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教会の中にいる偽教師 — 私たちの足元にある危機

今回、Crosswayの許可を得て、Matthew S. Harmon博士の記事を翻訳・紹介します。この記事では、偽教師が用いる「神の言葉を疑わせ、拒絶させ、肉の欲求に訴える代替案を出す」という3つのステップが解説されています。

このテーマは、現代の教会に住む私たちにとっても、決して他人事ではありません。偽教師や誤った教えは、教会の外にある世の中だけでなく、教会の中にも潜んでいるからです。

教会特有の課題として、以下のような傾向が見受けられます。

  • 「自律」を放棄した依存の罠: 私たちは「正しく信仰を全うしたい」と願うあまり、無意識のうちに専門家である牧師に完全に頼り、すべてを委ねてしまう傾向があります。しかし、牧師の解釈を鵜呑みにし、自分で聖書を読み、考えることをやめてしまうなら、それは信仰ではなく「人間への隷属」に他なりません。クリスチャンに求められているのは、宗教的リーダーを絶対視することではなく、イエス・キリストを唯一の真の頭(かしら)として仰ぎ、神との直接的なつながりの中に生きることです。自分で御言葉を味わわない姿勢は、霊的な成長を止めてしまいます。
  • 「和」を優先する同調圧力: コミュニティの和を乱さないことが最優先され、聖書的な真理に基づいた健全な疑問や指摘が「不従順」として退けられてしまう空気。これも、基準を神ではなく「人間の組織」に置くパターンの変形と言えるでしょう。

これらは、この記事が指摘する「神が言われたことを疑わせる」パターンの変形と言えるかもしれません。しかし、聖書が教える福音中心のアプローチは、それとは対照的です。

  1. イエスが教会の頭(かしら)である: 特定の人間が絶対的な権威を持つのではなく、私たちは皆、イエスを仰ぎ見ます。
  2. 神の言葉を絶対的な真理として自ら求める: パウロの教えを熱心に聞きつつも、それが「はたしてその通りかどうか」を自分たちで聖書を調べて確認した「ベレヤの人々(使徒 17:11)」は、現代の私たちにとって不可欠な模範です。彼らのこの姿勢は、指導者への不信感から来るものではありません。むしろ、語られる言葉が「主の御言葉」に合致しているかを厳しく吟味することこそが、主イエスに対する「最高度の忠誠」の現れなのです。
  3. キリストとの個人的な関係: 救いは特定の組織やコミュニティへの所属によって得られるものではなく、キリストとの個人的な結びつきから始まります。その一人ひとりの歩みが、健全なコミュニティの中で共に生かされるのです。

「自分たちの教会は大丈夫だ」と過信するのではなく、この記事にあるパターンの兆候がないか、私たちの実(生き方)が本当にキリストに基づいているか、共に振り返る機会となれば幸いです。


偽教師がたどる3つのパターン

2025年6月12日 | 著者:Matthew S. Harmon

イエスの権威

ペテロとユダは共に、自らの罪深い情欲に溺れることで、イエス・キリストの権威を否定する反対者たちに直面していました。どちらの状況においても、彼らは自分の行動に対して最終的な裁きを受ける可能性を拒絶していたようです。この点は、ユダの手紙よりもペテロの手紙第二において、より明確に示されています。

これらの反対者たちは、イエスが成し遂げられた御業(福音)から導き出される道徳的命令に逆らった生き方をすることで、使徒たちが宣べ伝え、旧約聖書によって裏付けられた「唯一の真の福音」から離脱していることを露呈させています。

ペテロが扱っているのは、キリストの再臨を明白に否定し、聖書をねじ曲げる反対者たちです。ユダのケースでは、これらは当てはまらないようです。また、推測の域を出ませんが、それぞれの読者が置かれていた背景も異なっていたと考えられます。ユダの手紙はユダヤの伝統や外典に精通した信者に宛てられたようですが、ペテロはよりギリシャ・ローマ的な文化的背景の中で生きる読者に語りかけているようです。

ペテロの手紙第二とユダの手紙から得られる重要な教訓の一つは、「正統な信仰(正しい教理)」と「正統な実践(正しい生き方)」の切り離せない関係です。山上の垂訓の中で、イエスは偽預言者が神の民の間に入り込み、羊を食い荒らす狼となると警告されました(マタイ 7:15–20)。そして、彼らを見分けるためのシンプルかつ強力な方法を提示されたのです。

「あなたがたは、実によって彼らを見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。同じように、良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。…ですから、あなたがたは実によって彼らを見分けるのです。」(マタイ7:16–20)

イエスの言葉を真摯に受け止め、ペテロとユダは、狼(偽教師)が持ち込んだ「病」から羊を守り、免疫をつけさせるために、反対者たちの「腐った実」を暴き出すことに全力を尽くしたのです。

偽教えの核心

ペテロとユダが対峙した反対者たちの共通点と相違点を理解することは、重要な第一歩です。しかし、これらの偽教えをより広い聖書的・神学的な文脈の中に位置づけるためには、聖書の物語の冒頭(創世記)に立ち返る必要があります。なぜなら、彼らが立ち向かわなければならなかった誤りの核心には、かつてエデンの園で蛇自身が最初に広めた「パターン」があるからです。そのパターンには、3つのステップがあります。

1. 偽教師は、神が言われたことに疑いを抱かせる

トラブルの最初の兆候は、蛇が「野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった(狡猾だった)」という記述にあります(創世記 3:1)。女への最初の質問が、その狡猾さを裏付けています。「神は本当に、『園のどの木からも食べてはならない』と言われたのですか」。

サタンは、神がすべての木を禁じたのではなく、善悪の知識の木だけを禁じられたことを知っていたはずです。彼の目的は、神が実際に言われたことに対して疑問と疑念を抱かせることにありました。エバはこれに対し、神が言われたこと以上に付け加えて答えてしまいます。「神は、『あなたがたは、園の中央にある木の実を食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と言われました」(創世記 3:2–3)。

しかし、神がアダムに語られた言葉をよく見ると、神は「触れること」までは禁じておらず、「食べること」だけを禁じておられました(創世記 2:17)。サタンは、神が何を命じ、何を命じなかったのかという正確な内容について混乱を招き、いわば「水を濁す」ことに成功したのです。

2. 偽教師は、神が言われたことに逆らい、拒絶する

蛇は神の言葉を疑わせることから、直接的な拒絶へと移ります。「あなたがたは決して死にません」(創世記 3:4)。神はアダムに命令を与えられた際、「それを食べるその日、あなたは必ず死ぬ」と強調されていました(創世記 2:17)。「もしかしたら」でも「たぶん」でもありません。この一つの命令への不従順は、確実な死をもたらすものでした。

しかしサタンは、神が実際に言われたことの詳細について、エバの心に混乱を生じさせたことで勢いづき、今や公然と神の言葉を拒絶します。彼は、神がアダムに語られ、エバが蛇に語ったのと全く同じ言葉をあえて使いました。事実上、蛇は神を嘘つき呼ばわりしたのです。

3. 偽教師は、自然な欲求に訴えかけることで「より良い」代替案を提示する

蛇は、なぜ神がその実を食べてほしくないのかを説明します。「神は、あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになって善悪を知るようになることを知っているのです」(創世記 3:5)。

人間が神のかたちに創造されたという事実に反して、蛇は「神がすでに啓示された善悪に従うよりも、自分たちで善悪を決定する方が良い」という代替案を提示しました。神が言われたことが真実でないなら、なぜ従う必要があるのか? 自分で道を切り開く方が良いのではないか? 結局のところ、神はあなたがなれるはずの最高の姿になることを妨げているのではないか?

エバはこれに対し何も答えませんでした。この「より良い代替案」に触発され、女は「その木が食べ物として良く、目に麗しく、賢くなるために慕わしい」ことを見ました(創世記 3:6)。蛇に促され、彼女はその木を新しい光の中で見ました。それは避けるべき危険な源ではなく、「真に」神のようになるための魅力的な道となったのです。彼女が手を伸ばして実に触れても何も起こらなかった時、蛇が正しかったかのように見えました。彼女は死にませんでした。「神はやはり嘘をついていたのだ」と。

しかし、アダムとエバが実を食べた直後、彼らは蛇が部分的にしか正しくなかったことに気づきます。確かに彼らの目は開かれましたが、約束された自己決定の喜びではなく、自己破壊の罪悪感と恥を経験したのです(創世記 3:7)。以前は「裸であっても恥ずかしいとは思わなかった」(創世記 2:25)のに、今は裸であることを恥じ、自分たちを覆おうとしました。しかし、その恥と罪悪感を覆うための彼らの弱々しい努力は、全く不十分なものでした。

その恥は、神が園を歩かれる時にさらに強まりました。彼らは喜んで神に近づく代わりに、不従順のゆえに聖なる神に近づけないことを悟り、身を隠したのです(創世記 3:8–11)。

私たちは、荒野でのイエスとサタンの対決(マタイ 4:1–13)の中にも、これと同じパターンを見ることができます。聖霊によって誘惑を受けるために荒野に導かれる直前、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。御霊がイエスの上に降った後、父なる神は天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と宣言されました(マタイ 3:17)。

園でのエバに対して行ったように、サタンは神が言われたことに疑問を投げかけることから誘惑を開始します。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」(マタイ 4:3)。エバに対しては神の言葉への疑念を抱かせることに成功した誘惑者でしたが、イエスに対してはその試みは失敗に終わります。

それにもかかわらず、サタンは神が言われたことを拒絶するステップへと進みます。ただし、エバの時よりも巧妙な方法を用いました。サタンはイエスを神殿の頂に連れて行き、こう言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神は御使いたちに命じて、あなたを守らせる。彼らはその手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』と書いてあるからだ」(マタイ 4:6、詩篇 91:11–12 の引用)。

表面上、詩篇を引用するサタンは神の言葉を受け入れているように見えるかもしれません。しかし、意図的に御言葉をねじ曲げ、誤用することによって、彼は実際にはその権威を拒絶し、本来の意味とは違うものにしようとしているのです。

最後の誘惑において、サタンは、従順という長い道のりとそれに伴う苦難を避けて、全世界の支配権を手に入れるという「より良い」代替案を提示します。サタンの前にひれ伏して拝むなら、この世のすべての国々を与えようと申し出たのです(マタイ 4:8–9)。しかし、イエスは「最も抵抗の少ない、安易な道」を選ぶのではなく、サタンの申し出を退け、父への忠誠を再確認されました(マタイ 4:10–11)。アダムとエバが蛇の策略に抗しきれなかったすべての点において、イエスは従順を貫かれたのです。

このパターンの各要素は、ペテロの手紙第二の中にも(必ずしも明白な形ではありませんが)存在します。ペテロは、聖書をねじ曲げて自分自身に滅びを招く「無知で心の定まらない人たち」に言及しています(3:16)。聖書をねじ曲げる明白な一つの形は、神が言われたことに疑問を呈することです。

ペテロの反対者たちは、「主の来臨の約束はどこにあるのか」という問いを投げかけました(3:4)。主イエスがご自分の民のために戻って来られるという明確な約束(ヨハネ 14:1–4など)があるにもかかわらず、反対者たちは主が本当にそう言われたのか、あるいはその真意は何なのかを疑わせようとしたのです。

神の言葉を疑うという姿勢から、彼らはイエスが言われたことへの直接的な拒絶へと移ります。彼らは自分たちの欠陥ある論理に基づいて、こう主張しました。「父たちが眠りについた時から、すべてが創造の初めからのまま続いているではないか」(3:4)。反対者たちによれば、世界は族長たちの時代から何も変わっていないのだから、キリストの再臨などあり得ないというのです。

しかし、彼らの神の言葉に対する拒絶が最も顕著に現れているのは、旧約聖書で明確に啓示され、イエスの使徒たちによって再確認された「神の道徳的基準」の拒絶です(3:1–3)。彼らは、強欲(出エジプト 20:17)、性的不道徳(20:14)、権威への反抗(民数記 16:50)、高慢(箴言 3:34)、不潔(詩篇 24:3–4)に対する神の宣告を、何でもないこととして退けました。

神の言葉を疑い、拒絶した上で、ペテロの反対者たちは様々な「欲求」に訴えかけることで、神への忠実さに代わる「より良い代替案」を提示しようとします。最も顕著なのは、野放図な性欲への訴えです。それは「好色」(2:2, 7, 18)、「汚れた情欲」(2:10)、「不倫の目」(2:14)といった様々な表現で描写されています。実際、彼らは「迷いの中に生きている人々からやっと逃れてきたばかりの人たちを、肉の欲、好色によって誘惑」していました(2:18)。彼らは「自律(自律性)」への欲求に訴え、自由を約束しながら、実際には人々を「滅びの奴隷」へと引き込んでいたのです(2:19)。

ユダの手紙ではそれほど顕著ではありませんが、このパターンのヒントは依然として存在します。彼の反対者たちは「私たちの神の恵みを好色に変え」(ユダ 4)ていました。この表現は、使徒たちを通して語られた神の言葉を疑っているか、あるいは拒絶していることを反映しています。彼らは「唯一の主権者であり、私たちの主であるイエス・キリストを否定」しており(ユダ 4)、それは主の教えに対する拒絶をある程度含んでいるはずです。

これらの反対者たちは、性道徳(6–7, 16, 18)、神に任命された指導者への従順(8–11)、強欲(11)に関する、神が啓示された道徳的命令を明らかに拒絶しています。ユダは明示的には述べていませんが、これらの反対者たちがその策略を用いてキリストの体(教会)の中にいる人々に働きかけ、神の道徳的基準を捨てさせ、自らの罪深い欲望を受け入れさせようとしていることは明らかです。

注釈: サタンが「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになって善悪を知るようになる」と言ったとき、それは単に善悪を体験するという意味ではなく、「自分たち自身で何が善で何が悪かを決定する」という主権の簒奪を意味しています。このような文脈において、「知る」と訳されるヘブライ語の動詞(yādaʾ)は、単なる知識の習得ではなく、特に善と悪を「見分ける」「識別する」という意味で使われます(申命記 1:39、イザヤ 7:15 参照)。また、異なるヘブライ語の動詞が使われる場合もありますが、ソロモンが王として民を裁くために「善悪を判断する(聞き分ける)能力」を神に求めた際にも、これと同じ「基準を識別する」という概念が登場します(第一列王記 3:9、第一サムエル 14:17 参照)。

Taken from 3 Patterns That False Teachers Follow by Matthew S. Harmon, Copyright © *date*, pp. https://www.crossway.org/articles/3-patterns-that-false-teachers-follow/. Used by permission of Crossway, a publishing ministry of Good News Publishers, Wheaton, IL 60187, www.crossway.org.

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The Ultimate Hedge: Why Contentment is the Shrewdest Financial Move

日本語版はこちらをご覧ください

While reading Luke 16 during my devotions, I came across a puzzling text, Luke 16:1-13. This is the familiar parable of the dishonest manager. I had read this several times in the past and have heard sermons and Sunday school teachings on this parable. However, on immediate reading I could not help but keep getting confused. Why did the master commend the servant for being dishonest? Why would people in this world be better than “sons of light” (Christians)? What does it mean to be received into eternal dwellings (heaven) by making friends by unrighteous wealth? A careful reading of the text helped answer these questions. It reminds me of the importance of reading slowly and quickly

Discovering Eternal Shrewdness (Luke 16:8-9)

The manager was on the brink of getting fired by his master. He immediately took action to prepare for unemployment. He went to each of his master’s debtors to reduce their debts. By doing this, he made the debtors obligated to him and secured friendships so that when he is unemployed, he will have a circle of friends to go to after he is fired. He wasn’t just looking at the negative situation of getting fired. He was looking forward to what he would need to do to prepare for his unemployment. 

Upon this comes the key verse, “The master commended the dishonest manager for his shrewdness” (v.8). The key to this verse is that the master commended the shrewdness or cleverness. He was working strategically to prepare for a change in his situation. This shrewdness is what Jesus wants us to learn from. “People of this word” are often practical, calculating, and driven by self-interest. They know how to look out for their own interests and make connections for their own benefit. On the contrary, “people of the light” tend to be detached from this world, focusing on spiritual matters more than the aspects of this world. How often have we heard, “we don’t have enough to cover the expenses, but we must have faith.” Believers can learn from the world in how we manage our resources. 

It is important to note that Jesus isn’t teaching us to mimic the manager’s morality. We are to learn from his methodology. If a worldly, dishonest person has the ability to plan for a temporary earthly crisis, even more should “people of the light” should use their resources for an eternal reality. Shrewdness isn’t about being sneaky. It’s about being strategically prepared. 

With this shrewdness, we are to “use worldly wealth to gain friends” (v.9). We are to use the resources God has given us in a wise and eternal-minded way. The resources are “worldly wealth” because it is temporary and can be used for unrighteous purposes. We have the opportunity to redeem these resources for godly purposes. So then, “gain friends” refers to practical ways to do this. This includes helping the poor and needy, investing in God’s kingdom by supporting ministry, and aligning ourselves with God’s will and purposes with the resources we have. At the same time, we are to remember that the resources are temporary. 

“When it is gone” shows that it will eventually be lost through death or other circumstances. As we invest in eternal purposes, we can be assured that we will be “welcomed into eternal blessings.” This does not mean we are given passageway into heaven because we used our resources for eternal purposes. Entry into “eternal blessings” comes only by grace (Ephesians 2:8-9). This is more around the “welcome” or reception we will receive as we enter heaven. The resources we contributed may lead to those who are touched by the Gospel and will welcome you in heaven. God may provide an added welcome and approval for having lived a life of faithful stewardship. 

Choosing the Right Master (Luke 16:11-13)

How, then, are we to be faithful stewards of all that God has given us? Verse 11 gives us a hint: “So if you have not been trustworthy in handling worldly wealth, who will trust you with true riches?” This seems like common sense. We would not entrust our wealth with someone who is known for wasting it or does not know how to invest wisely. God is, in a way, testing us to see how we handle worldly wealth. If we cannot be good stewards of what God has given to us, he will not give us greater, more valuable, and eternal riches of God’s kingdom. 

After all, “…if you have not been trustworthy with someone else’s property, who will give you property of your own?” All of the resources we have belong to God, and God is entrusting us to properly manage them. We should always be mindful that we are stewards, not owners, of these resources. If we are faithful, we will be given an eternal inheritance in heaven. This is not referring to whether we will enter heaven but pointing to the rewards that God will give us for faithfulness (Col. 3:23-24, 1 Cor. 3:12-15).

We often fall into the trap when we misunderstand ownership. When we believe that we own our money, we feel that we need to protect it at all costs. The money starts to own us. This leads to the “love of money” that creates anxiety. However, when we truly believe that God owns the money, we no longer need to protect it ourselves. Money is a great tool to expand the Kingdom of God, but it can also become an enslaving master. 

As we learn to be wise in how we handle our wealth from the world, we must not fall into the trap of serving money itself. “No one can serve two masters… You cannot serve both God and money.” Having money is not evil. Managing money wisely is not evil. Pursuit of money and the love of it as an end in itself is in direct conflict with serving God. We should serve God with the resources entrusted to us. How we use money should be purposeful and focused, aiming to receive eternal rewards. We should not serve our own interests but seek God’s interests. When we focus on accumulating wealth for ourselves, it takes away from our devotion to God. We cannot serve both masters. 

Avoiding the Trap of Greed (1 Timothy 6:5-10)

I was in the financial industry for 14 years and saw first-hand what serving money looks like. In investing banking, extremely smart people used their wealth of knowledge to exercise greed. They were good at making millions in a single transaction. They secured lavish bonuses. However, the result was people who looked down on others who had less than them. It was endless hours in the office addicted to making more money. For some, it was ending up being arrested for engaging in illegal transactions. This was an environment full of endless pursuit of greed and lack of hope. 

This is the sort of situation 1 Timothy 6:9 was referring to: “Those who want to get rich fall into temptation and a trap and into many foolish and harmful desires that plunge people into ruin and destruction. For the love of money is a root of all kinds of evil.” Wanting to get rich is not the problem. It’s where the heart is. Are we pursuing money for the sake of increasing our wealth? For the sake of self sufficiency? Or is it to put ourselves above others? These self centered motives are what lead us away from God and towards sin and destruction. 

In fact, this passage says, “Some people, eager for money, have wandered from the faith and pierced themselves with many griefs.” The drive towards self sufficiency will drive you away from sufficiency in God. Because you are relying only on yourself (and your money), you become increasingly anxious that your needs are met. You can’t sacrifice any time away from your work or investment activities because every minute you aren’t engaging in investment activities means loss of opportunity for gaining more wealth. Even Christians are vulnerable to this temptation – as I have seen first hand. 

What is the alternative? Gaining “godliness with contentment” (v.6). We don’t bring anything into this world. God gives us everything that we have. For those bankers who are addicted to making more, the more “shrewd” move would be to be content with basics like “food and clothing.” Rather than pursuing gain in the bank account, we can have the peace of having enough. Contentment actually eliminates the endless pursuit and lack of hope often seen in the financial industry. It allows us to trade the “many griefs” with the security of God’s care. After all, even as we are worth more than sparrows, God provides for the sparrows and us alike. “Are not two sparrows sold for a penny? Yet not one of them will fall to the ground outside your Father’s care. And even the very hairs of your head are all numbered. So don’t be afraid; you are worth more than many sparrows.” (Matthew 10:29-31)

Taking Hold of Truly Life (1 Timothy 6:17-19)

As Christians we can take a warning from 1 Timothy 6:17: “Command those who are rich in this present world not to be arrogant nor to put their hope in wealth”. Wealth can lead to a sense of superiority or self-reliance. When we have more, we start thinking that we are better than others. We easily start thinking that everything we have is a result of our own efforts. We forget that it is God who entrusts resources to us. This gives us a false sense of security and hope. Money is temporary and can be “gone.” True security and hope are only found in God, who is the ultimate provider. 

What is the alternative? “…do good, … be rich in good deeds… be generous and willing to share” (v.18). Instead of accumulating riches for ourselves, we are to use our resources for good. This is equivalent to “using worldly wealth to gain friends for yourselves” (Luke 16:9). By doing good deeds and being generous and willing to share, we invest in eternal things. We are directly serving Jesus by helping the needy (Matt. 25:40). Sacrifices that we make for others are pleasing to God (Heb. 13:16). Generosity results in thanksgiving to God (1 Cor. 9:11). 

When we do good deeds and are generous, we are “[laying] up treasure for [ourselves] as a firm foundation for the coming age” (v.19). Our motivation is in the eternal, echoing what Jesus taught about “eternal dwellings.” Doing good deeds and being generous is seen as an investment in heaven. We are building a firm foundation on top of the salvation we received. 

This “life that is truly life” is where the shrewd manager’s logic takes us. It is a life where your security isn’t tied to uncertain wealth that can be lost. You can place your trust in the Father who numbers the hairs on your head. By aligning our resources with God’s purposes, we are putting it where it can provide a foundation of hope. Good deeds and generosity with an eternal purpose always lead to hope. This is how we “take hold of the life that is truly life” (v.19), by aligning our resources with God’s eternal kingdom rather than just our bank accounts. 

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究極のヘッジ:不誠実な管理人に学ぶ「永遠の賢さ」と知られざる利得

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先日、デボーションでルカの福音書16章1節〜13節を読みました 。これは有名な「不正な管理人」のたとえ話です。これまで何度も読み、説教や教会学校でも聞いてきましたが、改めて読むと、どうしても困惑を禁じ得ませんでした 。

  • なぜ主人は、不誠実な働きをした管理人を褒めたのか?
  • なぜ「この世の子ら」が「光の子ら(クリスチャン)」より賢いと言われるのか?
  • 「不正な富で友を作ることで、永遠の住まい(天国)に迎え入れられる」とはどういう意味か?

テキストを注意深く読み進めることで、これらの疑問への答えが見えてきました。それは、ゆっくりと、かつ全体を俯瞰して読むことの重要性を教えてくれました 。

1. 永遠を見据えた「賢さ」 (ルカ 16:8-9)

この管理人は、主人に解雇されそうな瀬戸際に立たされていました。彼はすぐに、失業後の生活に備えるための行動を起こしました 。主人の債務者たちを一人ひとり呼び、彼らの負債を減額して恩を売ったのです。そうすることで、解雇された後でも自分を迎え入れてくれる友人関係を確保しました 。彼はただ解雇という「負の状況」を見ていたのではなく、将来必要になる備えを戦略的に考えていたのです 。

ここで重要な一節が登場します。「主人は、不誠実な管理人が賢く(しゅこうに)やったのを褒めた」(8節) 。主人が褒めたのは、彼の不誠実さではなく、その「賢さ(巧妙さ)」です 。彼は状況の変化に備えて戦略的に動いていました 。イエス様が私たちに学んでほしいのは、まさにこの「賢さ」です 。

「この世の子ら」は、しばしば実利的で、計算高く、自己利益のために動きます 。一方で「光の子ら」は、霊的な事柄に集中するあまり、この世の資源の管理において無頓着になりがちです 。信徒は、リソースをいかに管理するかという点において、世の人々の知恵から学ぶべき点があります 。

イエス様は管理人の「道徳性」を真似ろと言っているのではありません 。学ぶべきはその「方法論」です。もし不誠実な世の人が、一時的な地上の危機のためにこれほど計画を立てるのなら、「光の子ら」は永遠の現実のために、もっとリソースを活用すべきではないでしょうか 。賢さとは「ずる賢さ」ではなく、「戦略的な備え」のことなのです 。

2. 正しい主人を選ぶ (ルカ 16:11-13)

では、どうすれば神から与えられたものの忠実な管理者になれるのでしょうか。11節にヒントがあります。「あなたがたが、不義の富に忠実でなかったら、だれが真実の富を任せるでしょうか」 。これは常識的な話です。無駄遣いをしたり、賢い投資ができない人に、大切な資産を預ける人はいません 。

神様はある意味で、私たちが世の富をどう扱うかを見て、私たちをテストされています 。もし私たちが与えられたものの良い管理者になれないなら、神様はより価値のある、永遠の神の国の富を任せることはされません 。

  • 私たちが持つリソースはすべて神のものです 。
  • 私たちは「持ち主(オーナー)」ではなく、「管理者(スチュワード)」です 。
  • 私たちが自分の金を「自分の所有物」だと信じ込むとき、それを失うまいとして執着し、不安が生まれます 。
  • しかし、すべては神のものだと信じるとき、私たちはそれを守る必要から解放されます 。

富を持つこと自体は悪ではありません。しかし、富を追求し、それを愛することは、神に仕えることと直接的に対立します 。私たちは「二人の主人」に仕えることはできないのです 。

3. 強欲という「罠」を避ける (第1テモテ 6:5-10)

私は金融業界に14年間身を置いていましたが、「富に仕える」ことがどのような姿か、目の当たりにしてきました 。投資銀行では、非常に優秀な人々がその知識を「強欲」のために使っていました 。一度の取引で数百万ドルを稼ぎ、巨額のボーナスを手にします 。しかしその結果、自分より持たざる者を見下し、さらなる富を求めて終わりのない残業に明け暮れる中毒状態に陥る人々を見てきました 。中には、違法な取引に手を染めて逮捕される者もいました 。そこには果てしない強欲と、希望の欠如がありました 。

これこそが、テモテへの手紙第一 6章9節が警告している状況です。「金持ちになりたがる者たちは、誘惑と罠、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲に陥ります」 。

強欲の代わりにあるものは何でしょうか。それは「満ち足りる心(知足)」です(6節) 。 「雀のケア」を思い出してください。雀一羽でさえ、神様の許しなしに地に落ちることはありません。まして私たちは、雀よりもはるかに価値がある存在です 。この安心感こそが、際限のない強欲から私たちを解放してくれる「賢い」選択なのです 。

4. 「本当のいのち」をつかみ取る (第1テモテ 6:17-19)

私たちは「この世の富んでいる者たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に希望を置かないように」という警告を真摯に受け止めるべきです 。富は、私たちに「自分は人より優れている」「自分自身の力で手に入れた」という錯覚を与え、偽りの安心感を抱かせます 。

しかし、本当の代案は「善を行い、良い行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与える」ことです(18節) 。これは、ルカ16章の「不正の富で友を作る」ことと同じです 。惜しみなく分け与えることで、私たちは永遠の投資をしているのです 。

そうすることで、私たちは「将来に備えて、自分のために良い基礎を築き、本当のいのちをつかみ取る」ことができるのです(19節) 。本当のいのちとは、市場の暴落で失われるような不確実な富に縛られるのではなく、髪の毛一本まで数えてくださる天の父に信頼を置く人生のことです 。

私たちは、自分自身の銀行口座のためではなく、神様の永遠の国のためにリソースを合わせることで、揺るぎない希望の土台を築くことができるのです 。


日本語版を読んでいる皆様へ: 投資銀行での経験を通じて学んだのは、どれだけ稼いでも「本当のいのち」は手に入らないということでした。皆様が今日、一時的な富の管理者として、永遠の価値に投資する「賢さ」を選び取ることができますように。

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Christian Life Church Hebrews

指導者に倣う

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

へブル13:7~8

私たちはどのような指導者を敬い、従うべきなのだろうか?指導者が人間である限り、必ず何かしらの問題はある。しかし、聖書はそんな欠けのある指導者を「覚える」、もしくは「服従する」ように教えている。私たちはどのように指導者に従うべきだろうか?

神のことばをあなたがたに話した

まず7節でみられるのは、「神のことばをあなたがたに話した」とある。指導者は神のことばを語っているのだろうか?その言葉は実際に神のことばなのか、もしくは人間や組織が作り出したルールなのだろうか?「収入の10%を十一献金として捧げる」、「教会の音楽は聖歌のみ」、「公開説教でないと聖書を語っていない」などは、本当に神が教えていることなのだろうか?

答えは様々だが、それをしっかり吟味し、良いものを保つようにと聖書は教えている (1テサロニケ5:21)。私たちは指導者のことばをうのみにするのではなく、彼らの教えをしっかりと吟味し、どれが神のことばか、どれが人の教えなのかを見分けなければならない。

彼らの生き方から生まれたものをよく見て

次に、指導者の生き方から生まれたものを見ることだ。彼らの生き方は何を生み出しているだろうか?家庭はどのような状況だろうか?子供が、親が牧会している教会にとどまりたいと思っているだろうか?家庭環境が荒れていたり、子供が親の教会に行きたがらない状態があるなら、その指導者の教えや指示に注意を払う必要がある。

教会の実態も指導者の良し悪しを映し出す。教会は礼拝だけに真剣で、学びや宣教をおろそかにしていないだろうか?学びは聖書が中心なのか、教本が中心なのか?年々新しい人が教会に加わっているのか?教会を去った人はどのような理由で去ったのか?ルールやしきたりに執着せず、教会が成熟を目指すように指導しているのか?

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

へブル6:1~2

その信仰に倣いなさい

もし指導者が神のことばを語り、彼の生き方から生まれたものが良いものであれば、その信仰に倣うことができる。この「倣う」ということばは、「真似する」という意味もある。つまり、その指導者と同じことを信じ(神のことばだから)、同じ生き方をすること(良いものが生まれているから)を進めている。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

へブル6:11~12

キリストが与える希望について確信を持ち続けることと、熱心に神を求めることが記されている。これは礼拝を熱心に捧げることはもちろんだが、成長するのには「固い食物」を取り入れることも必要。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

へブル5:13~14

成熟したクリスチャンは、善を悪を見分けることができる。指導者に頼る必要はなく、自分で聖書を読んで何が正しいかを判断することができる。もちろん、自分だけで判断していたら間違った方向に行く可能性もあるので他のクリスチャンとの交わりを通して、経験と訓練を積む必要もある。その交わりは、間違いを指摘しあうことではなく、愛を持って互いを成長に導き、キリストの体と経て上げるためのものである。

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

エペソ4:14~16

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません

指導者が人である限り必ず欠けはある。しかし、神であるイエス・キリストという指導者には欠けが全くない。地上の指導者が神のことばを語らなければ、イエスのことばを読むことができる。地上の指導者の生き方から生まれたものが良いものでなければ、イエスの生き方を見ることができる。そして、指導者の信仰が足りない場合はイエスの信仰から倣うことができる。

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授けられている言葉

するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。」マタイ19:11

聖書には受け入れがたい教えが多く書かれている。

神が男と女を創り、その二人が一つとなったことを結婚とし、その二人を裂くことは誰もできない。(4-6説) 同性婚や離婚を推奨する人には受け入れがたい教えだ。また、不品行以外で離婚し、再婚したら姦淫の罪を犯すとも書いてある。(9説) これに当てはまる人も少なくはない。

この難しい教えを曲げて自分の好きなように解釈する、もしくはその聖書箇所は神ではなく人の思いで書かれているので受け入れなくても良い、と言ってしまうことは簡単なこと。

しかし、イエスはそんな難しい聖書箇所でも「授けられている」と言っている。難しくても神の言葉として受け入れ、自分がそれているなら罪を認め、悔い改めることを促している。

神は立ち返る罪人を受け入れてくださる。

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交わりって何だろう?

最近「交わり」についてこのような定義を聞いたことがある。「交わりとは、神の民が神とつながりを持つこと。それは礼拝でしか実感し体験することができない。」果たして「交わり」は神とつながりを持つことだけなのか?実感し体験するのは礼拝でしかないのか?この定義は本当に聖書が言っていることなのか?こんなことを考えてみた。

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Christian Life Special Topics

教会って何だろう?

先日、使途の働き3章からメッセージをきいた。説教の冒頭でペテロとヨハネがいつものように神殿に行き、ソロモンの回廊で野外礼拝を行ったと。また、これが新約の教会における初の野外礼拝だったという内容だった。もちろん、説教の内容とポイントはここから大きく軌道修正したのだが、冒頭のズレがずっと頭から離れなかった。そこで考えた。初代教会は神殿だけで礼拝したのか?現代の教会において教会という建物で集まるのが唯一の正しい形なのか?

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なぜキイエスを信じるべきなのか?

1:10 またこう言われました。「主よ。あなたははじめに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。
11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは、衣のようにすり切れます。 14 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

へブル1:6~14

へブル人への手紙の著者は一章で、イエスが天使より勝っていることを綴っています。天使たちはイエスにひれ伏し、仕える者たちとされました。(6節) その一つの理由は、イエスが天と地を創造した方だからです。創世記で見られるように、創造された世界は「とても良い」物でした。しかし、罪のせいで地は呪われ、滅びるものとなってしまいました。それでもイエスはいつまでもこの世を治める者とされています。(11節) この世はいずれ無くなり新しい天と地が創られますが、イエスは今も今後も治める方として神の「右の座に着いて」います。(13節) この世と天使たちを治めているイエスは、イエスの救いを信じた人々に天使を仕わします。(14節) イエスは罪の代価を払って下さっただけでなく、救われた後も私たちを保って下さっています。それほどまでイエスは私たちを愛して下さり、同じ相続人として尊厳を与えて下さいます。

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生きることはキリスト

2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

ピリピ人への手紙2章14-16節

パウロは、ピリピ教会宛ての手紙の中で、イエス・キリストがへりくだった事を書いています。イエスは神でありながら、その身分を捨て、人間となってこの世に来てくださいました。さらに、十字架での死にまで従いました。(2:6-8)だからこそ私たちは「自分の救いを達成する」ために務める事を進められています。(2:12)これは、救いを証明するための務めではなく、救いを完成させるために「前に身を伸ばし・・・目標に向かって走る」という意味です。(3:13-14)その一貫として、「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」と勧めています。(2:14)これは「ぶつぶつ言わずに」とも訳せます。つまり、やるべき事を誠実に、正しい態度を持って行うべきです。この世では報酬を受け取るために良い行いをする人がほとんどですが、聖書による良い行いをする動機は、イエスがして下さったことに感謝していることです。このような生き方を通して、私たちは「世の光として輝く」のです。(2:16)

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本当に満たされるには

5 私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。6 まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。

詩篇23:5-6

ダビデは、神を自身の羊飼いとして信頼していました。死の影の谷を歩むことがあっても、主がともに歩んでくださることを信じていました。敵は常に近くにいましたが、その敵は彼に何もすることができませんでした。逆に、神はダビデに食卓を用意し、香油を注ぎました。(5節) この「注ぐ」という言葉は「太らせる、満足させる」という意味もあります。それほどダビデは満たされており、祝福が溢れ出ていました。しかし、重要な点は、ダビデはこの祝福が何処から来ていかを生涯忘れなかったことです。その証拠に、いつまでも主の家に住むことを宣言しています。(6節) 「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4) 神を求め、神のことに思いを巡らすことがダビデを満たしていました。それゆえ、ダビデは神の「心にかなった者」だとされたのです。(使徒13:22)