ゼカリヤはハガイと同じ時代に預言者として活動していた。どちらの預言者もバビロン捕囚からエルサレムに帰還したユダヤ人に向けて語っていた。そしてどちらも神殿の再建に向けて人々を励ました。ゼカリヤのポイントは8:13-15に記されている。
13 ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ」。14 万軍の主は、こう仰せられる、「あなたがたの先祖が、わたしを怒らせた時に、災を下そうと思って、これをやめなかったように、――万軍の主は言われる――15 そのように、わたしはまた今日、エルサレムとユダの家に恵みを与えよう。恐れてはならない。
神は民に良いことをすると告げている。そして神はイスラエルを救い、イスラエルは他国への祝福となる。この約束はイスラエルに希望を与え、恐れを取り除き、強めるために与えられている。
一般的に、預言書を読む際にクリスチャンへの適用が難しく感じるときがある。それは、預言書のメッセージの大半はイスラエルに向けたものだから。では、どのようにして預言書を解釈し、適用すべきだろうか?
- まず前提となるのは、預言書はイスラエルの民に向けて書かれたメッセージであること。異邦人や教会は視野に入っていない。
- イスラエルは悔い改めれば今後も栄光ある未来が用意されている。教会がイスラエルの代わりになったと言うには単純すぎる。「神は自分の民(イスラエル)を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません」(ローマ11:1)。
- 信仰によって異邦人はイスラエルの約束を共に相続することができる (ガラテヤ3:29, エペソ2:19, 3:6)。
- なので、旧約の予言はイスラエルに直接向けたメッセージだったが、その適用と約束はイスラエルにとどまらず、異邦人にも及ぶ。
- イスラエルに与えられた約束は段階的に成就されていく。メシアの来臨も段階的に起きている。まずキリストは罪を取り除くために来られた (ヘブル9:6)。再臨のときにキリストは罪を裁き、待ち望む者を救う。旧約聖書ではこの2つを区別しないので、一部キリストの来臨によって成就したものもあるが、終わりの日に成就されるものもまだ残っている。
つまり、旧約聖書で「恐れるな」と書かれているとき、相続人であるクリスチャンとしてこの約束を受取ることができる。恐れることがない理由についてはまずイスラエルに適用されるが、霊的なユダヤ人(ローマ2:29, ガラテヤ3:29)である私たちにも間接的に適用される。
13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。
ゼカリヤでおそらく最も大事な約束が記されている。イスラエルの民に泉が開かれ、その泉によって彼らの罪と汚れが清められる。この約束によって罪人が罪赦され、神の恵みを受け入れられるようになるので、この約束は他の全ての約束の土台になると言える。清めの泉は天国に向かうための最初の経過点である。
では、何故この泉が開かれなければならないのか?ユダヤ人にとってこれは、動物犠牲のシステムは罪を清めるには不十分だと言われているのと同じ。何故動物犠牲は不十分なのだろうか?動物が被る損失は神の栄光が受ける損傷と比べることができないから。罪は人に対して損害を被るのではなく、神の栄光を汚すことである。人間が創造主を信頼せず、創造主に逆らうことがどんなに極悪かを理解できれば、私たちは永遠の滅びによる裁きに抗議することができないだろう。そして神の子が犠牲となる必要性を疑うことはできないだろう。
3:8 聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。9 見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。ー万軍の主のことばー 一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。
次に、この泉はどのように清めるのだろう?この箇所では、罪の赦しは「枝」と呼ばれているメシアと関係していることが分かる。このメシアは咎を取り除き、しかもそれを一日のうちに行う。キリストの血が罪を取り除くには、罪人が悔い改めて神を求める必要がある。通常、人は神の栄光を汚すことについて何とも思わない。人が罪に対して悲しむには神がそうさせるしかない。聖霊が人に罪を示してくださる。イスラエルにもこれが起きると予言されている (12:10-11)。エルサレムの咎が取り除かれ、神の赦しが注がれる (14:11, 2:5, 2:10, 8:8)。ゼカリヤでイスラエルに約束されたことは、キリストの血による泉と神の民の悔い改めによって成就される。
最後に、開かれた泉は誰を清めるのか?だれがゼカリヤを読んで希望を得ることができるのか?一番わかりやすいのがユダヤ人。メシアである御子を否定することによって神を怒らせたかもしれないが (1テサロニケ2:15)、今日においても神は赦しを約束している。神はいつの日か覆いを取り除いてくださる (2コリント3:14)。彼らの頑なな心を取り除いてくださる (ローマ11:25)。恵みの霊を彼らに注ぎ、彼らはイエスを主とあがめるようになる。今日においてメシアニック・ジュダイズムという形でこれが成就され始めているかもしれない。私たちはユダヤ人の知り合いや友達のために祈り、彼らにキリストを証し続ける必要がある。
また、ゼカリヤのメッセージは私たち異邦人クリスチャンにも適用できる。キリストの血の泉が開かれることによって、私たちもゼカリヤの約束に含まれる。私たちは「イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:12)でなくなる。私たちはアブラハムの霊的な子孫であり、新たなエルサレムの住人。ゼカリヤの希望と喜びと栄光は私たちの希望と栄光と喜びである。
2:11 その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知る。
この投稿はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/there-shall-be-a-fountain-opened