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きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛

3 私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、
4 果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。
5 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。
4 ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、
5 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。

テモテへの手紙第一 1章 3〜7節

テモテはパウロからミッションを与えられていた。それは、「間違った教え」や「作り話と系図に心を寄せ」る人たちにやめるよう命じることだった。「間違った教え」とは、モーセ律法の間違った解釈。「作り話と系図」は旧約聖書の登場人物を神話のようにしてものや、聖書の一部とされていないユダヤ人が書いた書物、またギリシャ神話から出てきているものと考えられる。

今日でも聖書に基づかない、人から人に伝え続けられている教えは多くある。偉い牧師に教えられたかもしれないが、聖書の教えと一致するのか?教会形成の中で培ったルールは多くあるが、それらは恵みと愛の元で実施されているのか?パウロは間違った教えを正す中で聖霊に導かれてたどりついた一言が、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(2テモテ3:16)。聖書をベースとした議論だけが「信仰の務めを実施させる」ことができる。

テモテに与えられたこのミッションの目的は「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」。愛が目的となっていて、それを可能にするのがきよい心、健全な良心、偽りのない信仰。きよい心を与えるのはイエス・キリストの十字架と日々聖化を成して下さる聖霊。健全な良心は、聖書や祈りを通して罪を日々の生活から押し出す戦いをすること、また悔い改めを通してキリストから恵を得ること。偽りのない信仰は、最後まで「勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを終え、信仰を守り通」すこと (2テモテ4:7)。

この三つをこなすだけでも大変なミッションだが、これらから「愛」が生まれることが求められている。「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」がそろっている人がいるかもしれないが、それを義として他人に強いるのは愛ではない。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」(ローマ14:1)。この箇所は、偶像に捧げた食事を食べるべきか、また安息日を聖なる日とすべきかを議論している人たちに向けられた言葉。私たちは誰も主人ではなく、相手を裁くことはできない。これは教会のリーダーであっても同じこと。「私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをする」(ローマ14:12)。私たちのすべきことは、互いを愛し、互いを立て上げること。「ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」(ローマ14:19)。

残念ながら、この目的を見失っている人たちがいた。「律法の教師」なのに「むなしい議論に迷い込み」、「確信をもって主張している事柄についても理解して」いなかった。教会の「牧師」「教師」「役員」「長老」はみな、この危険性と実態を心得る必要がある。聖書を基準としない議論はむなしくなる。草刈りや掃除を誰がやるのか、という議論は教会のビジョンより重要なのか?「幻(ビジョン)がなければ、民は好き勝手にふるまう」(箴言29:18)。礼拝式典の中での人の立ち位置は、困った人々を助ける議論より重要なのか?「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです」(ヤコブ1:27)。

そして、おそらく最もリーダーたちが注意すべきポイントは、「確信をもって主張している事柄について」正しく理解する必要があること。ある神学論、牧師の教え、教団のルール、教理問答の内容について一定の理解をすることは可能だが、これらは本当に聖書に基づいているのだろうか?聖書のどこを読んで解釈すればこのような結論に至るのだろうか?ある人に、「何を根拠にこれを言っているのか」と問いたところ、「信仰問答にそう書いてあったから」「牧師がそういったから」と答えた人は多くいる。聖書は神の言葉だから、本当に確信を持てるのは聖書の教えだけ。

私たちには聖書が与えられているので、リーダー・信徒問わず聖書を読み、聖霊に導かれて理解を得て、生き方に当てはめていくことができる。「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」を育み、「愛」が生まれることを常に確認したい。

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Gospel Timothy

2テモテ4

'御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 ' テモテへの手紙二 4:2-8

何をすべきか

みことばを宣べ伝える。パウロはまずこれをテモテに対して進める。イエスの大宣教命令があるので当然のことだろう。これは福音を伝えるのはもちろんだが、聖書全体がみことばなので、聖書全体を宣べ伝えることでもある。「とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教える」みことばを語ることによって心が痛むことがあるかも知れない。すべてが励ましではない。それでもみことばを語ることを辞めず、忍耐強く、理解し受け入れるまで語り続けることが重要。

取り巻く環境

「折が良くても悪くても」みことばを伝えることの逆風があるのもまた当然のことである。国の政策だったり、職場のルールであったり、または宗教的リーダーの思惑によって、みことばを学んだり語ることを止める動きは多くある。「健全な教えを聞こうとしない時」はまさに今ある。これまでの伝統を守ることを重視しすぎるがため、聖書の教えを無視することが起きている。「好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」多くの人が同じ方向を向いていると、人は同じ方向を向こうと必死になる。「守ってきた」ことが大事であるがゆえに、同じ考えを持つ人と組んで、違う考えを持つ人を締め出す。このような環境下でみことばを語らなければならない。

どのように進めていくか

「どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」「身を慎む」=nepho=心に余裕を持つ、明確な判断力、節制、自制。どんなに環境が悪くても、聖書に思いを巡らして、しっかりとみことばの上に立つようにする。宗教的リーダーが間違ったことを教えても、聖書から正すことができるように準備しておく。仲間がいないことから苦しむかもしれないがそれを耐え忍び、福音宣教の仕事に励む。福音宣教はキリスト者全員の仕事であり、牧師や宣教師や伝道師だけがやっていれば良いことではない。福音宣教はキリスト者の勤めなので、それを果たさなければならない。

結果

この世においてマイナス面の結果はある。「いけにえとして献げられ」「世を去る時が近づきました」パウロにとっては国家によって福音のために処刑される次期が近づいていた。全く同じではないが、これまで「仲間」だと思っていた人たちから切り離され、排除されることはある。正しいことをすれば迫害は受ける (2テモテ3:12)。しかし、良い面としては「正しい審判者である主」から「義の栄冠を受ける」。神は必ず正しい判決を下し、報いと罰を正しく与える。報いの一つである「義の栄冠」とは何か?

報酬は、神の霊によってパウロにもたらされた義が評価されたもので、冠は義人のために用意されていますが、それは義からなる冠です。義はそれ自身が報酬となります(黙示録 22:11)。出エジプト記39:30と比較してください。人は、キリストの功績によって無償で義とされ、そのように義とされたとき、神はその人の行いを受け入れ、その人に与えられるべきものではなく、恵みによって与えられる報酬をもって、その人を讃えるのです。「神の人間に対する善意は非常に大きいので、人間の行いは神自身の贈り物にすぎないが、功徳となることを望んでおられる」[教皇セレスティヌス1世『書簡集』12]。

Jamieson-Fausset-Brown Bible Commentary
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2テモテ3:10~17

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。 テモテへの手紙二 3:12‭-‬14 新共同訳

「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていく」間違えや失言を認めず、謝罪を求めていても公の場では「言った覚えがない」「そう言ったつもりはない」と自分を守る行動にでる。こうやって、惑わす行為を続けていき、信用を失っていく。同時に、神の道に正しく生きようとする人、そしてそれを伝えようとする人を締め出し、影響力を留める行動に出る。まさに「信心深く生きようとする人は皆、迫害を受ける。」しかし、聖書や多くの神学者から「学んで確信したことから離れる」必要はない。いかに「教会」という組織が一つの教えに注力したとしても、それが間違っていると聖書から確信しているなら、それを曲げる必要はないし、むしろ正しい方向に向かうように指摘していきたい。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 テモテへの手紙二 3:15‭-‬17 新共同訳

聖書には絶対の自信をもつことができる。聖書は信仰問答や人の書いた本より優れているし、「救いに導く知識」を与えるのも聖書しかない。聖書に従う人は「神に仕える人」であり、本当の「善い業を行うことができるように、十分に整えられる」。アメリカのホテルや刑務所では信仰問答や人の書いた本は置かれていない。聖書が置かれている。聖書にはそれだけの力があるからだ。教会においても、聖書を読むのは礼拝の式典の中だけに留まらず、会議においても、学びにおいても、毎日のデボーションにおいても、聖書を読んで思いを巡らすことによって、聖書の力を体験することができる。キリスト者が全員そうすれば、一人の教えに頼り切ることも、イエスの教えよりも伝統を重んじることも軽減される。「悪人や詐欺師」に惑わされることはなくなる。

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2テモテ3:1~9

'しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。 ' テモテへの手紙二 3:1-5

「自分自身を愛し、金銭を愛し」自分のことだけに焦点が当たれば、自分のためだけに行動するようになる。金銭も同様、自分の懐を大きくすること、自分の礼拝する会堂が快適になるようになど、自分への投資が大きくなる。「ほらを吹き、高慢になり」自分を正当化するためになるべく多くの人に自分の主張を言いふらし、それに同意する人が増えるたびに高慢になっていく。「神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなる」自分中心になれば神のことは二の次。自分が立てあげてきたものを守るために神の意思を探らなくなり、結果的に神を畏れることを忘れ、あざけることにもなる。「情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になる、善を好まず、人を裏切り」他人の間違えや弱さに対して厳しい目でしか見なくなる。イエスが赦したことを忘れ、「正しさ」だけを追求する。「教会の秩序」を理由に、ろくな話し合いをせず切り離していく。「軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し」自分たちだけが正しいと思い込み、聖書を見直して自分たちの考えや方向性が正しいか確認することを怠る。「すでに聖書は学び終えた」という考えに陥る。「信心を装いながら、その実、信心のちからを否定するようになる」「礼拝」という名の式典を毎週行っていて、「学び」という名の読書感想会を行っているから信心があると勘違いしている。信心のちからを理解せず求めずに、知識や形だけを求めてしまう。

いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。

テモテへの手紙二 3:7
しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。 ' テモテへの手紙二 3:9

「彼らの無知がすべての人々にあらわになる」聖書は生きていて、真理を示すことができる (ヘブル4:12-13)。聖書を読み、ルールやしきたりを吟味することによって、何が真理で何が伝統かを分けることができる。皆が神のみことばにひれ伏すとき、形にこだわることがいかに無知だということが分かる。また、間違った教えを押し通し、しきたりをベースに支配し続ける人々は厳しく裁かれる (ヤコブ3:1)。神の主権に任せ、聖書に示された真理を貫き通すことだけに注力したい。

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 

ヘブライ人への手紙 4:12-13
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2テモテ2:14~26

あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。 俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、 その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。 テモテへの手紙二 2:15‭-‬17 新共同訳

「資格者と認められて神の前に立つ者」。この場合はテモテで、牧師に向けられた言葉だと言えるが、同時に資格が認められて長老(役員)と選出された人たちにも当てはまる。「俗悪な無駄話」というのはなにか?この箇所で上げている例は、キリストが再臨し、先に死んだキリスト者の肉体がすでに復活した、という説が出回っていること。この教えは迫害の中で生きているキリスト者の信仰を揺さぶっていた。信仰を揺さぶる話は今も講壇から語られている。「日曜礼拝を守る」という名目で、日曜日に教会に来ていない人を責める。関係ない聖書箇所を利用して海外からの宣教師の働きを非難する。こういったキリスト者の信仰を揺さぶり、福音の働きを妨げる行為は「俗悪な無駄話」。悔い改めがない限り「不信心」に陥り、講壇から語られることによって「腫れ物」のように教会全体に広がってしまう。

語られることを注意深く吟味していないと、知らないうちに自分たちもリーダーのように他教会の福音の働きを理屈なく非難するようになる。自分たちの教会だけが正しいと思い、自分たちの教会の教えだけを守ることに注力、内面的思考に陥る。教会員が外部で何をしているか、何を学んでいるか監視する体制を作るようになる。まさにカルトのような状態。

しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。 テモテへの手紙二 2:19 新共同訳

このような「俗悪な無駄話」をする人たちに対して一つ希望をもてることは、「主はご自分の者たちを知っておられる」「主の名を呼ぶものは皆、不義から身を引く」こと。キリスト者はみな、すでに神の主権の中にある。神はキリスト者を選び、誰が本物か偽物かはすでに見分けている。まだ、キリスト者が最後まで信仰を守る通すようにしてくださる。「俗悪な無駄話」をする「不義から身を引く」ように働きかけてくださる。

神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。 テモテへの手紙二 2:22‭-‬26 新共同訳
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2テモテ2:1~13

そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。 テモテへの手紙二 2:1‭-‬2 新共同訳

パウロはテモテに、福音を伝える仕事を「教えることのできる忠実な人たちにゆだねる」ように指示している。牧師としてすべて背負い込まず、教会員も責任を担えるようにトレーニングすることを勧めた。大事なポイントは「教えることのできる」「(福音に)忠実な」人たち。このレベルに達していない人は長老(役員)の職につくべきなのか?この箇所の「できる」はギリシャ語で「hikanos=十分に能力がある、価値ある、適している、素質がある」という意味がある。リーダーになる人はただ物事を知識として知っていて、それを説明することのできる人を指しているのではない。教えるのに十分な能力があり、リーダーとしての素質があり、教会のビジョンと方向性を示すのに適している人でなければならない。

長老(役員)の資格は1テモテ3:1~7に記されている。このリストに当てはまらない人は長老(役員)候補のリストにも乗るべきではない。「礼拝に出席している」「献金している」はこのリストに乗っていないのも興味深い。要は、礼拝することと献金することは当たり前で、それ以上の資格が長老(役員)には求められている。ただ人数を満たすための役員会は必要なく、本当に資格のある人を長老(役員)候補として選出し、神の召しを自覚しているか当人と確認し、教会全体で確認することが、福音のために働ける長老(役員)を立てることになる。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

テモテへの手紙第一 3章 1〜7節
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2テモテ1:8~18

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 テモテへの手紙二 1:7 新共同訳

キリスト者に与えられている聖霊はおくびょうの霊ではない。世の中の人は、真剣に神を礼拝し、信仰を保つキリスト者をあざ笑う。しかし、私達は真理を知り受け入れているので、自信を持って信じていることを宣言することができる。イエス・キリストは人の罪のために死んで蘇ったことは真実である (1テサ4:14, 2コリ5:14-15, 2テモテ1:10)。なので信仰に関して誰とも妥協する必要はないし、神を優先した力強い生き方をすることができる。同時に、希望について説明できるように準備しておく必要がある (1ペテロ3:15)。また、不必要なルールよりも隣人を愛ることができるように、聖書を通してイエスが教えていることを理解しておかなければならない。

この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 テモテへの手紙二 1:11‭-‬12 新共同訳

パウロは宣教者、使徒、教師として任命され、それが理由で苦しみを受けていると書いている。信心深く生きようとするキリスト者も迫害を受ける (2テモテ3:12)。逆に、迫害を受けていないなら信心深く生きているか吟味しなければならない。パウロが神を信頼したほどに私達も神を信頼しているか。迫害を受けるほど証するクリスチャン人生を送っているか。神に委ねられている福音を述べ伝え、神の御国に貢献しているか。これらはキリストが成してくださった事に自信を持つことから始まる。

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2テモテ1:1~7

そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 テモテへの手紙二 1:6 新共同訳

パウロがテモテに手を置いたことによって何が起きたのか?パウロになにか特別な力があったのか?逆に、この手を置く行為がないとテモテは賜物を発揮できなかったのか?

テモテに手が置かれたのは1テモテ4:14に記録されている。パウロ一人が手を置いたのではなく、長老と共に手を置いている。その行為によって「賜物」が与えられている。この「賜物」は何を指しているのか?「霊的賜物」は神によって与えられる (ローマ12:3) ので、手を置く行為によって与えられることはない。手を置くことによって長老たちはテモテの霊的賜物と神のみこころを確認していると言える。神はすでに「牧会」や「リーダーシップ」の霊的賜物をテモテに与えていた。それを発揮する機会(賜物)が長老によって与えられたと言える。長老たちはテモテを伝道師(牧師)の働きに専念するよう取り分けている。

パウロと長老には特別な力はないし、テモテに特別な力を与えることもなかった。手を置く行為は神がすでにテモテに与えた賜物と召しを確認することである。また、信仰が確認されているキリスト者なら誰でも手を置いて同じことが行える。長老に留まらず、教会全体に互いの霊的賜物を確認し、神の召しを認識し合う義務がある。

神が一人の人を召され、牧師としての資格を与えられるとき、それはその人にも教会の他の人々にも明らかになります。牧師になる人は、1テモテ3:1-16とテトス1:5-9に記載されている資格を満たしており、みことばを伝えたいという切実な願いを持っています(1コリント9:16)。教会の長老たちは、信徒たちとともに、召しを認め、受け入れる義務があります。その後、強制ではありませんが、正式な任命式である聖職授与式を行うのが適切です。叙任式自体は、何か特別な力を与えるものではなく、単に神様が選んだ指導者を公に認めるものです。

https://www.gotquestions.org/ordination.html
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1テモテ6:11~21

この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。 テモテへの手紙一 6:17‭-‬19 新共同訳

富は悪いことなのか?ヤコブでも、富んでいる者は「旅路の途中で消える」運命にあると書いている(ヤコブ1:11)。確かにいくら稼いでも足りなく、どれほどビジネスに成功しても終わりはない。ビジネスの世界でも、ビジネスはいずれ衰退するものだと広く理解されている。よく見ると、テモテの箇所では「不確かな富」に焦点を当てている。すべてを与えてくださる神に望みを置くように勧めている。そして富自体は悪いことではないようだ。「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる」ということは、富は楽しんで良いもだということがわかる。ただ、どのように楽しむかも言及されている。「善を行い、良い行いに冨み、物惜しみをせず、喜んで分け与える」。冨は自分たちだけが楽しむ物ではなく、分け与えて楽しむ物だ。それも惜しまず、喜んで分け与えること。義務から献金することや、先輩だから義務としておごることはできる。しかし、喜んで分け与えたときのみ、本当の喜びと楽しみを体験することができる。

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 ルカによる福音書 16:10‭-‬13 新共同訳

富は霊的なことに直結する。仕事においては小さな仕事(文章やメール作成、顧客名簿の管理)をこなすことができれば、より大きな仕事が回ってくる可能性がある。同じように、神は私達にこの世において一部の富を預けた。その富を使ってどのように御国に貢献するか試している。この世の富に仕え、富のために生きるようであれば、いくら頑張っても満足はしないだろう。価値のないものだから。富を使って御国に〜神に〜貢献すれば、価値あるものが任される。それは仕事でより大きな影響力が与えられ、世の光・地の塩として大きく貢献できることかもしれない。もしくは、同僚に証をする機会が多く与えられることかもしれない。価値ある仕事が任されるには、責任感をもって日毎仕事をこなし、聖書を読むことによって証する機会の準備をしておく必要がある (1ペテロ3:15)。

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1テモテ6:1~10

'もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。 なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。' テモテへの手紙一 6:6-10

「 金銭の欲は、すべての悪の根です。」では、金銭は求めない方が良いのか?よく聞かれる質問だが、まずこの箇所の背景から、どのような人にこの言葉が向けられているか確認しよう。

'異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者・・・精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者・・・ ' テモテへの手紙一 6:3,5

イエス・キリストの「神を愛し、隣人を愛する」ことを大前提として教え。人として罪を裁くのではなく、イエスに立ち返るように助ける。人と寄り添い、人のニーズに合わせた奉仕。へりくだり、他人よりも低くするリーダーシップ。そしてイエスが教えた全ての事を世界に教えるようにと発した大宣教命令。これらの教えに従わない者は「精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考え」ている。キリスト者=キリストに従う者とは言いづらい状況だ。

このような人たちに対して、信仰や金銭は利得を得るための道具でない、と教えている。言い換えてみれば、信仰や金銭は自分たちの為にあるものではない。自分たちだけ良ければ問題ない、ということではない。教会の予算と蓄えが増える時、それは何に使われているかを良く考えたい。自分たちだけの礼拝や礼拝堂のために使われているか?宣教にはどれほど予算を割いているか?経済的困難にある人を助けるためにどれほどの予算を割いているか?聖職者(牧師や退職した教師)を十分に支援しているか?会堂を考える前に、周りに十分なニーズが存在することを認識したい。それにどう答えるかがイエスが教えたことの中に方向性が見出せる。

本題の金銭を求めることの善悪に答えると、イエスの教えが前提にあるようだ。

'「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」 ' マタイによる福音書 6:19-21

天に富を積む、ということは、永遠につながるような金銭管理をすること。イエスに仕えるかのように、隣人のニーズに答えるための富を積んでいるか (マタイ25:40)。大宣教命令を果たす宣教の働きに富を積んでいるか。一人ひとりが神に近づけるような取り組み(教育、書物、デボーション)に富を積んでいるか。会堂は老朽化する。会堂の中のモノは盗まれる。しかし、人々が主にあって成長することは永遠へとつながる。このために世の中で働き、金銭を永遠に繋げる働きにつぎ込むことが、善ある金銭の求め方である。