Source: When Is Saving Repentance Impossible? John Piper
Permission granted by Desiring God on June 23, 2023.
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。
へブル6:4-6
真剣でありながら、悲しくないこと
深刻になることと、悲しくなることには大きな違いがあります。悲しいの反対は幸せです。しかし、真剣の反対は口先だけの(あるいは冗談の)ことです。だから、真剣であることと、幸せであることは同時にできるのです。実際、C.S.ルイスは、「真剣になるような幸せと不思議がある」と言っています。コメディアンが感じさせてくれるものと、自分のために命を捨ててくれる友が感じさせてくれるものとの違いは、誰もが知っていることです。ディズニーワールドでの1日とグランドキャニオンでの1日の深い違いも、ほとんどの人が知っています。
ヘブル書は、私たちを真剣にさせる特別な方法を持っているように思います。とても身の引き締まる思いがする書です。悲しい書ではありません。しかし、真剣な書なのです。この書に書かれていることを聞けば、人生に対する口先だけの、陳腐な、つまらない態度は吹き飛んでしまいます。それは、私たちを悲しませるためではなく、神のもとで揺るぎなく幸せにするためです (ヘブル10:34、12:2、13:17参照)。
私たちを殺す幸福の種類
ヘブル書が私たちを心から幸せにする方法の一つは、偽りの安心に対する警告です。ある種の幸福は、私たちを殺すものです。ヘブル書は、この危険な幸福を暴き、その欺瞞から逃れ、決して失望させない確かな幸福を追い求めるようにと、執拗なまでの愛情をもって警告しています。つまり、ヘブル書は、神への保証の喜びを深め、強めるために書かれたものであり、その戦略のひとつは、偽りの保証やはかない喜びを暴くことにあります。
それが、ヘブル6:4~8に書かれていることです。この箇所では、悔い改めや救いを不可能にする霊的な状態があると言っています。そして、この状態は、いろいろな意味で救いのように見えるかもしれませんが、そうではない、と書かれています。そして、それは破滅へと導くのです。ですから、この箇所は、私たちの人生に宗教的な体験があっても、実が育たないのに、私たちが安全だと思い込まないようにという警告なのです。そして、この深刻な状況を示した理由は、私たちがそこから逃れ、確かな場所に文と炉まり、永続的な喜びに移行するためです。
思考の流れを見てみましょう。ヘブル6:1には、「成熟を目指して進もう」とあります。そして3節には、「神が許されるなら、先に進みましょう」とあります。つまり、私たちが生まれつきのプライドや反抗心、不信仰を克服する恵みを得られるかどうかは、最終的には神にかかっているのです。
さて、4節から8節は、悔い改めや成熟への押し進めが不可能な状況があることを示すことで、この神への全くの依存を説明しています。そして、不可能である以上、私たちはこのような状況に置かれることに戦慄し、3節の主権者である神に全く依存していることを確認する必要があります。
悔い改めが不可能なとき
悔い改めが不可能な状況とは、どのようなものなのでしょうか。それはこのように表現されています。
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。
へブル6:4-6
その状況とは、こうです: まず、ある人が大きな祝福を受け、高い宗教的体験をします (4-5節)。そして、第2に、その人が堕落し、そうすることによって、神の子を再び十字架につけ、公然の恥にさらすのです。そして、第3に、その人を悔い改めさせることは不可能なのです。
この3つの部分の状況を見てみましょう。
1. 大きな祝福と高い宗教体験がある (4~5節)
4つ挙げています。第1に、「光に照らされ」(4節) ています。第2に、天の賜物を味わい、聖霊にあずかるようになりました (4節)。天の賜物とは、おそらく聖霊のことでしょう。3つ目は、神の良い言葉を味わっています (5節)。そして、第4に、来るべき時代の力を味わっています (5節、ヘブル2:4参照)。
2. このような祝福と経験にもかかわらず、この人はその後、堕落してしまう (6節)
つまり、キリストと御霊とみことばと来るべき時代の力から遠ざかってしまうのです。彼は、これらの偉大な現実の価値に背を向け、心で他のものを追い求めるのです。この変化の影響は、キリストを再び十字架につけ、公然の恥にさらすことです (6節)。なぜそれがもう一度十字架にかけることなのでしょうか?このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることである理由は、少なくとも2つあります。
一つは、キリストが最初に十字架にかけられたのは、民を清く聖なるものにするためだったということです。そのために血を流されたのです。ヘブル13:12には、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」とあります。私たちを聖別するために死なれたのです。私たちを聖くして、ご自分のものとするために死なれたのです (ヘブル9:14、テトス2:14参照)。ですから、十字架がもたらす純粋さと聖さと献身に背を向けるとき、私たちは、最初に彼を十字架に釘付けにした不純さと世俗と不信仰を肯定しているのです。つまり、私たちは再び彼を十字架につけることになるのです。
このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることになる理由はもう一つあります。キリストに背く道を選び、この世の道や自分の意志の主権やこの世のはかない快楽に立ち返るとき、その人は事実上、これらはキリストの価値よりも価値があると言うのです。それらは、キリストの愛、キリストの知恵、キリストの力、そして神がキリストにおいて私たちのために約束してくださるすべてのものよりも価値があると言っているのです。そしてそれは、「私はイエスを十字架につけた人たちに同意する」と言っているのと同じことなのです。なぜなら、キリストの善意と知恵と力を味わい、それでも「いや、もっと良いもの、もっと望まれるものがある」と言うことは、それほどまでにキリストを辱める行為だからです。それはキリストを公衆の面前で辱めることにもなります。
信仰がない人がキリストに抵抗するのは、ある意味当たり前です。しかし、教会で啓発され、天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、神の良い言葉と来るべき時代の力を味わった人が、それらの祝福と経験の後に、「キリストよりも世の中のものの方が良いと思います」と言うのは、別のことです。それはイエスをもう一度十字架にかけることであり、真理を味わったことのない部外者ができる以上に、イエスを公の恥にさらすことなのです。
3. その結果、「(そのような人を)再び悔い改めさせることは不可能である」(6節) という結論に至った
先週、ヘブル12:16〜17にかけて、このことを説明しました。そこでは、ここと同じような警告が語られています。
また、誰も、一杯の食物と引き換えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。
ヘブル12:16〜17
本物の悔い改めは神に拒絶されるのでしょうか?エサウが純粋に悔い改めたのに、神に拒絶されたと勘違いしないでください。神は純粋な悔い改めを拒否されることはありません。本文には、「悔い改めの機会が残っていませんでした」とはっきり書かれています。言い換えれば、彼は悔い改めることができなかったのです。ヘブル3:8、15;4:7参照)彼は、自分の人生をより良くするために叫びましたが、内心は神様の条件に従おうとはしませんでした。彼は16節にあるように、「淫らで俗悪な者」だったのです。
エサウは、ヘブル6:6で筆者がこの人を再び悔い改めに立ち返らせることは不可能だと言っていることの例証です。ここに、本書のすべての警告の背後にある恐ろしい見通しがあるのです。だから、漂流するのではなく、耳を傾けてイエスを考え、毎日励まし合い、不信仰と油断を恐れるようにと言っています。なぜでしょうか?本当に何か危ういのでしょうか?自分が選ばれ、召され、義とされていると信じているあなたや私が、無関心と頑なになる緩やかなプロセスに滑り込み、やがて堕落してキリストを拒絶し、公然と辱めるかもしれないという見通しがあるのです。私たちは、神から完全に見捨てられたのだから、もう戻れないというところまで来てしまうかもしれない。それが6節の「不可能」という言葉の意味です。今朝は、憐れみの追求を急がなければなりませんね!
「キリストにあずかる者」でありながら、義とされないことがあるのか?
さて、ここで皆が疑問に思うのは、堕落した人が本当に「救われた」、「義とされた」、「召された」、「新しく生まれた」かどうかということです。聖霊と神の言葉と来るべき時代の力を味わい、それにあずかる者でありながら、義とされないことがあるのでしょうか。つまり、この節は、本当に救われた人としての立場を失う可能性があると教えているのでしょうか。それとも、4節と5節にあるような体験をしても、救われたとは言えないと教えているのでしょうか。どちらの教えも衝撃的で、心が痛むものです。どちらが正しいのでしょうか?
この聖句の深刻さと警告を弱めることなく、私は、これらの祝福と経験をすべて持っていても、義とされず、新しく生まれず、救われないことは可能であると主張したいのです。その理由は5つだけ挙げますが、すべてヘブル人への手紙から取ったものです。また、ヘブル人への手紙以外にもたくさんあります (ローマ8:29-39、ユダ24-25、エペソ1:3-14、1ヨハネ2:19、1ペテロ1:5、フィリピ1:6、2:13、1コリント1:8-9、1テサロニケ5:23-24、エゼキエル11:19、36:27、申命記30:6、エレミア24:7、32:40)。
1. 7-8節を考えてみましょう
ここでは、離反する者たちの状況が絵に描いたように語られています。6節で背信者には悔い改めが不可能であることを述べた後、7-8節にはこう書かれています。
たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。
ここは、生命と植物があったのに、それを失った畑を描いているのではないのです。一つは実り豊かで祝福された畑、もう一つは不毛で呪われた畑なのです。つまり、光と御霊とみことばと神の働きが私たちにやってきて、私たちを祝福し、ある程度形にしてくれているのに、それに背を向けて教会に座っていたら、私たちは植物のない畑と同じで、裁きを受けることになるのです。私たちが飲んだ雨(光、御霊、みことば、力)は、畑に何の生命も生まなかったのです。
2. 9節を考えてみましょう
教会の中に背信を犯す者がいる可能性を現実のものとした上で、こう書かれています。
だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。
キーワードは 「救いにつながること」です。パウロが確信している「もっと良いこと」とは、常に救いとともにあるもの (文字通り、救いが持っているもの) です。救いに属するものなのです。つまり、彼が言っているのは、彼らが本当に「救われている」と信じているからこそ、背信を犯したり、不毛な畑になったりしない、ということなのです。彼らは実を結びます。堕落することはありません。「救いにつながること」という表現は、筆者が本当に彼らに救いがあると信じていて、それゆえに救いに必ずつながること、つまり忍耐強い信仰と実を結ぶことを信じていることを示しています。彼は、実を結ばないことや背信が救いに伴うとは考えていなません。もっと良いものがあるのです。
3. ヘブル3:14(と3:6)を考えてみましょう
私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。
ここで重要なのは、「私たちはキリストにあずかる者となっている」という動詞の時制です。私たちが 「これからキリストにあずかるものとなる」のではなく、「キリストにあずかる者となった」のでもなく、「キリストにあずかるものとなっているー確信をを持ち続けるなら」です。つまり、信仰の忍耐は、私たちがキリストにあずかる者となったことを証明するものです。つまり、もし私たちが信仰に耐えられないなら、それは私たちがキリストにあずかる者から脱落したことを示すのではなく、私たちがキリストにあずかる者になることはなかったことを示すのです。もし私たちが確証を堅持するならば、私たちはキリストにあずかる者となります。もし堅持せずに背信をするならば (ヘブル6:6が述べているように)、私たちはキリストにあずかる者とならなかったのです (ヘブル3:6の動詞の時制についても同じことが言えます)。 したがって、この著者は、私たちがキリストの中にいて、再び出て行くことができるとは考えていないことは明らかです。
4. ヘブル10:14を考えてみましょう
なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。
もしヘブル6:6が、キリストの血によって義とされたのに、神とのその立場を失うことがあるという意味なら、この節は意味がありません。この節は、今聖化されている人 (つまり、今聖霊が内に住んでいて、神から生まれ、信仰によって聖さを増している人) にとって、十字架上のキリストの犠牲は、その人を永遠に完全なものとしたと言っています。永遠にです!言い換えれば十字架上のキリストの完成された、義認の働きを受け取ることは、神の目には完成された者となる、ということです。この現実は、ヘブル6:6が、キリストをもう一度十字架につける人々が、かつてイエスの血によって本当に義とされ、内なる霊的な意味で本当に聖別されていたことを意味しないことを示唆しています。
5. ヘブル13:20~21を考えてみましょう
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世よ限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。
20節では、イエスの血によって証印された永遠の契約について語られています。それが、本書が8章と9章で大きく取り上げた新しい契約です。新しい契約とは、神が私たちの中に新しい心を入れ、私たちが神の道に歩み、私たちに良いことをすることから目をそらさないようにしてくださるという約束です (エゼキエル11:19、36:27、エレミヤ24:7、32:40)。ですから、21節では、私たちが信仰を持ち続けて実を結ぶかどうかは、最終的には私たち次第ではない、と言っています。それは、最終的に神様に依存しているのです: 神は、ご自分のみこころにかなうことを私たちのうちに働かせてくださるのです。神は、私たちを守るために新しい契約を果たしておられるのです。
このことは、もし新しい契約の元で本当に義と認められた人が、背信を犯して拒絶されることを意味するならば、ヘブル6:6が新しい契約と矛盾することになります。それは、神が「みこころにかなうことを・・・渡したちのうちに行ってくださる」という約束を果たさなかったということになります。神は新しい契約を破ったことになるのです。
以上の5つの理由から、私は、もし人が堕落して神の子を再び十字架につけたなら、その人は元々義とされていなかったと結論付けます。その人の信仰は、救いをもたらすような信仰ではなかったのです。
では、これらの御言葉は私たちにとって何を意味するのでしょうか
鋭い指摘をするために、非常に個人的なことを言います。もし今後数年の間に私が背信を犯し、キリストから離れたとしても、それは私が神の言葉や神の霊や神の奇跡を味わったことがないからではありません。私は神の言葉を飲みました。御霊は私に触れました。私は神の奇跡を見てきたし、私は神の道具となってきました。
しかし、もし今後10年、20年の間に、ジョン・パイパーが霊的に冷め始め、霊的なことに興味を失い、金儲けとキリストのいない本を書くことに夢中になってしまったらー新しい妻は爽快で、子供たちは自立でき、キリストの教会は足手まといで、受肉は神話だと信じ、人生は一つだから食べて飲んで陽気になろうという嘘を買ってしまったらーそうなったら真実はこうだということを知っておいてください: ジョン・パイパーは、人生の最初の50年間、大いに欺かれていたのです。
彼の信仰は、父親の喜びの名残であり、異質なものだった。妻への貞節は一時的な情熱であり、社会的な圧力に従ったものでった。彼の父性は自然な本能のなせる業であった。彼の説教は、言葉と会衆への愛に駆られていた。彼の執筆は、名声への愛に満ちていた。そして、彼の祈りは、最も深い妄想であり、自分の虚栄心を神に供給してもらおうとする試みであった。
この可能性が、永遠の喜びを追い求める私を真剣に、そして警戒させないのであれば、何がそうさせるでしょうか?
この素晴らしい真理の実践的な結論は、来週の聖句で示されます。それまで、キリストがあなたの最高の喜びであるかどうか、口先だけでなく、真剣に考えることができるように祈ります。もし、あなたが本当にキリストに、キリスト内に希望を託すなら、キリストはあなたを手放さないでしょう。