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霊によって祈る (ヤコブ20-21)

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

20節にある「霊によって祈る」とはどういうことなのか?どのようにすれば「霊によって祈る」ことができるのだろうか?

それは、「聖霊が動き、導く力であるように祈る」ということです。ここでのキーワードは、「動かす」と「導く」です。つまり、聖霊によって祈るとき、神の霊があなたの祈りを「動かす」のです。聖霊があなたの祈りを動機づけ、可能にし、活力を与えてくださる方なのです。そして、聖霊で祈るとき、神の霊はあなたがどのように祈り、何のために祈るのかを「導いて」くださいます。ですから、聖霊によって祈るとは、祈りの中で聖霊に動かされ、導かれることです。私たちは、聖霊の力によって、聖霊の導きに従って祈ります。

John Piper, 参照箇所:エペソ6:18、ローマ8:26、ローマ8:15-16、ヤコブ4:3

聖霊に動かされ、導かれることについては、祈り以外のクリスチャンの歩みの場面でも見られる。

ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい。」ローマ8:13「御霊によってからだの行いを殺す」。1コリント12:3「御霊によって・・・『イエスは主です』と言う」。ピリピ3:3「御霊によって礼拝し」。 これらすべてのことにおいて、私たちは何かをしなければなりません。しかし、私たちは、聖霊が私たちを通してそれらを行うような形で、それらを行わなければなりません。

人間の生活というのは、神が主権を持ち、私たちが責任を負うということです。私たちは行動します。私たちは行動する責任もあります。しかし、神は決定的な行為者なのです。私たちの行動は依存しています。ですから、「歩みなさい」(ガラテヤ5:16)、「罪と戦いなさい」(ローマ8:16)、「イエスの主権を告白しなさい」(1コリント12:3)、「礼拝しなさい」(ピリピ3:3)、「祈りなさい」(ユダ1:20)と言われるとき、私たちは「聖霊にあって」するように言われます。

John Piper

「霊によって」何かをすることのイメージがついたところで、「霊によって祈る」ことを実際にどうすれば良いか考えたい。まずは信仰について。

私たちが「聖霊によって」祈るのは、(贖いによって)キリストの十字架の上に立ち、聖霊による神の助けを信頼するときです。言い換えれば、聖霊の助けがなければ、自分が祈るべきことが祈れないことを認め、意識的に聖霊に頼って祈るとき、あなたは 「聖霊によって」祈っているのです。ですから、「どのようにして」という質問に対する最初の答えは、信仰によるものです。つまり、神があなたの祈りを助けるために聖霊を与えてくださると信じることです。

John Piper

これが聖霊に動かされて祈ること。次は聖霊に導かれて祈ることを考えたい。

「聖霊によって」祈るにはどうすればよいかという質問に対するもう一つの答えは、聖霊が霊感を与えた神の言葉にすべての祈りを一致させることです(2ペテロ1:21、2テモテ3:16-17)。ここで、毎日御言葉の中にいるようにという神の呼びかけと、いつでも聖霊で祈るようにという神の呼びかけが絡み合っています。もしあなたが神の御言葉の中で生活し、毎日読んで昼夜を問わず思い返し、一日中持ち歩くために暗記し、時間ごとに味わうなら、あなたの祈りは御言葉によって形作られます。つまり、御霊によって形作られるということです。

John Piper
上記はジョン・パイパーの提供しているサイトを引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/learning-to-pray-in-the-spirit-and-the-word-part-2
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ユダ20-21

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

ユダはクリスチャンが「信仰の上に自らを築き上げ」ることと、「聖霊によって祈る」ことが「神の愛の中に自らを保つ」方法だと語っている。祈りによって私たちは不信仰に陥ることを防ぎ、永遠の命に導かれる。これは私たちが何かをして自らを保つように読み取れるが、神が私たちを保っているのではなかったのか?(ピリピ1:6)

1 イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。
24 あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、25 すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。

確かに、1節によると私たちはイエス・キリストに守られている。24節でも私たちを「守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた」について書かれている。この方は25節にある「わたしたち救主なる唯一の神・・・イエス・キリスト」。なので、私たちはたしかにイエス・キリストによって守られ、救いが確実なものとなっている。

しかし、21節では明らかに「自らを保つ」ことが進められている。これは何をいみしているのだろうか?一つ考えられることは、私たちの行い(ここでは祈り)は「恵みの手段」だということ。

神の決定的な働きは私たちの依存的な働きと関係している。神が全てを治めていて救いを確定させてくれることは確かだが、私たちの祈りはそれと密接に関係している。ローマ6:22-23でも、救いは神が成すことだが、「神に仕え、きよきに至る実を結ぶ」ことは私たちがやることだと確認できる。私たちの永遠の命が守られる(聖徒の永遠堅持)のは神がすること (ユダ1, 24)で、私たちもすること (ユダ21)。なので、「神が私たちの魂を確実に守っている」(1, 24節) から私たちは「神の愛の中に自らを保つ」(20節) 必要はないと考えないようにしたい。

つまり「恵みの手段」とはこういうこと。「恵み」によって神は私たちの魂を守り、霊的に成長させて喜びで満たして下さる。「恵みの手段」は私たちが「神の愛の中に自らを保つ」方法。神が私たちを守って下さるから、私たちが自らを保つよう励まされ、支えられる。神が守ることは決定的で、私たちが保つことは神に依存している。

ユダの手紙は、クリスチャンを永遠の命の中に留めることと、忍耐することが主な目的である。立派に戦い抜いて、永遠の命を獲得する方法 (1テモテ6:12)。走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通す方法 (2テモテ4:7)。そして、最後まで耐え忍ぶ方法 (マルコ13:13) が記されている。忍耐は私たちがすること。信仰の土台の上に自分と隣人を建てあげる。祈る。そして神の愛の中に自らを保つ。

上記はジョイ・パイパーの提供している記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/learning-to-pray-in-the-spirit-and-the-word-part-1