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Church Jude

不敬虔な者たちと対処法

ユダ書は、ヤコブとイエスの兄弟であるユダが書いたとされています。彼は、当時のキリスト者に救いの喜びついて書こうと思っていましたが、「不敬虔な者たち」が教会の中に「忍び込んできた」ので、信仰の戦いについて書く必要がありました。(3節)

この人たちはどのように不敬虔だったのでしょうか?まず、神の恵みを放縦に変えたのです。放縦はこのように定義されています:「何の規律もなく勝手にしたいことをすること。」聖書において「規律」というのは神の主権を認め、イエス・キリストの支配を受け入れることだとすると、放縦というのはこれを否定することになります。(4節)不敬虔は人たちは神の主権とイエス・キリストの支配を否定していたのです。

不敬虔な者たちはどのような人たちでしょうか?

彼らは、エジプトでの奴隷生活から救い出されましたが、その後、神に背き、他の神々を拝むようになりました。カナン人が崇拝していた偶像もそうですが、自分たちが作ったルールや、自分たちの地位を神より上に置くようにもなりました。結果的に、イエス・キリストを拒絶したのです。言葉では信じると言っているがイエスを主としていない状態です。(5節)イエスはこのような人たちに対してこう言っています:「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」(マタイ7:21)。

彼らは、「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたち」のようです。(6節)この箇所は、ルシファー(サタン)が天で神の権威を受け入れず、天使の軍勢を引き連れて神に反抗したことを指しています。同じように、不敬虔な者たちはイエスの支配よりも自分たちが支配することに注力しています。また、自分たちに留まらず他人の行動を制限することによって支配を強めていきます。イエスの支配を無視して自分を神としているのです。

自分を神としていることから、「不自然な肉欲を追い求め」たり、(7節)妄想に走り、欲を満たすために肉体を汚し、イエスの権威を認めず、結果的に栄光ある神をののしっています。(8節)しかも、彼らは自分が行っていることが悪だと認識していません。動物の本能のように、自分を守ることに必死になっています。(10節)

恐ろしいことは、こういう人は教会の中にいて、愛餐を共にしているのです。本来なら教会は、互いを励まし合い、互いを立て上げることによって、みなキリストのようになっていく場所です。しかし、この人たちは「自分を養っているだけ」です。(12節)恵みの雨を降らすことはなく、実を結ぶことはなく、間違った教えで周りに悪影響を及ぼし、周りの人々を暗闇へと導いています。(13節)

彼らは、「ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。」(16節)教会内での不満、他教会の不満、世の中に対しての不満をならべつつ、自らが正しいと思ったことだけを行っています。自分が立て上げたものを肯定し、同じことをしない他教会を否定し、自分の考えに同意しない人たちを教会から追い出しています。

これにどう対処すべきでしょうか?

「主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。」(17節)嘲る(あざける)人たち、欲望のままに生きる人たち、分裂を引き起こす人たちが現れると、イエスと使徒たちは教えていました。なので、これは驚くべきことではないのです。

また、彼らは「御霊を持っていない」(19節)、とされていることから、彼らを信者として扱わないと言っています。こういう人たちに対しての最も有効な対処法はミカエルが示しています。ミカエルは、自分で不敬虔な者たちをののしるのではなく、「主がおまえをとがめてくださるように」と神に委ねました。(9節)信者とみなされていない人たちは神に委ねるしかありません。神が彼らを救うか、裁くかを判断します。「主は何万もの聖徒を引き連れて・・・すべての者にさばきを行い、不敬虔に生きる者たち・・・を罪に定める」。(14~15節)

「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」(20節)教会は信者の共同体ですが、一人ひとりがイエス・キリストの上に信仰を築き上げていることが前提です。教会で行事をこなすことが信仰を築き上げることではありません。教会ですべきことは、実のある分かち合いを通して互いを高め合うことです。その過程で、一人ひとりが祈りや聖書を読むことを推奨し、キリストの関係を強めるよう促すことが必要です。(コロサイ3:16)一人ひとりがキリストにある信仰の上に築き上げるのです。

「聖霊によって祈りなさい。」(20節)祈りは一定の言葉を並べて唱えることではありません。「主の祈り」は良い例ですが、毎回このことばのままに祈る必要はありません。また祈りは、教会で立派に聞こえるようにリハーサルされたものでもありません。聖霊によって促され、心から神と会話することが本当の祈りです。

「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(21節)本当の信者は信仰を最後まで保ちます。これを成してくれるのは神の愛とあわれみです。私たちが頑張ってしがみつく必要ななく、神は私たちの内に信仰を保ってくださいます。神に絶対の信頼を置き続けることにより、最後には永遠に神と共に過ごすことができるのです。

「ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。」(22節)まだ信仰がない人の質問をよく聞き、適格な答えを出せるように準備し、時間をかけて説明することを指しています。信仰が弱い人に対しても主にあって励まし、立て上げる言動が必要です。「今すぐ信じなさい」と命令したり、「信仰がないからダメなんだ」とけなすのとは逆の対応です。時には罪の状態(金銭的な困難や虐待など)から実質的に救い出すことも必要です。(23節)

イエス・キリストは「つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる」のです。(24節)イエスは私たちの信仰を最後まで守ってくださいます。つまずく、というのは信仰の道から外れることですが、イエスはつまずかないように守ってくださいます。不敬虔な者たちに惑わされることはありません。多くの傷を負っても、最後には傷が癒され、神の前に立つことができるのです。

だから私たちはイエス・キリストを通して神に栄光、威厳、支配、権威を神に返すのです。

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女性長老について

長老の定義

女性が長老になれるかの議論をする前に、まず「長老」という教会での役割を確認する必要がある。

  1. 長老は教会を治め、教える役割がある(1テモテ3:2,5:17)
  2. 長老は健全な教えをもって教会を励まし、反対する人を戒める役割がある(テトス1:9)

長老は教会の指導者であり、聖書から真理を見出し、それを教会の公式な見解として教会に教えていく責務がある。その真理が常に健全であるように、聖書と照らし合わせて必要に応じて理解を修正していく必要もある。この真理を教えるにあたって、教会を励ますことを第一に考えること。教会を縛るのではなく、聖書の真理として伝えたうえで、真理に従うよう励ましを通して促すことが重要。促すのであれば、長老自身が真理に立って生きていることを見せる必要がある。そして、長老は聖書の真理に反する異端的な教えや言動に対して反論し、真理に引き戻す役割がある。

ちなみに、「執事」は長老と違い、教えることも収めることも求められていない。そういう意味では、「女性は長老になれるか」、の議論は「女性は執事になれるか」、の議論と異なる。

女性は長老になれるか?

女性が長老になれるかについて、1テモテ2:11-14が言及している。

11 女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。13 アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。14 そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。”

テモテへの手紙第一 2: 11-14

1.神の創造の業とこの世のあるべき順序を表すのが、13節にある「アダムが初めに造られ、それからエバが造られた」ことである。つまり、アダム(男性)が先に造られたため、家族において、また教会において男性が支配すべきことを指している。「支配」と言うと聞こえは悪いが、聖書における「支配」は「サーバントリーダー」という言葉でまとめることができ、イエス・キリストが最も良い例の「支配者」である。教会を「支配」するのは長老なので、あるべき順序の観点から、男性でないと長老の役割を果たすことができないと言える。

2.14節によると「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯した」とある。これは、女性は男性より騙されやすいという意味ではない。サタンは、神の創造したあるべき順序を無視し、アダムではなくエバをまず誘惑した。あるべき順序を無視する結果として罪が生まれている。創造の順序を無視して女性が教会を収める長老となれば、神が定めた自然な形から逸脱することになり、罪に陥る可能性が高まるとも言える。

よって、長老の職務に置ける、教会を収め、教会に真理を教える立場は、神が示したあるべき姿にしたがって男性のみが担うべきだとこの箇所から読み取れる。

もちろん、これは女性が教会で教えることをすべて放棄すべきだということではない。例えば、テトス2:3によると、年配の女性は若い女性を教える役割がある。しかし、男性よりも上の立場において教えることは神の順序に反すると言える。この順序が問題であり、女性の能力は問題ではない。

参考資料
https://www.desiringgod.org/books/50-crucial-questions-about-manhood-and-womanhood

女性の視点

ある女性は様々なクリスチャンの集まりで登壇した経験があり、多くのクリスチャンを励ましてきている。この女性が教会で語るとき、次のことを検討したうえで登壇するかを決めている。

  1. 場所:教会の会衆か、教会でない参加者
  2. 内容:みことばの解き明かしか、励ますための証
  3. 権限:指示しているのか、共有しているのか。つまり、参加者に公式な見解を示しているのか?
  4. 関係:個人的か、客観的意見か。参加者と個人的な関係があるのか、指示しようとしているのか?
  5. 義務:公式か、非公式。参加者は公式な見解を求めているのか?
  6. 責任:義務があるか、任意か。参加者は語られたことに従う義務があるのか?
  7. 頻度:毎回か、時々か。毎回語る必要があるのか、時々語るだけで良いのか?
  8. 成熟度:姉妹か、母親か。参加者に対して、母親として語っているのか?

語る場面が左によるようであれば、女性として語るべきでない場面だと認識している。左側の場合、教会の指導者として教え、収める傾向が含まれているため、女性としては相応しくないとこの女性は主張している。

参考資料
https://www.desiringgod.org/articles/women-teaching-men-how-far-is-too-far
https://www.desiringgod.org/articles/men-and-women-in-the-deaconate-and-in-the-service-of-communion 

女性は説教・奨励をしても良いか?

女性が長老になれないかも知れないが、女性は教会で説教や奨励をすることはできるのだろうか?ある牧師によると、長老の許可を得ていれば女性は説教や奨励をすることができると主張している。彼の主張は次の通りである。

  1. 説教・奨励のすべては教えることではない。新約聖書には他の種類の語りがある。例えば、励まし、予言、福音を伝えること。女性がこのような語りをすることは禁じられていない。
  2. 「教える」ということは、新約聖書が書かれる前の時代において、イエス・キリストの証言の一貫性を保つ働きに特化していた。
  3. 1コリント14;26,コロサイ3:16によると、教会のすべての人が互いを教え、励ます必要があり、女性もこれに含まれている。

この牧師の教会では、長老でない人が説教・奨励をするとき、事前に原稿を長老に提出し、承認された後に語ることができる。なので、権限は長老にあり、語る人はその権限の元で奉仕している。男女問わず、このプロセスにのっとって説教・奨励をしている。

しかし、パウロは「女性が長老の職務についてはならない、」と言っているだけではない。長老の職務についてはならないし、その役割をも果たしてはならないと言っている。つまり、治める権限と教える役割の両方が認められない、ということである。

また、この教会では単発的な励ましや予言が語られているのではない。事前に原稿が提出され、承認されていることから、これはれっきとした説教・奨励、つまり教えであり、コロサイ3:16や1コリント14:26にある非公式な教えとは異なる。

「教える」ということは、キリストとみことばの教えを解き明かし、公式に伝えることを指す。(1コリント12:28-29、エペソ4:11、1テモテ2:7、2テモテ3:16、ヤコブ3:1)この権限は長老に与えられていて(1テモテ5:17)、教えることによって異端と反論する役割がある。(1テモテ1:3, 10、4:1, 6、6:3、2テモテ4:1、テトス1:9, 11)これは新約聖書が書かれる前の時代に特化したことではない。

参考資料
https://www.desiringgod.org/articles/why-not-to-have-a-woman-preach

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Christian Life Church Hebrews

指導者に倣う

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

へブル13:7~8

私たちはどのような指導者を敬い、従うべきなのだろうか?指導者が人間である限り、必ず何かしらの問題はある。しかし、聖書はそんな欠けのある指導者を「覚える」、もしくは「服従する」ように教えている。私たちはどのように指導者に従うべきだろうか?

神のことばをあなたがたに話した

まず7節でみられるのは、「神のことばをあなたがたに話した」とある。指導者は神のことばを語っているのだろうか?その言葉は実際に神のことばなのか、もしくは人間や組織が作り出したルールなのだろうか?「収入の10%を十一献金として捧げる」、「教会の音楽は聖歌のみ」、「公開説教でないと聖書を語っていない」などは、本当に神が教えていることなのだろうか?

答えは様々だが、それをしっかり吟味し、良いものを保つようにと聖書は教えている (1テサロニケ5:21)。私たちは指導者のことばをうのみにするのではなく、彼らの教えをしっかりと吟味し、どれが神のことばか、どれが人の教えなのかを見分けなければならない。

彼らの生き方から生まれたものをよく見て

次に、指導者の生き方から生まれたものを見ることだ。彼らの生き方は何を生み出しているだろうか?家庭はどのような状況だろうか?子供が、親が牧会している教会にとどまりたいと思っているだろうか?家庭環境が荒れていたり、子供が親の教会に行きたがらない状態があるなら、その指導者の教えや指示に注意を払う必要がある。

教会の実態も指導者の良し悪しを映し出す。教会は礼拝だけに真剣で、学びや宣教をおろそかにしていないだろうか?学びは聖書が中心なのか、教本が中心なのか?年々新しい人が教会に加わっているのか?教会を去った人はどのような理由で去ったのか?ルールやしきたりに執着せず、教会が成熟を目指すように指導しているのか?

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

へブル6:1~2

その信仰に倣いなさい

もし指導者が神のことばを語り、彼の生き方から生まれたものが良いものであれば、その信仰に倣うことができる。この「倣う」ということばは、「真似する」という意味もある。つまり、その指導者と同じことを信じ(神のことばだから)、同じ生き方をすること(良いものが生まれているから)を進めている。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

へブル6:11~12

キリストが与える希望について確信を持ち続けることと、熱心に神を求めることが記されている。これは礼拝を熱心に捧げることはもちろんだが、成長するのには「固い食物」を取り入れることも必要。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

へブル5:13~14

成熟したクリスチャンは、善を悪を見分けることができる。指導者に頼る必要はなく、自分で聖書を読んで何が正しいかを判断することができる。もちろん、自分だけで判断していたら間違った方向に行く可能性もあるので他のクリスチャンとの交わりを通して、経験と訓練を積む必要もある。その交わりは、間違いを指摘しあうことではなく、愛を持って互いを成長に導き、キリストの体と経て上げるためのものである。

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

エペソ4:14~16

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません

指導者が人である限り必ず欠けはある。しかし、神であるイエス・キリストという指導者には欠けが全くない。地上の指導者が神のことばを語らなければ、イエスのことばを読むことができる。地上の指導者の生き方から生まれたものが良いものでなければ、イエスの生き方を見ることができる。そして、指導者の信仰が足りない場合はイエスの信仰から倣うことができる。

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本当に礼拝で求められていること

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

ヘブル人への手紙 9章 9〜10節

旧約の礼拝方法を新約の教会の礼拝に取り入れようとしている教会があるが、これは外面的な「からだに関する規定にすぎない。」いくら礼拝の式典を完璧にしても、オルガンがプロフェッショナルでも、司会と説教がアナウンサーなみに完璧でも、外面的に限られたことであって、「礼拝する人の良心を完全にすることができない。」

「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られた」。私達は完璧な礼拝が出来ないが、キリストはすでにこれを成してくださった。キリストの恵みによって、私達の欠けは全て赦されている。

今私達に求められていることは、希望を告白し続けること(伝導、10:23)、愛と善行を促すこと(裁くことではない、10:24)、集まって励まし合うこと(10:25)。

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Church Malachi Worship

マラキ1:6-14

祭司は神殿の捧げものを軽視し、それによって神の名を軽視していた (8節)。祭司たちは盗んだ動物、病気で歩けない動物などを捧げていた。主はこれをい受け入れない (13節)。しかも「損傷のあるものを主に捧げるような、ずるい者はのろわれる」(14節) とある。軽率な礼拝という呪いを放っておくべきではない。

軽率な礼拝が行われる理由

軽率な礼拝は何故行われるのか?神の偉大さを理解できていないから。

神の「わたしはあなたがたを愛している」という言葉に対して人々は軽率に「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と返した (2節)。それに対して神は暖かい愛で答えるよりも、エサウを憎み、ヤコブを愛したことを示した。それはつまり、エサウよりもヤコブを選ぶことによってご自身を主権を示していることになる。愛よりも主権を重視したメッセージである。

また、神は父としての威厳を示している (6節)。子を愛する父を示すこともできた。しかし、愛することではなく、父を敬うことを訴えている。軽率な礼拝によって神を威厳ある父親として見ていないことが問題視されている。

神が捧げ物を受けない理由は、神の名が崇められなければならないから (10-11節)。傷のあるものを主に捧げる者はのろわれる理由は、神は大いなる王だから (13-14節)。軽率な礼拝が許されないのは、神の偉大さを無視する行為になるから。

この軽率な礼拝が行われる理由は、神に対して怠惰になり (13節)、世の中のことに強い興味を持つようになるから。神の偉大さを理解することができなければ、金銭で手に入れられるモノの方が興味を引いてしまう。まさに、天国に宝を置いていなければ、地上に置いてしまう状態になる。

軽率な礼拝の形

軽率な礼拝はどのような形をとるのか?意味のない宗教的行動と考えられる。もしくは、神を小さくしてしまう宗教的行動とも言える。「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火ををもせないようにする人が、一人でもいるであろうか」(10節)。

この「いたずらに」という言葉はヘブライ語で「ヒンナム」で、ダビデが2サムエル24:24で使ったことばと同じ。ダビデは神に捧げものをするためにアラウナから土地を献上されたところ、ダビデはその土地の代価を支払うと言い張った。「費用もかけずに(ヒンナム)、私の神、主に全焼のささげ物を捧げたくない。」

神を尊び、神の主権と父としての威厳によって私の魂が満ち足りている。なので、礼拝するとき神よりも金銭を愛するように見せたくない。私は何かを支払い、この世ではなく神が私の宝であることを証明したい。

軽率ではない礼拝

軽率ではない礼拝はどのような形をとるのか?まず礼拝の真の目的を定義する必要がある。

  • 神の価値と偉大さを表すこと
  • 神の価値と美しさの霊的な感覚を会衆の内に維持させること

また別の角度で考えると礼拝は

  • 人の財産や称賛よりも神を宝としている心からくる
  • 神中心の心を会衆に植え付ける

では、優れた礼拝とはどのような形をとるのか?

  • プロ意識を持つことではない。完璧な礼拝式典を求め、完璧な口調で聖書朗読や説教をし、一日欠かさず礼拝に出席することではない。いくら完璧にこなしても、神に向ける熱心な心を育むことはない。
  • 感情任せではない。感情ばかりに任せると思考停止に陥る。感情を動かすテクニックを通して人々を熱狂させることはできる。しかし、神中心の礼拝と聖書全体を通した教えをおろそかにしてしまう。
  • 霊的に満足した状態ではない。神に対する霊的な感情あるかもしれない。しかし、満足しきっているため神中心に向ける熱心さが欠ける。熱心さが欠けると礼拝奉仕におけるほころびが出てくる。また、礼拝体験は個人的なものとされ、会衆の霊的な流れを無視するようになる。「自分が満足に礼拝できていれば良い。」「他の人は自分の立派な礼拝の姿勢を見ていれば学べる。」新来会者の対応や子供への礼拝教育はおろそかになる。
  • 霊的に忠実でいること。神の偉大さを体験し、熱心さをもって神を求める。満足に陥らず、完璧主義にならず、自分の立派さに焦点を当てず、熱心さを会衆と分かち合う。これが軽率でない礼拝につながる。
このブログはジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-curse-of-careless-worship
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Church Malachi

マラキ 3:7-12

7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。

十分の一を捧げないのは神のものを盗むこと (8節)。そして十分の一を宝物庫に携えるよう命令している (10節)。しかし、パウロは献金について教会に教える時、十分の一の命令について語らず、逆に喜んで捧げることを強調した。一見矛盾しているようなこの2つの教えは、新約のクリスチャンにどう適用すればよいのだろうか?

確かに、イエスはパリサイ人に「正義と神への愛をおろそかにしている」と指摘した上で「十分の一もおろそかにしてはいけない」とも言っている。しかし、これはイエスの十字架の前の出来事であり、パリサイ人に律法を守るように指示するのは当然のこと。キリストの十字架の後に生まれたクリスチャンにはモーセ律法は適用せず、クリスチャンはキリストの律法のもとで生きるとされている (ローマ6:14–15; 7:5–6; ガラテヤ3:15–4:7; 2コリント3:4–18)。 

パウロも、それぞれが収入に応じて捧げることを教えていた (16:2)。これは十分の一を教えていたかのように思えるが、パウロのポイントはそこではない。パウロは、聖職者をサポートすることを促している (ガラテヤ6:6, 1テモテ5:18, 1コリント9:7)。貧しい人を助けるように促している (使徒 2:43–47; 4:32–37; 11:27–30; ガラテヤ. 2:10; 1コリント16:1–4; 2コリント8:1–9:15)。そして何より、「苦しみによる激しい試練の中であってもあふれ出て、惜しみなく施す」 (2コリント8:2) ことを勧めている。「十分の一を守っている」ことが合格点なのではなく、惜しみなく与えることが目指すべきところ。

これを踏まえて、マラキに記されている戒めに対して2つの対処法が考えられる。

一つ目は、モーセ律法のもとにいないキリスト者として、さらなる聖なる高みを目指すためにマラキの戒めを横に置く。10%捧げたから残りの90%を使ってこの世の欲を求めても良い、と考えるのであれば、その戒め自体を横において、全てを捧げられる心を与えられるよう祈る必要がある。逆に、10%さえも捧げなくても良いと捉え、さらに金銭を愛するようになってしまうのであれば、10%のルールをセットして自制する必要があるかもしれない。

二つ目は、マラキの戒めによる捧げものの制限を横において、捧げられる自由を求める。もし10%を捧げなくても良いこと自体に喜びを得るのであれば、戒めを横に置く正当な理由にはならない。パウロはこの戒めを横においたのは、私たちを金銭の愛から開放するため。また、私たちがさらに自由に捧げることができるため。なので、10%の戒めを守らなくても良いが、私たちはそれだけ多く、自由に捧げることができることを自覚しなければならない。

十分の一であれ、自由に捧げる形であれ、神はそれを祝福すると語っている。十分の一を捧げていない人に対して「ルールを守っていない」と断言したり、一人ひとりの捧げ額を細かく管理し、それを評価する仕組みを取っているわけでもない。神は民に捧げるように訴えている。そして神がどのように祝福するかを試すように訴えている。

10 ──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。
このブログの内容はジョン・パイパーが提供している記事と、The Gospel Coalitionが提供している記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-will-be-a-land-of-delight
https://www.thegospelcoalition.org/article/7-reasons-christians-not-required-to-tithe/
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Church Titus

テトス1:1~9

'神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。―― ' テトスへの手紙 1:1-3

「神に選ばれた人々」「永遠の昔にこの命を約束してくださった」ここに「神の選び」の証拠が明らかにされている。神はこの世が始まる前からキリスト者を選び、救われることを定めてくださった。最終的に人が神を選ぶのではなく、最初から神が人を選んでいる。それだけキリスト者は特別な存在で、信仰を持つことができた事実に大いに感謝するべき。

「信心に一致する真理の認識に導く」「宣教を通して御言葉を明らかにされました」「宣教をゆだねられ」キリスト者は選ばれたからこそ、それと伝えていく義務がある。「宣教を通して」知ることができて、同じ「宣教」をゆだねられている。キリストを伝えていくことこそが「信仰に一致する真理」。キリスト者だけで仲良く日曜日に礼拝するために救われたのではない。イエスを宣べ伝えるために救われたのである。

'教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。 ' テトスへの手紙 1:9

ここではパウロは長老についての要件について書いている。そのうちの一つとして、「教えをしっかり守る」ことと、「勧め」「敗退者の主張を論破」しなければならない。「これまで守ってきたことだから」と教えを押し付けることは「勧め」ではないし、教会員を洗脳するのと同じこと。また「伝統」に基づく議論は「論破」にはつながらない。みことばだけが真理を語り、人の考えを変えることができる。1~3節にあるような、聖書に基づく証拠を良く理解し、提示することができなければ長老は勤まらない。

'未熟な者は何事も信じこむ。 熟慮ある人は行く道を見分けようとする・・・ 浅はかな者は無知を嗣業とし 熟慮ある人は知識をその冠とする。 ' 箴言 14:15,18

1テサロニケ5:21にあるように、うのみにせず、聖書をしっかりと確認し、聖霊に理解を求め、考えて結論を出したのちに、その真理の上に立って守ることが「熟慮ある人」。このような行動をする人が長老として務めるのに相応しい。

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Church Timothy

2テモテ2:1~13

そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。 テモテへの手紙二 2:1‭-‬2 新共同訳

パウロはテモテに、福音を伝える仕事を「教えることのできる忠実な人たちにゆだねる」ように指示している。牧師としてすべて背負い込まず、教会員も責任を担えるようにトレーニングすることを勧めた。大事なポイントは「教えることのできる」「(福音に)忠実な」人たち。このレベルに達していない人は長老(役員)の職につくべきなのか?この箇所の「できる」はギリシャ語で「hikanos=十分に能力がある、価値ある、適している、素質がある」という意味がある。リーダーになる人はただ物事を知識として知っていて、それを説明することのできる人を指しているのではない。教えるのに十分な能力があり、リーダーとしての素質があり、教会のビジョンと方向性を示すのに適している人でなければならない。

長老(役員)の資格は1テモテ3:1~7に記されている。このリストに当てはまらない人は長老(役員)候補のリストにも乗るべきではない。「礼拝に出席している」「献金している」はこのリストに乗っていないのも興味深い。要は、礼拝することと献金することは当たり前で、それ以上の資格が長老(役員)には求められている。ただ人数を満たすための役員会は必要なく、本当に資格のある人を長老(役員)候補として選出し、神の召しを自覚しているか当人と確認し、教会全体で確認することが、福音のために働ける長老(役員)を立てることになる。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

テモテへの手紙第一 3章 1〜7節
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Sabbath on Sunday?

Old Testament Sabbath Command

Remember the sabbath day, to keep it holy. Six days you shall labor, and do all your work; but the seventh day is a sabbath to the Lord God; in it you shall not do any work, you, or your son, or your daughter, your manservant, or your maidservant, or your cattle, or the sojourner who is within your gates; for in six days the Lord made heaven and earth, the sea, and all that is in them, and rested the seventh day; therefore the Lord blessed the sabbath day and hallowed it.

Exodus 20:8-11

God’s Rest After Creation

And on the seventh day God finished his work which he had done, and he rested on the seventh day from all his work which he had done. So God blessed the seventh day and hallowed it, because on it God rested from all his work which he had done in creation.

Genesis 2:2-3

God as the Source of Salvation

You shall remember that you were a servant in the land of Egypt, and the Lord your God brought you out thence with a mighty hand and an outstreched arm; therefore the Lord your God commanded you to keep the sabbath day.

Deuteronomy 5:15

Sabbath as a Sign

And the Lord said to Moses, “Say to the people of Israel, You shall keep my sabbaths, for this is a sign between me and you throughout your generations, that you may know that I, the Lord, sanctify you.”

Exodus 31:12-13

Delight in the Lord on Sabbath

If you turn back your foot from the sabbath, from doing your pleasure on my holy day, and call the sabbath a delight and the holy day of the Lord honorable; if you honor it, not going your own ways, or seeking your own pleasure, or talking idly; then you shall take delight in the Lord, and I will make you ride upon the heights of the earth.

Isaiah 58:13-14

Jesus’ View of the Sabbath

At that time Jesus went through the grain fields on the sabbath; his disciples were hungry, and they began to pluck ears of grain and to eat. But when the Pharisees saw it, they said to him, “Look, your disciples are doing what is not lawful to do on the sabbath.” He said to them, “Have you not read what David did, when he was hungry and those who were with him: how he entered the house of God and ate the bread of the Presence, which it was not lawful for him to eat nor for those who were with him, but only for the priests? Or have you not read in the law how on the sabbath the priests in the temple profane the sabbath, and are guiltless? I tell you, something greater than the temple is here. And if you had known what this means, ‘I desire mercy and not sacrifice,’ you would not have condemned the guiltless. For the Son of man is lord of the sabbath.”

Matthew 12

The sabbath was made for man, not man for the sabbath

Mark 2:27

The Practice of the Early Church

On the first day of the week, when we were gathered together to break bread, Paul talked with them, intending to depart on the morrow; and he prolonged his speech until midnight.

Acts 20:7

On the first day of every week, each of you is to put something aside and store it up, as he may prosper, so that contributions need not be made when I come.

1 Corinthians 16:2

Resurrection and Sabbath

  • Lord of the Sabbath rose from the dead on the first day of the week (John 20:1)
  • First creation was finished on the seventh day of the week
  • New creation in Christ (2 Corinthians 5:17, Galatians 6:15, Ephesians 2:10) was finished on the first day of the week.

Therefore, if anyone is in Christ, the new creation has come:[a] The old has gone, the new is here!

2 Corinthians 5:17

Neither circumcision nor uncircumcision means anything; what counts is the new creation.

Galatians 6:15

For we are God’s handiwork, created in Christ Jesus to do good works, which God prepared in advance for us to do.

Ephesians 2:10

Sabbath on Saturday?

  • Seventh-day Adventists worship on Saturday but have other beliefs are not in line with Reformed doctrine (eg. Humans not possessing immortal soul; permanent destruction rather than torment in hell; controversy between Jesus and Satan; emphasis on the remnant who keep Old Testament commandments).
  • Some Baptist churches have added Saturday evening services for various reasons, mainly to attract a group of people who cannot or do not come to worship on Sunday morning, but might be able or willing to come on Saturday evening (eg. work schedules, travel schedules, health problems, afraid of stereotyped Sunday morning church).
  • Ignatius wrote in the early 100’s A.D., describing Christians with a Jewish background as those who “have come to the possession of a new hope, no longer observing the Sabbath, but living in observance of the Lord’s Day, on which also our life has sprung up again by Him and by His death” (Magnesians 9 )

One man judges one day above another, while another man judges all days alike. Let every one be fully convinced in his own mind.

Romans 14:5

16 Therefore do not let anyone judge you by what you eat or drink, or with regard to a religious festival, a New Moon celebration or a Sabbath day. 17 These are a shadow of the things that were to come; the reality, however, is found in Christ.

Colossians 2:16-17

But now that you know God—or rather are known by God—how is it that you are turning back to those weak and miserable forces[a]? Do you wish to be enslaved by them all over again? 10 You are observing special days and months and seasons and years!

Galatians 4:9-10

Final Sabbath Rest

So then, there remains a Sabbath rest for the people of God, 10 for whoever has entered God’s rest has also rested from his works as God did from his. Let us therefore strive to enter that rest.

Hebrews 4:9-11

I was in the Spirit on the Lord’s day.

Revelation 1:10

  • The Lord’s Day = τῇ κυριακῇ ἡμέρᾳ, “ta kuriaka hamera”
  • Formal designation of the church’s worship day.