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指導者に倣う

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

へブル13:7~8

私たちはどのような指導者を敬い、従うべきなのだろうか?指導者が人間である限り、必ず何かしらの問題はある。しかし、聖書はそんな欠けのある指導者を「覚える」、もしくは「服従する」ように教えている。私たちはどのように指導者に従うべきだろうか?

神のことばをあなたがたに話した

まず7節でみられるのは、「神のことばをあなたがたに話した」とある。指導者は神のことばを語っているのだろうか?その言葉は実際に神のことばなのか、もしくは人間や組織が作り出したルールなのだろうか?「収入の10%を十一献金として捧げる」、「教会の音楽は聖歌のみ」、「公開説教でないと聖書を語っていない」などは、本当に神が教えていることなのだろうか?

答えは様々だが、それをしっかり吟味し、良いものを保つようにと聖書は教えている (1テサロニケ5:21)。私たちは指導者のことばをうのみにするのではなく、彼らの教えをしっかりと吟味し、どれが神のことばか、どれが人の教えなのかを見分けなければならない。

彼らの生き方から生まれたものをよく見て

次に、指導者の生き方から生まれたものを見ることだ。彼らの生き方は何を生み出しているだろうか?家庭はどのような状況だろうか?子供が、親が牧会している教会にとどまりたいと思っているだろうか?家庭環境が荒れていたり、子供が親の教会に行きたがらない状態があるなら、その指導者の教えや指示に注意を払う必要がある。

教会の実態も指導者の良し悪しを映し出す。教会は礼拝だけに真剣で、学びや宣教をおろそかにしていないだろうか?学びは聖書が中心なのか、教本が中心なのか?年々新しい人が教会に加わっているのか?教会を去った人はどのような理由で去ったのか?ルールやしきたりに執着せず、教会が成熟を目指すように指導しているのか?

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

へブル6:1~2

その信仰に倣いなさい

もし指導者が神のことばを語り、彼の生き方から生まれたものが良いものであれば、その信仰に倣うことができる。この「倣う」ということばは、「真似する」という意味もある。つまり、その指導者と同じことを信じ(神のことばだから)、同じ生き方をすること(良いものが生まれているから)を進めている。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

へブル6:11~12

キリストが与える希望について確信を持ち続けることと、熱心に神を求めることが記されている。これは礼拝を熱心に捧げることはもちろんだが、成長するのには「固い食物」を取り入れることも必要。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

へブル5:13~14

成熟したクリスチャンは、善を悪を見分けることができる。指導者に頼る必要はなく、自分で聖書を読んで何が正しいかを判断することができる。もちろん、自分だけで判断していたら間違った方向に行く可能性もあるので他のクリスチャンとの交わりを通して、経験と訓練を積む必要もある。その交わりは、間違いを指摘しあうことではなく、愛を持って互いを成長に導き、キリストの体と経て上げるためのものである。

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

エペソ4:14~16

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません

指導者が人である限り必ず欠けはある。しかし、神であるイエス・キリストという指導者には欠けが全くない。地上の指導者が神のことばを語らなければ、イエスのことばを読むことができる。地上の指導者の生き方から生まれたものが良いものでなければ、イエスの生き方を見ることができる。そして、指導者の信仰が足りない場合はイエスの信仰から倣うことができる。

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本当に礼拝で求められていること

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

ヘブル人への手紙 9章 9〜10節

旧約の礼拝方法を新約の教会の礼拝に取り入れようとしている教会があるが、これは外面的な「からだに関する規定にすぎない。」いくら礼拝の式典を完璧にしても、オルガンがプロフェッショナルでも、司会と説教がアナウンサーなみに完璧でも、外面的に限られたことであって、「礼拝する人の良心を完全にすることができない。」

「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られた」。私達は完璧な礼拝が出来ないが、キリストはすでにこれを成してくださった。キリストの恵みによって、私達の欠けは全て赦されている。

今私達に求められていることは、希望を告白し続けること(伝導、10:23)、愛と善行を促すこと(裁くことではない、10:24)、集まって励まし合うこと(10:25)。