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Esther

エステル

'急使はこの勅書を全国に送り届け、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、しかもその日のうちに、ユダヤ人は老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、その持ち物は没収されることとなった。 ' エステル記 3:13

ハマンはペルシア帝国の高い地位についたが、モルデカイはハマンに対して「ひざまずかず、敬礼しなかった」。ハマンはモルデカイに対して権威者だったが何故敬意を示さなかったか?二つ理由が考えられる。一つは、ハマンはアガグ人(またの名はアマレク人)であり、アマレク人はかつて神がイスラエルに根絶やしに(忘れられたように)するように命じた人々 (申命記25:17-19, 出エジプト17:8-16)。アマレク人であるハマンは「忘れるべき」存在なので、敬意を示すことはできなかった。二つ目に、当時権威者として置かれた人は神格化されていて、その人に敬意を示すということは、その「神」を崇拝する行為になってしまう。この二つの理由から、モルデカイはハマンに敬意を示さなかった。結果として、ハマンはモルデカイのみならず、モルデカイの民であるユダヤ人全員を根絶やしにするよう、王に働きかけた。

人は高い地位に置かれると高慢になりがち。それは政治のみならず、「先生」と呼ばれる立場、リーダーや管理者と言う立場などでもなりうる。自分の振舞いに関係なく、周りから敬意をもとめ、自分が特別な存在だと勘違いする。しかし、敬意を得るためにはまず自分がリーダーとしての素質を現わさなければならない。その中心的な素質はイエスがみせたサーバント・リーダーシップ(ピリピ2) と創世記1:28に書かれているkabashを実行すること。kabashというのは「支配し、耕し、組織化」することもあるが、対象者が「繁栄し、成長し、栄えるようにする」責任がある。敬意を求めるのではなく、相手の得を高めることがリーダーとしての役目。

'こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。 ' エステル記 8:11

ペルシアのルールとして王の指輪で印を押された文章は取り消すことができない。ユダヤ人を根絶やしにする文章はまだ有効であったが、エステルの働きにより、王はユダヤ人に自分たちを守る権利を与えた。ユダヤ人は自分たちから攻撃することができなかったが、攻撃されたときに身を守ることができた。また、攻撃する側に与えられた権利と同じ権利がユダヤ人に与えられた:「女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取る」。

ここから得られることとしては

  • 神を敬う人は権威も敬う (ローマ13:1)。ユダヤ人は王の命令が無ければ命を守るための集合はしなかった。命令があって初めて身を守るよう集合した。キリスト者は神が与えた権威に従うことによって、神に従っていることを自覚する。
  • 可能な限り周りの人との平和と保つ (ローマ12:18)。エステル書を見る限り、ユダヤ人はペルシア帝国にいる人たちと平和に暮らしていて、モリデカイのように王に仕えている人もいた。キリスト者はこの世と敵対するのではなく、世の中で起きていることを理解し、世の光としてキリストのために影響し、地の塩として神の創造を守る役割を担う。
  • 命の守る (ヤコブ1:27)。ユダヤ人が王の命令を受けて自分たちの命を守ったように、キリスト者も自分たちの命はもちろん、周りの人たちの命をも守る義務がある。特に立場の弱い人たちに手を差し伸べて、形のある支援を提供する必要がある。
  • いのちを守る (1ペテロ3:15, 2テモテ2:24-25)。ユダヤ人はペルシア帝国の支配下であっても、神の律法を守り続けた (エステル3:8)。キリスト者も、信じていることを聖書を通して説明できるように準備し、聖書の教えや福音を伝える行動に出なければならない。
'こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。 モルデカイが紫と白の王服に、大きな黄金の冠と白と赤の上着を着け、王の前から退出してくると、スサの都は歓声に包まれた。 それはユダヤ人にとって輝かしく、祝うべきこと、喜ばしく、誉れあることであった。 王の命令とその定めが届くと、州という州、町という町で、ユダヤ人は喜び祝い、宴会を開いて楽しくその日を過ごした。その地の民族にもユダヤ人になろうとする者が多く出た。ユダヤ人に対する恐れに襲われたからである。' エステル記 8:11,15-17

ユダヤ人を根絶やしにする命令が、ユダヤ人に命を守る命令で帳消しにされ、さらにモルデカイやエステルの政治的影響力を恐れ、ユダヤ人となった人が大勢いた。それぞれの動機は違うし、安心のためにユダヤ人となった人もいたかもしれない。しかし、「神の民」と呼ばれる人が増えたことを喜び、神の権威がペルシア帝国をも動かした偉大さを称えるきっかけとなる。

ペルシャ人の多くはユダヤ教に帰依したが、彼らが割礼を受けたかどうかは定かではない。しかし、彼らが偶像崇拝を放棄し、真の神を崇拝するようになったことは確かです。このような改宗者はいつの時代にもいましたが、特にユダヤ人の生活が非常に豊かだったダビデやソロモンの時代にはいました。ハマンはユダヤ人を絶滅させようと考えましたが、問題の中で、彼らの数が非常に増え、多くの人が彼らに加わったことが証明されています。ユダヤ人が喜びと楽しみを持っていたとき、人々の多くがユダヤ人になったことを覚えておいてください。宗教を公言している人々の聖なる陽気さは、彼らの信仰にとって大きな装飾であり、他の人々に宗教心を持つように誘い、励ますものです。しかし、この時期に多くの人々がユダヤ人になった理由として、別の理由も挙げられています。それは、ユダヤ人の恐れが彼らに及んだということです。彼らは、この重大な局面において、神の摂理がいかに素晴らしく彼らを所有し、彼らのために働いたかを見て、彼らは偉大であり、彼らの中にいた者は幸せであると考えた。そして、彼らは自分たちが手に負えない存在であり、自分たちが敵対することは惨めであると考えた。彼らは、ハマンの運命を見て、ユダヤ人に危害を加える者がいれば、それは彼らの危険につながることをはっきりと理解し、それゆえ、自分たちの安全のために、彼らに加わったのです。イスラエルの神と争おうと考えるのは愚かなことであり、したがって、神に服従しようと考えるのは賢明なことです。

https://biblehub.com/commentaries/benson/esther/8.htm

キリスト者になる、教会に加わる、ということになるまで様々なきっかけがある。礼拝で説教を聞いた、というのも一つかもしれないし、日常の生活でクリスチャンとの関わりや、教会主催のコンサートやキャンプでもイエスに導かれる。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」ピリピ1:18

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Titus

テトス3

'人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。 ' テトスへの手紙 3:1-2

「支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならない」

どんな支配者や権威者であっても服すべきなのか?信仰に反することを強要されても従うべきなのか?ローマ12からヒントを得られる。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身にさばきを招くでしょう。実際、支配者は善を行う者にはそうではないが、悪を行う者にはおそろしい存在です。 ローマ12:1-3

「神に由来しない権威はない」神はすべての権威を立てている。この権威を通して神は悪に対して裁きを下す。かつてイスラエルを支配したペルシア帝国でさえ、イスラエルの敵であるハマンに裁きを下した。民主主義においては、司法を通して裁きを下す。神が立てた権威者だからそれに従う。しかし、権威者は神の下にあることがポイント。神の権威はどの地上の権威者よりも上にあり、神の権威に従うことが優先される。なので信仰に反することが強要される場合は神の権威に従う。

テトスから見られるもう一つのポイントが、「善い業を行う用意」。権威者に従う上で「善い業を行う」ことが前提。権威者に従うことを通して「善い業」を行うことができるだろうか?「争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する」ことができるだろうか?世の中の権威者、教会内での権威者において、「善い業」を行う妨げとなる要求をされる場合がある。その時は地上の権威者でなく、神に従うことが優先される。

'愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。 あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。 ' テトスへの手紙 3:9-11

では、この「善い業」は何を基準にしているのか?律法なのか?9~11節には「愚かなギロ、系図の詮索、争い、律法」について言及している。律法に記されている細かい規定を議論し、それをルールとして人々に強いる「愚かな議論」。長年の模索して見出した「文化」や「伝統」を守るための「系図の詮索」。「安息日=礼拝を守る」「十一献金」「十戒」の「律法」を新約に直接適用すること。これらは「無益で、むなしいもの」で、分裂を引き起こす。この状態が続くと「悪いとしりつつ罪を犯す」ことになる。なので、これらは「善い業」の基準ではないことが分かる。

'神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 ' テトスへの手紙 3:5-7

「キリストの憐れみ」が基準。キリストが私たちを「新たに造りかえて」くださったことから私たちは「善い業」をすることができる。また、私たちの力だけでは「善い業」はできない。注いで下さった聖霊によって行うことができるので、聖霊に頼ることを覚えなければならない。

また、私たちは永遠の命を受け継ぐ者なので、この世の権威を畏れる必要はない。自信をもってキリストを伝え、キリストを教えを、「善い業」を、実行することができる。

'この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。 ' テトスへの手紙 3:8
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Titus

テトス2

'しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。 ' テトスへの手紙 2:1

健全な教えに適う行動について、テトス2:2~10ではいくつかのグループに対して勧めをしている。

  • 年老いた男は「節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように」
  • 年老いた女は「聖なる努めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教えるように」
  • 若い女は「夫を愛し、子供を愛し、 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うように」
  • 若い男は「思慮深くふるまうように・・・良い行いの模範となり・・・教えるときには、清廉で品位を保ち、 非難の余地のない健全な言葉を語る」
  • 奴隷は「あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように」

しかしこれは健全な教えを受けた結果の行動であって、健全な教え自体が何なのか明らかにしていない。この健全な教えについて、続く箇所で明らかにしている。

'実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。' テトスへの手紙 2:11-13

健全な教えは以下が含まれている。

  • 「救いをもたらす神の恵み」
    イエスの十字架によって、私たちは恵みによって救われている。
  • 「不信心と現世的な欲望を捨てる」
    罪の生活から救い出されたのだから、罪と戦い戻らないように努める。聖霊の力によってイエスのようになっていくよう務める。
  • 「この世で思慮深く、正しく、信心深く生活する」
    この世で生きる上で、キリストの名にふさわしい生き方をし、キリストを述べ伝えるには何をすべきか模索する。
  • 「キリストの栄光の現れを待ち望む」
    今の世の中は一時的なもので、いつかキリストの支配に戻されることを待ち望むことによって、希望に満ちた生き方ができる。
'キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。' テトスへの手紙 2:14-15

私たちは「あらゆる不法から贖い出された」。そして、「良い行いに熱心」になるようにされた。この健全な教えを「十分な権威をもってこられのことを語り、勧め戒める」。

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Titus

テトス1:10-16

'実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。 ' テトスへの手紙 1:10-11

割礼を受けている人たちは何を教えていたから「不従順な物、無益な話をする者、人を惑わす者」というレッテルをはられたのだろうか?ユダヤ系クリスチャンは、キリストを受け入れたとしてもモーセ律法を守り続けなければならないと信じていた。十戒を守らなければならない、安息日を厳守しなければならない、十一献金を捧げなければならない、割礼を受けなければならない。キリスト者は律法の下にいない(ローマ6:14) ことを理解していなかった。それは、キリストが十字架で律法を成就してくださったこと (ローマ10:4、マタイ5:17) を理解していなかったとも言える。ユダヤ系クリスチャンが他のキリスト者に律法を強いることによって、キリストの救いが完成されていることを濁していた。救われても律法を守り続けなければならないと惑わしていた。なので彼らは「不従順な者、無益な話をする者」とされていた。現代の教会においても、恵みよりも律法(ルール)を強いる人たちがいる。「その者たちを沈黙させなければなりません。」

'清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。' テトスへの手紙 1:15-16

汚れている人は知性と良心が汚れている。生きがいや達成したい目標は、インプットされた知性から導き出される。その知性や良心が汚れてしまうと、生きがいや目標も汚れたものとなる。これが行動として、「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定する」ことになる。神の義ではなく、自分の義が目的ならば、それを他人に押し付ける行動に出る。しかし、神の義に焦点を当てるなら、まず自分から変わらなければならない (マタイ5:7)。

また、神礼拝でなく、式典を重視するのが目標であれば、言葉で神を礼拝しているかもしれないが、心は式典の進行に執着している。このような礼拝は「なまぬるい」だけなので、神は受け付けない (黙示録3:16)。本当の礼拝は何か?霊と真 (ヨハネ4:23)を伴う礼拝。

感情を伴わない真は、死んだ正統派と、人工的な崇拝者であふれた・・・教会を生み出します。・・・一方、真理を伴わない感情は、無意味な熱狂を生み、思考力を否定する浅はかな人を育てます。しかし、真の礼拝は、深い感情を持ち、健全な教理を愛する人々から生まれます。真理に根ざした神への強い愛情は、聖書的な礼拝の骨と髄です。

https://www.thegospelcoalition.org/article/what-does-it-mean-to-worship-god-in-spirit-and-truth/
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Church Titus

テトス1:1~9

'神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。―― ' テトスへの手紙 1:1-3

「神に選ばれた人々」「永遠の昔にこの命を約束してくださった」ここに「神の選び」の証拠が明らかにされている。神はこの世が始まる前からキリスト者を選び、救われることを定めてくださった。最終的に人が神を選ぶのではなく、最初から神が人を選んでいる。それだけキリスト者は特別な存在で、信仰を持つことができた事実に大いに感謝するべき。

「信心に一致する真理の認識に導く」「宣教を通して御言葉を明らかにされました」「宣教をゆだねられ」キリスト者は選ばれたからこそ、それと伝えていく義務がある。「宣教を通して」知ることができて、同じ「宣教」をゆだねられている。キリストを伝えていくことこそが「信仰に一致する真理」。キリスト者だけで仲良く日曜日に礼拝するために救われたのではない。イエスを宣べ伝えるために救われたのである。

'教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。 ' テトスへの手紙 1:9

ここではパウロは長老についての要件について書いている。そのうちの一つとして、「教えをしっかり守る」ことと、「勧め」「敗退者の主張を論破」しなければならない。「これまで守ってきたことだから」と教えを押し付けることは「勧め」ではないし、教会員を洗脳するのと同じこと。また「伝統」に基づく議論は「論破」にはつながらない。みことばだけが真理を語り、人の考えを変えることができる。1~3節にあるような、聖書に基づく証拠を良く理解し、提示することができなければ長老は勤まらない。

'未熟な者は何事も信じこむ。 熟慮ある人は行く道を見分けようとする・・・ 浅はかな者は無知を嗣業とし 熟慮ある人は知識をその冠とする。 ' 箴言 14:15,18

1テサロニケ5:21にあるように、うのみにせず、聖書をしっかりと確認し、聖霊に理解を求め、考えて結論を出したのちに、その真理の上に立って守ることが「熟慮ある人」。このような行動をする人が長老として務めるのに相応しい。

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Gospel Timothy

2テモテ4

'御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 ' テモテへの手紙二 4:2-8

何をすべきか

みことばを宣べ伝える。パウロはまずこれをテモテに対して進める。イエスの大宣教命令があるので当然のことだろう。これは福音を伝えるのはもちろんだが、聖書全体がみことばなので、聖書全体を宣べ伝えることでもある。「とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教える」みことばを語ることによって心が痛むことがあるかも知れない。すべてが励ましではない。それでもみことばを語ることを辞めず、忍耐強く、理解し受け入れるまで語り続けることが重要。

取り巻く環境

「折が良くても悪くても」みことばを伝えることの逆風があるのもまた当然のことである。国の政策だったり、職場のルールであったり、または宗教的リーダーの思惑によって、みことばを学んだり語ることを止める動きは多くある。「健全な教えを聞こうとしない時」はまさに今ある。これまでの伝統を守ることを重視しすぎるがため、聖書の教えを無視することが起きている。「好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」多くの人が同じ方向を向いていると、人は同じ方向を向こうと必死になる。「守ってきた」ことが大事であるがゆえに、同じ考えを持つ人と組んで、違う考えを持つ人を締め出す。このような環境下でみことばを語らなければならない。

どのように進めていくか

「どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」「身を慎む」=nepho=心に余裕を持つ、明確な判断力、節制、自制。どんなに環境が悪くても、聖書に思いを巡らして、しっかりとみことばの上に立つようにする。宗教的リーダーが間違ったことを教えても、聖書から正すことができるように準備しておく。仲間がいないことから苦しむかもしれないがそれを耐え忍び、福音宣教の仕事に励む。福音宣教はキリスト者全員の仕事であり、牧師や宣教師や伝道師だけがやっていれば良いことではない。福音宣教はキリスト者の勤めなので、それを果たさなければならない。

結果

この世においてマイナス面の結果はある。「いけにえとして献げられ」「世を去る時が近づきました」パウロにとっては国家によって福音のために処刑される次期が近づいていた。全く同じではないが、これまで「仲間」だと思っていた人たちから切り離され、排除されることはある。正しいことをすれば迫害は受ける (2テモテ3:12)。しかし、良い面としては「正しい審判者である主」から「義の栄冠を受ける」。神は必ず正しい判決を下し、報いと罰を正しく与える。報いの一つである「義の栄冠」とは何か?

報酬は、神の霊によってパウロにもたらされた義が評価されたもので、冠は義人のために用意されていますが、それは義からなる冠です。義はそれ自身が報酬となります(黙示録 22:11)。出エジプト記39:30と比較してください。人は、キリストの功績によって無償で義とされ、そのように義とされたとき、神はその人の行いを受け入れ、その人に与えられるべきものではなく、恵みによって与えられる報酬をもって、その人を讃えるのです。「神の人間に対する善意は非常に大きいので、人間の行いは神自身の贈り物にすぎないが、功徳となることを望んでおられる」[教皇セレスティヌス1世『書簡集』12]。

Jamieson-Fausset-Brown Bible Commentary
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2テモテ3:10~17

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。 テモテへの手紙二 3:12‭-‬14 新共同訳

「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていく」間違えや失言を認めず、謝罪を求めていても公の場では「言った覚えがない」「そう言ったつもりはない」と自分を守る行動にでる。こうやって、惑わす行為を続けていき、信用を失っていく。同時に、神の道に正しく生きようとする人、そしてそれを伝えようとする人を締め出し、影響力を留める行動に出る。まさに「信心深く生きようとする人は皆、迫害を受ける。」しかし、聖書や多くの神学者から「学んで確信したことから離れる」必要はない。いかに「教会」という組織が一つの教えに注力したとしても、それが間違っていると聖書から確信しているなら、それを曲げる必要はないし、むしろ正しい方向に向かうように指摘していきたい。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 テモテへの手紙二 3:15‭-‬17 新共同訳

聖書には絶対の自信をもつことができる。聖書は信仰問答や人の書いた本より優れているし、「救いに導く知識」を与えるのも聖書しかない。聖書に従う人は「神に仕える人」であり、本当の「善い業を行うことができるように、十分に整えられる」。アメリカのホテルや刑務所では信仰問答や人の書いた本は置かれていない。聖書が置かれている。聖書にはそれだけの力があるからだ。教会においても、聖書を読むのは礼拝の式典の中だけに留まらず、会議においても、学びにおいても、毎日のデボーションにおいても、聖書を読んで思いを巡らすことによって、聖書の力を体験することができる。キリスト者が全員そうすれば、一人の教えに頼り切ることも、イエスの教えよりも伝統を重んじることも軽減される。「悪人や詐欺師」に惑わされることはなくなる。

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2テモテ3:1~9

'しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。 ' テモテへの手紙二 3:1-5

「自分自身を愛し、金銭を愛し」自分のことだけに焦点が当たれば、自分のためだけに行動するようになる。金銭も同様、自分の懐を大きくすること、自分の礼拝する会堂が快適になるようになど、自分への投資が大きくなる。「ほらを吹き、高慢になり」自分を正当化するためになるべく多くの人に自分の主張を言いふらし、それに同意する人が増えるたびに高慢になっていく。「神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなる」自分中心になれば神のことは二の次。自分が立てあげてきたものを守るために神の意思を探らなくなり、結果的に神を畏れることを忘れ、あざけることにもなる。「情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になる、善を好まず、人を裏切り」他人の間違えや弱さに対して厳しい目でしか見なくなる。イエスが赦したことを忘れ、「正しさ」だけを追求する。「教会の秩序」を理由に、ろくな話し合いをせず切り離していく。「軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し」自分たちだけが正しいと思い込み、聖書を見直して自分たちの考えや方向性が正しいか確認することを怠る。「すでに聖書は学び終えた」という考えに陥る。「信心を装いながら、その実、信心のちからを否定するようになる」「礼拝」という名の式典を毎週行っていて、「学び」という名の読書感想会を行っているから信心があると勘違いしている。信心のちからを理解せず求めずに、知識や形だけを求めてしまう。

いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。

テモテへの手紙二 3:7
しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。 ' テモテへの手紙二 3:9

「彼らの無知がすべての人々にあらわになる」聖書は生きていて、真理を示すことができる (ヘブル4:12-13)。聖書を読み、ルールやしきたりを吟味することによって、何が真理で何が伝統かを分けることができる。皆が神のみことばにひれ伏すとき、形にこだわることがいかに無知だということが分かる。また、間違った教えを押し通し、しきたりをベースに支配し続ける人々は厳しく裁かれる (ヤコブ3:1)。神の主権に任せ、聖書に示された真理を貫き通すことだけに注力したい。

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 

ヘブライ人への手紙 4:12-13
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2テモテ2:14~26

あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。 俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、 その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。 テモテへの手紙二 2:15‭-‬17 新共同訳

「資格者と認められて神の前に立つ者」。この場合はテモテで、牧師に向けられた言葉だと言えるが、同時に資格が認められて長老(役員)と選出された人たちにも当てはまる。「俗悪な無駄話」というのはなにか?この箇所で上げている例は、キリストが再臨し、先に死んだキリスト者の肉体がすでに復活した、という説が出回っていること。この教えは迫害の中で生きているキリスト者の信仰を揺さぶっていた。信仰を揺さぶる話は今も講壇から語られている。「日曜礼拝を守る」という名目で、日曜日に教会に来ていない人を責める。関係ない聖書箇所を利用して海外からの宣教師の働きを非難する。こういったキリスト者の信仰を揺さぶり、福音の働きを妨げる行為は「俗悪な無駄話」。悔い改めがない限り「不信心」に陥り、講壇から語られることによって「腫れ物」のように教会全体に広がってしまう。

語られることを注意深く吟味していないと、知らないうちに自分たちもリーダーのように他教会の福音の働きを理屈なく非難するようになる。自分たちの教会だけが正しいと思い、自分たちの教会の教えだけを守ることに注力、内面的思考に陥る。教会員が外部で何をしているか、何を学んでいるか監視する体制を作るようになる。まさにカルトのような状態。

しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。 テモテへの手紙二 2:19 新共同訳

このような「俗悪な無駄話」をする人たちに対して一つ希望をもてることは、「主はご自分の者たちを知っておられる」「主の名を呼ぶものは皆、不義から身を引く」こと。キリスト者はみな、すでに神の主権の中にある。神はキリスト者を選び、誰が本物か偽物かはすでに見分けている。まだ、キリスト者が最後まで信仰を守る通すようにしてくださる。「俗悪な無駄話」をする「不義から身を引く」ように働きかけてくださる。

神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。 テモテへの手紙二 2:22‭-‬26 新共同訳
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2テモテ2:1~13

そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。 テモテへの手紙二 2:1‭-‬2 新共同訳

パウロはテモテに、福音を伝える仕事を「教えることのできる忠実な人たちにゆだねる」ように指示している。牧師としてすべて背負い込まず、教会員も責任を担えるようにトレーニングすることを勧めた。大事なポイントは「教えることのできる」「(福音に)忠実な」人たち。このレベルに達していない人は長老(役員)の職につくべきなのか?この箇所の「できる」はギリシャ語で「hikanos=十分に能力がある、価値ある、適している、素質がある」という意味がある。リーダーになる人はただ物事を知識として知っていて、それを説明することのできる人を指しているのではない。教えるのに十分な能力があり、リーダーとしての素質があり、教会のビジョンと方向性を示すのに適している人でなければならない。

長老(役員)の資格は1テモテ3:1~7に記されている。このリストに当てはまらない人は長老(役員)候補のリストにも乗るべきではない。「礼拝に出席している」「献金している」はこのリストに乗っていないのも興味深い。要は、礼拝することと献金することは当たり前で、それ以上の資格が長老(役員)には求められている。ただ人数を満たすための役員会は必要なく、本当に資格のある人を長老(役員)候補として選出し、神の召しを自覚しているか当人と確認し、教会全体で確認することが、福音のために働ける長老(役員)を立てることになる。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

テモテへの手紙第一 3章 1〜7節