Categories
Gospel Hebrews

ヘブル5

'また、神は他の個所で、 「あなたこそ永遠に、 メルキゼデクと同じような祭司である」 と言われています。 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 ' ヘブライ人への手紙 5:6-10

イエスは「メルキゼデクと同じような大祭司」とされている。「メルキゼデク」とは誰なのか?その人は大祭司としてどのようにイエスの登場を予兆したのか?

メルキゼデクは創世記14:18~20に登場する。彼はサレム(いずれエルサレムになる場所)の王であり、「いと高き神の祭司」だった。アブラムはメルキゼデクが祭司だと理解していたので、戦利品の十分の一を彼に送った(創世記14:16)。面白いことに、メルキゼデクはアロンによる祭司制度が制定する前に祭司とされていた。メルキゼデクはイスラエルという民が存在していなかったので、イスラエルの祭司でもなかった。それでも祭司として神と人々との仲保者の役割を担っていた。

詩篇110では、「メルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司」を語っている。これは将来、イエスが永遠に地上を治めることを指していると同時に、祭司として神と人の間に立っていることも指している。祭司は本来王ではなく祭司だけの職務を担っていたが、メルキゼデクの場合王であり、祭司でもあった。メルキゼデクの存在はイエスが永遠に担う王と祭司の役割を象徴している。

メルキゼデクの存在はモーセ律法が不十分だったことを示している。律法の元に制定された祭司制度は、動物犠牲を通して人の罪の贖いをし続けることによって神の赦しを一時的に得る職務だった(レビ記16:1-28)。しかし、罪が永遠に赦されるためには永遠の存在であるイエスに贖ってもらう必要があった。律法の祭司制度が成し得なかった完璧な罪の赦しをイエスは十字架によって担って下さり、永遠な仲保者として神と人との間に立って下さっている。

Categories
Gospel Timothy

2テモテ4

'御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 ' テモテへの手紙二 4:2-8

何をすべきか

みことばを宣べ伝える。パウロはまずこれをテモテに対して進める。イエスの大宣教命令があるので当然のことだろう。これは福音を伝えるのはもちろんだが、聖書全体がみことばなので、聖書全体を宣べ伝えることでもある。「とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教える」みことばを語ることによって心が痛むことがあるかも知れない。すべてが励ましではない。それでもみことばを語ることを辞めず、忍耐強く、理解し受け入れるまで語り続けることが重要。

取り巻く環境

「折が良くても悪くても」みことばを伝えることの逆風があるのもまた当然のことである。国の政策だったり、職場のルールであったり、または宗教的リーダーの思惑によって、みことばを学んだり語ることを止める動きは多くある。「健全な教えを聞こうとしない時」はまさに今ある。これまでの伝統を守ることを重視しすぎるがため、聖書の教えを無視することが起きている。「好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」多くの人が同じ方向を向いていると、人は同じ方向を向こうと必死になる。「守ってきた」ことが大事であるがゆえに、同じ考えを持つ人と組んで、違う考えを持つ人を締め出す。このような環境下でみことばを語らなければならない。

どのように進めていくか

「どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」「身を慎む」=nepho=心に余裕を持つ、明確な判断力、節制、自制。どんなに環境が悪くても、聖書に思いを巡らして、しっかりとみことばの上に立つようにする。宗教的リーダーが間違ったことを教えても、聖書から正すことができるように準備しておく。仲間がいないことから苦しむかもしれないがそれを耐え忍び、福音宣教の仕事に励む。福音宣教はキリスト者全員の仕事であり、牧師や宣教師や伝道師だけがやっていれば良いことではない。福音宣教はキリスト者の勤めなので、それを果たさなければならない。

結果

この世においてマイナス面の結果はある。「いけにえとして献げられ」「世を去る時が近づきました」パウロにとっては国家によって福音のために処刑される次期が近づいていた。全く同じではないが、これまで「仲間」だと思っていた人たちから切り離され、排除されることはある。正しいことをすれば迫害は受ける (2テモテ3:12)。しかし、良い面としては「正しい審判者である主」から「義の栄冠を受ける」。神は必ず正しい判決を下し、報いと罰を正しく与える。報いの一つである「義の栄冠」とは何か?

報酬は、神の霊によってパウロにもたらされた義が評価されたもので、冠は義人のために用意されていますが、それは義からなる冠です。義はそれ自身が報酬となります(黙示録 22:11)。出エジプト記39:30と比較してください。人は、キリストの功績によって無償で義とされ、そのように義とされたとき、神はその人の行いを受け入れ、その人に与えられるべきものではなく、恵みによって与えられる報酬をもって、その人を讃えるのです。「神の人間に対する善意は非常に大きいので、人間の行いは神自身の贈り物にすぎないが、功徳となることを望んでおられる」[教皇セレスティヌス1世『書簡集』12]。

Jamieson-Fausset-Brown Bible Commentary
Categories
Gospel

信じるだけで、神の子どもになれるのは都合が良すぎますか?

 

ローマ4:16〜17

16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々だけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

前回は、全ての人に罪があること、また神の義を満たすことができない事を話し合いました。では、私たちはどのように神に義と認められるのでしょう?また、どのように神の子どもになるのでしょう?

Categories
Gospel

外見上のクリスチャンと本物のクリスチャンの2種類がいますか?

ローマ2:28~29

28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
29 かえって人目に離れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

見た目だけのクリスチャンに会ったことはありませんか?毎週教会に行って、ちゃんと献金して、教会で奉仕しています。一見堅実なクリスチャンに見えますよね?でも、教会から一歩出れば人が変わったようです。人が間違えを犯したら赦しません。会社では新人に強く当たります。家族と過ごす時間はほとんどなく、仕事や自分の趣味にだけに没頭します。果たして、これは本物の「クリスチャン」でしょうか?

今日の聖書箇所では、見せかけのクリスチャンと、本物のクリスチャンを見分けます。

Categories
Gospel

福音の聞いた事のない日本人が神の怒りを受けるのは可哀想ですか?

質問 福音の聞いた事のない日本人が神の怒りを受けるのは可哀想ですか?

ポイント 神の怒りはユダヤ人も異邦人も全ての人に下る

聖書箇所 ローマ1:18〜19

前回私たちはローマ1章から、福音はユダヤ人をはじめギリシャ人(すなわち、私たち)にも与えられたことを読みました。ここで疑問に思うのは、もしこの福音を聞いたことが無い人がいたらどうなるのでしょうか?神がこの人を裁くのは正しいことなのでしょうか?このテーマを考えていきたいと思います。

Categories
Gospel

福音を伝えることに興味がありますか?

ローマ書1:16~17

16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
17 なぜなら、福音のうちには神の義が掲示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。