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マラキ3:1, 3

ハガイでは神殿の未来の栄光の素晴らしさを示すことによって神殿の再建を励ました。ゼカリヤでは新たな泉が開かれ、それによって民が悔い改め、多くの国民が神にひれ伏すことが記されていた。そしてマラキで人々は、これらの約束が成就されるのを待っていた。そんな中、神に対して「満足しきって」いて怠惰になってしまっていたので、物足りなさからこの世の快楽を求めた。マラキの預言は、約400年後に使わされる救世主によって、この世を求めている人々を清める希望を記している。

3:1「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。―万軍の主は言われる。」

3人の人が来ることが記されている。最初の人は「道を備える」者で、「エリヤ」と呼ばれている (マラキ4:5-6)。バプテスマのヨハネが「エリヤ」だとイエスご自身が確認している (ルカ1:16-17, マタイ17:12, ヨハネ3:28)。そしてイエス・キリストが「神殿に来る」者で、ご自身を捧げることによって罪の代価を支払う。3人目に関しては、「主」と「契約の使者」は別人だと思えるかも知れないが、イエスは神である (ヨハネ1:1, 14) ことから、「主」と呼ばれてもおかしくない。

3:3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。

キリストが来ることによって清めのプロセスが開始するのだが、まず清められるのはレビの子ら。最終的に神は全ての人々を清めるのだが、清めはまず祭司たちから始まらなければならない。彼らが汚れていれば民も汚れる。彼らが清められれば民も神に立ち返る。また、新約聖書でキリスト者は「聖なる祭司」(1ペテロ2:5)、「王である祭司」(1ペテロ2:9) とされていて、キリスト者は皆レビの子と言える。キリストに始まった清めは「聖なる祭司」を通して全ての人に広がっていく。

この清めのプロセスによって全ての罪から清められるのだが、マラキでは2つの例が挙げられている。一つは離婚について (2:14-16)。夫婦関係を保つために努力し、共に神に向かっていくことを励まし合うことが、離婚を回避するための秘訣。イエスはこれを助けるためにこの世に来られた。そしてもう一つは金銭と持ち物を愛することについて (3:8-10)。神を愛することと神に仕えることを忘れると、神を金銭と持ち物に置き換え、それらを拝んでしまう。神を第一にすることによって、金銭や持ち物を捧げることに抵抗は無くなる。10%などとルールを設けなくても、心からあふれるほどの捧げものをすることができる。

マラキで預言されていたイエス・キリストがこの世に来られ、神の栄光のために生きる祭司の民を清めた。これがクリスマスの本当の目的。神の栄光と偉大さに目を向け、神を何よりも愛するようになれば、本当の自由を得ることができる。金銭の愛から自由にされ、姦淫の罪から開放される。自由に喜んで神を礼拝し、善と愛を発見する喜びを体験する。自分が衰えキリストが盛んになる。神の栄光が永遠に讃えられるようになる。

このブログはジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-shall-go-forth-leaping-like-calves

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マラキ1:6-14

祭司は神殿の捧げものを軽視し、それによって神の名を軽視していた (8節)。祭司たちは盗んだ動物、病気で歩けない動物などを捧げていた。主はこれをい受け入れない (13節)。しかも「損傷のあるものを主に捧げるような、ずるい者はのろわれる」(14節) とある。軽率な礼拝という呪いを放っておくべきではない。

軽率な礼拝が行われる理由

軽率な礼拝は何故行われるのか?神の偉大さを理解できていないから。

神の「わたしはあなたがたを愛している」という言葉に対して人々は軽率に「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と返した (2節)。それに対して神は暖かい愛で答えるよりも、エサウを憎み、ヤコブを愛したことを示した。それはつまり、エサウよりもヤコブを選ぶことによってご自身を主権を示していることになる。愛よりも主権を重視したメッセージである。

また、神は父としての威厳を示している (6節)。子を愛する父を示すこともできた。しかし、愛することではなく、父を敬うことを訴えている。軽率な礼拝によって神を威厳ある父親として見ていないことが問題視されている。

神が捧げ物を受けない理由は、神の名が崇められなければならないから (10-11節)。傷のあるものを主に捧げる者はのろわれる理由は、神は大いなる王だから (13-14節)。軽率な礼拝が許されないのは、神の偉大さを無視する行為になるから。

この軽率な礼拝が行われる理由は、神に対して怠惰になり (13節)、世の中のことに強い興味を持つようになるから。神の偉大さを理解することができなければ、金銭で手に入れられるモノの方が興味を引いてしまう。まさに、天国に宝を置いていなければ、地上に置いてしまう状態になる。

軽率な礼拝の形

軽率な礼拝はどのような形をとるのか?意味のない宗教的行動と考えられる。もしくは、神を小さくしてしまう宗教的行動とも言える。「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火ををもせないようにする人が、一人でもいるであろうか」(10節)。

この「いたずらに」という言葉はヘブライ語で「ヒンナム」で、ダビデが2サムエル24:24で使ったことばと同じ。ダビデは神に捧げものをするためにアラウナから土地を献上されたところ、ダビデはその土地の代価を支払うと言い張った。「費用もかけずに(ヒンナム)、私の神、主に全焼のささげ物を捧げたくない。」

神を尊び、神の主権と父としての威厳によって私の魂が満ち足りている。なので、礼拝するとき神よりも金銭を愛するように見せたくない。私は何かを支払い、この世ではなく神が私の宝であることを証明したい。

軽率ではない礼拝

軽率ではない礼拝はどのような形をとるのか?まず礼拝の真の目的を定義する必要がある。

  • 神の価値と偉大さを表すこと
  • 神の価値と美しさの霊的な感覚を会衆の内に維持させること

また別の角度で考えると礼拝は

  • 人の財産や称賛よりも神を宝としている心からくる
  • 神中心の心を会衆に植え付ける

では、優れた礼拝とはどのような形をとるのか?

  • プロ意識を持つことではない。完璧な礼拝式典を求め、完璧な口調で聖書朗読や説教をし、一日欠かさず礼拝に出席することではない。いくら完璧にこなしても、神に向ける熱心な心を育むことはない。
  • 感情任せではない。感情ばかりに任せると思考停止に陥る。感情を動かすテクニックを通して人々を熱狂させることはできる。しかし、神中心の礼拝と聖書全体を通した教えをおろそかにしてしまう。
  • 霊的に満足した状態ではない。神に対する霊的な感情あるかもしれない。しかし、満足しきっているため神中心に向ける熱心さが欠ける。熱心さが欠けると礼拝奉仕におけるほころびが出てくる。また、礼拝体験は個人的なものとされ、会衆の霊的な流れを無視するようになる。「自分が満足に礼拝できていれば良い。」「他の人は自分の立派な礼拝の姿勢を見ていれば学べる。」新来会者の対応や子供への礼拝教育はおろそかになる。
  • 霊的に忠実でいること。神の偉大さを体験し、熱心さをもって神を求める。満足に陥らず、完璧主義にならず、自分の立派さに焦点を当てず、熱心さを会衆と分かち合う。これが軽率でない礼拝につながる。
このブログはジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-curse-of-careless-worship
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マラキ 3:7-12

7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。

十分の一を捧げないのは神のものを盗むこと (8節)。そして十分の一を宝物庫に携えるよう命令している (10節)。しかし、パウロは献金について教会に教える時、十分の一の命令について語らず、逆に喜んで捧げることを強調した。一見矛盾しているようなこの2つの教えは、新約のクリスチャンにどう適用すればよいのだろうか?

確かに、イエスはパリサイ人に「正義と神への愛をおろそかにしている」と指摘した上で「十分の一もおろそかにしてはいけない」とも言っている。しかし、これはイエスの十字架の前の出来事であり、パリサイ人に律法を守るように指示するのは当然のこと。キリストの十字架の後に生まれたクリスチャンにはモーセ律法は適用せず、クリスチャンはキリストの律法のもとで生きるとされている (ローマ6:14–15; 7:5–6; ガラテヤ3:15–4:7; 2コリント3:4–18)。 

パウロも、それぞれが収入に応じて捧げることを教えていた (16:2)。これは十分の一を教えていたかのように思えるが、パウロのポイントはそこではない。パウロは、聖職者をサポートすることを促している (ガラテヤ6:6, 1テモテ5:18, 1コリント9:7)。貧しい人を助けるように促している (使徒 2:43–47; 4:32–37; 11:27–30; ガラテヤ. 2:10; 1コリント16:1–4; 2コリント8:1–9:15)。そして何より、「苦しみによる激しい試練の中であってもあふれ出て、惜しみなく施す」 (2コリント8:2) ことを勧めている。「十分の一を守っている」ことが合格点なのではなく、惜しみなく与えることが目指すべきところ。

これを踏まえて、マラキに記されている戒めに対して2つの対処法が考えられる。

一つ目は、モーセ律法のもとにいないキリスト者として、さらなる聖なる高みを目指すためにマラキの戒めを横に置く。10%捧げたから残りの90%を使ってこの世の欲を求めても良い、と考えるのであれば、その戒め自体を横において、全てを捧げられる心を与えられるよう祈る必要がある。逆に、10%さえも捧げなくても良いと捉え、さらに金銭を愛するようになってしまうのであれば、10%のルールをセットして自制する必要があるかもしれない。

二つ目は、マラキの戒めによる捧げものの制限を横において、捧げられる自由を求める。もし10%を捧げなくても良いこと自体に喜びを得るのであれば、戒めを横に置く正当な理由にはならない。パウロはこの戒めを横においたのは、私たちを金銭の愛から開放するため。また、私たちがさらに自由に捧げることができるため。なので、10%の戒めを守らなくても良いが、私たちはそれだけ多く、自由に捧げることができることを自覚しなければならない。

十分の一であれ、自由に捧げる形であれ、神はそれを祝福すると語っている。十分の一を捧げていない人に対して「ルールを守っていない」と断言したり、一人ひとりの捧げ額を細かく管理し、それを評価する仕組みを取っているわけでもない。神は民に捧げるように訴えている。そして神がどのように祝福するかを試すように訴えている。

10 ──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。
このブログの内容はジョン・パイパーが提供している記事と、The Gospel Coalitionが提供している記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-will-be-a-land-of-delight
https://www.thegospelcoalition.org/article/7-reasons-christians-not-required-to-tithe/