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ピリピ4:14~23

'また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。 ' フィリピの信徒への手紙 4:16

ピリピ教会は宣教師であるパウロの窮乏を把握し、何度も支援をした。教会は宣教師の活動実態と、どんな状況下にあって、何が必要なのかを把握しておくべき。衣食住の必要性はもちろん、子供の教育や、心のケアも重要。必要を把握した上でそれを支援する行動に移る。祈ることと献金をすることも大事だが、実際に物資を送ること、現地に会いに行って励ますこと。こういったことも教会の重要な役割。

'わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。 ' フィリピの信徒への手紙 4:18

教会で、礼拝で捧げる献金が全てではない。宣教のために捧げられる献金や贈り物も「神が喜んで受け入れてくださるいけにえ」。宣教師にしたことも、イエスにしたこととみなされる。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、こおれらのわたしの兄弟たち、それに最も小さい者たちの一人にしたこおとは、わたしにしたのです。 

マタイ25:40

初代教会では教会という一つの場所に献金を集めて、代表者が実際に宣教師のいるところに持っていき、身の回りの世話をすることが一般的だった。しかし、今日においては献金や贈り物をする方法は様々で、教会に集める必要性はなくなったし、神学的に教会が全てを管理する必要性はない。同時に、実際に宣教師に合うこと、宣教師のいる場所に行って手助けをすることの重要性も初代教会から学びたい。

'わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。 ' フィリピの信徒への手紙 4:19

神が「必要なものをすべて満たしてくださる」ことは常に覚えておきたい。それは金銭面かもしれないし、心理面かもしれない。しかし、これらが与えられなかったとしても神に満たされることも考えられる。キリスト者として成長する中で、これらの「必要」よりも神ご自身に満たされることが体験できる。聖書を読み思い巡らすことによって、神のみことばで満たされる。日々の生活の中で聖霊の働きを実感することに満たされる。永遠に向けて走り続けることに取り憑かれることによって満たされる。満たされることによって隣人を愛することが自然にできるようになる。

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ピリピ4:8~13

'わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。 '
フィリピの信徒への手紙 4:9

What he desires them to copy is his self-distrust, his willingness to sacrifice all things to win Christ, his clear sense of his own shortcomings, and his eager straining towards as yet unreached perfection. 
パウロがエペソ人に真似してほしいと思っているのは、彼の自己不信、キリストを獲得するためにすべてのものを犠牲にしようとする意志、自分の欠点をはっきりと認識すること、そしてまだ到達していない完璧な状態に向かって熱心に努力すること。

MacLaren’s Expositions

there the “peace” is evidently Christian social peace, rather than that which resides in the spirit of the saint, or has to do with his personal relations with God (and cp. 2 Corinthians 13:11). But the two are closely connected; the Divine peace in the individual tends always, in its right development and action, to the peace of the community, for it means the dethronement of the spirit of self. St Paul may thus have had in view here the need of more harmony among the Philippians, and of a nobler moral and spiritual tone (Php 4:8) as an aid towards it. 
ここでいう「平和」とは、キリスト者の精神に宿るものや、神との個人的な関係に関係するものではなく、キリスト教的な社会の平和(2コリント13:11)。個人の中にある神の平和は、その正しい発展と行動において、常に共同体の平和につながるものであり、それは自己の精神の退位を意味する。パウロはここで、ピリピ人の間にもっと調和が必要であること、そしてそれを助けるものとして、より高貴な道徳的・霊的な思考(ピリピ 4:8)が必要であることを指摘している。

Cambridge Bible for Schools and Colleges
'物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。 '
フィリピの信徒への手紙 4:11-13

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」という言葉は、「神に頼れば何でもできる」という考えよりは、「いかなる場合にも対処する秘訣」を指している。それは「置かれた環境に満足すること」。金銭的に困っていても神に頼る信仰。豊かである時は神に感謝して隣人を助ける。自分が満腹するだけに留まらず、空腹で苦しんでいる人に食料を届けることによって神の愛を示す。祈ることも献金をすることも大事だが、見える形で届ける大切さがある(ヤコブ2:16)。

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ピリピ4:1~7

わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。 フィリピの信徒への手紙 4:2-3 新共同訳

エボディアとシンティケについてあまり情報はないが、使徒16:11~16 に記されている女性の集まりが関係していたと考えられる。パウロがピリピを訪れた時、女性の集まりに福音を伝え、それを受け入れた彼女たちが教会を初め、エボディアとシンティケはその中の一人だった可能性が高い。彼女たちが教会のリーダーだったかは定かではないが、意見の違いがあったことは確かである。この違いが神学的な内容であればパウロは言及したはずだが、していないことから真理に中心的な違いではなかったことが推測できる。パウロが勧めているのは「同じ思いを抱く」こと。ピリピ書で語ってきたキリストの救い、聖霊による成長、福音を述べ伝えること。これに「同じ思いを抱く」ことによって、小さな違いは容認し前に進むことができる。

「同じ思いを抱く」状態になるには対話が必要。対話というのは双方の意見がしっかり聞かれることが前提。一方が発言している時に、聞く側がその発言を正すことを考え、発言の真意を理解しようと努力していない状態は「対話」とは言わない。「同じ思いを抱く」は「聞く」ことを学び実践することから始まる。

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。 フィリピの信徒への手紙 4:4‭-‬7 新共同訳

「主において常に喜びなさい」

キリスト者に喜びがないと、だれがキリストを受け入れたくなるだろうか?罪を赦され、永遠の命を約束され、神に仕えることができるようになった。これより大きな喜びはあるだろうか?世の中の働きから得られる喜びには限界がある。給料はいくら上がっても足りない。仕事を多くこなしても感謝されないし報われない。でも神に仕えると必ず報われるし、神のことばと約束は必ず「望むことを成し遂げ・・・言い送ったことを成功させる」(イザヤ55:11)。

「広い心がすべての人に知られるように」

喜びを持つキリスト者は心も広い。礼拝だけ、みことばだけ、を求める人に対してキリストの愛を示すのではなく、広い心をもって働きかける。教会でただ楽しいことをし、人と会話するのは悪いことではない。むしろ、そのような環境と会話から、キリストを伝えるきっかけを見出すことができる。また、キリストが重視していた人と人の関係、隣人を愛することを実行することができる。教会は礼拝の場だけではない。

「求めているものを神に打ち明けなさい」

キリストにある喜び、広い心で福音を伝える、感謝を込めて祈る。この流れで見ると、求めているものが単に自分の欲を満た願いを祈るのではない。むしろ、自分の願うことが喜び、広い心、感謝となるように祈りたい。これを願うことが本当の平和につながり、心と考えが守られることになる。

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ピリピ3:15~21

だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。 フィリピの信徒への手紙 3:15‭-‬16 新共同訳

「このように考えるべきです」

「このように」というのは14節にまとめっている。「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っている」。常に成長し続けることがキリスト者のあり方。そのためには日々の神との関係が不可欠で、それを養うために聖書を読み、内容を精査し、祈りを通して神と対話をする。また、他のクリスチャンと礼拝し、祈り、聖書を語り合うことも重要。礼拝においては式典の完璧さよりも、心を合わせられる礼拝を模索する。祈りにおいては決められた内容をやっつけるよりも、互いの心の内を分かち合い、心が通った祈りをする。聖書を語り合うときは人の書いた解説をベースにするよりも、聖書を共に読んで理解と適用を分かち合う。これが本当のkoinonia(交わり)。

「何か別の考えがあるなら、神はそのことも明らかにしてくださいます」

「別の考え」というのはキリストを「目標として走る」ことをする必要のない、という考え。「過去に聖書の学びをした」「信仰問答を学んだから基礎ができている」「説教でみことばが語られている」。こういったおごりによって、自分たちはすでに到達した、自分たちは大丈夫だ、という考えが満足感を生み、過去への栄光にプライドを持ち、これに到達していない人たちを批判するようになる。結果として、「到達した」という幻想を人々に与えてしまい、成長を阻害してしまう。こんな危機的状況であっても、「神はそのことも明らかにして」下さり、神がそれを正して下さる。人の言葉で説得するのには限界があるが、神が成すことは絶対なのでそれに期待したい。

「到達したところに基づいて進む」

キリスト者はイエスの十字架によって罪を赦された。信じることによって滅びから救われ、天国とキリストを相続した。聖霊を与えられる事によって聖なる者として変えられていくプロセスに乗せられた。現代においては完成された聖書が与えられていて、神のことを知る方法が与えられている。また、キリストが仲裁者であるため父なる神との親密な関係があり、「アバ・父」と呼ぶことができる。ここに到達していることに立ち返りつつ、前に進んで行きたい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 フィリピの信徒への手紙 3:18‭-‬19 新共同訳

「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」は、キリストを否定する人だけとは限らない。キリストを信じていると言いながらキリストの教えに従っていない人も「敵」とみなされる(マタイ7:21-23)。キリストは大宣教命令によってキリストの教えを守る弟子を増やすように指示している。しかし、キリスト者の成長を阻害すると神との関係を深めること、聖書の理解を深めることがおろそかになり、イエスの教えよりも人の教えを守るようになる。結果的にキリストの教えに従わない人たちとなってしまう。キリストの「敵」とみなされないように常に吟味しなければならない(ヤコブ3:1)。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 フィリピの信徒への手紙 3:21 新共同訳

キリストには力がある。被造物すべてを支配下に置くことができるし、私達の体や心を支配することもできる。キリストの支配に委ねれば、キリストは「光ある体と同じ形に変えてくださる」。キリストに委ねていきたい。

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ピリピ3:10~14

'わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 ' フィリピの信徒への手紙 3:10-12

「キリストとその復活の力とを知り」

キリストは創造主であり、全ての被造物はキリストによって創られた(ヨハネ1:3)。それほど力を持っている方が、人としてこの世に来てくださり、多くの奇跡を起こした。時には病を治し、死者も復活させた。創造主が被造物と共に歩んだことを考えると、どれだけキリストはへりくだったのだろうか(ピリピ2)。どれだけ私たちを愛していただろうか(ヨハネ3:16)。さらに全世代・全世界の罪の罰を十字架で背負い、さらに父なる神に見放される孤独を味わった(マタイ27:46)。蘇りを通して死に打ち勝つ力を見せつけ(1コリント15:54~55)、後に悪魔を葬る権利を握っている(黙示録20:14)。

「その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」

キリストは罪を侵すことはなかったが、全世代・全世界の罪の罰を十字架で背負った。律法における「罪の報酬」(=死)(ローマ6:23)を成就し、キリスト者は自分の罪の罰を受ける必要はなくなった。それでもキリスト者が罪を侵してしまうのはこの世の弱い肉体に生きているから。そんな状態でも罪との戦いは要求されている。悪魔の企みを理解するために気を貼る(1ペテロ5:8)。罪からの逃げ道を見つけ出し、全力で逃げる(1コリント10:13)。罪を侵すような要素は捨て去る(マタイ5:29)。罪に入り込む隙間がないほど聖霊で満たされる(エペソ5:18)。

「 何とかして死者の中からの復活に達したいのです」

キリスト者はキリストを信じて受け入れた時点で聖霊によって証印が押され、天国と永遠の命を相続するまで失うことは無い(エペソ1:13~14)。だが信じた時点で完璧なキリスト者ではなく、常に聖霊によって変えられている(ピリピ1:6)。命を授けるキリストの声を聞けるように、聖書を学び、祈り、聖霊で満たされなければならない(ヨハネ10:27~30)。常に自分を吟味し、キリストを求めているか問いかけなければならない(2コリント13:5)。学んだことを行動に移しているかも一つのテスト(2ペテロ1:10)。

努力をする最も大きな理由は「キリスト・イエスに捕らえられているから」。イエスの素晴らしさ、イエスがして下さったことへの感謝、救いを保障してくれる聖霊に突き動かされて、キリスト者は「既にそれを得た」と思わず、「既に完全な者」と思わず、「何とかしてとらえようと務める」。「礼拝していればそれで良い」ではない。「すでに一度学んでいるからもう学ぶ必要はない」とも言えない。キリストという高みに向かっていくことこそ、キリスト者の生きる目的。

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ピリピ3:1~9

'あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 ' フィリピの信徒への手紙 3:2

エペソ教会にいたユダヤ人は、キリストを信じること以外に律法を守る必要性を強調していた。特に割礼を重要視していて、「神の民」であるならばその印である割礼を受けなければならないと教えていた。同じ神を畏れ敬っていても、キリストが律法を成就し、新たな契約を提供していることを理解し受け入れていない状況によって、不必要なルールや風習を取り入れ守ることに必死になってしまった。まさにイスラエルがアッシリアに制覇された理由と似たような状況。

'このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。 ' 列王記下 17:33

イスラエルはカナンの地に元々あった風習を取り入れていくうちに、神を畏れ敬うことをしなくなってしまったために、契約に基づいて神はカナンの地をイスラエルから取り上げた。今日の教会でも宗教改革時代からの風習を取り入れ、それを守り通すことに注力してしまう場合がある。その結果、オンラインの可能性を無視して排除し、制約を重んじるあまりに隣人を愛するのではなく罰することに情熱を注いでしまう。風習を守る前に、キリストが教えたことは何なのかを考えたい。

'そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 ' フィリピの信徒への手紙 3:8-9

まずはキリストを知ることの素晴らしさを理解し、それ以外のことを「損失」と捉えること。ルールや風習は「塵あくた」。キリストの内にいる者(クリスチャン)はキリストを得たことによって大きな価値を持ち、価値ある者として扱われなければならない。ルールや風習を守っているかのチェック対象でなく、一人の人として見ていきたい。

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ピリピ2:19~30

ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。 そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。 わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。 フィリピの信徒への手紙 2:25‭-‬30 新共同訳

エパフロディトは誰だ?ピリピ教会がパウロの世話をするためにローマに送った人。また、パウロからの感謝の手紙をピリピ教会に持ち帰った人。そしてピリピ教会から献金を任されるほどの人だったことから、教会の中で信頼された存在(もしくはリーダー)だった可能性が高い。パウロといたときに「瀕死の重病」にかかったが、奇跡的に回復した。また、聖書においてはピリピだけに登場する。

「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。」エパフロディトは教会のビジョンと神学的方針を定める牧師や長老でなければ、教会内の動きを管理する執事でもなかった。(長老や執事であった可能性があるが、パウロを助けに行った時点で教会内の働きはできなくなっている)しかし、ピリピがある慣れ親しんだマケドニアの地を離れ、遠く離れた都会であるローマに行き、何もできないパウロの身の回りの世話をした。長老や執事のように教会全体に見られる舞台で、教会にとっては直接的な働きではないが、イエスが教えたように「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」エパフロディトのしたことは「大いに歓迎」するに値する働きだ。教会の礼拝奉仕をするよりも、教会に通えない弱い立場の人たちに奉仕することが「大いに歓迎」されるべき。そしてそのような人々を「敬い」、キリストの「隣人を愛する」教えを実行する者としてその人達から学びたい。

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ピリピ2:12~18

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。〜フィリピの信徒への手紙 2:12‭-‬13 新共同訳

「だから」は前の箇所にて「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つに」することをピリピ教会に促していることを指している。わだかまりを無かったことにせず、しっかりと対話し、一致することに務めることが教会に求められている。「一致」にたどり着くには牧師や長老ですべてを決め、それを教会員に発表する、という方法がある。しかし、それではトップから提示された方針に同意しない教会員と認識齟齬が生まれる。トップからのビジョンや神学的方向性は必要だが、それに対して教会員のインプットを得るとなお一致を生みやすい。トップダウン・ボトムアップを合わせることによって、全員参加型の教会を立てあげることが同じ方向を向いて、同じ目標に向かう結果を生み出す。

「自分の救いを達成するように努めなさい。」信じることによって救われることは間違いない。しかし、生まれたての赤ちゃんのままでいるのは神が望むことではない。教会の一致に参画するには一人ひとりの成長が不可欠。聖書を毎日読んで思いを巡らすことを促すデボーションやバイブルスタディ。毎日の祈りを通して神との関係を深めることを促すスモールグループや祈祷会。(祈祷会においては決められた内容だけでなく、互いのために祈ることも必要)一人ひとりが神のみこころを知り、理解できることの体制を築くことによって、全員参加型の一致した教会が可能になる。

最も、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」ことを覚えたい。自分の力、能力、経験だけでは「救いを達成」できない。年長だから、長く教会に通っているから、神のみこころを成すことはできない。若いから、子育てを始めたばかりで大変だから、神のみこころを成すことができないわけではない。私達の内に働いている聖霊が私達に能力を与え(御霊の実)、私達が神のみこころを成すように突き動かして下さる。

聖霊に導かれる生き方が「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つ」キリスト者を生む。自分の力で成したことではないから「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」。(14~16節)

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ピリピ2:1~11

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 フィリピの信徒への手紙 2:1‭-‬2 新共同訳
「キリストによる励まし」=paraklesis=寄り添って助ける・励ます・慰める

キリストは天国に戻ってキリスト者と父なる神の間に立ってくださっている。代わりに聖霊 (助け主=parakletos) を送り、私達と寄り添い、助け、励まし、慰めてくれる。

「愛の慰め」=paramythion agapes=慈愛・善意・尊敬による励まし・勇気づけ

キリストによる愛(agape)は、私達を尊敬する、善意ある愛。私達を理解し、私達に最も有益なことを与えたいという動機がある。その動機をもって私達を励まし、勇気づけてくれる。

「霊による交わり」=koinonia pneumatos=聖霊と参画・パートナー・恩恵を受ける

キリストが送った聖霊とパートナーなり、共に聖霊の働きに参画することによって、自身が聖化されていく。キリストを求め、キリストの教えを学び取り入れ、キリストの行動に習うようになる。キリストのようになることが聖霊の恩恵。

「慈しみや憐れみ」=splancha kai oiktirmoi=内蔵・深い感情、憐れみ・慈しみ・好意・恵み

キリストは私達に対する深い感情を抱いている。それは人が軽はずみに使う「愛してる」とか「好き」とか「祈ってるよ」という言葉ではなく、言葉に迷い何も言わないことでもない。イエスは、腹の最も深い所から出てくる感情で私達を思っている。私達に好意を抱いているから私達を憐れみ、慈しみ、私達に恵みを与えて下さる。

キリストが私達に対する思いと「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」にするようピリピ教会に促している。垂直なキリストとの関係と、聖霊の助けを通してキリスト者は変えられていく。結果として内側が変えられ、横の関係にある隣人や他のキリスト者とこの思いを共有し、行動に移していきたい。

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ピリピ1:21~30

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。フィリピの信徒への手紙 1:21 新共同訳

キリスト者にとって、生きることは日曜日の朝に礼拝をすることではなく、生きることはキリスト。つまり生活全体を通してキリストを中心とした生き方をすること。それは神を愛し、隣人を愛すること。神を愛するなら聖書を読んで祈り、神のみこころを常に探る。そしてみこころを追い求め、聖霊によってそれを成して行くと同時に、自然に罪から自分を遠ざけていく。隣人を愛するならイエスが行動に起こしたように、世の中の弱い立場の人たちに手を差し伸べ、見える形で助ける。教会という組織や建物が潤うことを望むのではなく、教会としてどのように隣人愛を示すことができるか考え行動する。

けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。フィリピの信徒への手紙 1:22‭-‬24 新共同訳

パウロは常にキリストと共にいたいと思っていた。世の中にいると気をそらすことが多くあり、これがかなわない。なので「この世を去って」永遠にキリストと共にいたいと書いている。キリスト者の最も大きな望みは永遠の命を得ることではなく、永遠にキリストと共に過ごすことができること。これが願いでなければ本当にキリスト者かどうか吟味しなければならない。

この「キリストと共にいる」という言葉からいくつか確認できるポイントがある。

That this was the true reason why he wished to be away. It was his strong love to Christ; his anxious wish to be with him; his firm belief that in his presence was “fulness of joy.”
(キリストと共にいることが)パウロが本当にこの世を離れたい理由。キリストに対する強い愛、共にいたいという切実な願い、そしてキリストの臨在は喜びで溢れていることへの信仰がパウロにあった。

Paul believed that the soul of the Christian would be immediately with the Saviour at death. It was evidently his expectation that he would at once pass to his presence, and not that he would remain in an intermediate state to some far distant period.
パウロは、クリスチャンの魂は死の直後に救い主と共にいると信じていた。すぐにキリストの臨在に置かれると信じていて、ある一定期間、どこかの中間地帯に魂が待機するとは信じていなかった。

the soul does not sleep at death. Paul expected to be with Christ, and to be conscious of the fact – to see him, and to partake of his glory.
魂は死後眠るのではない。キリストと共にいて、意識がはっきりしていて、目で見て、栄光を共に分かち合うことができると、パウロは信じていた。

the soul of the believer is made happy at death. To be with Christ is synonymous with being in heaven – for Christ is in heaven, and is its glory.
キリスト者の魂は死後喜びで満たされる。キリストと共にいることは天国で共にいること。キリストは天国にいて、天国の栄光そのものである。

Barnes Notes on the Bible

これほど大きな喜びの望みが控えているのだから、パウロはこの世に留まって諸教会のために働くことができたのだろう。この喜びを自分だけに留めることはせず、より多くの人に伝えたい。諸教会にもこの喜びを理解し実感することによって、広め伝えていく原動力にしてほしい。そのような願いからもパウロは地上に残る活力を得たのだろう。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。フィリピの信徒への手紙 1:27‭-‬28 新共同訳

「一つの霊によってしっかり立ち」
教会が一致してキリストの喜びを分かち合い、その喜びを伝えたいという思いを共有し、伝えることを行動に移し、祈り支える。これが理想的な教会における伝導の形。一部の人間が頑張って伝導しても、教会の支えがないと成り立たない。

「心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」

これは世の中のすべてを否定し、敵視することではない。むしろ福音はすべての人に伝えるべきことであって、どのように伝えれば理解してもらえるか吟味しなければならない。同時に、福音の中核である「信じる者は救われる」というメッセージに不必要な情報(クリスチャンはこのようなルールを守らなければならない)を付け足さないよう気をつけたい。

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。フィリピの信徒への手紙 1:29 新共同訳

キリストを信じるだけで終わりではない。「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。」世の中でキリスト者として生きると苦しみを受ける。キリスト者として誠実に生きようとしても、会社ではグレーなことを要求される。福音を伝えたり教会に招待しようとすると「怪しい宗教」扱いされてしまう。しかし、キリストのためならそれは「恵み」と考えられるほど、キリストへの愛で満たされたい。