今回、Crosswayの許可を得て、Matthew S. Harmon博士の記事を翻訳・紹介します。この記事では、偽教師が用いる「神の言葉を疑わせ、拒絶させ、肉の欲求に訴える代替案を出す」という3つのステップが解説されています。
このテーマは、現代の教会に住む私たちにとっても、決して他人事ではありません。偽教師や誤った教えは、教会の外にある世の中だけでなく、教会の中にも潜んでいるからです。
教会特有の課題として、以下のような傾向が見受けられます。
- 「自律」を放棄した依存の罠: 私たちは「正しく信仰を全うしたい」と願うあまり、無意識のうちに専門家である牧師に完全に頼り、すべてを委ねてしまう傾向があります。しかし、牧師の解釈を鵜呑みにし、自分で聖書を読み、考えることをやめてしまうなら、それは信仰ではなく「人間への隷属」に他なりません。クリスチャンに求められているのは、宗教的リーダーを絶対視することではなく、イエス・キリストを唯一の真の頭(かしら)として仰ぎ、神との直接的なつながりの中に生きることです。自分で御言葉を味わわない姿勢は、霊的な成長を止めてしまいます。
- 「和」を優先する同調圧力: コミュニティの和を乱さないことが最優先され、聖書的な真理に基づいた健全な疑問や指摘が「不従順」として退けられてしまう空気。これも、基準を神ではなく「人間の組織」に置くパターンの変形と言えるでしょう。
これらは、この記事が指摘する「神が言われたことを疑わせる」パターンの変形と言えるかもしれません。しかし、聖書が教える福音中心のアプローチは、それとは対照的です。
- イエスが教会の頭(かしら)である: 特定の人間が絶対的な権威を持つのではなく、私たちは皆、イエスを仰ぎ見ます。
- 神の言葉を絶対的な真理として自ら求める: パウロの教えを熱心に聞きつつも、それが「はたしてその通りかどうか」を自分たちで聖書を調べて確認した「ベレヤの人々(使徒 17:11)」は、現代の私たちにとって不可欠な模範です。彼らのこの姿勢は、指導者への不信感から来るものではありません。むしろ、語られる言葉が「主の御言葉」に合致しているかを厳しく吟味することこそが、主イエスに対する「最高度の忠誠」の現れなのです。
- キリストとの個人的な関係: 救いは特定の組織やコミュニティへの所属によって得られるものではなく、キリストとの個人的な結びつきから始まります。その一人ひとりの歩みが、健全なコミュニティの中で共に生かされるのです。
「自分たちの教会は大丈夫だ」と過信するのではなく、この記事にあるパターンの兆候がないか、私たちの実(生き方)が本当にキリストに基づいているか、共に振り返る機会となれば幸いです。
偽教師がたどる3つのパターン
2025年6月12日 | 著者:Matthew S. Harmon
イエスの権威
ペテロとユダは共に、自らの罪深い情欲に溺れることで、イエス・キリストの権威を否定する反対者たちに直面していました。どちらの状況においても、彼らは自分の行動に対して最終的な裁きを受ける可能性を拒絶していたようです。この点は、ユダの手紙よりもペテロの手紙第二において、より明確に示されています。
これらの反対者たちは、イエスが成し遂げられた御業(福音)から導き出される道徳的命令に逆らった生き方をすることで、使徒たちが宣べ伝え、旧約聖書によって裏付けられた「唯一の真の福音」から離脱していることを露呈させています。
ペテロが扱っているのは、キリストの再臨を明白に否定し、聖書をねじ曲げる反対者たちです。ユダのケースでは、これらは当てはまらないようです。また、推測の域を出ませんが、それぞれの読者が置かれていた背景も異なっていたと考えられます。ユダの手紙はユダヤの伝統や外典に精通した信者に宛てられたようですが、ペテロはよりギリシャ・ローマ的な文化的背景の中で生きる読者に語りかけているようです。
ペテロの手紙第二とユダの手紙から得られる重要な教訓の一つは、「正統な信仰(正しい教理)」と「正統な実践(正しい生き方)」の切り離せない関係です。山上の垂訓の中で、イエスは偽預言者が神の民の間に入り込み、羊を食い荒らす狼となると警告されました(マタイ 7:15–20)。そして、彼らを見分けるためのシンプルかつ強力な方法を提示されたのです。
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。同じように、良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。…ですから、あなたがたは実によって彼らを見分けるのです。」(マタイ7:16–20)
イエスの言葉を真摯に受け止め、ペテロとユダは、狼(偽教師)が持ち込んだ「病」から羊を守り、免疫をつけさせるために、反対者たちの「腐った実」を暴き出すことに全力を尽くしたのです。
偽教えの核心
ペテロとユダが対峙した反対者たちの共通点と相違点を理解することは、重要な第一歩です。しかし、これらの偽教えをより広い聖書的・神学的な文脈の中に位置づけるためには、聖書の物語の冒頭(創世記)に立ち返る必要があります。なぜなら、彼らが立ち向かわなければならなかった誤りの核心には、かつてエデンの園で蛇自身が最初に広めた「パターン」があるからです。そのパターンには、3つのステップがあります。
1. 偽教師は、神が言われたことに疑いを抱かせる
トラブルの最初の兆候は、蛇が「野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった(狡猾だった)」という記述にあります(創世記 3:1)。女への最初の質問が、その狡猾さを裏付けています。「神は本当に、『園のどの木からも食べてはならない』と言われたのですか」。
サタンは、神がすべての木を禁じたのではなく、善悪の知識の木だけを禁じられたことを知っていたはずです。彼の目的は、神が実際に言われたことに対して疑問と疑念を抱かせることにありました。エバはこれに対し、神が言われたこと以上に付け加えて答えてしまいます。「神は、『あなたがたは、園の中央にある木の実を食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と言われました」(創世記 3:2–3)。
しかし、神がアダムに語られた言葉をよく見ると、神は「触れること」までは禁じておらず、「食べること」だけを禁じておられました(創世記 2:17)。サタンは、神が何を命じ、何を命じなかったのかという正確な内容について混乱を招き、いわば「水を濁す」ことに成功したのです。
2. 偽教師は、神が言われたことに逆らい、拒絶する
蛇は神の言葉を疑わせることから、直接的な拒絶へと移ります。「あなたがたは決して死にません」(創世記 3:4)。神はアダムに命令を与えられた際、「それを食べるその日、あなたは必ず死ぬ」と強調されていました(創世記 2:17)。「もしかしたら」でも「たぶん」でもありません。この一つの命令への不従順は、確実な死をもたらすものでした。
しかしサタンは、神が実際に言われたことの詳細について、エバの心に混乱を生じさせたことで勢いづき、今や公然と神の言葉を拒絶します。彼は、神がアダムに語られ、エバが蛇に語ったのと全く同じ言葉をあえて使いました。事実上、蛇は神を嘘つき呼ばわりしたのです。
3. 偽教師は、自然な欲求に訴えかけることで「より良い」代替案を提示する
蛇は、なぜ神がその実を食べてほしくないのかを説明します。「神は、あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになって善悪を知るようになることを知っているのです」(創世記 3:5)。
人間が神のかたちに創造されたという事実に反して、蛇は「神がすでに啓示された善悪に従うよりも、自分たちで善悪を決定する方が良い」という代替案を提示しました。神が言われたことが真実でないなら、なぜ従う必要があるのか? 自分で道を切り開く方が良いのではないか? 結局のところ、神はあなたがなれるはずの最高の姿になることを妨げているのではないか?
エバはこれに対し何も答えませんでした。この「より良い代替案」に触発され、女は「その木が食べ物として良く、目に麗しく、賢くなるために慕わしい」ことを見ました(創世記 3:6)。蛇に促され、彼女はその木を新しい光の中で見ました。それは避けるべき危険な源ではなく、「真に」神のようになるための魅力的な道となったのです。彼女が手を伸ばして実に触れても何も起こらなかった時、蛇が正しかったかのように見えました。彼女は死にませんでした。「神はやはり嘘をついていたのだ」と。
しかし、アダムとエバが実を食べた直後、彼らは蛇が部分的にしか正しくなかったことに気づきます。確かに彼らの目は開かれましたが、約束された自己決定の喜びではなく、自己破壊の罪悪感と恥を経験したのです(創世記 3:7)。以前は「裸であっても恥ずかしいとは思わなかった」(創世記 2:25)のに、今は裸であることを恥じ、自分たちを覆おうとしました。しかし、その恥と罪悪感を覆うための彼らの弱々しい努力は、全く不十分なものでした。
その恥は、神が園を歩かれる時にさらに強まりました。彼らは喜んで神に近づく代わりに、不従順のゆえに聖なる神に近づけないことを悟り、身を隠したのです(創世記 3:8–11)。
私たちは、荒野でのイエスとサタンの対決(マタイ 4:1–13)の中にも、これと同じパターンを見ることができます。聖霊によって誘惑を受けるために荒野に導かれる直前、イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。御霊がイエスの上に降った後、父なる神は天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と宣言されました(マタイ 3:17)。
園でのエバに対して行ったように、サタンは神が言われたことに疑問を投げかけることから誘惑を開始します。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」(マタイ 4:3)。エバに対しては神の言葉への疑念を抱かせることに成功した誘惑者でしたが、イエスに対してはその試みは失敗に終わります。
それにもかかわらず、サタンは神が言われたことを拒絶するステップへと進みます。ただし、エバの時よりも巧妙な方法を用いました。サタンはイエスを神殿の頂に連れて行き、こう言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神は御使いたちに命じて、あなたを守らせる。彼らはその手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする』と書いてあるからだ」(マタイ 4:6、詩篇 91:11–12 の引用)。
表面上、詩篇を引用するサタンは神の言葉を受け入れているように見えるかもしれません。しかし、意図的に御言葉をねじ曲げ、誤用することによって、彼は実際にはその権威を拒絶し、本来の意味とは違うものにしようとしているのです。
最後の誘惑において、サタンは、従順という長い道のりとそれに伴う苦難を避けて、全世界の支配権を手に入れるという「より良い」代替案を提示します。サタンの前にひれ伏して拝むなら、この世のすべての国々を与えようと申し出たのです(マタイ 4:8–9)。しかし、イエスは「最も抵抗の少ない、安易な道」を選ぶのではなく、サタンの申し出を退け、父への忠誠を再確認されました(マタイ 4:10–11)。アダムとエバが蛇の策略に抗しきれなかったすべての点において、イエスは従順を貫かれたのです。
このパターンの各要素は、ペテロの手紙第二の中にも(必ずしも明白な形ではありませんが)存在します。ペテロは、聖書をねじ曲げて自分自身に滅びを招く「無知で心の定まらない人たち」に言及しています(3:16)。聖書をねじ曲げる明白な一つの形は、神が言われたことに疑問を呈することです。
ペテロの反対者たちは、「主の来臨の約束はどこにあるのか」という問いを投げかけました(3:4)。主イエスがご自分の民のために戻って来られるという明確な約束(ヨハネ 14:1–4など)があるにもかかわらず、反対者たちは主が本当にそう言われたのか、あるいはその真意は何なのかを疑わせようとしたのです。
神の言葉を疑うという姿勢から、彼らはイエスが言われたことへの直接的な拒絶へと移ります。彼らは自分たちの欠陥ある論理に基づいて、こう主張しました。「父たちが眠りについた時から、すべてが創造の初めからのまま続いているではないか」(3:4)。反対者たちによれば、世界は族長たちの時代から何も変わっていないのだから、キリストの再臨などあり得ないというのです。
しかし、彼らの神の言葉に対する拒絶が最も顕著に現れているのは、旧約聖書で明確に啓示され、イエスの使徒たちによって再確認された「神の道徳的基準」の拒絶です(3:1–3)。彼らは、強欲(出エジプト 20:17)、性的不道徳(20:14)、権威への反抗(民数記 16:50)、高慢(箴言 3:34)、不潔(詩篇 24:3–4)に対する神の宣告を、何でもないこととして退けました。
神の言葉を疑い、拒絶した上で、ペテロの反対者たちは様々な「欲求」に訴えかけることで、神への忠実さに代わる「より良い代替案」を提示しようとします。最も顕著なのは、野放図な性欲への訴えです。それは「好色」(2:2, 7, 18)、「汚れた情欲」(2:10)、「不倫の目」(2:14)といった様々な表現で描写されています。実際、彼らは「迷いの中に生きている人々からやっと逃れてきたばかりの人たちを、肉の欲、好色によって誘惑」していました(2:18)。彼らは「自律(自律性)」への欲求に訴え、自由を約束しながら、実際には人々を「滅びの奴隷」へと引き込んでいたのです(2:19)。
ユダの手紙ではそれほど顕著ではありませんが、このパターンのヒントは依然として存在します。彼の反対者たちは「私たちの神の恵みを好色に変え」(ユダ 4)ていました。この表現は、使徒たちを通して語られた神の言葉を疑っているか、あるいは拒絶していることを反映しています。彼らは「唯一の主権者であり、私たちの主であるイエス・キリストを否定」しており(ユダ 4)、それは主の教えに対する拒絶をある程度含んでいるはずです。
これらの反対者たちは、性道徳(6–7, 16, 18)、神に任命された指導者への従順(8–11)、強欲(11)に関する、神が啓示された道徳的命令を明らかに拒絶しています。ユダは明示的には述べていませんが、これらの反対者たちがその策略を用いてキリストの体(教会)の中にいる人々に働きかけ、神の道徳的基準を捨てさせ、自らの罪深い欲望を受け入れさせようとしていることは明らかです。
注釈: サタンが「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになって善悪を知るようになる」と言ったとき、それは単に善悪を体験するという意味ではなく、「自分たち自身で何が善で何が悪かを決定する」という主権の簒奪を意味しています。このような文脈において、「知る」と訳されるヘブライ語の動詞(yādaʾ)は、単なる知識の習得ではなく、特に善と悪を「見分ける」「識別する」という意味で使われます(申命記 1:39、イザヤ 7:15 参照)。また、異なるヘブライ語の動詞が使われる場合もありますが、ソロモンが王として民を裁くために「善悪を判断する(聞き分ける)能力」を神に求めた際にも、これと同じ「基準を識別する」という概念が登場します(第一列王記 3:9、第一サムエル 14:17 参照)。
Taken from 3 Patterns That False Teachers Follow by Matthew S. Harmon, Copyright © *date*, pp. https://www.crossway.org/articles/3-patterns-that-false-teachers-follow/. Used by permission of Crossway, a publishing ministry of Good News Publishers, Wheaton, IL 60187, www.crossway.org.
