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2ペテロ3:10-18

10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

この世はいずれ焼かれてなくなってしまう。終わりの日に神は今の天地をなくし、新たな天地を創造される。この日に残されるものは立派な建物や伝統や組織ではない。「きよく信心深い行い」だけが残される。私たちは永遠を中心においた生き方をしなければならない。神の見方で物事をみなければならない。そして、燃やされるものではなく、残されるものに身を投じる必要がある。

12節の別の訳では、「神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません」とある。「到来を早める」にはどうすれば良いのか?9節によると、神は「すべての人が悔い改めに進む」ことを忍耐しているため来臨を遅らせている、と書かれている。つまり、福音が述べ伝えられ、悔い改めに進み、「きよく信心深い行い」をする人が増えることが、来臨を早めることにつながる。

13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。

主の日によって焼かれていくものにではなく、「新しい天と新しい地」を得られることに注力することが進められている。そして「新しい天と新しい地」を得られるのだから、私たちは「しみもなくぎずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励む」ことが進められている。どのように励めば良いのか?1ヨハネ1:7にヒントが書かれている。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」イエスの血がすべての罪をきよめて下さるから、私たちはシミも傷もない。光の中を歩んで互いに交わりを持つことによって「安らかな心」をもつことができる。

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2ペテロ3:1-9

3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

クリスチャンの希望の一つはキリストの再臨。キリストは天に戻る前に、天で私たちの場所を用意してくださることと、また地上に来ることを約束している。しかし、キリストが天に戻って2000年以上経過している。キリストは本当に戻って来るのか?約束を成就して下さるのか?と不安に思う人もいるかもしれない。それこそキリストを信じていない人は、「主の来臨の約束はどうなったのか」とクリスチャンをののしり、キリスト教だけでなく宗教自体の存在を、心の安心のために作り上げた空想の話に引き下げてしまうことがある。

そんな時、キリストの言葉を覚えておきたい。キリストの言葉と約束は絶対で、必ず成就する。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

ヨハネ14:1-4
5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

神は天地をことばによって創造したが、同じことばによって不信仰な人が裁かれ、滅ぼされる。この裁きのことばはまだ実行されていない。ある特定の日のために残されている。今虐げられているクリスチャンにとっては、神が全てを裁き、全てを正す日を待ち望むことができる。だからクリスチャンは復讐せず、他人を裁かない。「自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ローマ12:19)。

8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

同時に、神は哀れみの神でもある。神の一日は千年のようであるので、2000年といえばまだ2日ほどしか経っていない。神は「すべての者が悔い改めに至ることを望」んでいる。罪を悔い改め、キリストに信頼をおくならば、神は必ず赦して下さる。神が用意していた裁きはキリストの十字架によって成就されたものとされる。全てを正して下さる神に感謝しつつ、すべての人が悔い改めることを望む神の忍耐力から学んでいきたい。

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2ペテロ2:10-22

10 こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。11 しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。

にせ預言者は「栄光ある者たち」をそしる。「栄光ある者たち」というのは、神とキリストのことを指している。それに比べて御使い=天使たちは、にせ予言者たちをそしらず、裁きを神に委ねている。にせ預言者と天使たちの対応に大きな差が見える。一方は自分たちが正しいと主張し、自分たちの考えをベースに神が愛する人たちを (「戒規」という名のプロセスにを利用して) 裁く。もう一方は裁く権利があったとしても神に裁きを委ねる。

12 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。

また、にせ予言者は動物のように例えられている。自分たちが何を語っているか理解せず、その発する言葉でキリストの栄光をそしっている。この人達は動物のように「必ず滅ぼされてしまう」。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:12)。私たちは自分に満足せず、辿り着いた場所におごらず、絶えず神の恵みに頼ることを覚えるべき。

13 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。14 その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は・欲に慣れ、のろいの子となっている。15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。

まるで教会内で宴会が開かれていて、にせ予言者たちは「しみ」や「きず」でありながら平然と参加している (3:14とは正反対)。その人達は常に淫行の目で教会をを見渡し、弱い立場の人を誘惑し、金銭的な欲に潰れる。それはまるでモアブの王がバラムという予言者にに呪いを語らせるように金銭を支払ったかのうよう (民数記22:7)。にせ予言者は、特別な教えを授ける代わりに金銭を要求していたと思われる。誰だって金を払えば、その対価を真面目に受け取るだろう。教会に投資すれば投資するほど、間違った教えにも耳を貸してしまう。

そして、にせ予言者は14節にあるように「定まらない者を誘惑」する。18節でも同じようなことが書かれている。「迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し」つまり、クリスチャンになったばかりの人や、真理が定まっていない人のことを指している。ここで語られているのはまず、自分自身が聖書をしっかりと理解して真理の土台を築くこと。そして自分の子どもたちや新たなクリスチャンに対しても聖書の真理に立てるように育てることが急務。教会として互いに聖書に根付くように励まし合うことが重要。

17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。

教会内で水のない井戸と、生ける水の区別がつくようになる必要がある。一方は永遠の命が溢れ出る。もう一方は闇に落ちていき、泣き叫びや歯がみがあるところに導いてしまう。見極められる人たちになりたい。

18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

にせ予言者は自由を約束して新たなクリスチャンや定まっていない人たちを誘惑する (19節)。しかし、本当の自由は 1) キリストの十字架によって私たちを罪の力から開放したこと、2) 自分の力で律法を守る必要がなくなったこと、3) 聖霊に新たな心が与えられ、聖なる者になることに喜ぶこと。

あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

ガラテヤ5:13
20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

キリストを知れば知るほど、キリストに従わない罰は重くなる。知らなかった状態の方がむしろ良かったと思えるほどになる。ここでは神が選びだしたクリスチャンは救いを無くすことができるとは教えていない。しかし、教会員の中では、信仰を告白し、教会の行事に参加し、教会のルールを守っていても救われていない人もいる可能性があることを指している。ルールに従ってもキリストに従っていなければクリスチャンではない。世の中の人はルールに縛られる生き方に常に戻りがち。まさに「犬は自分の吐いた物に帰り」、豚はどうきれいにしても豚のままであることが分かる。

19 彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。

1ヨハネ2:19

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

ヘブル3:14

救われた者は最後まで信仰を保つ(=キリストに従う)、と聖書は示している。2ペテロ2章は救いを確認するための箇所でもある。私たちを贖った主を否定しないように警告し(1節)、霊的な高慢と自己満足 (11−13節)、金銭を愛すること (14-16節)、みだらな行い(2, 7, 14, 18節) の誘惑に陥らないよう力づけてくれる。

上記の多くはジョン・パイパーが提供するサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/better-never-to-have-known-the-way
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2ペテロ1:12-21

16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

クリスチャンは単なる「宗教」信じているのではない。実際にイエス・キリストと共に過ごし、十字架上の死を目の当たりにし、死から復活したイエスと話して食事をし、天に帰るイエスを見送った目撃者の証言をベースにしている。その目撃者がクリスチャンの集まりだけにとどまり、礼拝を捧げるだけを重要視し、世の中の全てを否定しただけではキリストの教えは広まらない。彼らは、迫害されても、投獄されても、殺されても、福音を宣べ伝えることに人生を注いだ。隠れてプライベートで宗教を守る人は多くいるが、迫害されても信仰を生き抜く人はそれほどいないだろう。その信仰の姿勢を見て、多くの人はキリストに人生を明け渡し、クリスチャンとなってきた。

​​16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

マタイ7:16-20
19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

予言の言葉は神から与えられ、神に選ばれた人がそれを聖書に記している。そのみことばが私たちの「心の中を照らす」ときに、私たちはキリストを受け入れることができる。だから私たちはみことばに「目をとめている」必要がある。また、聖書を理解するために聖霊の働きは不可欠。なぜなら、人間の書いた神学書や参考書や信仰問答の解釈で聖書を読むと、聖書を自分勝手に解釈することにつながるから。聖書そのものを読み、聖霊による理解を得ることによって、みことばは生きたものとなり、私たちを変えていく。

12 神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

ヘブル4:12
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2ペテロ1:1-11

1 イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。2 神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。

イエス・キリストとの義によって、わたしたちは信仰に預かる。イエスが十字架にかかって私たちの罪の代価を支払ったことによって、私たちの神に対する負債はなくなった。私たちが犯してきた罪、今も犯している罪、今後犯す罪は全てキリストの十字架によって赦されている。だから私たちは神と義の関係をもつことができる。裁く者と裁かれる者の関係ではなく、「アバ、父よ」と呼べる関係に修復された。だから私たちに「恵みと平安とが・・・豊かに加わる」。イエスを知ること、神を知ることが真の喜びであり、この世が与えられない恵みと平安がイエスとの関係の内にある。

3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

いのちと信仰に係る全てのことは、イエスの力によって、私たちに与えられている。神に直接祈ることができるし、現代では聖書が与えられ、それを読むことによって神からの直接なメッセージを受け取ることができる。教師や牧師の力を借りなくても、自分で聖書を読み、聖霊に明らかにしてくださることによって信仰を育てることができる。また教会で聖書について分かち合うことによって、励まし合い、互いを建てあげることができる。人の書いた本では励まし合いには限界があるが、聖書を分かち合うことは永遠につながる。聖書が全てのベースとなっているからこそ、説教も聖書を忠実に語らなければならない。語り手の神学や人間的理念に聖書のメッセージがかき消されたら説教の良さがなくなってしまう。聖書を読むことを推奨しなければこのような問題をチェックするすべもなくなる。「すべてのものを識別して、良いものを守る」(1テサロニケ5:21) ことが重要なので、聖書を読み続けたい。

5 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、6 知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、7 信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。8 これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。

キリストを信じて信仰を持つことはスタートにすぎない。信仰に徳を加え、知識、節制、忍耐、信心を加えていく。ここまでは自分の成長に関することだが、クリスチャンは自分さえ成長すれば良いことではない。兄弟愛と愛を加え、互いを思いやり、互いのために祈り、互いのために尽くすことが重要。これはただ日曜礼拝を「守って」いるだけでは起きない。日曜礼拝以外の、共に学ぶ場や祈り合う場、物理的に支え合うことによってクリスチャン同士の兄弟愛を強めることができる。そしてそれが教会に留まらず、教会外の人たちにキリストの愛を示し、「実を結ぶ」ようになっていく。この成長がクリスチャンに求められている。

9 これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。10 兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。

この成長段階のどこかで止まっていて「成長しきった」「もう聖書は学んだ」と言っている人は「盲目であり、近視の者である」。だから礼拝だけに固執し、教会の体制やビジョンをろくに考えず建物を大きくすることに先走ってしまう。「礼拝を守る」のではなく、キリストに向かっていく姿勢が必要。「ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。」

13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

ピリピ3:13-14
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1ペテロ5:1-7

2 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。3 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。

この箇所の前提にあるのは、クリスチャンは「羊の群れ」の一部であるべきこと。神と個人的な関係を持つことも大事だが、ローカル教会につながって励まし合い、教え合うことが、新約聖書の示しているクリスチャンの形。そしてその群れを牧するリーダーにそのローカル教会がゆだねられている。他の教会や宗教団体に対して口出しし、批判することは教会のリーダーの範疇にない。「ゆだねられている神の羊の群れを牧する」ことに注力することが求められている。

では、リーダーはどのような動機をもって群れを牧するべきなのか?

まず「こうではない」という動機を取り上げる。「しいられている」というのは、ルールを守らなければならないから、罰せられるから、しかたなくという動機。「利得のため」というのは、自分の欲のため、みかえりや金銭を受けるという動機。「権力をふるう」というのは、プライドを保つため、承認欲求を満たし、相手を従わせるという動機。これらの動機には喜びがなく、世俗的な動機でしかない。

では、「こうしなさい」という動機はどのようなものがあるか?「自らすすんで」キリストに安心を得ているから、喜んでキリストのために仕えるという動機。「本心から」他の何かを得なくても、キリストに満たされているからそれを分け与えたい熱意がある。「模範となる」キリストのように自分を低くして、模範としてキリストに仕える。これらの動機にはキリストが与える喜びがある。

リーダーがこのように教会を牧会すると2つの利点が生まれる。

一つは、キリストを称えることになる。キリストは、1ペテロ1:14-19にあるような、「無知であった時代の欲情」や「空疎な生活」から私達をあがない出してくださった。恐れと欲とプライドから贖い出し、安心からの喜び、満たされた熱意、へりくだり仕えるようにしてくださった。これらはキリストの血によって可能となる。

もう一つは、健全な教会を建てあげるようになる。ヘブル13:17には、「彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない」とある。つまり、嘆くリーダーは教会の益にならない。喜びのあるリーダーが人々の助けとなる。安心からの喜び、満たされた熱意、へりくだり仕えることが、キリストにおける喜びを表し、健全な教会を建てあげる。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-not-to-lead-a-church

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1ペテロ4:12-19

12 愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。

「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(2テモテ3:12) キリストのために生きれば迫害を受ける。これは驚くべきことではない。誰もが正しいことを主張し、伝統や文化に対して真理を語ると反発を受ける。世の中でも、教会の中でも同じ迫害を受けることがあるが、それに驚くのではなく、キリストの苦しみにあずかれることを喜ぶべき。

13 それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。14 キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。

キリストが再臨すると全てが明らかになり、全てが正される。虐げた者は罰せられ、虐げられた者は報われる。最も、キリストの栄光を体験すると、キリストのためにした全てのことが、やったかいがあったと感じるようになる。だから生きている間、「飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(1コリント10:31)

16 しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。
19 だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。

真理と違うと分かっていながら見過ごすのも神のみこころではない。むしろ罪である。「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」(ヤコブ4:17) 神を愛しているなら善を行いたくなる。「神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:2-3) 

善を行うと、この世において苦しみにつながるかもしれない。しかしそれは神のためにやっている証拠なので、神をあがめるきっかけとなる。善を行う人、それを虐げる人、真理を守ろうとする人、それを捻じ曲げて自分の立場を守ろうとする人。すべてを治める神に自分のたましいを委ねて、やがてすべてを明らかにしてくださる主に信頼していきたい。

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1ペテロ4:1-11

4 今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。5 彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。6 死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。

「死人にさえ福音が宣べ伝えられた」とはどういう意味なのだろうか? 死人に福音を伝えることはできるのだろうか?「霊においては神に従って生きるようになる」ということは、死んだ後でも福音を信じるチャンスが与えられる、ということなのだろうか?

仮に死んだ後でも福音を信じるチャンスがあると仮定しよう。この箇所の流れとしては、「ののしっている」(4節) 人たちに対してやがて裁きが下る (5節)。その裁きが下った人たちに福音が伝えられ、神に従って生きるようになる。この話の流れはおかしくないか?ののしっている人に対して裁きが下るのに、その人達に神に従うチャンスが与えられるのか?神に立ち返るチャンスは生きているうちにあるのに、それをないがしろにした人たちに対して裁きが無いのは神の義に反していないだろうか?

この箇所の自然な流れからすると、クリスチャンに対して2つの励ましのメッセージが伝えられているように思える。

一つは分かりやすいが、私達をののしっている人たちにたいして、神の裁きが下る。クリスチャンとして私達は以前の生き方のように乱行に加わらない。この世に調子をあわせない。神を第一とする生き方をする。なので世の中は私達の行動に驚きあやしみ、危険な存在だとののしる。やがてこの人達も死ぬときがくるのだが、その時に神はこの人達を裁く。私達はこの世で何度も不当な扱いを受けるが、神の裁きは全てを明らかにし、全てを正して下さる。

もう一つの励ましのメッセージは、クリスチャンが神に従って生きるようになること。6節はののしる人たちに福音が宣べ伝えられるのではなく、生きている間に福音のメッセージを受け入れ、神に従うと決めたクリスチャンのことを指している。そのクリスチャンは人間の「さばき」を受けて投獄され、処刑されたかもしれない。しかし、福音を受け入れたクリスチャンは霊において神に従って永遠に生きるようになる。この世において肉の「さばき」を受けるかもしれないが、この世と肉体を超えて神は私達を生かして下さる。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/is-there-any-hope-for-the-dead

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1ペテロ3:13-22

18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。20 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。

イエスは「肉においては殺されたが、霊においては生かされた」。そしてその霊をもって「捕らわれている霊」に「宣べ伝えることをされた。」キリストは何を宣べ伝えたのだろうか?また、この「捕らわれている霊」は誰なのか?人なのか、悪霊なのか?仮に人だとしたら、いつの時代の人たちのことを指しているのだろうか?ノアの時代にいた人たちなのか、キリストの死と復活の間に捕らわれていた人なのだろうか?

Thomas R. Schreinerの解説書によると3つの考え方がある。

1. キリストは、ノアという預言者を通して、ノアの時代の人たちに福音を宣べ伝えていた

この根拠は1ペテロ1:10-11とされている。この箇所では預言者「のうちにいますキリストの霊」によって神の言葉が語られていたことが記されている。ノアも預言者のうちの一人なので、キリストはノアを通してその時代の人たちに福音を宣べ伝えていた。そして、それを信じなかった人たちは今、獄に捕らわれている。

2. 旧約の人たちが獄に捕らわれていて、キリストが死んだあと彼らに福音を伝えた。

この根拠はエペソ4:8-9とされている。「彼は高いところに上った時、/とりこを捕えて引き行き、/人々に賜物を分け与えた」キリストは十字架にかかって死に、獄に捕らわれている人たちの所へ行って福音を伝えた。そして復活して天に戻る時、信じた者をも天に引き上げた。

3. キリストは、悪霊に対して勝利を宣言している

この根拠は1ペテロ3:22とされている。キリストは天に上って神の右の座につくことによって、天使と悪霊を従えた。創世記6章に記されているような「ネピリム」(神の子、つまり天使) は今は獄に捕らわれているが、イエスは十字架と復活によってその悪霊たちに対して勝利を宣言している。

この3つの考えを踏まえて、私達はどう判断し適用すれば良いのだろうか?一つできることは、ペテロが何を言いたかったのかを確認することだ。

21 この水はバブテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

神が洪水で人類を滅ぼすと宣言したとき、8人が箱舟によって洪水から命を救われた。神の裁きは絶対であっても、この少数の神に忠実な人たちは救われた。ペテロが生きていた時代、教会はローマ帝国の中で虐げられていた。「さばきが神の家から始められる時がきた」 (1ペテロ4:17-18)。教会に対してだけでなく、その時代の全ての人に対して裁きが降ろうとしていた。そんな状況下であっても神は教会を救うことができる。批判や迫害や裁きがいかに大きくても、神は私達を救うことができる。これを心にとめて神に信頼したい。

上記の内容はジョン・パイパーが提供しているLook At The Bookシリーズを引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-do-you-decrypt-confusing-bible-verses

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1ペテロ3:8-12

8 最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。

「あなたがた」教会に対して語っている。

「心をひとつにし」これは単に神学や教理の一致だけにとどまらない。教会としての方向性や目的に対して心をひとつにし、一致しなければならない。これが起きるにはオープンに話し合い、お互いの意見を尊重し、中間点を互いに見つける必要がある。一部の人たち(リーダーなど)が勝手にこれを決めて、それを教会員に押し付けても本当の一致は起きない。ましてや、考えの違う人を排除しているということは「一致」を促しているのではなく、「同調圧力」をかけ従わせるようにしているだけ。結果的に教会員は「無関心」に陥ることになる。これは真に「心をひとつにする」ことには繋がらない。

「同情し合い」相手を思いやることが含まれる。これは単に相手を「可哀そう」思うのではなく、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」(ローマ12:15) ことが含まれる。教会の中で虐げられている人がいたら、教会のリーダーに不都合な情報を隠ぺいして「痛みを覚える」で忘れ去るのではなく、しっかりと原因分析をし改善を図る。権威や評判を守る姿勢ではなく、相手の立場に立って物事を考えようとする姿勢が、教会に求められている。

「兄弟愛」ユダヤ人でも異邦人でも、日本人でも外国人でも、私たちは神に救われた罪人。私たちはイエスによって「兄弟」とされ、父なる神の子供とされた。だから互いを愛することができるし、違いがあっても認め合うことができる。愛する家族だったら、伝統に合わないから排除しようとしない。相手がどう思っているか理解する努力をし、自分の考えを少し横に置く必要があっても相手を尊重する。権限やルールよりも愛を優先する。

「憐れみ深く」=「情深く」「心を柔らかく」とも訳せる。これは「同情」することではなく、相手に関心を持つこと。たとえ相手が強い言葉を使ってきても怒ることはせず、強く心を持ち、自分のことばをこらえて受け入れる。そしてキリストが私たちを赦したように相手も許す。相手の気持ちを受け取ることも教会として学ぶべきこと。

「謙虚」行動だけでなく、考えも謙虚でなければならない。もしかして自分の考えが間違ってるかも知れない。もしかしてこの人が言うことは自分の考えを正しい方向に導けるかも知れない。もしかしてこの人の考えによって教会がより聖書における「純潔」を保ち、人々が心から「一致」し、強制されない「平和」が起こされるかもしれない。

上記の内容はEllicott’s Commentary for English Readersを引用している。