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イエスは私たちの平和

クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。この誕生は何百年も前に預言者ミカにより預言されています。

イエス・キリストの生まれたベツレヘムという村は小さく、影響力の少ない場所でしたが、かつでイスラエルの王だったダビデが生まれた場所でもありました。生まれた場所は特別な場所ではありませんでしたが、イエスご自身はとても特別な方です。

イエスは永遠の昔から生きています。世界が誕生する前から神と共に存在しており、世界をご自身の言葉で創造しました。そしてイエスはいずれイスラエルを支配します。このイスラエルというのは、中東にある国とその人々だけを指すのではなく、神の民となった「本当のイスラエル」を指します。これには全世界の人々が含まれ、イエスは全世界の人々を支配することになります。

イエス・キリストはこれほど偉大な方で支配者ですが、支配するだけでなく群れを養います。群れというのは、イエスの声に従う人たちのことです。偉大なリーダーほど群れを養うことを重要視します。養い方も特別です。物を与えたり、安全を守ったり、健康を守ったりすることもしますが、本当に養いも与えます。それは神の御名の威光によるものです。神の偉大さを知り、神が共にいることを知ることこそが私たちを本当に満たし養います。

イエス・キリストの支配と養いによって、私たちは平和に生活できます。戦争や争い、犯罪や不正が無くなります。それを可能にするのは全世界が神をほめたたえることです。すべての人が神に向くことによって神を愛し、互いを愛することになります。これが完璧にできる世の中で、本当の平和が訪れます。この完璧な世界はまだ訪れていませんが、いつか訪れることを待ち望みながら私たちは神に目と心を向けます。

イエス・キリストは私たちの平和です。今年のクリスマスは、特別じゃない私たちに特別で偉大なイエスを覚え祝いたいです。

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ミカ7

7 しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。8 わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。

ミカの時代は、1~6節にあるように罪がはびこっている時代だった。殺し合いが頻繁におき (2節)、リーダーは賄賂を求め (3節)、正しく生きていると主張する人はいるがその人を信頼するより茨の方が耐えられる状態 (4節)、隣人や友は信頼できない (5節)、そして家庭内でも反乱がおきている (6節)。ちなみに、イエスも6節をマタイ10:34-36で引用し、新約でも同じ状態であったことを現している。

この罪を犯しているのは神の民だったので、神はその罪を罰した。クリスチャンも罪を犯すと、神はそれを罰することがある。1コリント11:29-32に例があるが、聖餐を取る時に御体をわきまえずに取ったクリスチャンが病にかかって死んだと記されている。私たちは神の罰をどう受け止めるべきだろうか?その答えが今日の箇所に書かれている。

クリスチャンが罪を犯した時にまず起きることが、敵が私たちを欺くこと。クリスチャンなのに何故こんな罪を犯したのか?後ろ指を刺されて罵られる。そんな時、私たちは「主を仰ぎ見、救いの神を待つ」ことができる。自分の罪悪感に押しつぶされそうな時、自己卑下に陥るのではなく、救いをもたらしてくださる神を見上げることができる。

確かに罪を犯した私たちは「倒れた」。そして「暗やみの中にすわって」しまっている。その結果「主の怒りを負わなければならない。」罪を犯した以上、義なる神の罰を受けるのは当然のことである。罪の事実とその罰を受け止め、心を砕かれる必要はある。

同時に、敵は「わたしについて喜ぶ」道理はない。なぜなら、私たちは「起きあがる」から。「主はわが光」となり、「主はわが訴えを取りあげ」てくださる。罪の罰を受けた砕かれた状態から、神は私たちを引き上げてくださる。そして「わたしのためにさばきを行われる」。私たちに「対して」ではなく、私たちの「ために」裁きを行う。神が私たちを裁くのは、私たちがより罪悪感に陥るためでなく、神に立ち返り、救いの神にすがるためである。それを証拠に、「主はわたしを光に導き出してくださる」とある。そして結果的に「主の正義を見る」ことを通して、私たちは生きるべき道が示される。

罪を理解し、罰によって心が砕かれる。同時に、神が光へ導いてくださると胸を張って言える。このへりくだりと神への自信が、クリスチャンが神の裁きを受け止める方法といえる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-to-rise-after-we-fall-into-sin 

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ミカ

1:1 ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。

ミカはヨタム、アハズ、ヘゼキヤの時代に生きていたので、735-700 BCだと推測される。北の王国だったイスラエルがアッシリアに占領されたのが720 BCで、その後アッシリアは南の王国ユダの首都だったエルサレムをも包囲した。そんな時代にミカはサマリヤ(イスラエルの首都)とエルサレムに対して予言していた。

1:6 このゆえにわたしはサマリヤを野の石塚となし、ぶどうを植える所となし、またその石を谷に投げ落し、その基をあらわにする。7 その彫像はみな砕かれ、その獲た価はみな火で焼かれる。わたしはその偶像をことごとくこわす。これは遊女の価から集めたのだから、遊女の価に帰る。

サマリヤが裁かれたのは、偶像礼拝によるものだった。神はこの世をご自身の栄光のために創造したので、神に反して偶像を拝むことによって裁きを受けるのは当然のこと。神は義なる方なので、不信仰に無関心でいることはできない。偶像礼拝は必ず罪に繋がり、人の命を脅かす。

2:2 彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてその家を奪い、人をしえたげてその嗣業を奪う。3 それゆえ、主はこう言われる、見よ、わたしはこのやからにむかって/災を下そうと計る。あなたがたはその首を/これから、はずすことはできない。また、まっすぐに立って歩くことはできない。これは災の時だからである。

彼らは貪欲と盗みと虐げとプライドを働かせていた。偶像礼拝と傲慢は、ともに貪欲と盗みと虐げを促す。貪欲の心はサマリヤだけでなく、エルサレムにも広がっていた。

3:9 ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家のつかさたちよ、すなわち公義を憎み、すべての正しい事を曲げる者よ、これを聞け。10 あなたがたは血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建てた。11 そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う。しかもなお彼らは主に寄り頼んで、「主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない」と言う。

貪欲は正義をも歪めていて、リーダーや祭司や予言者までも賄賂を受け取るようになっていた。リーダーは正義を憎み、公平を曲げ、血を流し、賄賂を受け取った。祭司は金のために教え、予言者は金を払えば聞きたいことを何でも告げた。

これらに対してミカは破滅を約束した。サマリヤは722 BCに廃墟となり (1:6)、エルサレムは586 BCにバビロンに捕虜として連れて行かれた (4:10)。

6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

しかし、この暗いメッセージの合間に、悔い改めへりくだる人々には栄光が与えられていることが語られている。この栄光を受け取るには3つに条件がある。一つ目は、へりくだって神と共に歩むこと。子供のように神にすがり、全てを神に任せながら生きること。二つ目は、いつくしみを愛すること。つまり、慈悲深さをもって愛する心を持ち、隣人を思うこと。三つ目は、義を行うこと。特に虐げられている人々に対して働きかけること。これらはイエス・キリストがパリサイ人に語った言葉と似ている。神の慈悲深さにすがると、私たちの心は他人にたいして慈悲深さを現し、虐げられている人には義を求めるようになる。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

マタイ23:23

そしてミカの予言は、神の慈悲深さで締めくくられている。

7:18 だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために/とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を/海の深みに投げ入れ、20 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。

クリスチャンに最も中心的な希望として、イエス・キリストの予言がミカの中で記されている。キリストが送られたことは神について次のことを現している:1)神は自由と慈悲深さを通してご自身の栄光を現している。2)神はどんなに暗い時代にあっても約束は必ず守る。3)神は神の民を守る。キリストによって神は栄光を現し、救いの約束を成就し、神の民とされたクリスチャンの信仰を世の終わりまで守ってくださる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/eagle-edom-will-come-down