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Ecclesiastes Special Topics

伝道者の書4:2-3

2 それで、わたしはなお生きている生存者よりも、すでに死んだ死者を、さいわいな者と思った。3 しかし、この両者よりもさいわいなのは、まだ生れない者で、日の下に行われる悪しきわざを見ない者である。

伝道者の書4:2-3

この箇所を読んで、生まれてくる赤ちゃんの人生を考えると、障害をもったり、貧しい環境や、片親しかいない家庭では、この子供が生まれても不幸になるだけだから中絶を選ぶ人がいる。これは正しいのだろうか?

まず、伝道者の書は絶望に陥っている人の言葉として書かれている。信仰に生きる人ではない。この世に希望を持とうとしたが結果として望みがないことを悟っている。聖書にはこのように、神に動かされて書き記されているが、そのまま受け取るべきでない内容が含まれている。ヨブ記もそうだが、書の一部を取り上げるだけでは結論をないがしろにしてしまう。伝道者の書の結論は最後の12章に書かれているので、これを確認した上で4章の内容を考えるべき。

13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

伝道者の書12:13-14

たとえこの箇所が中絶をサポートするように捉えたとしても、殺人を許すことにはならない。子供に対して罪が侵されるかもしれないので、罪を犯してまでその子の人生を止めるべきではない。いつかこの子供が誰かに殺されるから、先に殺す理由にはならない。私達は神ではない。

クリスチャンとして考えるべきことは、このような環境に生まれてくる子供を無くすことではなく、どのようにして、このような環境下に置かれている人たちに関わって助けられるかを考えるべき。障害を持つ子供に対して理解を深め支援すること。貧しい環境にいる家庭には、特に教会を通してどう援助できるか。片親しかいない家庭に対して教会や自宅の場を提供したり、共に育てることを考える。これが「清く汚れのない信心(宗教・信仰)」。

27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ヤコブ1:27
上記の内容はジョン・パイパーが提供しているサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/interviews/what-would-you-say-to-someone-who-uses-ecclesiastes-to-say-that-abortion-is-a-better-alternative-than-the-life-awaiting-some-babies

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Special Topics

聖書の物語に意味を見出すには?

聖書は様々な形で私たちに神からのメッセージを伝えているが、文体によってはメッセージを見出すのが難しい場合がある。その一つは聖書に多く含まれいる物語だ。では、どのようにして聖書の物語に意味を見出すことができるだろうか?

重要なのは、筆者の意図を探ること。筆者はどのような背景で、どのような状態で、誰に対して何を伝えていて、何故それを伝えていたのだろうか。それを探らず呼んでしまうと、神のメッセージを見出すのが難しくなってしまう。イエスもパリサイ人に対して、彼らは聖書の読み方を理解していないと指摘した。「読んだことがないのか」と何度も指摘している (マタイ12:4, 19:4, 22:31)。

また、筆者の意図を知るためのヒントを与えているので、それを探ることも助けになる。物語に含まれるヒントは、繰り返される言葉、物事が起きる順番、対話の内容、特定の事象の影響、筆者による解釈の挿入、などがある。

創世記37~50の例

創世記37~50を例として取り上げる。

この章の主な意図は次の箇所に記されている。

7 神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。8 それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。

創世記45:7-8

20 あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。

創世記50:20

つまり、主な意図は、神の民の罪深さや神の民に対する人間の罪深さは、神の救いの計画を妨げないばかりか、神の救いの計画を前進させるということ。

ヒント1

この意図につながるヒントは少なくとも2つ提供されている。一つのヒントは次の箇所に記されている。

3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。

創世記39:3

21 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。

創世記39:21

ヨセフの状況はどんどん悪化していくが、この中に物語のヒントが含まれている。状況が悪くなったのはヨセフの罪のせいではない。彼がこの悪い状況を作り出しているのではない。神に見放されたのではない。全ては神の隠れた目的のために起こされた出来事である。

ヒント2

次のヒントは創世記38に記されているが、この話がヨセフの物語の真ん中に挟まれているのは不思議に感じる。この章ではヨセフの兄であるユダが、売春婦と勘違いして義理の娘を妊娠させた話が記されている。何故この話がヨセフの物語に挿入されているのか?モーセは何の意図をもってこのヒントを与えたのだろうか?

一つ考えられることは、ヨセフの義をより鮮明にするために挿入されていること。ヨセフは主人であるパテパルの妻に言い寄られたときに断り続けた。「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記39:9)。

ユダの罪深い不貞行為と、ヨセフの義なる行動は明らかに対照的で、モーセはこの39章を挿入することによってヨセフが神に認められていることをはっきりとさせている。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているAsk Pastor Johnシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/interviews/how-do-you-find-meaning-in-the-bibles-narratives
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Hebrews Special Topics

ヘブル1:10~14

13神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。 14天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。へブル1:10~14

聖書には天使の話がいくつかあるが、天使の存在はどのように体感できるのだろうか?天使は私たちの為に何をしてくれるのだろう?天使の行動から私たちは何を学べるだろう?こんなことを考えてみた。

天使の存在を体感

天使が存在することは聖書を読めば明らか。しかし、普段私たちは「天使」という存在を意識していない。どのように天使の存在を体感できるだろうか?一つは、他人をもてなすこと。ヘブル13:2には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」とある。天使は神の使いとして、かつてアブラハムがそうしたように、もてなすに相応しい存在である。同じように、私たちは他人をもてなすことによって、天使をもてなす体感をすることができる。もう一つは、エペソ6:12の言葉を忘れないこと。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」物質世界の戦いだけに注力せず、霊的世界の戦いに注目し、悪魔や罪と戦って行くことも、天使を体感する方法。

天使がしてくれること

天使は罪がない存在なため、「救い」という概念を理解していない (1ペテロ1:12)。しかし、一人の人が救われ、神の家族に加えられた時、天使たち全員が祝う (ルカ15:7)。私たちは、救われた人、その事実を象徴する洗礼を受ける人を見た時、どのように反応するだろうか?礼拝の「秩序」を気にして、静かに見守るだけだろうか?それとも、立ち上がって拍手し、大声で神を賛美するだろうか?天使たちは後者の方で、喜びをあらわにし、救われた人の価値を示してくれている。また、天使たちはパウロにしたように励ましの言葉を与える (使途27:23-24)。実際の必要(食料など)を与えることもあるし (1列王記9:3-8)、危機から救ってくれることもある (使途12:6-10)。そして、人が生涯を終える時、天使たちがその人を神の元に連れて行ってくれる (ルカ16:22)。

天使から学べる事

天使たちは神を賛美するために創られた (詩編148)。神に仕えるために創られた。私たちは日々の生活で神を賛美し、喜んで仕えているか?これは日曜礼拝の場だけの出来事ではない。会社で、学校で、家庭の中で、私たちは神を賛美し、神に仕えるようにしなければならない。また、天使は神のみことばを伝達する役割を担っている (ヘブル2:2)。私たちは聖書を読んで理解し、自分のものとした後、他人に伝えているか?天使たちほど神の言葉を忠実に伝る人間はいないだろう。人として天使たちを見習いたい。

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Philemon Special Topics

ピレモンと宣教師

ピレモンへの手紙では、パウロの働きにピレモンへ参画するように促した。このことから教会生活への参画の必要性や、宣教師の教会での振る舞いなどが読み取れるのだろうか?そもそも、宣教師としての振る舞いはどうあるべきか?神に遣わされる宣教師と霊的賜物は、どのような関係があるのか?宣教師を受け入れる教会はどのような姿勢をとるべきか?このようなことを考えてみた。

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Philemon Special Topics

オネシモと教会戒規

「パウロはオネシモがビクビクせず生きられるように、ピレモンから損害に対する赦しと奴隷からの開放が必要だった。」果たしてそうなのか?パウロはオネシモの罪に対して追求していたのだろうか?ピレモンはオネシモの罪に対しての扱いをどう理解していたのだろうか?罪を厳しく扱う視点から、この箇所は教会戒規と関係あるのか?教会戒規はどうあるべきなのか?

こんなことを考えてみた。

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みことばの扱いとCS(日曜学校)について

「みことばが語られ、朗読されるのは礼拝でしかない。それをサポートするのはCSの学びである。」

この言葉の背景には、聖職者(牧師)しかみことばを扱えない、という考えがある。神学校に行き、教団の教師試験に合格し、按手を受けた者のみがみことばを扱える。つまり、教会においては牧師だけがみことばを読んで解釈し、その解釈を教会員に教える事ができる。その教える場が礼拝の説教であり、CS(日曜学校)は説教を理解するために必要な基礎知識や、説教についての分かち合いをする場としている。

この考えに対して聖書はどう教えているのだろうか?

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Special Topics

テトスへの手紙の趣旨、教会と宣教、みことばを語れる人

テトス書は個人に宛てた手紙なので、宣教は教会全体へ委ねられたのではなく、個人に委ねられたのか?みことばは牧師として召されないと語れないのか?こんなことを考えてみた。

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Special Topics

十一献金について

「十一献金は当たり前」「十一献金は教会の基本である」このような言葉を教会で聞くことがある。献金袋の項目にも十一献金が第一に書かれていて、その項目だけに月が書かれている。要は、毎月必ず捧げるべきだと推奨されているからだ。多くの人はこれを深く考えずに十一献金に献金しているが、果たしてそれで良いのか?十一献金とは何なのか?何故当たり前だと思うのか?これは本当に聖書が新約の教会に命じていることなのか?こんなことをを考えてみた。

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Special Topics

教会戒規って何だろう?

「レビ人の祭司は裁く立場にあり、それは現代の警察・司法と一致する。また、教会においては神の前にも問われることがあり、これは教会戒規である。」果たして、教会戒規は裁きなのだろうか?教会戒規はどのように行うべきだろうか?戒規にかけられた人はどう扱うべきなのだろうか?こんなことを考えてみた。

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Christian Life Special Topics

交わりって何だろう?

最近「交わり」についてこのような定義を聞いたことがある。「交わりとは、神の民が神とつながりを持つこと。それは礼拝でしか実感し体験することができない。」果たして「交わり」は神とつながりを持つことだけなのか?実感し体験するのは礼拝でしかないのか?この定義は本当に聖書が言っていることなのか?こんなことを考えてみた。