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Church Jude

不敬虔な者たちと対処法

ユダ書は、ヤコブとイエスの兄弟であるユダが書いたとされています。彼は、当時のキリスト者に救いの喜びついて書こうと思っていましたが、「不敬虔な者たち」が教会の中に「忍び込んできた」ので、信仰の戦いについて書く必要がありました。(3節)

この人たちはどのように不敬虔だったのでしょうか?まず、神の恵みを放縦に変えたのです。放縦はこのように定義されています:「何の規律もなく勝手にしたいことをすること。」聖書において「規律」というのは神の主権を認め、イエス・キリストの支配を受け入れることだとすると、放縦というのはこれを否定することになります。(4節)不敬虔は人たちは神の主権とイエス・キリストの支配を否定していたのです。

不敬虔な者たちはどのような人たちでしょうか?

彼らは、エジプトでの奴隷生活から救い出されましたが、その後、神に背き、他の神々を拝むようになりました。カナン人が崇拝していた偶像もそうですが、自分たちが作ったルールや、自分たちの地位を神より上に置くようにもなりました。結果的に、イエス・キリストを拒絶したのです。言葉では信じると言っているがイエスを主としていない状態です。(5節)イエスはこのような人たちに対してこう言っています:「私に向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではない」(マタイ7:21)。

彼らは、「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたち」のようです。(6節)この箇所は、ルシファー(サタン)が天で神の権威を受け入れず、天使の軍勢を引き連れて神に反抗したことを指しています。同じように、不敬虔な者たちはイエスの支配よりも自分たちが支配することに注力しています。また、自分たちに留まらず他人の行動を制限することによって支配を強めていきます。イエスの支配を無視して自分を神としているのです。

自分を神としていることから、「不自然な肉欲を追い求め」たり、(7節)妄想に走り、欲を満たすために肉体を汚し、イエスの権威を認めず、結果的に栄光ある神をののしっています。(8節)しかも、彼らは自分が行っていることが悪だと認識していません。動物の本能のように、自分を守ることに必死になっています。(10節)

恐ろしいことは、こういう人は教会の中にいて、愛餐を共にしているのです。本来なら教会は、互いを励まし合い、互いを立て上げることによって、みなキリストのようになっていく場所です。しかし、この人たちは「自分を養っているだけ」です。(12節)恵みの雨を降らすことはなく、実を結ぶことはなく、間違った教えで周りに悪影響を及ぼし、周りの人々を暗闇へと導いています。(13節)

彼らは、「ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。」(16節)教会内での不満、他教会の不満、世の中に対しての不満をならべつつ、自らが正しいと思ったことだけを行っています。自分が立て上げたものを肯定し、同じことをしない他教会を否定し、自分の考えに同意しない人たちを教会から追い出しています。

これにどう対処すべきでしょうか?

「主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。」(17節)嘲る(あざける)人たち、欲望のままに生きる人たち、分裂を引き起こす人たちが現れると、イエスと使徒たちは教えていました。なので、これは驚くべきことではないのです。

また、彼らは「御霊を持っていない」(19節)、とされていることから、彼らを信者として扱わないと言っています。こういう人たちに対しての最も有効な対処法はミカエルが示しています。ミカエルは、自分で不敬虔な者たちをののしるのではなく、「主がおまえをとがめてくださるように」と神に委ねました。(9節)信者とみなされていない人たちは神に委ねるしかありません。神が彼らを救うか、裁くかを判断します。「主は何万もの聖徒を引き連れて・・・すべての者にさばきを行い、不敬虔に生きる者たち・・・を罪に定める」。(14~15節)

「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」(20節)教会は信者の共同体ですが、一人ひとりがイエス・キリストの上に信仰を築き上げていることが前提です。教会で行事をこなすことが信仰を築き上げることではありません。教会ですべきことは、実のある分かち合いを通して互いを高め合うことです。その過程で、一人ひとりが祈りや聖書を読むことを推奨し、キリストの関係を強めるよう促すことが必要です。(コロサイ3:16)一人ひとりがキリストにある信仰の上に築き上げるのです。

「聖霊によって祈りなさい。」(20節)祈りは一定の言葉を並べて唱えることではありません。「主の祈り」は良い例ですが、毎回このことばのままに祈る必要はありません。また祈りは、教会で立派に聞こえるようにリハーサルされたものでもありません。聖霊によって促され、心から神と会話することが本当の祈りです。

「神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(21節)本当の信者は信仰を最後まで保ちます。これを成してくれるのは神の愛とあわれみです。私たちが頑張ってしがみつく必要ななく、神は私たちの内に信仰を保ってくださいます。神に絶対の信頼を置き続けることにより、最後には永遠に神と共に過ごすことができるのです。

「ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。」(22節)まだ信仰がない人の質問をよく聞き、適格な答えを出せるように準備し、時間をかけて説明することを指しています。信仰が弱い人に対しても主にあって励まし、立て上げる言動が必要です。「今すぐ信じなさい」と命令したり、「信仰がないからダメなんだ」とけなすのとは逆の対応です。時には罪の状態(金銭的な困難や虐待など)から実質的に救い出すことも必要です。(23節)

イエス・キリストは「つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる」のです。(24節)イエスは私たちの信仰を最後まで守ってくださいます。つまずく、というのは信仰の道から外れることですが、イエスはつまずかないように守ってくださいます。不敬虔な者たちに惑わされることはありません。多くの傷を負っても、最後には傷が癒され、神の前に立つことができるのです。

だから私たちはイエス・キリストを通して神に栄光、威厳、支配、権威を神に返すのです。

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Micah

イエスは私たちの平和

クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。この誕生は何百年も前に預言者ミカにより預言されています。

イエス・キリストの生まれたベツレヘムという村は小さく、影響力の少ない場所でしたが、かつでイスラエルの王だったダビデが生まれた場所でもありました。生まれた場所は特別な場所ではありませんでしたが、イエスご自身はとても特別な方です。

イエスは永遠の昔から生きています。世界が誕生する前から神と共に存在しており、世界をご自身の言葉で創造しました。そしてイエスはいずれイスラエルを支配します。このイスラエルというのは、中東にある国とその人々だけを指すのではなく、神の民となった「本当のイスラエル」を指します。これには全世界の人々が含まれ、イエスは全世界の人々を支配することになります。

イエス・キリストはこれほど偉大な方で支配者ですが、支配するだけでなく群れを養います。群れというのは、イエスの声に従う人たちのことです。偉大なリーダーほど群れを養うことを重要視します。養い方も特別です。物を与えたり、安全を守ったり、健康を守ったりすることもしますが、本当に養いも与えます。それは神の御名の威光によるものです。神の偉大さを知り、神が共にいることを知ることこそが私たちを本当に満たし養います。

イエス・キリストの支配と養いによって、私たちは平和に生活できます。戦争や争い、犯罪や不正が無くなります。それを可能にするのは全世界が神をほめたたえることです。すべての人が神に向くことによって神を愛し、互いを愛することになります。これが完璧にできる世の中で、本当の平和が訪れます。この完璧な世界はまだ訪れていませんが、いつか訪れることを待ち望みながら私たちは神に目と心を向けます。

イエス・キリストは私たちの平和です。今年のクリスマスは、特別じゃない私たちに特別で偉大なイエスを覚え祝いたいです。

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Timothy

きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛

3 私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、
4 果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。
5 この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です。
4 ある人たちはこれらのものを見失い、むなしい議論に迷い込み、
5 律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、確信をもって主張している事柄についても理解していません。

テモテへの手紙第一 1章 3〜7節

テモテはパウロからミッションを与えられていた。それは、「間違った教え」や「作り話と系図に心を寄せ」る人たちにやめるよう命じることだった。「間違った教え」とは、モーセ律法の間違った解釈。「作り話と系図」は旧約聖書の登場人物を神話のようにしてものや、聖書の一部とされていないユダヤ人が書いた書物、またギリシャ神話から出てきているものと考えられる。

今日でも聖書に基づかない、人から人に伝え続けられている教えは多くある。偉い牧師に教えられたかもしれないが、聖書の教えと一致するのか?教会形成の中で培ったルールは多くあるが、それらは恵みと愛の元で実施されているのか?パウロは間違った教えを正す中で聖霊に導かれてたどりついた一言が、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(2テモテ3:16)。聖書をベースとした議論だけが「信仰の務めを実施させる」ことができる。

テモテに与えられたこのミッションの目的は「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」。愛が目的となっていて、それを可能にするのがきよい心、健全な良心、偽りのない信仰。きよい心を与えるのはイエス・キリストの十字架と日々聖化を成して下さる聖霊。健全な良心は、聖書や祈りを通して罪を日々の生活から押し出す戦いをすること、また悔い改めを通してキリストから恵を得ること。偽りのない信仰は、最後まで「勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを終え、信仰を守り通」すこと (2テモテ4:7)。

この三つをこなすだけでも大変なミッションだが、これらから「愛」が生まれることが求められている。「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」がそろっている人がいるかもしれないが、それを義として他人に強いるのは愛ではない。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」(ローマ14:1)。この箇所は、偶像に捧げた食事を食べるべきか、また安息日を聖なる日とすべきかを議論している人たちに向けられた言葉。私たちは誰も主人ではなく、相手を裁くことはできない。これは教会のリーダーであっても同じこと。「私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをする」(ローマ14:12)。私たちのすべきことは、互いを愛し、互いを立て上げること。「ですから、私たちは、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう」(ローマ14:19)。

残念ながら、この目的を見失っている人たちがいた。「律法の教師」なのに「むなしい議論に迷い込み」、「確信をもって主張している事柄についても理解して」いなかった。教会の「牧師」「教師」「役員」「長老」はみな、この危険性と実態を心得る必要がある。聖書を基準としない議論はむなしくなる。草刈りや掃除を誰がやるのか、という議論は教会のビジョンより重要なのか?「幻(ビジョン)がなければ、民は好き勝手にふるまう」(箴言29:18)。礼拝式典の中での人の立ち位置は、困った人々を助ける議論より重要なのか?「父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです」(ヤコブ1:27)。

そして、おそらく最もリーダーたちが注意すべきポイントは、「確信をもって主張している事柄について」正しく理解する必要があること。ある神学論、牧師の教え、教団のルール、教理問答の内容について一定の理解をすることは可能だが、これらは本当に聖書に基づいているのだろうか?聖書のどこを読んで解釈すればこのような結論に至るのだろうか?ある人に、「何を根拠にこれを言っているのか」と問いたところ、「信仰問答にそう書いてあったから」「牧師がそういったから」と答えた人は多くいる。聖書は神の言葉だから、本当に確信を持てるのは聖書の教えだけ。

私たちには聖書が与えられているので、リーダー・信徒問わず聖書を読み、聖霊に導かれて理解を得て、生き方に当てはめていくことができる。「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰」を育み、「愛」が生まれることを常に確認したい。

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Hebrews Special Topics

救いをもたらす悔い改めが不可能になるのはいつか?

Source: When Is Saving Repentance Impossible? John Piper
Permission granted by Desiring God on June 23, 2023.

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

へブル6:4-6

真剣でありながら、悲しくないこと

深刻になることと、悲しくなることには大きな違いがあります。悲しいの反対は幸せです。しかし、真剣の反対は口先だけの(あるいは冗談の)ことです。だから、真剣であることと、幸せであることは同時にできるのです。実際、C.S.ルイスは、「真剣になるような幸せと不思議がある」と言っています。コメディアンが感じさせてくれるものと、自分のために命を捨ててくれる友が感じさせてくれるものとの違いは、誰もが知っていることです。ディズニーワールドでの1日とグランドキャニオンでの1日の深い違いも、ほとんどの人が知っています。

ヘブル書は、私たちを真剣にさせる特別な方法を持っているように思います。とても身の引き締まる思いがする書です。悲しい書ではありません。しかし、真剣な書なのです。この書に書かれていることを聞けば、人生に対する口先だけの、陳腐な、つまらない態度は吹き飛んでしまいます。それは、私たちを悲しませるためではなく、神のもとで揺るぎなく幸せにするためです (ヘブル10:34、12:2、13:17参照)。

私たちを殺す幸福の種類

ヘブル書が私たちを心から幸せにする方法の一つは、偽りの安心に対する警告です。ある種の幸福は、私たちを殺すものです。ヘブル書は、この危険な幸福を暴き、その欺瞞から逃れ、決して失望させない確かな幸福を追い求めるようにと、執拗なまでの愛情をもって警告しています。つまり、ヘブル書は、神への保証の喜びを深め、強めるために書かれたものであり、その戦略のひとつは、偽りの保証やはかない喜びを暴くことにあります。

それが、ヘブル6:4~8に書かれていることです。この箇所では、悔い改めや救いを不可能にする霊的な状態があると言っています。そして、この状態は、いろいろな意味で救いのように見えるかもしれませんが、そうではない、と書かれています。そして、それは破滅へと導くのです。ですから、この箇所は、私たちの人生に宗教的な体験があっても、実が育たないのに、私たちが安全だと思い込まないようにという警告なのです。そして、この深刻な状況を示した理由は、私たちがそこから逃れ、確かな場所に文と炉まり、永続的な喜びに移行するためです。

思考の流れを見てみましょう。ヘブル6:1には、「成熟を目指して進もう」とあります。そして3節には、「神が許されるなら、先に進みましょう」とあります。つまり、私たちが生まれつきのプライドや反抗心、不信仰を克服する恵みを得られるかどうかは、最終的には神にかかっているのです。

さて、4節から8節は、悔い改めや成熟への押し進めが不可能な状況があることを示すことで、この神への全くの依存を説明しています。そして、不可能である以上、私たちはこのような状況に置かれることに戦慄し、3節の主権者である神に全く依存していることを確認する必要があります。

悔い改めが不可能なとき

悔い改めが不可能な状況とは、どのようなものなのでしょうか。それはこのように表現されています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

へブル6:4-6

その状況とは、こうです: まず、ある人が大きな祝福を受け、高い宗教的体験をします (4-5節)。そして、第2に、その人が堕落し、そうすることによって、神の子を再び十字架につけ、公然の恥にさらすのです。そして、第3に、その人を悔い改めさせることは不可能なのです。

この3つの部分の状況を見てみましょう。

1. 大きな祝福と高い宗教体験がある (4~5節)

4つ挙げています。第1に、「光に照らされ」(4節) ています。第2に、天の賜物を味わい、聖霊にあずかるようになりました (4節)。天の賜物とは、おそらく聖霊のことでしょう。3つ目は、神の良い言葉を味わっています (5節)。そして、第4に、来るべき時代の力を味わっています (5節、ヘブル2:4参照)。

2. このような祝福と経験にもかかわらず、この人はその後、堕落してしまう (6節)

つまり、キリストと御霊とみことばと来るべき時代の力から遠ざかってしまうのです。彼は、これらの偉大な現実の価値に背を向け、心で他のものを追い求めるのです。この変化の影響は、キリストを再び十字架につけ、公然の恥にさらすことです (6節)。なぜそれがもう一度十字架にかけることなのでしょうか?このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることである理由は、少なくとも2つあります。

一つは、キリストが最初に十字架にかけられたのは、民を清く聖なるものにするためだったということです。そのために血を流されたのです。ヘブル13:12には、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」とあります。私たちを聖別するために死なれたのです。私たちを聖くして、ご自分のものとするために死なれたのです (ヘブル9:14、テトス2:14参照)。ですから、十字架がもたらす純粋さと聖さと献身に背を向けるとき、私たちは、最初に彼を十字架に釘付けにした不純さと世俗と不信仰を肯定しているのです。つまり、私たちは再び彼を十字架につけることになるのです。

このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることになる理由はもう一つあります。キリストに背く道を選び、この世の道や自分の意志の主権やこの世のはかない快楽に立ち返るとき、その人は事実上、これらはキリストの価値よりも価値があると言うのです。それらは、キリストの愛、キリストの知恵、キリストの力、そして神がキリストにおいて私たちのために約束してくださるすべてのものよりも価値があると言っているのです。そしてそれは、「私はイエスを十字架につけた人たちに同意する」と言っているのと同じことなのです。なぜなら、キリストの善意と知恵と力を味わい、それでも「いや、もっと良いもの、もっと望まれるものがある」と言うことは、それほどまでにキリストを辱める行為だからです。それはキリストを公衆の面前で辱めることにもなります。

信仰がない人がキリストに抵抗するのは、ある意味当たり前です。しかし、教会で啓発され、天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、神の良い言葉と来るべき時代の力を味わった人が、それらの祝福と経験の後に、「キリストよりも世の中のものの方が良いと思います」と言うのは、別のことです。それはイエスをもう一度十字架にかけることであり、真理を味わったことのない部外者ができる以上に、イエスを公の恥にさらすことなのです。

3. その結果、「(そのような人を)再び悔い改めさせることは不可能である」(6節) という結論に至った

先週、ヘブル12:16〜17にかけて、このことを説明しました。そこでは、ここと同じような警告が語られています。

また、誰も、一杯の食物と引き換えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

ヘブル12:16〜17

本物の悔い改めは神に拒絶されるのでしょうか?エサウが純粋に悔い改めたのに、神に拒絶されたと勘違いしないでください。神は純粋な悔い改めを拒否されることはありません。本文には、「悔い改めの機会が残っていませんでした」とはっきり書かれています。言い換えれば、彼は悔い改めることができなかったのです。ヘブル3:8、15;4:7参照)彼は、自分の人生をより良くするために叫びましたが、内心は神様の条件に従おうとはしませんでした。彼は16節にあるように、「淫らで俗悪な者」だったのです。

エサウは、ヘブル6:6で筆者がこの人を再び悔い改めに立ち返らせることは不可能だと言っていることの例証です。ここに、本書のすべての警告の背後にある恐ろしい見通しがあるのです。だから、漂流するのではなく、耳を傾けてイエスを考え、毎日励まし合い、不信仰と油断を恐れるようにと言っています。なぜでしょうか?本当に何か危ういのでしょうか?自分が選ばれ、召され、義とされていると信じているあなたや私が、無関心と頑なになる緩やかなプロセスに滑り込み、やがて堕落してキリストを拒絶し、公然と辱めるかもしれないという見通しがあるのです。私たちは、神から完全に見捨てられたのだから、もう戻れないというところまで来てしまうかもしれない。それが6節の「不可能」という言葉の意味です。今朝は、憐れみの追求を急がなければなりませんね!

「キリストにあずかる者」でありながら、義とされないことがあるのか?

さて、ここで皆が疑問に思うのは、堕落した人が本当に「救われた」、「義とされた」、「召された」、「新しく生まれた」かどうかということです。聖霊と神の言葉と来るべき時代の力を味わい、それにあずかる者でありながら、義とされないことがあるのでしょうか。つまり、この節は、本当に救われた人としての立場を失う可能性があると教えているのでしょうか。それとも、4節と5節にあるような体験をしても、救われたとは言えないと教えているのでしょうか。どちらの教えも衝撃的で、心が痛むものです。どちらが正しいのでしょうか?

この聖句の深刻さと警告を弱めることなく、私は、これらの祝福と経験をすべて持っていても、義とされず、新しく生まれず、救われないことは可能であると主張したいのです。その理由は5つだけ挙げますが、すべてヘブル人への手紙から取ったものです。また、ヘブル人への手紙以外にもたくさんあります (ローマ8:29-39、ユダ24-25、エペソ1:3-14、1ヨハネ2:19、1ペテロ1:5、フィリピ1:6、2:13、1コリント1:8-9、1テサロニケ5:23-24、エゼキエル11:19、36:27、申命記30:6、エレミア24:7、32:40)。

1. 7-8節を考えてみましょう

ここでは、離反する者たちの状況が絵に描いたように語られています。6節で背信者には悔い改めが不可能であることを述べた後、7-8節にはこう書かれています。

たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。

ここは、生命と植物があったのに、それを失った畑を描いているのではないのです。一つは実り豊かで祝福された畑、もう一つは不毛で呪われた畑なのです。つまり、光と御霊とみことばと神の働きが私たちにやってきて、私たちを祝福し、ある程度形にしてくれているのに、それに背を向けて教会に座っていたら、私たちは植物のない畑と同じで、裁きを受けることになるのです。私たちが飲んだ雨(光、御霊、みことば、力)は、畑に何の生命も生まなかったのです。

2. 9節を考えてみましょう

教会の中に背信を犯す者がいる可能性を現実のものとした上で、こう書かれています。

だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。

キーワードは 「救いにつながること」です。パウロが確信している「もっと良いこと」とは、常に救いとともにあるもの (文字通り、救いが持っているもの) です。救いに属するものなのです。つまり、彼が言っているのは、彼らが本当に「救われている」と信じているからこそ、背信を犯したり、不毛な畑になったりしない、ということなのです。彼らは実を結びます。堕落することはありません。「救いにつながること」という表現は、筆者が本当に彼らに救いがあると信じていて、それゆえに救いに必ずつながること、つまり忍耐強い信仰と実を結ぶことを信じていることを示しています。彼は、実を結ばないことや背信が救いに伴うとは考えていなません。もっと良いものがあるのです。

3. ヘブル3:14(と3:6)を考えてみましょう

私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。

ここで重要なのは、「私たちはキリストにあずかる者となっている」という動詞の時制です。私たちが 「これからキリストにあずかるものとなる」のではなく、「キリストにあずかる者となった」のでもなく、「キリストにあずかるものとなっているー確信をを持ち続けるなら」です。つまり、信仰の忍耐は、私たちがキリストにあずかる者となったことを証明するものです。つまり、もし私たちが信仰に耐えられないなら、それは私たちがキリストにあずかる者から脱落したことを示すのではなく、私たちがキリストにあずかる者になることはなかったことを示すのです。もし私たちが確証を堅持するならば、私たちはキリストにあずかる者となります。もし堅持せずに背信をするならば (ヘブル6:6が述べているように)、私たちはキリストにあずかる者とならなかったのです (ヘブル3:6の動詞の時制についても同じことが言えます)。 したがって、この著者は、私たちがキリストの中にいて、再び出て行くことができるとは考えていないことは明らかです。

4. ヘブル10:14を考えてみましょう

なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

もしヘブル6:6が、キリストの血によって義とされたのに、神とのその立場を失うことがあるという意味なら、この節は意味がありません。この節は、今聖化されている人 (つまり、今聖霊が内に住んでいて、神から生まれ、信仰によって聖さを増している人) にとって、十字架上のキリストの犠牲は、その人を永遠に完全なものとしたと言っています。永遠にです!言い換えれば十字架上のキリストの完成された、義認の働きを受け取ることは、神の目には完成された者となる、ということです。この現実は、ヘブル6:6が、キリストをもう一度十字架につける人々が、かつてイエスの血によって本当に義とされ、内なる霊的な意味で本当に聖別されていたことを意味しないことを示唆しています。

5. ヘブル13:20~21を考えてみましょう

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世よ限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

20節では、イエスの血によって証印された永遠の契約について語られています。それが、本書が8章と9章で大きく取り上げた新しい契約です。新しい契約とは、神が私たちの中に新しい心を入れ、私たちが神の道に歩み、私たちに良いことをすることから目をそらさないようにしてくださるという約束です (エゼキエル11:19、36:27、エレミヤ24:7、32:40)。ですから、21節では、私たちが信仰を持ち続けて実を結ぶかどうかは、最終的には私たち次第ではない、と言っています。それは、最終的に神様に依存しているのです: 神は、ご自分のみこころにかなうことを私たちのうちに働かせてくださるのです。神は、私たちを守るために新しい契約を果たしておられるのです。

このことは、もし新しい契約の元で本当に義と認められた人が、背信を犯して拒絶されることを意味するならば、ヘブル6:6が新しい契約と矛盾することになります。それは、神が「みこころにかなうことを・・・渡したちのうちに行ってくださる」という約束を果たさなかったということになります。神は新しい契約を破ったことになるのです。

以上の5つの理由から、私は、もし人が堕落して神の子を再び十字架につけたなら、その人は元々義とされていなかったと結論付けます。その人の信仰は、救いをもたらすような信仰ではなかったのです。

では、これらの御言葉は私たちにとって何を意味するのでしょうか

鋭い指摘をするために、非常に個人的なことを言います。もし今後数年の間に私が背信を犯し、キリストから離れたとしても、それは私が神の言葉や神の霊や神の奇跡を味わったことがないからではありません。私は神の言葉を飲みました。御霊は私に触れました。私は神の奇跡を見てきたし、私は神の道具となってきました。

しかし、もし今後10年、20年の間に、ジョン・パイパーが霊的に冷め始め、霊的なことに興味を失い、金儲けとキリストのいない本を書くことに夢中になってしまったらー新しい妻は爽快で、子供たちは自立でき、キリストの教会は足手まといで、受肉は神話だと信じ、人生は一つだから食べて飲んで陽気になろうという嘘を買ってしまったらーそうなったら真実はこうだということを知っておいてください: ジョン・パイパーは、人生の最初の50年間、大いに欺かれていたのです。

彼の信仰は、父親の喜びの名残であり、異質なものだった。妻への貞節は一時的な情熱であり、社会的な圧力に従ったものでった。彼の父性は自然な本能のなせる業であった。彼の説教は、言葉と会衆への愛に駆られていた。彼の執筆は、名声への愛に満ちていた。そして、彼の祈りは、最も深い妄想であり、自分の虚栄心を神に供給してもらおうとする試みであった。

この可能性が、永遠の喜びを追い求める私を真剣に、そして警戒させないのであれば、何がそうさせるでしょうか?

この素晴らしい真理の実践的な結論は、来週の聖句で示されます。それまで、キリストがあなたの最高の喜びであるかどうか、口先だけでなく、真剣に考えることができるように祈ります。もし、あなたが本当にキリストに、キリスト内に希望を託すなら、キリストはあなたを手放さないでしょう。

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女性長老について

長老の定義

女性が長老になれるかの議論をする前に、まず「長老」という教会での役割を確認する必要がある。

  1. 長老は教会を治め、教える役割がある(1テモテ3:2,5:17)
  2. 長老は健全な教えをもって教会を励まし、反対する人を戒める役割がある(テトス1:9)

長老は教会の指導者であり、聖書から真理を見出し、それを教会の公式な見解として教会に教えていく責務がある。その真理が常に健全であるように、聖書と照らし合わせて必要に応じて理解を修正していく必要もある。この真理を教えるにあたって、教会を励ますことを第一に考えること。教会を縛るのではなく、聖書の真理として伝えたうえで、真理に従うよう励ましを通して促すことが重要。促すのであれば、長老自身が真理に立って生きていることを見せる必要がある。そして、長老は聖書の真理に反する異端的な教えや言動に対して反論し、真理に引き戻す役割がある。

ちなみに、「執事」は長老と違い、教えることも収めることも求められていない。そういう意味では、「女性は長老になれるか」、の議論は「女性は執事になれるか」、の議論と異なる。

女性は長老になれるか?

女性が長老になれるかについて、1テモテ2:11-14が言及している。

11 女は、よく従う心をもって静かに学びなさい。12 私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。13 アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。14 そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。”

テモテへの手紙第一 2: 11-14

1.神の創造の業とこの世のあるべき順序を表すのが、13節にある「アダムが初めに造られ、それからエバが造られた」ことである。つまり、アダム(男性)が先に造られたため、家族において、また教会において男性が支配すべきことを指している。「支配」と言うと聞こえは悪いが、聖書における「支配」は「サーバントリーダー」という言葉でまとめることができ、イエス・キリストが最も良い例の「支配者」である。教会を「支配」するのは長老なので、あるべき順序の観点から、男性でないと長老の役割を果たすことができないと言える。

2.14節によると「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯した」とある。これは、女性は男性より騙されやすいという意味ではない。サタンは、神の創造したあるべき順序を無視し、アダムではなくエバをまず誘惑した。あるべき順序を無視する結果として罪が生まれている。創造の順序を無視して女性が教会を収める長老となれば、神が定めた自然な形から逸脱することになり、罪に陥る可能性が高まるとも言える。

よって、長老の職務に置ける、教会を収め、教会に真理を教える立場は、神が示したあるべき姿にしたがって男性のみが担うべきだとこの箇所から読み取れる。

もちろん、これは女性が教会で教えることをすべて放棄すべきだということではない。例えば、テトス2:3によると、年配の女性は若い女性を教える役割がある。しかし、男性よりも上の立場において教えることは神の順序に反すると言える。この順序が問題であり、女性の能力は問題ではない。

参考資料
https://www.desiringgod.org/books/50-crucial-questions-about-manhood-and-womanhood

女性の視点

ある女性は様々なクリスチャンの集まりで登壇した経験があり、多くのクリスチャンを励ましてきている。この女性が教会で語るとき、次のことを検討したうえで登壇するかを決めている。

  1. 場所:教会の会衆か、教会でない参加者
  2. 内容:みことばの解き明かしか、励ますための証
  3. 権限:指示しているのか、共有しているのか。つまり、参加者に公式な見解を示しているのか?
  4. 関係:個人的か、客観的意見か。参加者と個人的な関係があるのか、指示しようとしているのか?
  5. 義務:公式か、非公式。参加者は公式な見解を求めているのか?
  6. 責任:義務があるか、任意か。参加者は語られたことに従う義務があるのか?
  7. 頻度:毎回か、時々か。毎回語る必要があるのか、時々語るだけで良いのか?
  8. 成熟度:姉妹か、母親か。参加者に対して、母親として語っているのか?

語る場面が左によるようであれば、女性として語るべきでない場面だと認識している。左側の場合、教会の指導者として教え、収める傾向が含まれているため、女性としては相応しくないとこの女性は主張している。

参考資料
https://www.desiringgod.org/articles/women-teaching-men-how-far-is-too-far
https://www.desiringgod.org/articles/men-and-women-in-the-deaconate-and-in-the-service-of-communion 

女性は説教・奨励をしても良いか?

女性が長老になれないかも知れないが、女性は教会で説教や奨励をすることはできるのだろうか?ある牧師によると、長老の許可を得ていれば女性は説教や奨励をすることができると主張している。彼の主張は次の通りである。

  1. 説教・奨励のすべては教えることではない。新約聖書には他の種類の語りがある。例えば、励まし、予言、福音を伝えること。女性がこのような語りをすることは禁じられていない。
  2. 「教える」ということは、新約聖書が書かれる前の時代において、イエス・キリストの証言の一貫性を保つ働きに特化していた。
  3. 1コリント14;26,コロサイ3:16によると、教会のすべての人が互いを教え、励ます必要があり、女性もこれに含まれている。

この牧師の教会では、長老でない人が説教・奨励をするとき、事前に原稿を長老に提出し、承認された後に語ることができる。なので、権限は長老にあり、語る人はその権限の元で奉仕している。男女問わず、このプロセスにのっとって説教・奨励をしている。

しかし、パウロは「女性が長老の職務についてはならない、」と言っているだけではない。長老の職務についてはならないし、その役割をも果たしてはならないと言っている。つまり、治める権限と教える役割の両方が認められない、ということである。

また、この教会では単発的な励ましや予言が語られているのではない。事前に原稿が提出され、承認されていることから、これはれっきとした説教・奨励、つまり教えであり、コロサイ3:16や1コリント14:26にある非公式な教えとは異なる。

「教える」ということは、キリストとみことばの教えを解き明かし、公式に伝えることを指す。(1コリント12:28-29、エペソ4:11、1テモテ2:7、2テモテ3:16、ヤコブ3:1)この権限は長老に与えられていて(1テモテ5:17)、教えることによって異端と反論する役割がある。(1テモテ1:3, 10、4:1, 6、6:3、2テモテ4:1、テトス1:9, 11)これは新約聖書が書かれる前の時代に特化したことではない。

参考資料
https://www.desiringgod.org/articles/why-not-to-have-a-woman-preach

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Gospel

テテレスタイ

イエス・キリストが金曜日に十字架で語った最後の言葉が Τετέλεστα (テテレスタイ)、「完了した」。このギリシャ語の言葉は借金を完済した時によく使われた言葉で、支払い義務は完了した、もう借金はない、という意味を表していた。

世の中では卵や兎を用いてイースターを祝っているが、金曜日にイエス・キリストが私たちの罪の借金を完済してくれたから新しい命を得ることができたことを覚えたい。そして、イースターである日曜日には新たな命の象徴である卵や兎を用いて、イエス・キリストの復活と、キリストにある命を喜ぶことができる。

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Christian Life Church Hebrews

指導者に倣う

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

へブル13:7~8

私たちはどのような指導者を敬い、従うべきなのだろうか?指導者が人間である限り、必ず何かしらの問題はある。しかし、聖書はそんな欠けのある指導者を「覚える」、もしくは「服従する」ように教えている。私たちはどのように指導者に従うべきだろうか?

神のことばをあなたがたに話した

まず7節でみられるのは、「神のことばをあなたがたに話した」とある。指導者は神のことばを語っているのだろうか?その言葉は実際に神のことばなのか、もしくは人間や組織が作り出したルールなのだろうか?「収入の10%を十一献金として捧げる」、「教会の音楽は聖歌のみ」、「公開説教でないと聖書を語っていない」などは、本当に神が教えていることなのだろうか?

答えは様々だが、それをしっかり吟味し、良いものを保つようにと聖書は教えている (1テサロニケ5:21)。私たちは指導者のことばをうのみにするのではなく、彼らの教えをしっかりと吟味し、どれが神のことばか、どれが人の教えなのかを見分けなければならない。

彼らの生き方から生まれたものをよく見て

次に、指導者の生き方から生まれたものを見ることだ。彼らの生き方は何を生み出しているだろうか?家庭はどのような状況だろうか?子供が、親が牧会している教会にとどまりたいと思っているだろうか?家庭環境が荒れていたり、子供が親の教会に行きたがらない状態があるなら、その指導者の教えや指示に注意を払う必要がある。

教会の実態も指導者の良し悪しを映し出す。教会は礼拝だけに真剣で、学びや宣教をおろそかにしていないだろうか?学びは聖書が中心なのか、教本が中心なのか?年々新しい人が教会に加わっているのか?教会を去った人はどのような理由で去ったのか?ルールやしきたりに執着せず、教会が成熟を目指すように指導しているのか?

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

へブル6:1~2

その信仰に倣いなさい

もし指導者が神のことばを語り、彼の生き方から生まれたものが良いものであれば、その信仰に倣うことができる。この「倣う」ということばは、「真似する」という意味もある。つまり、その指導者と同じことを信じ(神のことばだから)、同じ生き方をすること(良いものが生まれているから)を進めている。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

へブル6:11~12

キリストが与える希望について確信を持ち続けることと、熱心に神を求めることが記されている。これは礼拝を熱心に捧げることはもちろんだが、成長するのには「固い食物」を取り入れることも必要。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

へブル5:13~14

成熟したクリスチャンは、善を悪を見分けることができる。指導者に頼る必要はなく、自分で聖書を読んで何が正しいかを判断することができる。もちろん、自分だけで判断していたら間違った方向に行く可能性もあるので他のクリスチャンとの交わりを通して、経験と訓練を積む必要もある。その交わりは、間違いを指摘しあうことではなく、愛を持って互いを成長に導き、キリストの体と経て上げるためのものである。

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

エペソ4:14~16

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません

指導者が人である限り必ず欠けはある。しかし、神であるイエス・キリストという指導者には欠けが全くない。地上の指導者が神のことばを語らなければ、イエスのことばを読むことができる。地上の指導者の生き方から生まれたものが良いものでなければ、イエスの生き方を見ることができる。そして、指導者の信仰が足りない場合はイエスの信仰から倣うことができる。

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Church

本当に礼拝で求められていること

この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

ヘブル人への手紙 9章 9〜10節

旧約の礼拝方法を新約の教会の礼拝に取り入れようとしている教会があるが、これは外面的な「からだに関する規定にすぎない。」いくら礼拝の式典を完璧にしても、オルガンがプロフェッショナルでも、司会と説教がアナウンサーなみに完璧でも、外面的に限られたことであって、「礼拝する人の良心を完全にすることができない。」

「しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られた」。私達は完璧な礼拝が出来ないが、キリストはすでにこれを成してくださった。キリストの恵みによって、私達の欠けは全て赦されている。

今私達に求められていることは、希望を告白し続けること(伝導、10:23)、愛と善行を促すこと(裁くことではない、10:24)、集まって励まし合うこと(10:25)。

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Christian Life

授けられている言葉

するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。」マタイ19:11

聖書には受け入れがたい教えが多く書かれている。

神が男と女を創り、その二人が一つとなったことを結婚とし、その二人を裂くことは誰もできない。(4-6説) 同性婚や離婚を推奨する人には受け入れがたい教えだ。また、不品行以外で離婚し、再婚したら姦淫の罪を犯すとも書いてある。(9説) これに当てはまる人も少なくはない。

この難しい教えを曲げて自分の好きなように解釈する、もしくはその聖書箇所は神ではなく人の思いで書かれているので受け入れなくても良い、と言ってしまうことは簡単なこと。

しかし、イエスはそんな難しい聖書箇所でも「授けられている」と言っている。難しくても神の言葉として受け入れ、自分がそれているなら罪を認め、悔い改めることを促している。

神は立ち返る罪人を受け入れてくださる。

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Malachi

マラキ3:1, 3

ハガイでは神殿の未来の栄光の素晴らしさを示すことによって神殿の再建を励ました。ゼカリヤでは新たな泉が開かれ、それによって民が悔い改め、多くの国民が神にひれ伏すことが記されていた。そしてマラキで人々は、これらの約束が成就されるのを待っていた。そんな中、神に対して「満足しきって」いて怠惰になってしまっていたので、物足りなさからこの世の快楽を求めた。マラキの預言は、約400年後に使わされる救世主によって、この世を求めている人々を清める希望を記している。

3:1「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。―万軍の主は言われる。」

3人の人が来ることが記されている。最初の人は「道を備える」者で、「エリヤ」と呼ばれている (マラキ4:5-6)。バプテスマのヨハネが「エリヤ」だとイエスご自身が確認している (ルカ1:16-17, マタイ17:12, ヨハネ3:28)。そしてイエス・キリストが「神殿に来る」者で、ご自身を捧げることによって罪の代価を支払う。3人目に関しては、「主」と「契約の使者」は別人だと思えるかも知れないが、イエスは神である (ヨハネ1:1, 14) ことから、「主」と呼ばれてもおかしくない。

3:3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。

キリストが来ることによって清めのプロセスが開始するのだが、まず清められるのはレビの子ら。最終的に神は全ての人々を清めるのだが、清めはまず祭司たちから始まらなければならない。彼らが汚れていれば民も汚れる。彼らが清められれば民も神に立ち返る。また、新約聖書でキリスト者は「聖なる祭司」(1ペテロ2:5)、「王である祭司」(1ペテロ2:9) とされていて、キリスト者は皆レビの子と言える。キリストに始まった清めは「聖なる祭司」を通して全ての人に広がっていく。

この清めのプロセスによって全ての罪から清められるのだが、マラキでは2つの例が挙げられている。一つは離婚について (2:14-16)。夫婦関係を保つために努力し、共に神に向かっていくことを励まし合うことが、離婚を回避するための秘訣。イエスはこれを助けるためにこの世に来られた。そしてもう一つは金銭と持ち物を愛することについて (3:8-10)。神を愛することと神に仕えることを忘れると、神を金銭と持ち物に置き換え、それらを拝んでしまう。神を第一にすることによって、金銭や持ち物を捧げることに抵抗は無くなる。10%などとルールを設けなくても、心からあふれるほどの捧げものをすることができる。

マラキで預言されていたイエス・キリストがこの世に来られ、神の栄光のために生きる祭司の民を清めた。これがクリスマスの本当の目的。神の栄光と偉大さに目を向け、神を何よりも愛するようになれば、本当の自由を得ることができる。金銭の愛から自由にされ、姦淫の罪から開放される。自由に喜んで神を礼拝し、善と愛を発見する喜びを体験する。自分が衰えキリストが盛んになる。神の栄光が永遠に讃えられるようになる。

このブログはジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/you-shall-go-forth-leaping-like-calves