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Christian Life Church Hebrews

指導者に倣う

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

へブル13:7~8

私たちはどのような指導者を敬い、従うべきなのだろうか?指導者が人間である限り、必ず何かしらの問題はある。しかし、聖書はそんな欠けのある指導者を「覚える」、もしくは「服従する」ように教えている。私たちはどのように指導者に従うべきだろうか?

神のことばをあなたがたに話した

まず7節でみられるのは、「神のことばをあなたがたに話した」とある。指導者は神のことばを語っているのだろうか?その言葉は実際に神のことばなのか、もしくは人間や組織が作り出したルールなのだろうか?「収入の10%を十一献金として捧げる」、「教会の音楽は聖歌のみ」、「公開説教でないと聖書を語っていない」などは、本当に神が教えていることなのだろうか?

答えは様々だが、それをしっかり吟味し、良いものを保つようにと聖書は教えている (1テサロニケ5:21)。私たちは指導者のことばをうのみにするのではなく、彼らの教えをしっかりと吟味し、どれが神のことばか、どれが人の教えなのかを見分けなければならない。

彼らの生き方から生まれたものをよく見て

次に、指導者の生き方から生まれたものを見ることだ。彼らの生き方は何を生み出しているだろうか?家庭はどのような状況だろうか?子供が、親が牧会している教会にとどまりたいと思っているだろうか?家庭環境が荒れていたり、子供が親の教会に行きたがらない状態があるなら、その指導者の教えや指示に注意を払う必要がある。

教会の実態も指導者の良し悪しを映し出す。教会は礼拝だけに真剣で、学びや宣教をおろそかにしていないだろうか?学びは聖書が中心なのか、教本が中心なのか?年々新しい人が教会に加わっているのか?教会を去った人はどのような理由で去ったのか?ルールやしきたりに執着せず、教会が成熟を目指すように指導しているのか?

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

へブル6:1~2

その信仰に倣いなさい

もし指導者が神のことばを語り、彼の生き方から生まれたものが良いものであれば、その信仰に倣うことができる。この「倣う」ということばは、「真似する」という意味もある。つまり、その指導者と同じことを信じ(神のことばだから)、同じ生き方をすること(良いものが生まれているから)を進めている。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

へブル6:11~12

キリストが与える希望について確信を持ち続けることと、熱心に神を求めることが記されている。これは礼拝を熱心に捧げることはもちろんだが、成長するのには「固い食物」を取り入れることも必要。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

へブル5:13~14

成熟したクリスチャンは、善を悪を見分けることができる。指導者に頼る必要はなく、自分で聖書を読んで何が正しいかを判断することができる。もちろん、自分だけで判断していたら間違った方向に行く可能性もあるので他のクリスチャンとの交わりを通して、経験と訓練を積む必要もある。その交わりは、間違いを指摘しあうことではなく、愛を持って互いを成長に導き、キリストの体と経て上げるためのものである。

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

エペソ4:14~16

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません

指導者が人である限り必ず欠けはある。しかし、神であるイエス・キリストという指導者には欠けが全くない。地上の指導者が神のことばを語らなければ、イエスのことばを読むことができる。地上の指導者の生き方から生まれたものが良いものでなければ、イエスの生き方を見ることができる。そして、指導者の信仰が足りない場合はイエスの信仰から倣うことができる。

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Church

本当に礼拝で求められていること

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

ヘブル人への手紙 9章 9〜10節

旧約の礼拝方法を新約の教会の礼拝に取り入れようとしている教会があるが、これは外面的な「からだに関する規定にすぎない。」いくら礼拝の式典を完璧にしても、オルガンがプロフェッショナルでも、司会と説教がアナウンサーなみに完璧でも、外面的に限られたことであって、「礼拝する人の良心を完全にすることができない。」

「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られた」。私達は完璧な礼拝が出来ないが、キリストはすでにこれを成してくださった。キリストの恵みによって、私達の欠けは全て赦されている。

今私達に求められていることは、希望を告白し続けること(伝導、10:23)、愛と善行を促すこと(裁くことではない、10:24)、集まって励まし合うこと(10:25)。

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Christian Life

授けられている言葉

するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。」マタイ19:11

聖書には受け入れがたい教えが多く書かれている。

神が男と女を創り、その二人が一つとなったことを結婚とし、その二人を裂くことは誰もできない。(4-6説) 同性婚や離婚を推奨する人には受け入れがたい教えだ。また、不品行以外で離婚し、再婚したら姦淫の罪を犯すとも書いてある。(9説) これに当てはまる人も少なくはない。

この難しい教えを曲げて自分の好きなように解釈する、もしくはその聖書箇所は神ではなく人の思いで書かれているので受け入れなくても良い、と言ってしまうことは簡単なこと。

しかし、イエスはそんな難しい聖書箇所でも「授けられている」と言っている。難しくても神の言葉として受け入れ、自分がそれているなら罪を認め、悔い改めることを促している。

神は立ち返る罪人を受け入れてくださる。

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Malachi

マラキ3:1, 3

ハガイでは神殿の未来の栄光の素晴らしさを示すことによって神殿の再建を励ました。ゼカリヤでは新たな泉が開かれ、それによって民が悔い改め、多くの国民が神にひれ伏すことが記されていた。そしてマラキで人々は、これらの約束が成就されるのを待っていた。そんな中、神に対して「満足しきって」いて怠惰になってしまっていたので、物足りなさからこの世の快楽を求めた。マラキの預言は、約400年後に使わされる救世主によって、この世を求めている人々を清める希望を記している。

3:1「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。―万軍の主は言われる。」

3人の人が来ることが記されている。最初の人は「道を備える」者で、「エリヤ」と呼ばれている (マラキ4:5-6)。バプテスマのヨハネが「エリヤ」だとイエスご自身が確認している (ルカ1:16-17, マタイ17:12, ヨハネ3:28)。そしてイエス・キリストが「神殿に来る」者で、ご自身を捧げることによって罪の代価を支払う。3人目に関しては、「主」と「契約の使者」は別人だと思えるかも知れないが、イエスは神である (ヨハネ1:1, 14) ことから、「主」と呼ばれてもおかしくない。

3:3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。

キリストが来ることによって清めのプロセスが開始するのだが、まず清められるのはレビの子ら。最終的に神は全ての人々を清めるのだが、清めはまず祭司たちから始まらなければならない。彼らが汚れていれば民も汚れる。彼らが清められれば民も神に立ち返る。また、新約聖書でキリスト者は「聖なる祭司」(1ペテロ2:5)、「王である祭司」(1ペテロ2:9) とされていて、キリスト者は皆レビの子と言える。キリストに始まった清めは「聖なる祭司」を通して全ての人に広がっていく。

この清めのプロセスによって全ての罪から清められるのだが、マラキでは2つの例が挙げられている。一つは離婚について (2:14-16)。夫婦関係を保つために努力し、共に神に向かっていくことを励まし合うことが、離婚を回避するための秘訣。イエスはこれを助けるためにこの世に来られた。そしてもう一つは金銭と持ち物を愛することについて (3:8-10)。神を愛することと神に仕えることを忘れると、神を金銭と持ち物に置き換え、それらを拝んでしまう。神を第一にすることによって、金銭や持ち物を捧げることに抵抗は無くなる。10%などとルールを設けなくても、心からあふれるほどの捧げものをすることができる。

マラキで預言されていたイエス・キリストがこの世に来られ、神の栄光のために生きる祭司の民を清めた。これがクリスマスの本当の目的。神の栄光と偉大さに目を向け、神を何よりも愛するようになれば、本当の自由を得ることができる。金銭の愛から自由にされ、姦淫の罪から開放される。自由に喜んで神を礼拝し、善と愛を発見する喜びを体験する。自分が衰えキリストが盛んになる。神の栄光が永遠に讃えられるようになる。

このブログはジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-shall-go-forth-leaping-like-calves

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Church Malachi Worship

マラキ1:6-14

祭司は神殿の捧げものを軽視し、それによって神の名を軽視していた (8節)。祭司たちは盗んだ動物、病気で歩けない動物などを捧げていた。主はこれをい受け入れない (13節)。しかも「損傷のあるものを主に捧げるような、ずるい者はのろわれる」(14節) とある。軽率な礼拝という呪いを放っておくべきではない。

軽率な礼拝が行われる理由

軽率な礼拝は何故行われるのか?神の偉大さを理解できていないから。

神の「わたしはあなたがたを愛している」という言葉に対して人々は軽率に「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」と返した (2節)。それに対して神は暖かい愛で答えるよりも、エサウを憎み、ヤコブを愛したことを示した。それはつまり、エサウよりもヤコブを選ぶことによってご自身を主権を示していることになる。愛よりも主権を重視したメッセージである。

また、神は父としての威厳を示している (6節)。子を愛する父を示すこともできた。しかし、愛することではなく、父を敬うことを訴えている。軽率な礼拝によって神を威厳ある父親として見ていないことが問題視されている。

神が捧げ物を受けない理由は、神の名が崇められなければならないから (10-11節)。傷のあるものを主に捧げる者はのろわれる理由は、神は大いなる王だから (13-14節)。軽率な礼拝が許されないのは、神の偉大さを無視する行為になるから。

この軽率な礼拝が行われる理由は、神に対して怠惰になり (13節)、世の中のことに強い興味を持つようになるから。神の偉大さを理解することができなければ、金銭で手に入れられるモノの方が興味を引いてしまう。まさに、天国に宝を置いていなければ、地上に置いてしまう状態になる。

軽率な礼拝の形

軽率な礼拝はどのような形をとるのか?意味のない宗教的行動と考えられる。もしくは、神を小さくしてしまう宗教的行動とも言える。「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火ををもせないようにする人が、一人でもいるであろうか」(10節)。

この「いたずらに」という言葉はヘブライ語で「ヒンナム」で、ダビデが2サムエル24:24で使ったことばと同じ。ダビデは神に捧げものをするためにアラウナから土地を献上されたところ、ダビデはその土地の代価を支払うと言い張った。「費用もかけずに(ヒンナム)、私の神、主に全焼のささげ物を捧げたくない。」

神を尊び、神の主権と父としての威厳によって私の魂が満ち足りている。なので、礼拝するとき神よりも金銭を愛するように見せたくない。私は何かを支払い、この世ではなく神が私の宝であることを証明したい。

軽率ではない礼拝

軽率ではない礼拝はどのような形をとるのか?まず礼拝の真の目的を定義する必要がある。

  • 神の価値と偉大さを表すこと
  • 神の価値と美しさの霊的な感覚を会衆の内に維持させること

また別の角度で考えると礼拝は

  • 人の財産や称賛よりも神を宝としている心からくる
  • 神中心の心を会衆に植え付ける

では、優れた礼拝とはどのような形をとるのか?

  • プロ意識を持つことではない。完璧な礼拝式典を求め、完璧な口調で聖書朗読や説教をし、一日欠かさず礼拝に出席することではない。いくら完璧にこなしても、神に向ける熱心な心を育むことはない。
  • 感情任せではない。感情ばかりに任せると思考停止に陥る。感情を動かすテクニックを通して人々を熱狂させることはできる。しかし、神中心の礼拝と聖書全体を通した教えをおろそかにしてしまう。
  • 霊的に満足した状態ではない。神に対する霊的な感情あるかもしれない。しかし、満足しきっているため神中心に向ける熱心さが欠ける。熱心さが欠けると礼拝奉仕におけるほころびが出てくる。また、礼拝体験は個人的なものとされ、会衆の霊的な流れを無視するようになる。「自分が満足に礼拝できていれば良い。」「他の人は自分の立派な礼拝の姿勢を見ていれば学べる。」新来会者の対応や子供への礼拝教育はおろそかになる。
  • 霊的に忠実でいること。神の偉大さを体験し、熱心さをもって神を求める。満足に陥らず、完璧主義にならず、自分の立派さに焦点を当てず、熱心さを会衆と分かち合う。これが軽率でない礼拝につながる。
このブログはジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-curse-of-careless-worship
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Church Malachi

マラキ 3:7-12

7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。

十分の一を捧げないのは神のものを盗むこと (8節)。そして十分の一を宝物庫に携えるよう命令している (10節)。しかし、パウロは献金について教会に教える時、十分の一の命令について語らず、逆に喜んで捧げることを強調した。一見矛盾しているようなこの2つの教えは、新約のクリスチャンにどう適用すればよいのだろうか?

確かに、イエスはパリサイ人に「正義と神への愛をおろそかにしている」と指摘した上で「十分の一もおろそかにしてはいけない」とも言っている。しかし、これはイエスの十字架の前の出来事であり、パリサイ人に律法を守るように指示するのは当然のこと。キリストの十字架の後に生まれたクリスチャンにはモーセ律法は適用せず、クリスチャンはキリストの律法のもとで生きるとされている (ローマ6:14–15; 7:5–6; ガラテヤ3:15–4:7; 2コリント3:4–18)。 

パウロも、それぞれが収入に応じて捧げることを教えていた (16:2)。これは十分の一を教えていたかのように思えるが、パウロのポイントはそこではない。パウロは、聖職者をサポートすることを促している (ガラテヤ6:6, 1テモテ5:18, 1コリント9:7)。貧しい人を助けるように促している (使徒 2:43–47; 4:32–37; 11:27–30; ガラテヤ. 2:10; 1コリント16:1–4; 2コリント8:1–9:15)。そして何より、「苦しみによる激しい試練の中であってもあふれ出て、惜しみなく施す」 (2コリント8:2) ことを勧めている。「十分の一を守っている」ことが合格点なのではなく、惜しみなく与えることが目指すべきところ。

これを踏まえて、マラキに記されている戒めに対して2つの対処法が考えられる。

一つ目は、モーセ律法のもとにいないキリスト者として、さらなる聖なる高みを目指すためにマラキの戒めを横に置く。10%捧げたから残りの90%を使ってこの世の欲を求めても良い、と考えるのであれば、その戒め自体を横において、全てを捧げられる心を与えられるよう祈る必要がある。逆に、10%さえも捧げなくても良いと捉え、さらに金銭を愛するようになってしまうのであれば、10%のルールをセットして自制する必要があるかもしれない。

二つ目は、マラキの戒めによる捧げものの制限を横において、捧げられる自由を求める。もし10%を捧げなくても良いこと自体に喜びを得るのであれば、戒めを横に置く正当な理由にはならない。パウロはこの戒めを横においたのは、私たちを金銭の愛から開放するため。また、私たちがさらに自由に捧げることができるため。なので、10%の戒めを守らなくても良いが、私たちはそれだけ多く、自由に捧げることができることを自覚しなければならない。

十分の一であれ、自由に捧げる形であれ、神はそれを祝福すると語っている。十分の一を捧げていない人に対して「ルールを守っていない」と断言したり、一人ひとりの捧げ額を細かく管理し、それを評価する仕組みを取っているわけでもない。神は民に捧げるように訴えている。そして神がどのように祝福するかを試すように訴えている。

10 ──万軍の主は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は言われる──12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の主は言われる。
このブログの内容はジョン・パイパーが提供している記事と、The Gospel Coalitionが提供している記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-will-be-a-land-of-delight
https://www.thegospelcoalition.org/article/7-reasons-christians-not-required-to-tithe/
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Zechariah

ゼカリヤ

ゼカリヤはハガイと同じ時代に預言者として活動していた。どちらの預言者もバビロン捕囚からエルサレムに帰還したユダヤ人に向けて語っていた。そしてどちらも神殿の再建に向けて人々を励ました。ゼカリヤのポイントは8:13-15に記されている。

13 ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ」。14 万軍の主は、こう仰せられる、「あなたがたの先祖が、わたしを怒らせた時に、災を下そうと思って、これをやめなかったように、――万軍の主は言われる――15 そのように、わたしはまた今日、エルサレムとユダの家に恵みを与えよう。恐れてはならない。

神は民に良いことをすると告げている。そして神はイスラエルを救い、イスラエルは他国への祝福となる。この約束はイスラエルに希望を与え、恐れを取り除き、強めるために与えられている。

一般的に、預言書を読む際にクリスチャンへの適用が難しく感じるときがある。それは、預言書のメッセージの大半はイスラエルに向けたものだから。では、どのようにして預言書を解釈し、適用すべきだろうか?

  1. まず前提となるのは、預言書はイスラエルの民に向けて書かれたメッセージであること。異邦人や教会は視野に入っていない。
  2. イスラエルは悔い改めれば今後も栄光ある未来が用意されている。教会がイスラエルの代わりになったと言うには単純すぎる。「神は自分の民(イスラエル)を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません」(ローマ11:1)。
  3. 信仰によって異邦人はイスラエルの約束を共に相続することができる (ガラテヤ3:29, エペソ2:19, 3:6)。
  4. なので、旧約の予言はイスラエルに直接向けたメッセージだったが、その適用と約束はイスラエルにとどまらず、異邦人にも及ぶ。
  5. イスラエルに与えられた約束は段階的に成就されていく。メシアの来臨も段階的に起きている。まずキリストは罪を取り除くために来られた (ヘブル9:6)。再臨のときにキリストは罪を裁き、待ち望む者を救う。旧約聖書ではこの2つを区別しないので、一部キリストの来臨によって成就したものもあるが、終わりの日に成就されるものもまだ残っている。

つまり、旧約聖書で「恐れるな」と書かれているとき、相続人であるクリスチャンとしてこの約束を受取ることができる。恐れることがない理由についてはまずイスラエルに適用されるが、霊的なユダヤ人(ローマ2:29, ガラテヤ3:29)である私たちにも間接的に適用される。

13:1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。

ゼカリヤでおそらく最も大事な約束が記されている。イスラエルの民に泉が開かれ、その泉によって彼らの罪と汚れが清められる。この約束によって罪人が罪赦され、神の恵みを受け入れられるようになるので、この約束は他の全ての約束の土台になると言える。清めの泉は天国に向かうための最初の経過点である。

では、何故この泉が開かれなければならないのか?ユダヤ人にとってこれは、動物犠牲のシステムは罪を清めるには不十分だと言われているのと同じ。何故動物犠牲は不十分なのだろうか?動物が被る損失は神の栄光が受ける損傷と比べることができないから。罪は人に対して損害を被るのではなく、神の栄光を汚すことである。人間が創造主を信頼せず、創造主に逆らうことがどんなに極悪かを理解できれば、私たちは永遠の滅びによる裁きに抗議することができないだろう。そして神の子が犠牲となる必要性を疑うことはできないだろう。

3:8 聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。9 見よ、わたしがヨシュアの前に置いた石を。一つの石の上には、七つの目がある。見よ、わたしはそれに文字を彫る。ー万軍の主のことばー 一日のうちに、わたしはその地の咎を取り除く。

次に、この泉はどのように清めるのだろう?この箇所では、罪の赦しは「枝」と呼ばれているメシアと関係していることが分かる。このメシアは咎を取り除き、しかもそれを一日のうちに行う。キリストの血が罪を取り除くには、罪人が悔い改めて神を求める必要がある。通常、人は神の栄光を汚すことについて何とも思わない。人が罪に対して悲しむには神がそうさせるしかない。聖霊が人に罪を示してくださる。イスラエルにもこれが起きると予言されている (12:10-11)。エルサレムの咎が取り除かれ、神の赦しが注がれる (14:11, 2:5, 2:10, 8:8)。ゼカリヤでイスラエルに約束されたことは、キリストの血による泉と神の民の悔い改めによって成就される。

最後に、開かれた泉は誰を清めるのか?だれがゼカリヤを読んで希望を得ることができるのか?一番わかりやすいのがユダヤ人。メシアである御子を否定することによって神を怒らせたかもしれないが (1テサロニケ2:15)、今日においても神は赦しを約束している。神はいつの日か覆いを取り除いてくださる (2コリント3:14)。彼らの頑なな心を取り除いてくださる (ローマ11:25)。恵みの霊を彼らに注ぎ、彼らはイエスを主とあがめるようになる。今日においてメシアニック・ジュダイズムという形でこれが成就され始めているかもしれない。私たちはユダヤ人の知り合いや友達のために祈り、彼らにキリストを証し続ける必要がある。

また、ゼカリヤのメッセージは私たち異邦人クリスチャンにも適用できる。キリストの血の泉が開かれることによって、私たちもゼカリヤの約束に含まれる。私たちは「イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人」(エペソ2:12)でなくなる。私たちはアブラハムの霊的な子孫であり、新たなエルサレムの住人。ゼカリヤの希望と喜びと栄光は私たちの希望と栄光と喜びである。

2:11 その日、多くの国々が主に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知る。
この投稿はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/there-shall-be-a-fountain-opened

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Haggai

ハガイ

エルサレムは586 BCにバビロンによって滅ぼされ、神殿は破壊され、多くのユダヤ人が捕虜として囚われた。その50年後ペルシア帝国がバビロンを滅ぼし、翌年の538 BCにユダヤ人を開放し、エルサレムで神殿を再建することが許された。エルサレムに戻ったユダヤ人の中にハガイとザカリヤがいた。この二人の行いはエズラ5:1-2に記されている。

1 さて預言者ハガイおよびイドの子ゼカリヤのふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に向かって、彼らの上にいますイスラエルの神の名によって預言した。2 そこでシャルテルの子ゼルバベルおよびヨザダクの子エシュアは立ちあがって、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた。

ハガイは4つの神からのメッセージで構成されていて、最初 (1章)と3つ目 (2:10-19)のメッセージと、2つ目 (2:1-9) と4つ目 (2:20-23)のメッセージが対になっている。

1:4 「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。5 それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。6 あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。

最初のメッセージでは、人々は神殿をないがしろにして生活を良くしようとしているので、いつまでも満足できないと指摘している。いくら働いても、食べても、飲んでも、衣類をまとっても、キリストの体の働きをないがしろにすれば、いつまでも満足しない。神の栄光のために働かず、この世の快楽だけを求めて働くのは、常に欲求不満がまとわりつく。

8 山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。

この不満の解決法は、神の栄光に焦点を当てること。旧約聖書の神殿は神の栄光のために存在した。今日において、教会は神の栄光のために存在する (エペソ1:6, 12, 14)。教会の霊的な状態と成長をないがしろにすることは、神の栄光に焦点を当てていないことを示している。

2:14 そこで、ハガイは言った、「主は言われる、この民も、この国も、わたしの前では、そのようである。またその手のわざもそのようである。その所で彼らのささげるものは、汚れたものである。

2:10-19の3つ目のメッセージによると、神殿の工事がなかなか進んでいない事が読み取れる。理由は、人々は罪の中に生きているから。神に従って神殿の工事を行っても、罪のせいでその仕事は祝福されていない。これに対してハガイは人々に、神殿の工事を始める前の、虚しい、満たされていない状態を思い出すよう促す (2:15-17)。また、神に従って神殿の工事を始め、祝福されたことを考えるように促した (2:18-19)。神はこれからも祝福し続けたい。なので、その祝福を受け続けるためにも生活を見直し、罪を悔い改め、神殿の工事を続けていくように促している。

1つ目と3つ目のメッセージは、ユダヤ人に神殿を再建するように促した。神に従う前は満たされない状態だったが、工事を続けて罪の生活を悔い改めれば、神は必ず祝福してくださる。すべては物理的な建物ではなく、神の栄光のため。

2:3 『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。

2:1-9の2つ目のメッセージに戻ると、神殿の工事が完全に止まっていた事がわかる。理由は、過去の栄光を思い起こしていたから。70年前の神殿はソロモンの傑作で、数百年にわたって神礼拝の中心だった。今やっている工事は、いくら頑張ってもソロモンの神殿と同等のものは作れない。そのレベルに達することができないなら建て直さず、思い出に残す方がマシ。

キリストのために働く人も同じ思いをすることがあるだろう。いくら働いてもみすぼらしく感じる。毎週、毎月頑張るが、収穫がとても小さい。歴史を見返したり、周りを見渡すと大きな成功を治めている人がいる。それに比べて自分の働きはほとんど成果がない。気落ちしてしまって、諦めてしまいたい。

2:4 主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。

神は働きの結果について違った視点をもっている。神殿の工事は意味のないことではない。「勇気を出せ。働け」と励ますと同時に、2つの励ましを与えてくださっている。

1つ目の励ましは、神は常に働く者と共にいること (2:4-5)。心を励ましてくださる (1:13)。かつてイスラエルに約束した神は今日も同じ神 (2:5)。そしてソロモンが神殿を建てたときに励ました神が、同じように私たちを励ましている (1歴代志28:20)。

2つ目の励ましは、働きの結果は見える範囲にとどまらないこと (2:6-9)。神は働きをご自身の栄光で満たし、思い描ける以上に結果を伴うようにしてくださる。この神の業に信頼し、恐れず働くことができる。

実際に神殿の再建は、キリストが活動を初めたころには素晴らしい建造物になっていた。AD70にこの神殿も破壊されたが、建物でなくキリストを通して私たちは神と交わることができるようになる。一部の神学者は、キリストが1000年間地上を治めるときに、エルサレムに神殿が建てられると解釈している。そして、世の終わりには神ご自身が神殿となるので建物は必要なくなる (黙示録21:22)。

神は小さな不完全なものを、ご自信の栄光のために住処として築かれるのです。ああ、私たちは自分の小さな影響力の領域で、どれほど勇気を持つべきなのでしょう。

このブログはジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/take-courage-you-build-more-than-you-see
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Zephaniah

ゼパニヤ

ゼパニヤはヨシヤがユダの王だった時に神の予言を伝えた。ヨシヤは律法の書を発見し、人々に悔い改めを促した王。ゼパニヤもユダ、特にエルサレムに、悔い改めを促すためのメッセージを語った。

ゼパニヤは以下のような構成になっている。

  • 1章:ユダとエルサレムに対する裁きが記されている (4節)。
  • 2:1-3:ユダが神に立ち返るよう促している。特に3節に「義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ」とある。
  • 2:4-15:ユダの周りの国々にも神の裁きがあると記されている(ピリシテ、モアブ、アンモン、クシュ、アッシリア)。
  • 3:1-7:エルサレムに対しての裁きが記されている。
  • 3:8-20:民が神に立ち返ることを宣言し(9節)、イスラエルが悔い改め再び集められ (10節)、神の喜びの中で栄光を受けることについて記されている。

ゼパニヤのポイントは2:3にあると思われる。その他の箇所はこのゴールに向けさせるために警告と約束を動機として与えている。

「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。」

エルサレムに対する裁きは罪によるものだった。マナセはバアルのための祭壇を至る所だけでなく、神の神殿の中でも作った。ヨシヤはこの祭壇を壊したが、バアル崇拝者は残った。この人達は主の日に滅ぼされる (1:4)。また、ユダは主だけでなくミルコム(またの名をモレク、アモンの神)も拝んでいた (1:5)。二人の主人に仕えることはできないのだが (マタイ6:24)、ユダはそうしようとしていた。

エルサレムの過ちは3:2に要約されている。「呼びかけを聞こうともせず、戒めを受け入れようともせず、主に拠り頼まず、神に近づこうともしない。」主に対する罪の根幹にあるのは、自己満足。全ての人に大きな存在を崇拝したい気持ちはある。同時に、自分自身で全てを成し遂げたいという気持ちもある。なので、神礼拝をやめると、人は自分の思いと一致する「神」を作り出し、それを拝むようになる。要求を押し付けることがなく、自分を肯定しかしない神を崇めるようになる。エルサレムは神に拠り頼まないから裁かれる。

また1:18では、金銭に望みを置き、金銭を愛する人も裁かれるとある。「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らをすく出せない。」金銭への愛は傲慢と自己満足と偶像礼拝と変わらない。どれも神の報いと裁きを無視している。

2章では神に立ち返ることを促している。ゼパニヤが呼びかけているのは義と柔和 (2:3)。この預言書を読む人は皆へりくだり、その立場から神に拠り頼むことによって、義に生きることができる。何故義と柔和に生きるべきかが、2:4-15にかかれている。

  • 主の日から逃れることはできないから。どの方向を向いても周りの国々は神に裁かれている。自分で何とかしようとしても、他人に頼ろうとしても、主の日から逃れることはできない。へりくだり、神に頼ることが唯一安全を得られる方法。
  • 主の日を生き抜く「残り者」が約束されているから。悔い改めはまだ可能なので、今のうちに神に立ち返ることを促している。この「残り者」は救われ、やがてユダの地を治める (2:7, 9)。
  • プライドと傲慢は裁かれるから。ユダの周りの国々は裁かれる。裁かれることが分かれば悔い改めるはず。神の裁きを逃れるためには神の前にへりくだるしか方法はない。

3章では神に従う者が栄光を受けるとが書かれている。ほとんどの内容がイスラエルについて書かれている (3:10)が、イスラエルから出た祝福がすべてのクリスチャンに適用されることも新約聖書に記されている (ガラテヤ3:29)。この約束を得られた人々は2:3に記されている呼びかけに応じた者。神に拠り頼む人は裁きを免れるだけでなく、聖なる喜びを得ることができる。

もう一つ素晴らしい約束が3:17に記されている:「主はあなたのことを多いに喜び、その愛によってあなたにやすらぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」神は私たちを告発するのではなく、愛で私たちと接し、私たちを喜ぶ。99人の義人より、罪人が一人悔い改めると天国全体が喜ぶ (ルカ15:7)。

上記はジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-lord-will-rejoice-over-you

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Habakkuk

ハバクク

ハバククは、南の王国ユダがカルデヤ(バビロンと同じ人達)に侵略される直前に書かれた。ユダや自らの罪のため、神によって裁かれる。やがて586 BCにエルサレムはネブカドネザルによって滅ぼされる。ヨエルやゼパニヤやアモスと違い、ハバククでは滅びを避けられる可能性は書かれていない。人々に悔い改めるように促すことはしていない。もう手遅れだからである。裁きを通しても命を守る方法は、信仰しかない。国が滅びても、個人が神を信頼することによって望みが残されている。

(1:2-4) ユダは暴行と不法で溢れていた。「みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです」(4節)。

(1:5-11) これを受けて神はこう反応する。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する」(6節)。

(1:12) しかし、神は民を完全に滅ぼすことはしないとハバククは信じている。「あなたは昔から主ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ、私たちが死ぬことはありません。主よ、あなたはさばきのために、彼を建てられました。岩なる方よ、あなたは懲らしめるために、彼を据えられました。」神は民を滅ぼすためにカルデア人を起こしたのではなく、正し、懲らしめるために起こした。

(1:13-17) カルデア人は神の裁きを執行したのだが、ユダより正しかったわけではない。彼らにもプライドがあり、暴行を繰り返し、偶像を拝んだ。そのためにハバククは神に訴える:「彼は自分の網を空にし続けながら、諸国の民を容赦なく殺すのでしょうか。」

この問に対して神は答えるのだが、その答えは記されていない。しかし、その答えの中にあったことばは2:4の確信につながったに違いない。「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐではない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

(2:6-19) カルデアに対する嘲りが記されている。カルデアの支配はいずれ終わる。その理由は2:14に記されているように、「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることでみたされる」から。だから諸国はカルデアを恐れるのではなく、全てを治める神を恐れるべき。「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前にしずまれ」(2:20)。

3章はハバククが神の言葉を受けた上での反応が記されている。ただこれは個人的な祈りにとどまらず、賛美と礼拝においてこの言葉が使われることが想定されている。「シグヨノテの調べにのせて」(3:1) 「指揮者のために。弦楽器に合わせて」(3:19) というのは伴奏と共に歌われること。「セラ」と3節、9節、13節に入れていることも賛美の歌を現している。歌にすることによって、ハバククは私たちにも、神の裁きに直面した時に同じように祈り歌うことを促している。

(3:2) ハバククは神の裁きに対して健全な恐れをいだいていた。裁きの中であっても、神が憐れむように祈っている。

(3:3-15) 神は救うことができるほど力があると記している。「あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出てこられます。あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます」 (13節)。過去の神の働きを見て、未来において神が完全に勝利することに自信をもっていた。なので、来る侵略に震えてはいるが、「静かに待ちます」(16節) と記している。

(3:17-19) ハバククは信仰の歌を綴っている。

いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

カルデアの侵略によってどんな試練が訪れても、ハバククは神を信頼し続ける。神は裁きを下しても、信頼し、どんな状況に陥っても神のみに喜ぶ者には、神は慈悲深さを示す。

ハバククの書のポイントは2つある。マイナス面においては、プライドのある者、その強さと賢さがその者の「神」であるならば、その者は必ず滅びること。一時期裕福な時を過ごし、神に選ばれた者だと酔いしれることがあったとしても、いずれは神の裁きを受ける。プラス面においては、「正しい人はその信仰によって生きる」こと。どんなことがあっても、神に信頼することができるし、そこに本当の希望がある。