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テトス3

'人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。 ' テトスへの手紙 3:1-2

「支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならない」

どんな支配者や権威者であっても服すべきなのか?信仰に反することを強要されても従うべきなのか?ローマ12からヒントを得られる。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身にさばきを招くでしょう。実際、支配者は善を行う者にはそうではないが、悪を行う者にはおそろしい存在です。 ローマ12:1-3

「神に由来しない権威はない」神はすべての権威を立てている。この権威を通して神は悪に対して裁きを下す。かつてイスラエルを支配したペルシア帝国でさえ、イスラエルの敵であるハマンに裁きを下した。民主主義においては、司法を通して裁きを下す。神が立てた権威者だからそれに従う。しかし、権威者は神の下にあることがポイント。神の権威はどの地上の権威者よりも上にあり、神の権威に従うことが優先される。なので信仰に反することが強要される場合は神の権威に従う。

テトスから見られるもう一つのポイントが、「善い業を行う用意」。権威者に従う上で「善い業を行う」ことが前提。権威者に従うことを通して「善い業」を行うことができるだろうか?「争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する」ことができるだろうか?世の中の権威者、教会内での権威者において、「善い業」を行う妨げとなる要求をされる場合がある。その時は地上の権威者でなく、神に従うことが優先される。

'愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。 あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。 ' テトスへの手紙 3:9-11

では、この「善い業」は何を基準にしているのか?律法なのか?9~11節には「愚かなギロ、系図の詮索、争い、律法」について言及している。律法に記されている細かい規定を議論し、それをルールとして人々に強いる「愚かな議論」。長年の模索して見出した「文化」や「伝統」を守るための「系図の詮索」。「安息日=礼拝を守る」「十一献金」「十戒」の「律法」を新約に直接適用すること。これらは「無益で、むなしいもの」で、分裂を引き起こす。この状態が続くと「悪いとしりつつ罪を犯す」ことになる。なので、これらは「善い業」の基準ではないことが分かる。

'神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 ' テトスへの手紙 3:5-7

「キリストの憐れみ」が基準。キリストが私たちを「新たに造りかえて」くださったことから私たちは「善い業」をすることができる。また、私たちの力だけでは「善い業」はできない。注いで下さった聖霊によって行うことができるので、聖霊に頼ることを覚えなければならない。

また、私たちは永遠の命を受け継ぐ者なので、この世の権威を畏れる必要はない。自信をもってキリストを伝え、キリストを教えを、「善い業」を、実行することができる。

'この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。 ' テトスへの手紙 3:8
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テトス2

'しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。 ' テトスへの手紙 2:1

健全な教えに適う行動について、テトス2:2~10ではいくつかのグループに対して勧めをしている。

  • 年老いた男は「節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように」
  • 年老いた女は「聖なる努めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教えるように」
  • 若い女は「夫を愛し、子供を愛し、 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うように」
  • 若い男は「思慮深くふるまうように・・・良い行いの模範となり・・・教えるときには、清廉で品位を保ち、 非難の余地のない健全な言葉を語る」
  • 奴隷は「あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように」

しかしこれは健全な教えを受けた結果の行動であって、健全な教え自体が何なのか明らかにしていない。この健全な教えについて、続く箇所で明らかにしている。

'実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。' テトスへの手紙 2:11-13

健全な教えは以下が含まれている。

  • 「救いをもたらす神の恵み」
    イエスの十字架によって、私たちは恵みによって救われている。
  • 「不信心と現世的な欲望を捨てる」
    罪の生活から救い出されたのだから、罪と戦い戻らないように努める。聖霊の力によってイエスのようになっていくよう務める。
  • 「この世で思慮深く、正しく、信心深く生活する」
    この世で生きる上で、キリストの名にふさわしい生き方をし、キリストを述べ伝えるには何をすべきか模索する。
  • 「キリストの栄光の現れを待ち望む」
    今の世の中は一時的なもので、いつかキリストの支配に戻されることを待ち望むことによって、希望に満ちた生き方ができる。
'キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。' テトスへの手紙 2:14-15

私たちは「あらゆる不法から贖い出された」。そして、「良い行いに熱心」になるようにされた。この健全な教えを「十分な権威をもってこられのことを語り、勧め戒める」。

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テトス1:10-16

'実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。 ' テトスへの手紙 1:10-11

割礼を受けている人たちは何を教えていたから「不従順な物、無益な話をする者、人を惑わす者」というレッテルをはられたのだろうか?ユダヤ系クリスチャンは、キリストを受け入れたとしてもモーセ律法を守り続けなければならないと信じていた。十戒を守らなければならない、安息日を厳守しなければならない、十一献金を捧げなければならない、割礼を受けなければならない。キリスト者は律法の下にいない(ローマ6:14) ことを理解していなかった。それは、キリストが十字架で律法を成就してくださったこと (ローマ10:4、マタイ5:17) を理解していなかったとも言える。ユダヤ系クリスチャンが他のキリスト者に律法を強いることによって、キリストの救いが完成されていることを濁していた。救われても律法を守り続けなければならないと惑わしていた。なので彼らは「不従順な者、無益な話をする者」とされていた。現代の教会においても、恵みよりも律法(ルール)を強いる人たちがいる。「その者たちを沈黙させなければなりません。」

'清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。' テトスへの手紙 1:15-16

汚れている人は知性と良心が汚れている。生きがいや達成したい目標は、インプットされた知性から導き出される。その知性や良心が汚れてしまうと、生きがいや目標も汚れたものとなる。これが行動として、「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定する」ことになる。神の義ではなく、自分の義が目的ならば、それを他人に押し付ける行動に出る。しかし、神の義に焦点を当てるなら、まず自分から変わらなければならない (マタイ5:7)。

また、神礼拝でなく、式典を重視するのが目標であれば、言葉で神を礼拝しているかもしれないが、心は式典の進行に執着している。このような礼拝は「なまぬるい」だけなので、神は受け付けない (黙示録3:16)。本当の礼拝は何か?霊と真 (ヨハネ4:23)を伴う礼拝。

感情を伴わない真は、死んだ正統派と、人工的な崇拝者であふれた・・・教会を生み出します。・・・一方、真理を伴わない感情は、無意味な熱狂を生み、思考力を否定する浅はかな人を育てます。しかし、真の礼拝は、深い感情を持ち、健全な教理を愛する人々から生まれます。真理に根ざした神への強い愛情は、聖書的な礼拝の骨と髄です。

https://www.thegospelcoalition.org/article/what-does-it-mean-to-worship-god-in-spirit-and-truth/
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テトス1:1~9

'神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。―― ' テトスへの手紙 1:1-3

「神に選ばれた人々」「永遠の昔にこの命を約束してくださった」ここに「神の選び」の証拠が明らかにされている。神はこの世が始まる前からキリスト者を選び、救われることを定めてくださった。最終的に人が神を選ぶのではなく、最初から神が人を選んでいる。それだけキリスト者は特別な存在で、信仰を持つことができた事実に大いに感謝するべき。

「信心に一致する真理の認識に導く」「宣教を通して御言葉を明らかにされました」「宣教をゆだねられ」キリスト者は選ばれたからこそ、それと伝えていく義務がある。「宣教を通して」知ることができて、同じ「宣教」をゆだねられている。キリストを伝えていくことこそが「信仰に一致する真理」。キリスト者だけで仲良く日曜日に礼拝するために救われたのではない。イエスを宣べ伝えるために救われたのである。

'教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。 ' テトスへの手紙 1:9

ここではパウロは長老についての要件について書いている。そのうちの一つとして、「教えをしっかり守る」ことと、「勧め」「敗退者の主張を論破」しなければならない。「これまで守ってきたことだから」と教えを押し付けることは「勧め」ではないし、教会員を洗脳するのと同じこと。また「伝統」に基づく議論は「論破」にはつながらない。みことばだけが真理を語り、人の考えを変えることができる。1~3節にあるような、聖書に基づく証拠を良く理解し、提示することができなければ長老は勤まらない。

'未熟な者は何事も信じこむ。 熟慮ある人は行く道を見分けようとする・・・ 浅はかな者は無知を嗣業とし 熟慮ある人は知識をその冠とする。 ' 箴言 14:15,18

1テサロニケ5:21にあるように、うのみにせず、聖書をしっかりと確認し、聖霊に理解を求め、考えて結論を出したのちに、その真理の上に立って守ることが「熟慮ある人」。このような行動をする人が長老として務めるのに相応しい。