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Jude

霊によって祈る (ヤコブ20-21)

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

20節にある「霊によって祈る」とはどういうことなのか?どのようにすれば「霊によって祈る」ことができるのだろうか?

それは、「聖霊が動き、導く力であるように祈る」ということです。ここでのキーワードは、「動かす」と「導く」です。つまり、聖霊によって祈るとき、神の霊があなたの祈りを「動かす」のです。聖霊があなたの祈りを動機づけ、可能にし、活力を与えてくださる方なのです。そして、聖霊で祈るとき、神の霊はあなたがどのように祈り、何のために祈るのかを「導いて」くださいます。ですから、聖霊によって祈るとは、祈りの中で聖霊に動かされ、導かれることです。私たちは、聖霊の力によって、聖霊の導きに従って祈ります。

John Piper, 参照箇所:エペソ6:18、ローマ8:26、ローマ8:15-16、ヤコブ4:3

聖霊に動かされ、導かれることについては、祈り以外のクリスチャンの歩みの場面でも見られる。

ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい。」ローマ8:13「御霊によってからだの行いを殺す」。1コリント12:3「御霊によって・・・『イエスは主です』と言う」。ピリピ3:3「御霊によって礼拝し」。 これらすべてのことにおいて、私たちは何かをしなければなりません。しかし、私たちは、聖霊が私たちを通してそれらを行うような形で、それらを行わなければなりません。

人間の生活というのは、神が主権を持ち、私たちが責任を負うということです。私たちは行動します。私たちは行動する責任もあります。しかし、神は決定的な行為者なのです。私たちの行動は依存しています。ですから、「歩みなさい」(ガラテヤ5:16)、「罪と戦いなさい」(ローマ8:16)、「イエスの主権を告白しなさい」(1コリント12:3)、「礼拝しなさい」(ピリピ3:3)、「祈りなさい」(ユダ1:20)と言われるとき、私たちは「聖霊にあって」するように言われます。

John Piper

「霊によって」何かをすることのイメージがついたところで、「霊によって祈る」ことを実際にどうすれば良いか考えたい。まずは信仰について。

私たちが「聖霊によって」祈るのは、(贖いによって)キリストの十字架の上に立ち、聖霊による神の助けを信頼するときです。言い換えれば、聖霊の助けがなければ、自分が祈るべきことが祈れないことを認め、意識的に聖霊に頼って祈るとき、あなたは 「聖霊によって」祈っているのです。ですから、「どのようにして」という質問に対する最初の答えは、信仰によるものです。つまり、神があなたの祈りを助けるために聖霊を与えてくださると信じることです。

John Piper

これが聖霊に動かされて祈ること。次は聖霊に導かれて祈ることを考えたい。

「聖霊によって」祈るにはどうすればよいかという質問に対するもう一つの答えは、聖霊が霊感を与えた神の言葉にすべての祈りを一致させることです(2ペテロ1:21、2テモテ3:16-17)。ここで、毎日御言葉の中にいるようにという神の呼びかけと、いつでも聖霊で祈るようにという神の呼びかけが絡み合っています。もしあなたが神の御言葉の中で生活し、毎日読んで昼夜を問わず思い返し、一日中持ち歩くために暗記し、時間ごとに味わうなら、あなたの祈りは御言葉によって形作られます。つまり、御霊によって形作られるということです。

John Piper
上記はジョン・パイパーの提供しているサイトを引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/learning-to-pray-in-the-spirit-and-the-word-part-2
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Jude

ユダ20-21

20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

ユダはクリスチャンが「信仰の上に自らを築き上げ」ることと、「聖霊によって祈る」ことが「神の愛の中に自らを保つ」方法だと語っている。祈りによって私たちは不信仰に陥ることを防ぎ、永遠の命に導かれる。これは私たちが何かをして自らを保つように読み取れるが、神が私たちを保っているのではなかったのか?(ピリピ1:6)

1 イエス・キリストの僕またヤコブの兄弟であるユダから、父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人々へ。
24 あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた、25 すなわち、わたしたちの救主なる唯一の神に、栄光、大能、力、権威が、わたしたちの主イエス・キリストによって、世々の初めにも、今も、また、世々限りなく、あるように、アァメン。

確かに、1節によると私たちはイエス・キリストに守られている。24節でも私たちを「守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた」について書かれている。この方は25節にある「わたしたち救主なる唯一の神・・・イエス・キリスト」。なので、私たちはたしかにイエス・キリストによって守られ、救いが確実なものとなっている。

しかし、21節では明らかに「自らを保つ」ことが進められている。これは何をいみしているのだろうか?一つ考えられることは、私たちの行い(ここでは祈り)は「恵みの手段」だということ。

神の決定的な働きは私たちの依存的な働きと関係している。神が全てを治めていて救いを確定させてくれることは確かだが、私たちの祈りはそれと密接に関係している。ローマ6:22-23でも、救いは神が成すことだが、「神に仕え、きよきに至る実を結ぶ」ことは私たちがやることだと確認できる。私たちの永遠の命が守られる(聖徒の永遠堅持)のは神がすること (ユダ1, 24)で、私たちもすること (ユダ21)。なので、「神が私たちの魂を確実に守っている」(1, 24節) から私たちは「神の愛の中に自らを保つ」(20節) 必要はないと考えないようにしたい。

つまり「恵みの手段」とはこういうこと。「恵み」によって神は私たちの魂を守り、霊的に成長させて喜びで満たして下さる。「恵みの手段」は私たちが「神の愛の中に自らを保つ」方法。神が私たちを守って下さるから、私たちが自らを保つよう励まされ、支えられる。神が守ることは決定的で、私たちが保つことは神に依存している。

ユダの手紙は、クリスチャンを永遠の命の中に留めることと、忍耐することが主な目的である。立派に戦い抜いて、永遠の命を獲得する方法 (1テモテ6:12)。走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通す方法 (2テモテ4:7)。そして、最後まで耐え忍ぶ方法 (マルコ13:13) が記されている。忍耐は私たちがすること。信仰の土台の上に自分と隣人を建てあげる。祈る。そして神の愛の中に自らを保つ。

上記はジョイ・パイパーの提供している記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/learning-to-pray-in-the-spirit-and-the-word-part-1 
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3 John

3ヨハネ

1 長老のわたしから、真実に愛している親愛なるガイオへ。2 愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。3 兄弟たちがきて、あなたが真理に生きていることを、あかししてくれたので、ひじょうに喜んでいる。事実、あなたは真理のうちを歩いているのである。4 わたしの子供たちが真理のうちを歩いていることを聞く以上に、大きい喜びはない。

ヨハネがガイオという信者に送った手紙として、愛と真理のうちに歩むとはどのようなことかを表している。ヨハネはガイオを真理の内に愛していた。肉体における健康だけでなく、魂の健康のことを思って祈っていた。真理を知っている者は神と、神の用意した救いのことを知っている。そしてその真理を愛していて、その真理に従っている者をも愛する。真理によって変えられた者は真理によって生きることを求める。また、同じように真理の内に生きる者と歩むことを求め、互いの信仰の成長を喜び、励まし合う。真理を求め適用することを探る姿勢、互いを喜び励まし合う環境が、真理と愛の内に歩む教会のあるべき姿。

5 愛する者よ。あなたが、兄弟たち、しかも旅先にある者につくしていることは、みな真実なわざである。6 彼らは、諸教会で、あなたの愛についてあかしをした。それらの人々を、神のみこころにかなうように送り出してくれたら、それは願わしいことである。7 彼らは、御名のために旅立った者であって、異邦人からは何も受けていない。8 それだから、わたしたちは、真理のための同労者となるように、こういう人々を助けねばならない。

「旅先にある者」は宣教師のことを指す。この者たちは自分の国や故郷から出ていき、「御名のために旅立ち」、イエスを述べ伝えた。彼らは異邦人から支援を受けず、諸教会からのみ援助を受けていた。ガイオの教会は「神のみこころにかなう」よう彼らを支えた。喜んで「同労者となるように」宣教師を助けた。真理を愛する者は福音を述べ伝える者を愛し、宣教師を支援することによって参画できる機会を喜ぶ。

9 わたしは少しばかり教会に書きおくっておいたが、みんなのかしらになりたがっているデオテレペスが、わたしたちを受けいれてくれない。10 だから、わたしがそちらへ行った時、彼のしわざを指摘しようと思う。彼は口ぎたなくわたしたちをののしり、そればかりか、兄弟たちを受けいれようともせず、受けいれようとする人たちを妨げて、教会から追い出している。

どの教会もそうだが、ガイオの教会でも問題はあった。デオテレペスという会員が使徒たちの権威に逆らい、宣教師に反対し、宣教師を支えようとする者を教会から追い出していた。彼のプライドがそうさせていたのだろう。自分の信じてきたことだけが正しいと思い、影響力と立場を利用して自分の正義を押し通した。それが神への反乱につながり、神の働きを妨げ、教会の一致を壊した。教会が前に進むのであれば、このような行動を指摘し、正さなければならない。それが教会に影響力のあるリーダーであっても。

11 愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者である。12 デメテリオについては、あらゆる人も、また真理そのものも、証明している。わたしたちも証明している。そして、あなたが知っているとおり、わたしたちの証明は真実である。

ここでヨハネはガイオに、デオテレペスのようにならないよう注意している。何故そこまでする必要があるのか?デオテレペスのように影響力があり、悪意を持って人々を操作することはとても魅力的で、同じように行動したくなってしまう。しかし、神の働きは悪意で行うことはできない。進め方に愛がなければ真理は伝わらない。これとは逆に、生き方が真理そのものに証明されているデオテリオがいた。教会には悪い例と良い例になる人達がいるが、どの人たちが良い例なのかを見分け、その人達のように行動することを心がけたい。

13 あなたに書きおくりたいことはたくさんあるが、墨と筆とで書くことはすまい。14 すぐにでもあなたに会って、直接はなし合いたいものである。[15] 平安が、あなたにあるように。友人たちから、あなたによろしく。友人たちひとりびとりに、よろしく。

ヨハネは当時利用できる技術(パピルス、墨と筆、郵便)を駆使してガイオに必要な言葉を送った。その言葉はガイオの難しい環境において彼を称賛し、励まし、影響されないように注意した。これら全てが指導者が与えるべき言葉で、どれも欠かせない。伝え方において今日は技術を活用した多くの方法がある。それを活用することは避ける必要はないが、直接話し合い、心を通わせる交わりは望ましい形でもある。

上記の多くはThe Gospel Coalitionサイトの以下の記事を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/3-john/
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2 John

2ヨハネ

5 婦人よ。ここにお願いしたいことがある。それは、新しい戒めを書くわけではなく、初めから持っていた戒めなのであるが、わたしたちは、みんな互に愛し合おうではないか。6 父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり、あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが、すなわち、戒めなのである。7 なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。

2ヨハネの中心的な戒めは「互いに愛し合う」ことと、「愛のうちを歩くこと」。何故愛すべきなのか?「人を惑わす者が、多く世にはいってきたから」。惑わす者から守る効果的な方法は、クリスチャンが互いに愛の中に歩くこと。この惑わす者は反キリストで、「終わりの時」に現れる (1ヨハネ2:18)。偽預言者の霊が宿っていて、キリストが肉体をとってきたことを否定し、世のことを語る (1ヨハネ4)。この者たちはすでにこの世にいて、信者を惑わそうとしている。だから愛の中に歩んで惑わされないよう守る必要がある。

「終わりの時」とはいつのことか?「この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」(ヘブル1:2)。「しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである」(ヘブル9:26)。「 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」(1コリント10:11)。つまり、「終わりの時」はキリストの受肉によってスタートしている。そして神にとって千年が一日であるように、私たちは「終わりの時」の二日目ぐらいに到達している。

この「終わりの時」にも終りが来る。2テサロニケ1:5-10と2:3-7に詳しく書かれている。イエスは天使を引き連れて、迫害を受けている全てのクリスチャンを救済し、イエスを信じず従わない者に復讐する。すべての間違いは正され、神の義だけが残る。また、「不法の者」が現れる。この「不法の秘密の力」はすでに働いていて、不法の者の霊が反キリストや偽預言者という形として今なお力を発揮している。この「不法の者」はキリストの再臨によって滅ぼされる。

これを踏まえて、私たちはどのように生きるべきか?愛の中に歩んで惑わされないよう守る。では、愛はどのように惑わす者から守るのか?クリスチャンの互いの愛は、ロマンスや単なる感情のことではない。キリストの真理を探り分かち合うことに対して熱意を抱くこと。

1 長老のわたしから、真実に愛している選ばれた婦人とその子たちへ。あなたがたを愛しているのは、わたしだけではなく、真理を知っている者はみなそうである。2 それは、わたしたちのうちにあり、また永遠に共にあるべき真理によるのである。

例えば、私がほとんど知らない何百人もの皆さんから愛されていることを、言葉やカード、手紙、メール、見た目で知っています。それは何でしょう?それは、毎週、毎月、毎年、私たちが貴重な真実を分かち合ってきたことで、魂が深く、しっかりとした愛情で結ばれていることです。あなたがキリストを心の底から愛し、キリストの言葉を心の底から愛し、私がキリストとその言葉を心の底から忠実に何年にもわたってあなたと一緒に説くならば、愛以外に何が起こるでしょうか。そして、真理を愛するあなたの周りのすべての人々にも、そうなるでしょう。クリスチャンの愛は、感情ではなく、キリストの真理を愛し、分かち合う人たちへの確かな愛情です。

John Piper

このように愛する人達は「終わりの時」に簡単には惑わされない。

上記の内容はジョン・パイパーが提供するサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/life-together-at-the-end-of-the-age
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1 John

1ヨハネ5:16-17

16 もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。17 不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。

「死に至ることのない罪」

  • これは誰が犯しているのか?信者か未信者?
  • 神に願い求めるとどのような「命を賜る」のか?肉体的に長生きすることか?未信者が信者になったときに得る永遠の命か?罪を悔い改める信者に与えられる蘇り後の永遠の命か?確実に永遠の命を得られることの事実を指しているのか?
  • これはどのような罪なのか?間違って犯してしまった罪?許されるほど小さな罪?信者が犯す罪全般?
  • 罪を犯している人のためにどのように祈れるか?悔い改めるようにして下さるよう祈る?肉体的な罰が与えられないように祈る?未信者がキリスト信じ、永遠の命を得られるように祈る?

「死に至る罪」

  • これは誰が犯しているのか?信者?未信者?背信の罪を犯す人?
  • 罪を犯した者に対する「死」は何を指しているのか?肉体的な死か?永遠の死か?
  • どのような罪なのか?故意に犯した罪?ひどく赦されない罪(殺人とか)?聖霊に対する赦されない罪?未信者が犯す罪全般 (特に背信)?
  • 何故ヨハネは罪を犯す人のために祈ることを進めないのか?ヨハネは神のみこころを祈ることを語っているので、信者は未信者のことに関して自信を持って祈ることができないと言っているかもしれない?もしくは、背信の罪を犯した人の為に祈るのは意味がない?死者のために祈るべきではない?

これらの答えに4つの見方がある。

1. 信者が両方の罪を犯し、二人目は背信している

「死に至ることのない罪」を犯した信者は罪を悔い改め、永遠の命の確証を得る。二人目の信者はイエスを否定し背信し、永遠の滅び(死)に至ってしまう。

この見方は明らかに違う。特に1ヨハネ2:19の言葉を思い出す。「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」ある人は信者だと言うことはできるが、背信してしまうなら元々信者ではなかったということ。なので、「死に至る罪」を犯すのは、信者には不可能、ということになる。

2. 未信者が両方の罪を犯す

神が片方の未信者にいのちを与えるが、もう片方は滅ぼされてしまう。なので、「死に至ることのない罪」は「背信」以外の罪といえる。

しかし、1ヨハネ5:16でヨハネは最初の罪人を「兄弟」と呼んでいる。「兄弟」というのは本当の信者に対して向けられる言葉。また、永遠の滅びに向かわせる罪は背信だけではなく、すべての罪がそれに該当する(ローマ6:23)。

3. 信者が両方の罪を犯し、神は二人目を肉体的な死で罰する

「死に至ることのない罪」は肉体的に死なないほどの罪だが、「死に至る罪」は、神に罰せられ肉体的に死んでしまうこと (例:1コリント11:30)。

しかし、ヨハネが「命」と「死」をペアで語る時、必ず永遠の命と永遠の死について語っている (命:1:1, 2; 2:25; 3:14, 15; 5:11, 12, 13, 16; 死:3:14)。また、ヨハネは最初の罪人を「兄弟」と呼んでいるが、二人目はこのように呼んでいない。

4. 信者は死に至らない罪を犯すが、未信者は死に至る罪を犯す

神は、罪を犯し悔い改める信者に対して永遠の命を与える (2:25)。しかし、未信者は永遠の滅び(死)に向かってしまう。なので「死に至らない罪」は信者が犯す罪で、「死に至る罪」は未信者が犯す罪と言える。特に偽預言者である未信者が犯す背信の罪がこれに該当する。また、ヨハネは何度も信者だと言いながらキリストから離れ(2:19)、兄弟たちを愛さない形で神の戒めを守っていない人たちにたいして警鐘を鳴らしている。このような罪を犯し続けるといずれ滅びに向かってしまう。

この解釈では信者を「兄弟」とし、永遠の命と死を扱い、ヨハネの手紙にかかれている罪を取り上げているので、最も適切な解釈だと言える。

信者は罪を犯すが、私たちは罪を告白し、赦していただくことによって清められることを信じている(1:9)。また、「父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。」永遠の死に至る罪は犯すことはない。希望を持って生きていられる。

上記の内容はThe Gospel Coalitionから引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/essay/sin-unto-death/
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1 John

1ヨハネ5:1-12

1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

クリスチャンは神から生まれた者。生んでくれた親を愛するように、クリスチャンとして下さった神を愛する。神を愛するから、神の戒めを行う。その戒めは何か?まず、「神の子たちを愛している」。これは、同じようにイエス・キリストを信じ、キリストに従って生きようとしているクリスチャンを愛すること。もう一つは、「世に勝つこと」。これは、世の中の流れに任せず、神が何を求めるか聖書を探り、それを追い求めること。神を求めればそれだけで全てが満たされるので、世の中のものは求める必要がなくなる。この生き方は「むずかしいもの」(=負担が大きいもの)ではなく、負いやすく、軽い荷 (マタイ11:30) である。私たちは世の中に左右されるのではなく、神に向かって生きる選択肢が与えられる。これが本当の自由で、本当の勝利。

6 このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。7 あかしをするものが、三つある。8 御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。9 わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。10 神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。

ここに記されている水と血の意味については様々な解釈がある。1)イエスが十字架にかかったときに流れ出た血と水。2)聖餐と洗礼。3)バプテスマのヨハネによるバプテスマと、十字架で流した血。これらの解釈からも読み取れるのはまず、キリストは確かに十字架にかかって死なれたこと。血と水が出たということは、キリストは気を失ったということではなく、医学的にも死んだことが証明される。これは重要なポイントで、罪の代価は死 (ローマ6:23) なので、キリストが死んでいなければ罪の代価は支払われなかったことになる。確かに死んだ、ということは私たちの罪の代価は確かに支払われた。水は、旧約聖書において清めの儀式に必要なもの。イエスは清い存在だからこそ、いけにえとなることができた。そして流された血によって、私たちは義とみなされている (ヘブル9:22)。このことを神である聖霊が証していて、私たちはこれを信じることによってキリストの証を受け入れている。

11 そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。12 御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。

私たちが受け入れている証は、キリストの内にある永遠のいのちを授かったこと。これは単に死んだら天国に行くだけのことではなく、キリストの内に生きることによって、いのちのある生き方をすること。その生き方によって、生活の全てにおいて福音を浸透させ、キリストの光と愛と恵みを示していく。

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1 John

1ヨハネ4:7-21

この箇所では愛を取り上げている。神は愛で、私たちは神の愛を与えられて愛することができる。何故愛すべきか、どのように愛すべきかを考えていきたい。

何故愛すべきなのか?

7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

理由① 神は愛であるから。クリスチャンである私たちは神から生まれた者。子供が親のDNAを受け継ぐように、私たちも神の愛というDNAを受け継いでいる。なので私たちはクリスチャンであるならば、神から出る愛を受け継ぎ、私たちも愛するものであるべき。愛することができれば、神を知っている証拠となる。つまり本当にクリスチャンであるという証拠になる。

9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。

理由② イエス・キリストが私たちを愛して下さったから。私たちは罪に犯されているので死と裁きに向かっている存在だったが、キリストの十字架によって私たちを生きるようにしてくださった。これが神の愛。私たちは何かをしたからではなく、神の一方的な愛によって救われた。クリスチャンであれば、この愛に答えるために互いに愛すべきである。

12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

理由③ 神の愛が全うされるから。クリスチャンが互いに愛し合うことができれば、神の愛の性質と、キリストの十字架の愛が、私たちが見えて実感できる形へとなっていく。そして、互いへの愛が本物であれば、まだクリスチャンでない人たちに神の愛を表すようにもなっていく。神の愛はクリスチャン同士の身内にとどまるのではなく、世の中を影響するまでの力があり、福音を生活の全てに適用することができる。神の愛は世の中に広がり全うされる。

どのように愛すべきなのか?

13 神が御霊をわたしたちに賜わったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。

方法① 聖霊によって。クリスチャンは聖霊が与えられている。聖霊は私たちに聖書の真理を照らし出してくださるし、私たちにキリストが教えたことを日々示して下さる。自分たちで努力して愛するのには限界があるが、神である聖霊は私たちを突き動かし、心を変え、神の愛を示すようにして下さる。聖霊により頼むことが愛するための最初のステップ。

14 わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである。15 もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。

方法② イエス・キリストを証する。私たちがイエスを神の子と告白すれば、神は私たちのうちにいて、私たちは神のうちにいる。つまり、イエス・キリストを証することが、私たちが神の愛を示す効果的な方法。これは教会の中で互いにキリストを証しあうこともできるが、世の中で生活し、日々キリストを証することも重要。神の愛は内に秘めるものではなく、公に証するものだ。

17 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

方法③ イエス・キリストのように生きる。クリスチャンであればイエスのように生きる。イエスのように人々に寄り添い、イエスのように隣人を助け、イエスのように神の真理を見出し語る。この行動が伴っていればさばきの日を恐れる必要はない。イエスのように生きていれば何も恐れる必要はないし、神の愛が私たちの内に全うされていく。

19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。

方法④ 互いを愛する。クリスチャン同士が愛することができない、または憎むことはあってはならない。しかし、相手が愛のない行動に出たとき、私たちは愛することが非常に難しい。神は私たちに常に愛を示して下さるが、人間はそうもいかない。互いに罪人だから傷つけ合うことはある。それでも互いを愛すべき、という戒めが与えられている。これを可能にするのは方法1〜3にあったように聖霊により頼み、イエス・キリストに焦点を当ていくこと以外に、互いを愛することにはつながらない。たた戒めを守るだけでは、上辺だけの心がこもっていない礼儀正しい「愛」にすぎない。心から神を愛するのと同じように互いを愛することができるように、イエスから学び、聖霊に心を変えて頂きたい。

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1 John

1ヨハネ4:1-6

1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。

「すべての霊を信じることはしない」世の中には様々な教えや考えが飛び交っているが、すべてが真理ではない。だから聞いたことをそのまま鵜呑みにせず、聖書と照らし合わせ、祈り聖霊に習うことによって、真理かどうかを判断する必要がある。前の章でも確認したように偽預言者は世の中にいて、教会の中からも出てきているのだから、一人ひとりが聖書を理解して神とつながることが重要になる。

2 あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

ここで記されているテストは、イエス・キリストについて 1) 神から来ていて 2) 肉体をとってこられた、と告白しているかどうか。イエス・キリストは予言者だったが神から来ていなかったと言う人がいたのと、「神は霊である」ので、肉体を持ってこの世に現れるはずがないと言う人がいたからだ。でもイエス・キリストはたしかに神から来ていて、肉体をとってこられた。その理由は、人として私たちの罪の代価を払うためにこの世に来られたからだ。そして肉体をとることによって、私たちの罪との葛藤を理解してくださり、肉体の弱さを経験してくださり、哀れみと希望を与えて下さった。この愛を完璧に表したイエスを告白しない者は「神から出ているものではない。」

4 子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。5 彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。6 しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。

もう一つのテストは、キリストの言うことを聞くかどうか。この世の者は、世のことを聞いてそれを語る。それはテレビや雑誌など、明らかに世の中に出回っているものだけでなく、聖書をないがいしろにして偉い人の言うことやその人が書いたものを聖書より上に置くことも含んでいる。だからキリストの教えることに反したことを語り、教会員を混乱させ、不必要なルールを制定し、リーダーへの服従を促す。一人ひとりが聖書を読んで語り合うことを進めず、それをする者を締め出す。このような「迷いの霊」を区別し、聖書に記されている真理を見出したい。

19 御霊を消してはいけない。20 預言を軽んじてはならない。21 すべてのものを識別して、良いものを守り、22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

1テサロニケ5:19-22
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1ヨハネ3:19-24

私たちはイエス・キリストに信頼をおき、キリストのために生きている。しかし、私たちの罪や弱さゆえに、私たちは本当に救われているか分からなくなることもある。今日の箇所はそんな時のために与えられているような気がする。

19 それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。

「それによって」とは、前の箇所で書かれているように、キリストは私たちを愛して下さったから、私たちは兄弟を愛する、ということを指していると捉えられる。つまり、兄弟を愛することができていて、行動にも現れているなら、私たちはキリストの内にいる。なぜなら、キリストが内にいないと兄弟を愛することができないから。

20 なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。

私たちの心は弱く、罪を犯したり、他人に間違いを指摘されると、心を神に向けるのが難しい時がある。それでも神はすべてをご存知で、私たちのもろい心を守り、癒やして下さる。そして私たちが神に立ち返ることができるように私たちを導いて下さる。私たちが頑張る必要はない。神が心を変えて下さる。エジプトやバビロンなどの大国の王の心を変えることができる神に信頼をおくことができる。

21 愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。22 そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである。

心が神に向いていれば、「願い求めるものは、なんでもいただける」。それは、私たちの欲を満たして下さるということではなく、私たちが「みこころにかなうこと」を理解することができ、それを願うようになるから。心を神に向けることによって、神が何を望んでいるのか、何について喜ばれるか、私たちに何を求めているのか、などを知ることができる。それを願い求めれば、神は必ず与えて下さる。

23 その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。24 神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。

「神の戒めを守る」ことについて、「戒め」の定義がされている。それはイエス・キリスを信じ、互いに愛し合うこと。それだけ。私たちは組織に入ると多くのルールを作りたがるが、神が求めていることは神を愛し(イエスに信頼し)、隣人を愛すること。それを守っている人がキリストの内にいる。誰に何を言われようと、キリストを求めていることこそが信仰がある証拠。そして聖霊が私たちに信仰の確信を与えて下さる。

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1ヨハネ3:11-18

11 わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。

互いに愛する、ということは聖書で良く見かけるが、どのように愛すべきだろうか?

12 カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。
15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。

まず愛さないことが何なのか考える。世界で初めての殺人として、カインがアベルを殺したことが記されている。その理由は「(カインは)悪しき者から出て」いたから。つまり、カインは悪魔の側にいた。神のうちに留まっていなかった。だからカインは「わざが悪い」とされ、彼の捧げものは神に認められなかった。神のうちにいなければ、心が神に向いていない。自分の正しさを保つためや、他人の目を気にしているから善い行いをする。このような善い行いは「汚れた布のよう」であり(イザヤ64:6)、神に受け入れられなくて当然のこと。そして兄弟が神に受け入れられたことに嫉妬し、兄弟にたいして憎しみが溢れ、殺人に至ってしまった。

13 兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。14 わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。

神の内に留まっているならまず、死からいのちへ移ってきたことを再確認したい。私たちは元々神を知らず、自分のために生きていた。自分の罪を償うために努力し、善い行いをしてきた。しかし、いくら努力しても罪の病は癒やされない。それを癒すことができるのはイエス・キリストの十字架。イエスだけが私たちの罪を取り除いてくださる。イエスの十字架があるから私たちは本当のいのちを受けて生きることができる。

16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。

イエスが十字架でいのちを捨ててまで私たちの罪の代価を支払ってくださったことこそ本当の愛。私たちが何かをしたからではないし、私たちはその愛を受ける資格さえなかった。それでもイエスはいのちを捧げて下さった。それほどまでに私たちを愛してくださった。この愛に答えて私たちは兄弟を愛すべき。同じイエスの十字架で贖われた兄弟だからこそ、互いを愛し、互いのために尽くす必要がある。いのちを捨てるまでに。

17 世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。18 子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。

これも何度も聖書で記されているが、「言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合う」。兄弟に対して「祈っている」とか「思ってる」と言うことは簡単。実際に思っているのだろうか?実際に祈っているのだろうか?祈祷会の週報にたまたま書かれていたから、その時間枠で祈っただけで、いのちを捨てるほど愛したと言えるだろうか?日々の祈りの時間を長くしてまで、いのちと同じぐらい貴重な一日の時間を費やしてまで兄弟のために祈ることが求められている。そこまで祈れば、世の富を分け与えたり、哀れみの心を示すことはそれほど難しいことではないだろう。