で考えると礼拝は

  • 人の財産や称賛よりも神を宝としている心からくる
  • 神中心の心を会衆に植え付ける

では、優れた礼拝とはどのような形をとるのか?

  • プロ意識を持つことではない。完璧な礼拝式典を求め、完璧な口調で聖書朗読や説教をし、一日欠かさず礼拝に出席することではない。いくら完璧にこなしても、神に向ける熱心な心を育むことはない。
  • 感情任せではない。感情ばかりに任せると思考停止に陥る。感情を動かすテクニックを通して人々を熱狂させることはできる。しかし、神中心の礼拝と聖書全体を通した教えをおろそかにしてしまう。
  • 霊的に満足した状態ではない。神に対する霊的な感情あるかもしれない。しかし、満足しきっているため神中心に向ける熱心さが欠ける。熱心さが欠けると礼拝奉仕におけるほころびが出てくる。また、礼拝体験は個人的なものとされ、会衆の霊的な流れを無視するようになる。「自分が満足に礼拝できていれば良い。」「他の人は自分の立派な礼拝の姿勢を見ていれば学べる。」新来会者の対応や子供への礼拝教育はおろそかになる。
  • 霊的に忠実でいること。神の偉大さを体験し、熱心さをもって神を求める。満足に陥らず、完璧主義にならず、自分の立派さに焦点を当てず、熱心さを会衆と分かち合う。これが軽率でない礼拝につながる。
このブログはジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-curse-of-careless-worship
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Church Malachi

マラキ 3:7-12

7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。

十分の一を捧げないのは神のものを盗むこと (8節)。そして十分の一を宝物庫に携えるよう命令している (10節)。しかし、パウロは献金について教会に教える時、十分の一の命令について語らず、逆に喜んで捧げることを強調した。一見矛盾しているようなこの2つの教えは、新約のクリスチャンにどう適用すればよいのだろうか?

確かに、イエスはパリサイ人に「正義と神への愛をおろそかにしている」と指摘した上で「十分の一もおろそかにしてはいけない」とも言っている。しかし、これはイエスの十字架の前の出来事であり、パリサイ人に律法を守るように指示するのは当然のこと。キリストの十字架の後に生まれたクリスチャンにはモーセ律法は適用せず、クリスチャンはキリストの律法のもとで生きるとされている (ローマ6:14–15; 7:5–6; ガラテヤ3:15–4:7; 2コリント3:4–18)。 

パウロも、それぞれが収入に応じて捧げることを教えていた (16:2)。これは十分の一を教えていたかのように思えるが、パウロのポイントはそこではない。パウロは、聖職者をサポートすることを促している (ガラテヤ6:6, 1テモテ5:18, 1コリント9:7)。貧しい人を助けるように促している (使徒 2:43–47; 4:32–37; 11:27–30; ガラテヤ. 2:10; 1コリント16:1–4; 2コリント8:1–9:15)。そして何より、「苦しみによる激しい試練の中であってもあふれ出て、惜しみなく施す」 (2コリント8:2) ことを勧めている。「十分の一を守っている」ことが合格点なのではなく、惜しみなく与えることが目指すべきところ。

これを踏まえて、マラキに記されている戒めに対して2つの対処法が考えられる。

一つ目は、モーセ律法のもとにいないキリスト者として、さらなる聖なる高みを目指すためにマラキの戒めを横に置く。10%捧げたから残りの90%を使ってこの世の欲を求めても良い、と考えるのであれば、その戒め自体を横において、全てを捧げられる心を与えられるよう祈る必要がある。逆に、10%さえも捧げなくても良いと捉え、さらに金銭を愛するようになってしまうのであれば、10%のルールをセットして自制する必要があるかもしれない。

二つ目は、マラキの戒めによる捧げものの制限を横において、捧げられる自由を求める。もし10%を捧げなくても良いこと自体に喜びを得るのであれば、戒めを横に置く正当な理由にはならない。パウロはこの戒めを横においたのは、私たちを金銭の愛から開放するため。また、私たちがさらに自由に捧げることができるため。なので、10%の戒めを守らなくても良いが、私たちはそれだけ多く、自由に捧げることができることを自覚しなければならない。

十分の一であれ、自由に捧げる形であれ、神はそれを祝福すると語っている。十分の一を捧げていない人に対して「ルールを守っていない」と断言したり、一人ひとりの捧げ額を細かく管理し、それを評価する仕組みを取っているわけでもない。神は民に捧げるように訴えている。そして神がどのように祝福するかを試すように訴えている。

10 ──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。
このブログの内容はジョン・パイパーが提供している記事と、The Gospel Coalitionが提供している記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-will-be-a-land-of-delight
https://www.thegospelcoalition.org/article/7-reasons-christians-not-required-to-tithe/
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Zechariah

ゼカリヤ

ゼカリヤはハガイと同じ時代に預言者として活動していた。どちらの預言者もバビロン捕囚からエルサレムに帰還したユダヤ人に向けて語っていた。そしてどちらも神殿の再建に向けて人々を励ました。ゼカリヤのポイントは8:13-15に記されている。

13 ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ」。14 万軍の主は、こう仰せられる、「あなたがたの先祖が、わたしを怒らせた時に、災を下そうと思って、これをやめなかったように、――万軍の主は言われる――15 そのように、わたしはまた今日、エルサレムとユダの家に恵みを与えよう。恐れてはならない。

神は民に良いことをすると告げている。そして神はイスラエルを救い、イスラエルは他国への祝福となる。この約束はイスラエルに希望を与え、恐れを取り除き、強めるために与えられている。

一般的に、預言書を読む際にクリスチャンへの適用が難しく感じるときがある。それは、預言書のメッセージの大半はイスラエルに向けたものだから。では、どのようにして預言書を解釈し、適用すべきだろうか?

  1. まず前提となるのは、預言書はイスラエルの民に向けて書かれたメッセージであること。異邦人や教会は視野に入っていない。
  2. イスラエルは悔い改めれば今後も栄光ある未来が用意されている。教会がイスラエルの代わりになったと言うには単純すぎる。「神は自分の民(イスラエル)を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません」(ローマ11:1)。
  3. 信仰によって異邦人はイスラエルの約束を共に相続することができる (ガラテヤ3:29, エペソ2:19, 3:6)。
  4. なので、旧約の予言はイスラエルに直接向けたメッセージだったが、その適用と約束はイスラエルにとどまらず、異邦人にも及ぶ。
  5. イスラエルに与えられた約束は段階的に成就されていく。メシアの来臨も段階的に起きている。まずキリストは罪を取り除くために来られた (ヘブル9:6)。再臨のときにキリストは罪を裁き、待ち望む者を救う。旧約聖書ではこの2つを区別しないので、一部キリストの来臨によって成就したものもあるが、終わりの日に成就されるものもまだ残っている。

つまり、旧約聖書で「恐れるな」と書かれているとき、相続人であるクリスチャンとしてこの約束を受取ることができる。恐れることがない理由についてはまずイスラエルに適用されるが、霊的なユダヤ人(ローマ2:29, ガラテヤ3:29)である私たちにも間接的に適用される。

13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

ゼカリヤでおそらく最も大事な約束が記されている。イスラエルの民に泉が開かれ、その泉によって彼らの罪と汚れが清められる。この約束によって罪人が罪赦され、神の恵みを受け入れられるようになるので、この約束は他の全ての約束の土台になると言える。清めの泉は天国に向かうための最初の経過点である。

では、何故この泉が開かれなければならないのか?ユダヤ人にとってこれは、動物犠牲のシステムは罪を清めるには不十分だと言われているのと同じ。何故動物犠牲は不十分なのだろうか?動物が被る損失は神の栄光が受ける損傷と比べることができないから。罪は人に対して損害を被るのではなく、神の栄光を汚すことである。人間が創造主を信頼せず、創造主に逆らうことがどんなに極悪かを理解できれば、私たちは永遠の滅びによる裁きに抗議することができないだろう。そして神の子が犠牲となる必要性を疑うことはできないだろう。

3:8 聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。9 見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。ー万軍の主のことばー 一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。

次に、この泉はどのように清めるのだろう?この箇所では、罪の赦しは「枝」と呼ばれているメシアと関係していることが分かる。このメシアは咎を取り除き、しかもそれを一日のうちに行う。キリストの血が罪を取り除くには、罪人が悔い改めて神を求める必要がある。通常、人は神の栄光を汚すことについて何とも思わない。人が罪に対して悲しむには神がそうさせるしかない。聖霊が人に罪を示してくださる。イスラエルにもこれが起きると予言されている (12:10-11)。エルサレムの咎が取り除かれ、神の赦しが注がれる (14:11, 2:5, 2:10, 8:8)。ゼカリヤでイスラエルに約束されたことは、キリストの血による泉と神の民の悔い改めによって成就される。

最後に、開かれた泉は誰を清めるのか?だれがゼカリヤを読んで希望を得ることができるのか?一番わかりやすいのがユダヤ人。メシアである御子を否定することによって神を怒らせたかもしれないが (1テサロニケ2:15)、今日においても神は赦しを約束している。神はいつの日か覆いを取り除いてくださる (2コリント3:14)。彼らの頑なな心を取り除いてくださる (ローマ11:25)。恵みの霊を彼らに注ぎ、彼らはイエスを主とあがめるようになる。今日においてメシアニック・ジュダイズムという形でこれが成就され始めているかもしれない。私たちはユダヤ人の知り合いや友達のために祈り、彼らにキリストを証し続ける必要がある。

また、ゼカリヤのメッセージは私たち異邦人クリスチャンにも適用できる。キリストの血の泉が開かれることによって、私たちもゼカリヤの約束に含まれる。私たちは「イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:12)でなくなる。私たちはアブラハムの霊的な子孫であり、新たなエルサレムの住人。ゼカリヤの希望と喜びと栄光は私たちの希望と栄光と喜びである。

2:11 その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知る。
この投稿はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/there-shall-be-a-fountain-opened

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Haggai

ハガイ

エルサレムは586 BCにバビロンによって滅ぼされ、神殿は破壊され、多くのユダヤ人が捕虜として囚われた。その50年後ペルシア帝国がバビロンを滅ぼし、翌年の538 BCにユダヤ人を開放し、エルサレムで神殿を再建することが許された。エルサレムに戻ったユダヤ人の中にハガイとザカリヤがいた。この二人の行いはエズラ5:1-2に記されている。

1 さて預言者ハガイおよびイドの子ゼカリヤのふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に向かって、彼らの上にいますイスラエルの神の名によって預言した。2 そこでシャルテルの子ゼルバベルおよびヨザダクの子エシュアは立ちあがって、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた。

ハガイは4つの神からのメッセージで構成されていて、最初 (1章)と3つ目 (2:10-19)のメッセージと、2つ目 (2:1-9) と4つ目 (2:20-23)のメッセージが対になっている。

1:4 「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。5 それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。6 あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。

最初のメッセージでは、人々は神殿をないがしろにして生活を良くしようとしているので、いつまでも満足できないと指摘している。いくら働いても、食べても、飲んでも、衣類をまとっても、キリストの体の働きをないがしろにすれば、いつまでも満足しない。神の栄光のために働かず、この世の快楽だけを求めて働くのは、常に欲求不満がまとわりつく。

8 山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。

この不満の解決法は、神の栄光に焦点を当てること。旧約聖書の神殿は神の栄光のために存在した。今日において、教会は神の栄光のために存在する (エペソ1:6, 12, 14)。教会の霊的な状態と成長をないがしろにすることは、神の栄光に焦点を当てていないことを示している。

2:14 そこで、ハガイは言った、「主は言われる、この民も、この国も、わたしの前では、そのようである。またその手のわざもそのようである。その所で彼らのささげるものは、汚れたものである。

2:10-19の3つ目のメッセージによると、神殿の工事がなかなか進んでいない事が読み取れる。理由は、人々は罪の中に生きているから。神に従って神殿の工事を行っても、罪のせいでその仕事は祝福されていない。これに対してハガイは人々に、神殿の工事を始める前の、虚しい、満たされていない状態を思い出すよう促す (2:15-17)。また、神に従って神殿の工事を始め、祝福されたことを考えるように促した (2:18-19)。神はこれからも祝福し続けたい。なので、その祝福を受け続けるためにも生活を見直し、罪を悔い改め、神殿の工事を続けていくように促している。

1つ目と3つ目のメッセージは、ユダヤ人に神殿を再建するように促した。神に従う前は満たされない状態だったが、工事を続けて罪の生活を悔い改めれば、神は必ず祝福してくださる。すべては物理的な建物ではなく、神の栄光のため。

2:3 『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。

2:1-9の2つ目のメッセージに戻ると、神殿の工事が完全に止まっていた事がわかる。理由は、過去の栄光を思い起こしていたから。70年前の神殿はソロモンの傑作で、数百年にわたって神礼拝の中心だった。今やっている工事は、いくら頑張ってもソロモンの神殿と同等のものは作れない。そのレベルに達することができないなら建て直さず、思い出に残す方がマシ。

キリストのために働く人も同じ思いをすることがあるだろう。いくら働いてもみすぼらしく感じる。毎週、毎月頑張るが、収穫がとても小さい。歴史を見返したり、周りを見渡すと大きな成功を治めている人がいる。それに比べて自分の働きはほとんど成果がない。気落ちしてしまって、諦めてしまいたい。

2:4 主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。

神は働きの結果について違った視点をもっている。神殿の工事は意味のないことではない。「勇気を出せ。働け」と励ますと同時に、2つの励ましを与えてくださっている。

1つ目の励ましは、神は常に働く者と共にいること (2:4-5)。心を励ましてくださる (1:13)。かつてイスラエルに約束した神は今日も同じ神 (2:5)。そしてソロモンが神殿を建てたときに励ました神が、同じように私たちを励ましている (1歴代志28:20)。

2つ目の励ましは、働きの結果は見える範囲にとどまらないこと (2:6-9)。神は働きをご自身の栄光で満たし、思い描ける以上に結果を伴うようにしてくださる。この神の業に信頼し、恐れず働くことができる。

実際に神殿の再建は、キリストが活動を初めたころには素晴らしい建造物になっていた。AD70にこの神殿も破壊されたが、建物でなくキリストを通して私たちは神と交わることができるようになる。一部の神学者は、キリストが1000年間地上を治めるときに、エルサレムに神殿が建てられると解釈している。そして、世の終わりには神ご自身が神殿となるので建物は必要なくなる (黙示録21:22)。

神は小さな不完全なものを、ご自信の栄光のために住処として築かれるのです。ああ、私たちは自分の小さな影響力の領域で、どれほど勇気を持つべきなのでしょう。

このブログはジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/take-courage-you-build-more-than-you-see
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Zephaniah

ゼパニヤ

ゼパニヤはヨシヤがユダの王だった時に神の予言を伝えた。ヨシヤは律法の書を発見し、人々に悔い改めを促した王。ゼパニヤもユダ、特にエルサレムに、悔い改めを促すためのメッセージを語った。

ゼパニヤは以下のような構成になっている。

  • 1章:ユダとエルサレムに対する裁きが記されている (4節)。
  • 2:1-3:ユダが神に立ち返るよう促している。特に3節に「義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ」とある。
  • 2:4-15:ユダの周りの国々にも神の裁きがあると記されている(ピリシテ、モアブ、アンモン、クシュ、アッシリア)。
  • 3:1-7:エルサレムに対しての裁きが記されている。
  • 3:8-20:民が神に立ち返ることを宣言し(9節)、イスラエルが悔い改め再び集められ (10節)、神の喜びの中で栄光を受けることについて記されている。

ゼパニヤのポイントは2:3にあると思われる。その他の箇所はこのゴールに向けさせるために警告と約束を動機として与えている。

「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。」

エルサレムに対する裁きは罪によるものだった。マナセはバアルのための祭壇を至る所だけでなく、神の神殿の中でも作った。ヨシヤはこの祭壇を壊したが、バアル崇拝者は残った。この人達は主の日に滅ぼされる (1:4)。また、ユダは主だけでなくミルコム(またの名をモレク、アモンの神)も拝んでいた (1:5)。二人の主人に仕えることはできないのだが (マタイ6:24)、ユダはそうしようとしていた。

エルサレムの過ちは3:2に要約されている。「呼びかけを聞こうともせず、戒めを受け入れようともせず、主に拠り頼まず、神に近づこうともしない。」主に対する罪の根幹にあるのは、自己満足。全ての人に大きな存在を崇拝したい気持ちはある。同時に、自分自身で全てを成し遂げたいという気持ちもある。なので、神礼拝をやめると、人は自分の思いと一致する「神」を作り出し、それを拝むようになる。要求を押し付けることがなく、自分を肯定しかしない神を崇めるようになる。エルサレムは神に拠り頼まないから裁かれる。

また1:18では、金銭に望みを置き、金銭を愛する人も裁かれるとある。「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らをすく出せない。」金銭への愛は傲慢と自己満足と偶像礼拝と変わらない。どれも神の報いと裁きを無視している。

2章では神に立ち返ることを促している。ゼパニヤが呼びかけているのは義と柔和 (2:3)。この預言書を読む人は皆へりくだり、その立場から神に拠り頼むことによって、義に生きることができる。何故義と柔和に生きるべきかが、2:4-15にかかれている。

  • 主の日から逃れることはできないから。どの方向を向いても周りの国々は神に裁かれている。自分で何とかしようとしても、他人に頼ろうとしても、主の日から逃れることはできない。へりくだり、神に頼ることが唯一安全を得られる方法。
  • 主の日を生き抜く「残り者」が約束されているから。悔い改めはまだ可能なので、今のうちに神に立ち返ることを促している。この「残り者」は救われ、やがてユダの地を治める (2:7, 9)。
  • プライドと傲慢は裁かれるから。ユダの周りの国々は裁かれる。裁かれることが分かれば悔い改めるはず。神の裁きを逃れるためには神の前にへりくだるしか方法はない。

3章では神に従う者が栄光を受けるとが書かれている。ほとんどの内容がイスラエルについて書かれている (3:10)が、イスラエルから出た祝福がすべてのクリスチャンに適用されることも新約聖書に記されている (ガラテヤ3:29)。この約束を得られた人々は2:3に記されている呼びかけに応じた者。神に拠り頼む人は裁きを免れるだけでなく、聖なる喜びを得ることができる。

もう一つ素晴らしい約束が3:17に記されている:「主はあなたのことを多いに喜び、その愛によってあなたにやすらぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」神は私たちを告発するのではなく、愛で私たちと接し、私たちを喜ぶ。99人の義人より、罪人が一人悔い改めると天国全体が喜ぶ (ルカ15:7)。

上記はジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-lord-will-rejoice-over-you

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Habakkuk

ハバクク

ハバククは、南の王国ユダがカルデヤ(バビロンと同じ人達)に侵略される直前に書かれた。ユダや自らの罪のため、神によって裁かれる。やがて586 BCにエルサレムはネブカドネザルによって滅ぼされる。ヨエルやゼパニヤやアモスと違い、ハバククでは滅びを避けられる可能性は書かれていない。人々に悔い改めるように促すことはしていない。もう手遅れだからである。裁きを通しても命を守る方法は、信仰しかない。国が滅びても、個人が神を信頼することによって望みが残されている。

(1:2-4) ユダは暴行と不法で溢れていた。「みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです」(4節)。

(1:5-11) これを受けて神はこう反応する。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する」(6節)。

(1:12) しかし、神は民を完全に滅ぼすことはしないとハバククは信じている。「あなたは昔から主ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ、私たちが死ぬことはありません。主よ、あなたはさばきのために、彼を建てられました。岩なる方よ、あなたは懲らしめるために、彼を据えられました。」神は民を滅ぼすためにカルデア人を起こしたのではなく、正し、懲らしめるために起こした。

(1:13-17) カルデア人は神の裁きを執行したのだが、ユダより正しかったわけではない。彼らにもプライドがあり、暴行を繰り返し、偶像を拝んだ。そのためにハバククは神に訴える:「彼は自分の網を空にし続けながら、諸国の民を容赦なく殺すのでしょうか。」

この問に対して神は答えるのだが、その答えは記されていない。しかし、その答えの中にあったことばは2:4の確信につながったに違いない。「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐではない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

(2:6-19) カルデアに対する嘲りが記されている。カルデアの支配はいずれ終わる。その理由は2:14に記されているように、「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることでみたされる」から。だから諸国はカルデアを恐れるのではなく、全てを治める神を恐れるべき。「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前にしずまれ」(2:20)。

3章はハバククが神の言葉を受けた上での反応が記されている。ただこれは個人的な祈りにとどまらず、賛美と礼拝においてこの言葉が使われることが想定されている。「シグヨノテの調べにのせて」(3:1) 「指揮者のために。弦楽器に合わせて」(3:19) というのは伴奏と共に歌われること。「セラ」と3節、9節、13節に入れていることも賛美の歌を現している。歌にすることによって、ハバククは私たちにも、神の裁きに直面した時に同じように祈り歌うことを促している。

(3:2) ハバククは神の裁きに対して健全な恐れをいだいていた。裁きの中であっても、神が憐れむように祈っている。

(3:3-15) 神は救うことができるほど力があると記している。「あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出てこられます。あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます」 (13節)。過去の神の働きを見て、未来において神が完全に勝利することに自信をもっていた。なので、来る侵略に震えてはいるが、「静かに待ちます」(16節) と記している。

(3:17-19) ハバククは信仰の歌を綴っている。

いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

カルデアの侵略によってどんな試練が訪れても、ハバククは神を信頼し続ける。神は裁きを下しても、信頼し、どんな状況に陥っても神のみに喜ぶ者には、神は慈悲深さを示す。

ハバククの書のポイントは2つある。マイナス面においては、プライドのある者、その強さと賢さがその者の「神」であるならば、その者は必ず滅びること。一時期裕福な時を過ごし、神に選ばれた者だと酔いしれることがあったとしても、いずれは神の裁きを受ける。プラス面においては、「正しい人はその信仰によって生きる」こと。どんなことがあっても、神に信頼することができるし、そこに本当の希望がある。

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Nahum

ナホム

ナホムは、北の王国イスラエルがアッシリアに722 BCに滅ぼされた後に書かれた。アッシリアは多くの国を占領して領土を広げていったが、ナホムはこのアッシリアの首都だったニネベが滅ぼされることについて予言している。

1章の冒頭ではまず神の聖なる威厳について書かれている。この事実は全ての罪人に悔い改めを促し、全ての聖徒に喜びを与える。

  • (1:2) 神の義は絶対である。神の義は全ての人に公平に適用される。神の性質がそうさせるのと、神の敵は義による裁きを受けることになる。
  • (1:3-8) 神の力は否定できない。3節によると神は力強い者。神の力は無限で、神は全能である。
  • (1:7) 神の善は計り知れない。神は裁きにおいて力強いだけでなく、恵みでも力強い。神は善であり、常に赦す準備ができている (詩篇86:5)。

1:12-13で、ナホムはユダの救いについて書いている。アッシリアは平和と富を手に入れたように見えたが、全てが変わろうとしていた。アッシリアは強い敵で無敵のようだったが、神の前には無力である。神はユダをアッシリアの支配から自由にし、アッシリアは二度と神の民を脅かすことはない。

アッシリアはイスラエルに対する裁きとして神に遣わされたが、今度はアッシリアが裁きを受ける側になった。

  • (2:9–10) 略奪する者が略奪される側になった。アッシリアは多くの富を獲得し、イスラエルを含む支配した国々から貢ぎ物を受けていた。しかし、この多くの富は侵略者の手に渡ってしまう。
  • (2:11-12) 捕食者が捕食される側になった。ニネベはライオンの巣のように例えられている。メスライオンとその子供は十分すぎる食料を与えられているようだ。
  • (2:13) 攻撃する者が攻撃される側になった。アッシリアは神が攻撃するための「憤りの杖」とされていた (イザヤ10:4-6)。しかし、イスラエルが裁かれた今、アッシリアは神の怒りを受ける側になった。

3章では、ニネベの滅亡は、神と人類に対する極悪非道な罪と犯罪のために正当化されている。アッシリアはそれまで支配していた国々から軽蔑され、笑いものにされる結果となる。彼らの滅亡は、彼らが受けるべき正当な報いであった。神から罪の裁きを受けることほど怖いことはない。

  • (3:1) アッシリアは、他国に対する残虐な行為によって滅ぼされた。彼らは人間の尊厳に無関心で、私利私欲だけを求めていた。
  • (3:4) アッシリアは淫乱と妖術の罪を犯していた。これらは悪の典型として頻繁に聖書に記されている。さらに、この罪が発展して人身売買にも手を出し、私利私欲を果たしていた。

ナホムは最後に、ニネベを誹謗する形で彼らが裁きを逃れることができないことを現している。ニネベは自分たちを守るすべはない。酔っぱらいが安全な場所を求めて隠れるようだ (3:11-14)。いなごのように数が増えても、敵が現れたら逃げてしまう (3:15-19)。アッシリアは必ず滅亡し、復興することはない。そしてアッシリアの滅亡のニュースが広まるにつれ、彼らの悪事を知る人々は拍手する。アッシリアが勢力を広めるにつれ国々は恐れを抱いたが、アッシリアの滅亡は喜びをもたらす。

面白いことに、ナホムはヨナのように質問で予言を締めくくる。ヨナ書では、神はヨナに対して何故悔い改める人を赦せないのかを問いている。ナホム書では、神が何故悔い改めない人を裁かないのかを問いている。ヨナのメッセージは、神は悔い改めと信仰を持つものを必ず受け入れるということ。ナホムのメッセージは、神は義によって悔い改めない者を必ず裁くこと。どちらの予言者も真実を語る。神の義によって裁かれるより、神の恵みと慈悲深さを体験する方が望ましい。

上記はThe Gospel Coalitionが提供している参考書を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/nahum/
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Micah

ミカ7

7 しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。8 わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。

ミカの時代は、1~6節にあるように罪がはびこっている時代だった。殺し合いが頻繁におき (2節)、リーダーは賄賂を求め (3節)、正しく生きていると主張する人はいるがその人を信頼するより茨の方が耐えられる状態 (4節)、隣人や友は信頼できない (5節)、そして家庭内でも反乱がおきている (6節)。ちなみに、イエスも6節をマタイ10:34-36で引用し、新約でも同じ状態であったことを現している。

この罪を犯しているのは神の民だったので、神はその罪を罰した。クリスチャンも罪を犯すと、神はそれを罰することがある。1コリント11:29-32に例があるが、聖餐を取る時に御体をわきまえずに取ったクリスチャンが病にかかって死んだと記されている。私たちは神の罰をどう受け止めるべきだろうか?その答えが今日の箇所に書かれている。

クリスチャンが罪を犯した時にまず起きることが、敵が私たちを欺くこと。クリスチャンなのに何故こんな罪を犯したのか?後ろ指を刺されて罵られる。そんな時、私たちは「主を仰ぎ見、救いの神を待つ」ことができる。自分の罪悪感に押しつぶされそうな時、自己卑下に陥るのではなく、救いをもたらしてくださる神を見上げることができる。

確かに罪を犯した私たちは「倒れた」。そして「暗やみの中にすわって」しまっている。その結果「主の怒りを負わなければならない。」罪を犯した以上、義なる神の罰を受けるのは当然のことである。罪の事実とその罰を受け止め、心を砕かれる必要はある。

同時に、敵は「わたしについて喜ぶ」道理はない。なぜなら、私たちは「起きあがる」から。「主はわが光」となり、「主はわが訴えを取りあげ」てくださる。罪の罰を受けた砕かれた状態から、神は私たちを引き上げてくださる。そして「わたしのためにさばきを行われる」。私たちに「対して」ではなく、私たちの「ために」裁きを行う。神が私たちを裁くのは、私たちがより罪悪感に陥るためでなく、神に立ち返り、救いの神にすがるためである。それを証拠に、「主はわたしを光に導き出してくださる」とある。そして結果的に「主の正義を見る」ことを通して、私たちは生きるべき道が示される。

罪を理解し、罰によって心が砕かれる。同時に、神が光へ導いてくださると胸を張って言える。このへりくだりと神への自信が、クリスチャンが神の裁きを受け止める方法といえる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-to-rise-after-we-fall-into-sin 

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Micah

ミカ

1:1 ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。

ミカはヨタム、アハズ、ヘゼキヤの時代に生きていたので、735-700 BCだと推測される。北の王国だったイスラエルがアッシリアに占領されたのが720 BCで、その後アッシリアは南の王国ユダの首都だったエルサレムをも包囲した。そんな時代にミカはサマリヤ(イスラエルの首都)とエルサレムに対して予言していた。

1:6 このゆえにわたしはサマリヤを野の石塚となし、ぶどうを植える所となし、またその石を谷に投げ落し、その基をあらわにする。7 その彫像はみな砕かれ、その獲た価はみな火で焼かれる。わたしはその偶像をことごとくこわす。これは遊女の価から集めたのだから、遊女の価に帰る。

サマリヤが裁かれたのは、偶像礼拝によるものだった。神はこの世をご自身の栄光のために創造したので、神に反して偶像を拝むことによって裁きを受けるのは当然のこと。神は義なる方なので、不信仰に無関心でいることはできない。偶像礼拝は必ず罪に繋がり、人の命を脅かす。

2:2 彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてその家を奪い、人をしえたげてその嗣業を奪う。3 それゆえ、主はこう言われる、見よ、わたしはこのやからにむかって/災を下そうと計る。あなたがたはその首を/これから、はずすことはできない。また、まっすぐに立って歩くことはできない。これは災の時だからである。

彼らは貪欲と盗みと虐げとプライドを働かせていた。偶像礼拝と傲慢は、ともに貪欲と盗みと虐げを促す。貪欲の心はサマリヤだけでなく、エルサレムにも広がっていた。

3:9 ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家のつかさたちよ、すなわち公義を憎み、すべての正しい事を曲げる者よ、これを聞け。10 あなたがたは血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建てた。11 そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う。しかもなお彼らは主に寄り頼んで、「主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない」と言う。

貪欲は正義をも歪めていて、リーダーや祭司や予言者までも賄賂を受け取るようになっていた。リーダーは正義を憎み、公平を曲げ、血を流し、賄賂を受け取った。祭司は金のために教え、予言者は金を払えば聞きたいことを何でも告げた。

これらに対してミカは破滅を約束した。サマリヤは722 BCに廃墟となり (1:6)、エルサレムは586 BCにバビロンに捕虜として連れて行かれた (4:10)。

6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

しかし、この暗いメッセージの合間に、悔い改めへりくだる人々には栄光が与えられていることが語られている。この栄光を受け取るには3つに条件がある。一つ目は、へりくだって神と共に歩むこと。子供のように神にすがり、全てを神に任せながら生きること。二つ目は、いつくしみを愛すること。つまり、慈悲深さをもって愛する心を持ち、隣人を思うこと。三つ目は、義を行うこと。特に虐げられている人々に対して働きかけること。これらはイエス・キリストがパリサイ人に語った言葉と似ている。神の慈悲深さにすがると、私たちの心は他人にたいして慈悲深さを現し、虐げられている人には義を求めるようになる。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

マタイ23:23

そしてミカの予言は、神の慈悲深さで締めくくられている。

7:18 だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために/とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を/海の深みに投げ入れ、20 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。

クリスチャンに最も中心的な希望として、イエス・キリストの予言がミカの中で記されている。キリストが送られたことは神について次のことを現している:1)神は自由と慈悲深さを通してご自身の栄光を現している。2)神はどんなに暗い時代にあっても約束は必ず守る。3)神は神の民を守る。キリストによって神は栄光を現し、救いの約束を成就し、神の民とされたクリスチャンの信仰を世の終わりまで守ってくださる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/eagle-edom-will-come-down