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ヤコブ5:13-20

13 あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。

「あなたがたの中に」というのは教会=クリスチャンの集まりの中で、と考える。

「苦しんでいる者」に対して、祈るように促している。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」(詩篇46:1) どんなに辛い状況であっても、「兄弟よりも頼もしい友」(箴言18:24)がいて、私たちはいつでも祈りを通して神に頼ることができる。そして神に頼る姿勢が他の教会員の励みになる。

「喜んでいる者」に対して賛美するように促している。自分が良い状態であることにおごらず、神から与えられた賜物に感謝し、賛美を捧げる。自分の力で得たと考えていたら賛美にならない。神に与えられた、という前提で生きているなら必ず感謝の賛美を捧げるようになる。

「病んでいる者」に対して「教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらう」。長老の一つの役割は教会員の病のために祈ること。それは、祈られている人がわからない、隠れた場所で祈るのではなく、オリブ油を注ぐことができるほど密な場所で、その人のために祈ること。教会員を治める姿勢ではなく、教会員に仕える姿勢。時間をとって、犠牲を払ってその人のためになりそうな品を持ち、訪問して祈るほどの姿勢が長老には必要。

「互いに罪を告白し合い・・・いやされるようにお互いのために祈る」罪を告白し合うには信頼関係が必要。打ち明けたタイミングで「戒規」を言い渡されるようでは安全に話せる場は作れない。また、常に他人の間違いを探し出し、指摘するような行動も警戒しあう環境にしかならない。イエスが罪に対してどう対処したか?「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ8:7)  罪を犯す人は誰もいないので、人は罪を裁くことはできない。告白し合ったら罪が赦されたことを確認し、その罪悪感から癒やされるようにお互いのために祈る。そのような関係が教会の中では望ましい。

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ヤコブ5:7-12

7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

イエス・キリストは、今は天にある父の玉座の右側に座しているが、再臨の日が近づいている。キリストは、「聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか」(黙示録6:10) と叫ぶ殉教者に答えるために「義を持って裁く」(黙示録19:11) 者として再臨する。これを待ち望んで、「アーメン、主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:20) と祈りながら、私たちは耐え忍ぶ。

9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。

どのように耐え忍ぶのか?「互いに不平を言い合わない」互いというのはクリスチャン同士と考えられる。互いを助け、互いに分け与え、みかえりを求めない。これを言葉で言うのは簡単だが、共に教会生活を送る中で、全ての事柄で意見が一致し、全く同じ考えに同意するようになることを求めていないだろうか?「仲間」だから反対意見は言わないと思い込んでいないだろうか?むしろ、「仲間」であれば正直に違いをあらわにし、違いの理解を深め合うことによって共通点を探ることができる。それが本当の「仲間」。何も言い合わなければ形だけの関係、心は通っていない。

10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。

苦しみを耐え忍ぶことについて、預言者たちが良い例。例えば、エレミヤは神のことばを忠実に語り、自分の民であるイスラエルのことを思って是正するように促していた。エレミヤは、神のことばを語ったら神に仕えているはずの祭司たちに殺されそうになった (エレミヤ26:7-9)。彼らに対して不都合なことが語られ、これまで正しいと思って行ってきたことが間違えだったと指摘されたからだ。それでもエレミヤは神のことばを語り続け、神に従う数少ない人たちに希望を与えた。

11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

エレミヤ29
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ヤコブ5:1-6

4 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。

ヤコブの時代、労働者に賃金が支払われないことが頻繁に起きていた。それは、富んでいる人たちが自分たちの富をさらに増やすことに溺れ、労働者のことを考えず賃金を支払わずにいた。当時、労働者は弱い立場にいたので、賃金が支払われなくても何もできなかった。そういった弱い立場の人たちの「叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している」。叫び声といえば、カインとアベルのことを思い出す。

10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。

創世記4

カインは地を世話していて、アベルは羊の世話をしていた。この二人が神にいけにえを捧げたところ、神はアベルの捧げものの方が勝っているとした。これに嫉妬したカインはアベルを殺した。神がアベルにカインの居場所を問うと、カインは知らないととぼける。しかし神は全知全能で、すでに全てを知っていた。ここでも神は、殺された弱い立場のアベルの叫ぶ声に耳を傾けている。

19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

ローマ12

神は、権力を悪用して弱い立場の人を虐げる人を嫌い、何も言えない、殺されたような弱い立場の人の声を聞いて下さる。そして、何もできない人が復讐を図らなくても、神はご自身の義によって報復して下さる。

15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。

創世記4

同時に神は、虐げる側の人間に対しても赦しの道と、そこに向かう間の守りを与えて下さる。カインは復讐によって殺されないようにしるしを付けられた。まさに神は、虐げる者に対して、虐げられるものに対して、平等に愛していて必要なものを与えて下さる。だから、弱者であっても敵を愛するというチャレンジが課せられている。

45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

マタイ5

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ヤコブ4:11-17

11 兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。12 しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。

律法を規範として守ろうとするのは立派に見えるが、そのルールや派生する伝統的な考えに従わない人の悪口を言うことは、律法自体を裁く行為にあたる。これは教会のリーダーであっても同じ。裁きを下す前に、まず自分たちは潔白なのか?聖書に基づいて行動しているのか?しっかりと自分を吟味し、神のみこころを探った後に行動しなければならない。こう考えると、軽々と「戒規」という言葉を口にしないはず。そもそも、「立法者であり審判者であるかたは」イエス・キリストしかいない。

1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイ7

4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

ヨハネ8
15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。16 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。17 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。

ルールや伝統を守るために他人を裁くのではなく、神のみこころを探り求めることが重要。作り上げたものを見て「すばらしい、これを守っていこう」と思うのは神に誇るのではなく自分の成した業に誇っている。「誇り高ぶって」いて、「このような高慢は、すべて悪である。」神のみこころを探り求める「善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。」

2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

ローマ12

この世が推奨するようにルールを制定して、守らない人を排除する体制を作るのではなく、イエスが教えたように自分を吟味し、他人に対して心を広くして愛することを求めると、神のみこころが理解できるようになる。

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ヤコブ4:1-10

5 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

クリスチャンの内には聖霊が宿っている。聖霊の一つの役割はクリスチャンを聖化に導くこと。それは肉の働き(不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽)から離れ、御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)を求めるようになること (ガラテヤ5:19-26)。

6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。

私たちは聖霊が宿っているから、自分の考えで「聖化」を求められる、と勘違いすることがある。自分の考えや力で完璧を求めようとすると、自分や周りの人に対して不必要なルールを強いるようになる。そのルールを守れているから他の人より優れていると思い込み、他人を裁くようになる。そのような人から神は「逃げ去る」。

守るべきルールより、御霊の実が備わっているか、という観点で考えると、どのクリスチャンもまだまだ足りないと理解できる。足りないから苦しみ、悲しみ、泣く。このへりくだった状態から、神は私たちに近づき、私たちを高くして下さる。

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ヤコブ3

わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 ヤコブの手紙 3:1‭-‬2‭

多くの者が教師になってはならない理由が、厳しい裁きを受けるから。何故厳しい裁きを受けるのか?「多くのあやまちを犯すものである」から。特に「言葉の上であやまちのない人」となるべき。教師やリーダーが発する言葉は教会全体を影響する。特に講壇から語られる言葉は教会員が「神の言葉」と捉え、教えを吟味して正しさを確かめなければそれに惑わされる。

ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。 ヤコブの手紙 8‭-‬10 

「舌を制しうる人は、ひとりもいない。」完璧な人はいない。「さんびとのろい」が同じ口から出て来ることはよくある。日曜日の礼拝を厳守していながら、会議で他教会や考えの違った人たちを呪う。どんなリーダーであっても間違いは犯す。だから教会員は目を覚ましていなければならない。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。 1ペテロ5:8
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。 ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。 ヤコブの手紙 3:14‭-‬16 

「ねたみや党派心」によって人々の思いを一つにまとめ、「一致」をさせたかのように思えるが、考える力を蓄えていない人々に思想を押し付け、異なった考えを排除していくのは「真理にそむいている」。実はカルトも同じ手口を使う。これは「上から下ってきたもの」と思い込むのではなく、「悪魔的なもの」として注意しておきたい。

しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。 義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。 ヤコブの手紙 3:17‭-‬18 

「上からの知恵」がどのようなものかテストできるリスト。語られていることばは寛容なのか?様々な意見を語って、よく検討して結論に至っているか?ルールを守れない人に対してのあわれみは示されているか?考えは偏っていないか?こういう「上からの知恵」が本当の「純潔と平和と一致」を生み出す。

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ヤコブ2:14-26

24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

パウロによると、私たちは信仰だけによって救われる。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:28) しかし、ヤコブは信仰だけでなく、行いも必要だと書いている(24節)。 この2つは矛盾しているのか?

パウロは、人が他に何を持っていようと、主イエスを信じる信仰がなければ、その人は義と認められないと断言し、ヤコブは、人がどのような信仰を装っていようと、それが善い行いを生み出すのに適した信仰でなければ、義認の問題において何の価値もないと断言しています。これが本当の説明であり、これらが彼らがこの問題を見ている「立場」であるとすると、この二人の作家の和解は簡単です。罪人がどのようにして神の前で義とされるかという質問があれば、それは「律法の働きなしに」信仰だけによるものであるというパウロの答えになるのは、昔も今も変わりません。また、義とされる信仰とはどのようにして示すことができるかと問われれば、ヤコブの答えは、聖なる生活と実際的な従順を生み出すものだけであるというものです。

https://biblehub.com/commentaries/barnes/james/2.htm

ところで、ある人が救いを受け入れたかどうかはどのように確認できるだろうか?パウロはこう書いている、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9) では、特定の言葉、つまり「正解」を言えば救われていることになるのか?何度か諮問会に参加したことがあるが、こればかりが強調されているように思える。「イエス・キリストは十字架にかかって、私の罪のために死んでくださいました。このことを信じます」という言葉を聞けばOK。この一つでも、つまり「イエス・キリスト」とか「私の罪」という言葉を聞けなかったらNG、みたいな諮問会はよくある。

確かに一つのバロメータは正しい知識と、それを口に出すことだ。しかし、救いは「心」が試されている。それを確認する手段は、このヤコブ2章に含まれている。

23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。

アブラハムもラハブも、イエス・キリストの十字架を100%理解していたわけではないが、信仰とそれを表す行いによって義と認められた。つまり、本当の信仰があれば実を結ぶはず。その実を見ることができれば、その人が心全体でキリストを受け入れたかが確認できる。もちろん、これを見るにはその人に深く関わり、その人が考えていること、どのような行動をしているか、何故その行動をするのか、を理解する必要がある。「諮問会」という閉ざされた空間だけでは確認できない。リーダーは人と関わりをもって初めて人々の信仰をケアすることができる。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
ガラテヤ5
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ヤコブ2:1~13

2 たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。3 その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、4 あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。5 愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。

礼拝所は費用をかけずに建設したり維持したりすることはできないので、それに貢献する人々にはそれなりの便宜が図られるべきかもしれませんが、すべての人がより霊的な心を持っていれば、貧しい人々は通常の礼拝集会よりも注意を払って扱われるでしょう。 卑しい状態は、内的な平和と聖性の成長にとって最も好ましいものです。

Matthew Henry’s Concise Commentary
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 マタイ5:3

心が貧しいと、自分が本当に必要が何なのかを理解して、それを求めるようになる。それはイエス・キリストの恵み。同時に、イエス・キリストは虐げられている者に対して手を差し伸べている。立派な会堂で完璧な礼拝式典を行うよりも、霊的な心を持ってイエス・キリストが注目したことに注目し、心が貧しい人のようにイエスを求めるようになりたい。

8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。

聖書は律法として、隣人を自分のように愛することをあげています。この律法は王の律法であり、王の王から出たものです。もしクリスチャンが不当な行為をするなら、律法によって違反者として有罪判決を受けることになります。自分の良い行いが悪い行いを償ってくれると考えることは、明らかに別の償いを求めることになります。

Matthew Henry’s Concise Commentary
3 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。4 あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。5 もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、6 寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、7 わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。8 見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
エレミヤ7:3-8

「主の神殿だ」と言いながら立場的に、心理的に弱い人間を追い詰めるのは「偽りの言葉を頼みとしている」。いくら礼拝を捧げても、「良い行いが悪い行いを償ってくれる」ことはない。そう思い込むのはイエス・キリストの贖いでなく、「別の償いを求めること」。

13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

不敬虔な罪人に下される運命は、最終的には慈悲のない裁きです。しかし、神はご自身の法廷で正当に非難されるべき人々を赦し祝福することを、ご自身の栄光と喜びと考えておられます。そして、神の恵みは、その慈悲を受ける人々に、その行動を真似るように教えています。

Matthew Henry’s Concise Commentary

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

マタイ9:13
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ヤコブ1:19~27

19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

この聖書箇所はヤコブがユダヤ系クリスチャンに語られていることから、一般的な言葉や怒りに関する事柄でないことが考えられる。彼らは律法の下に育ったので、それを伝えることに必死になっていた。その強い思いから、違った意見をもった人が現れると、相手を理解せず怒りをあらわにしていた。

  • 「聞くに早く」=人の言葉ではなく、聖書を聞く
  • 「語るにおそく」= よく理解していない聖書の事柄について
  • 「怒るにおそく」=違う意見をもった人に対して

「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」
正しいと思ったことを教え込みたい気持ちが抑えられないからこそ、相手にそれを押し付けてしまう。結果的に神の義がその人に全うされるのではなく、自分の思いが全うされるだけになる。押し込まれた相手は苦しまみれに教えられたことに同意し、信じてもいないことを公言する偽善者となってしまう。もしくは、真理だと思いこんでしまい、自分で真理を確認しなくなる、一種のマインドコントロール状態に陥ってしまう。

(上記の内容はBenson Commentaryから引用している)

21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

みことばは、救われた時に聖霊によって植え付けられ、日々聖書を読む習慣によって深められ、幅広い教師に習うことによって視野が広められる。

22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

ただ聞くだけ、ただ学ぶだけ、ただ知識を蓄えるだけでなく、神のみこころを成す者となっていくことが、みことばを学ぶ目的。神のみこころは、「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(2ペテロ3:9) そのために私たちは学んだことを大宣教命令の実現に向けて行動に移す。

27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ここにある「信心」は「宗教」とも訳されている。宣教はただ福音のメッセージで人に殴りかかることではない。窮屈な礼拝に引っ張り込んでじっと座らせることではない。困っている人を助け、世の中で生活する上でキリストの光を表す。人々がいる場所に出ていって福音を伝える。礼拝で座っているだけでは人々には届かない。

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ヤコブ1:12-18

'試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 ' ヤコブの手紙 1:12

神は試練を与えるかもしれない。「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(2テモテ3:12) しかし、これを耐え忍ぶ人には、神は命の冠を約束している。「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」(黙示録2:10) 幸い私たちのほとんどはクリスチャンとして命の危険にさらされることは無いが、キリストのために生きようとしたとき、聖書の真理を貫こうとしたとき、迫害に合うことがある。命の危険はないかも知れないが、精神的に追い詰められて命が削られるような思いをする。そんな時に、命の冠を与える神に目を向け、日々命を与えてくださるように願いたい。

'誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 ' ヤコブの手紙 1:13

誘惑は神からこない。つまり、罪を犯す誘惑のこと。神は罪を犯すことはことはないし、罪に影響されることはない。よって、神は人に罪を犯すように唆したりはしない。

'良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。 ' ヤコブの手紙 1:17-18

むしろ、神は良い贈り物をくださる。先程の命の冠もそうだが、無傷で完璧な、完全な賜物を与えてくださる。そもそも私たちがクリスチャンになったのも、神が「真理の言葉」を与えて下さったからだ。それは、聖書にかかれている通り、イエス・キリストが私たちの罪の代価を支払って下さったことを信じて受け入れることによって、神の子どもとされること。この「福音」=「good news」こそ、神が私たちに与えて下さった最も完全な賜物。

'むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 ' ヤコブの手紙 1:14-15

人が欲望に引かれ、唆されて、姦淫に陥ると、生まれてくるのは罪。その罪が成長すると死を生む。私たちの身の回りの欲望は何だろうか?長年傷つけられてきたことを許せないことだろうか。守りたいものがあるから権力を利用して人を排除することだろうか。自分を良く見せるために、都合の良い嘘や情報統制を図ることだろうか。このような欲望に引かれると自分に対して、隣人に対して、そして影響する人に対して死を生むことになることを、常に覚えておきたい。