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ヘブル 12:14-29

'すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。 ' ヘブライ人への手紙 12:14-15

平和と聖なる生活を追い求める、というのは異なった意見を排除して同じ考えを持った人たちだけで固めることではない。異なった意見がある時に対話し、双方の立場から歩み寄って一番良い道を共に探ること。これには「伝統」や「権限」関係なく、良い考えは誰からも出てくることを前提においている。「伝統」よりも神のみこころを求め (イザヤ55:6)、「権限」よりも全てのクリスチャンが祭司であることを覚える (1ペテロ2:9)。

「苦い根」はどこから来るのか?一つのヒントは子育ての箇所に記されている:子どもを怒らせないこと (エペソ6:4)。これは単に怒るだけでなく、子どもを追い詰めて怒りに導くこと。教会内でもリーダーが話を全く聞かず、わだかまりを解こうと努力しようとしないことが続くと、教会員も追い詰められていく。この苦い関係が広まっていき、リーダーとしては悩みの種となる。

これを取り除くには「戒規」や「除名」で排除することは簡単だが、イエスはどのように教えていたか?まず一対一で会話をして、状況確認と忠告を行う (マタイ18:15)。次に、一対一で話した人と、あと一人か二人(多くても3人)で話し合う (マタイ18:16)。それでも解決しなければ教会のリーダーとの話し合いになる (マタイ18:17)。いきなり「役員会」に呼ばれて「戒規」を言い渡すのではなく、まずは一対一の会話。少しでも会話が成り立つようだったら「兄弟を得た」とし、それ以上の追求はしない。ルールを守る・守らないの問題を突きつけて排除するのではなく、会話を通して「平和」の道を探る。

これが教会の頭であるイエス・キリストが教えたこと。「畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕える」(ヘブル12:28) には神の子であるイエスに聞き従う必要がある (ルカ9:35)。

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ヘブル12:1~13

'こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 ' ヘブライ人への手紙 12:1-3

「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」自分に定めらている競走は何か?神が私に求めているものは何か?それを見出すためになにをする必要があるのか?週に一度の礼拝、週に一度の祈祷会ではこれを見つけるのは無理だろう。日々の祈りと、聖書を読んで思いを巡らすことが必要。神との過ごす時間が長ければ長いほど、神のみこころを知ることができる。そしてそのみこころをが分かり、何がゴールか理解できたらそれに向かってひたすら走るだけ。この世において仕事や、世間体、所属する団体、そして時には教会組織にも、定められたゴールに向かう弊害となることがある。しかし、イエス・キリストが忍耐を持って十字架にかかったことを思い出し、「気力を失い疲れ果ててしまわない」働きを続けていきたい。

'あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 ‘ ヘブライ人への手紙 12:7-11

この箇所では罪との戦いについて「血を流すまで抵抗していない」と指摘していて、神の懲らしめ・鍛錬を軽んじないように指示している。これは、ヘブル人が罪と戦っていなかったことではなく、これまで紹介してきた殉教者(12:35-38) のような迫害はまだ受けていないということ。ローマ教会はネロの迫害を受けていたが、エルサレムにあるヘブル人の教会はまだこの影響を直接うけていなかった。しかしこのような迫害があったとしても、神からの鍛錬として捉えるように指示している。今日において迫害は友達の間や、職場の中で、世間にうわさされることによって、そして教会組織による排除活動によって受けることがある。しかし、これらの鍛錬をも神から来ると考えられたら耐えられるし、自分に対して良い結果がもたらされることが期待できる。

神の鍛錬は非難ではありません。鍛錬は忍耐をもって耐えられ、聖性を大いに促進します。私たちは、人の悪意によってもたらされた苦難を、賢明で恵み深い父が私たちの霊的な利益のために送ってくださった鍛錬と考えることを学びましょう。

https://biblehub.com/commentaries/mhc/hebrews/12.htm
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ヘブル11:32~40

'信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。 ' ヘブライ人への手紙 11:33-35

信仰によってこの世において神の約束を受けた人もいる。危険から守られ、励まされ、強められ、この世で不自由なく暮らした人もいる。神は、与えた物を忠実に管理する人に、さらに多くを与える(ルカ16:10)。愛と信仰を心に保つと、神と人の前で成功を示すことができる (箴言3:3-4)。信仰をもって神に仕え、神に祝福を与えられ、その祝福に感謝してさらに神に頼るようになるサイクルが、この世において神の約束を受けることだと言える。

'他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 ' ヘブライ人への手紙 11:35-38

逆に、信仰によって迫害を受ける人もいる。初代クリスチャンはローマ帝国によって迫害を受けた者もいるが、同じ神を信じているユダヤ人にも迫害を受けた。それは、かつてマルティン・ルターがカトリック教会に対して、民衆に聖書を読むべきだと促し、礼拝参画の行為でなく信仰によって救われることを訴えたことにより、カトリック教会から除名され、命をも狙われたことと重なる。現代でも、教会組織に相対すると叱責され、「戒規」という名の罰を言い渡され、排除される。確かに、キリストのために生きると迫害を受ける (2テモテ3:12)。

'ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。' ヘブライ人への手紙 11:39-40

神は「更にまさったものを計画してくださった」。旧約の人々が体験できなかったキリストとの交わり、聖霊に導かれること、そして完成された聖書が私たちに与えられている。律法(十戒)を読んで守るだけではもったいない。この時代を生きる私たちは神から多くを与えられている。それら全てを取り込み、学び、励まされ、キリストのうちに成長していきたい。そして、キリストと歩む喜びを伝えていきたい。

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ヘブル11:17~31

'信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。 ' ヘブライ人への手紙 11:17-19

アブラハムは神にイサクをいけにえとして捧げるように言われたときに、アブラハムは躊躇なく実行に踏み切ったように見える (創世記22)。それほどアブラハムは神の約束を信頼していた。神はアブラハムに、星の数ほどの子孫を与えると約束していて、イサクがその子孫だと伝えていた。その約束を信じ、アブラハムは迷わず神の指示に従おうとした。さらに、アブラハムは神の偉大な可能性も理解し信頼していた。イサクをいけにえとして捧げたとしても、イサクを死から生き返らせることもできると信じていた。それほどまで神の偉大さを理解し、神に100%の信頼をおいていた。

私たちはどうだろうか?これほどまでに神を理解し、神を信頼しているだろうか?

私たちは、聖書全体を通して神の約束を読むことができるし、先人たちの例を見て約束が必ず果たされることも知ることができる。イスラエルは約束の地にたどり着き、王国を築くことができた。アブラハムに約束したとおりに、彼の子孫(イエス・キリスト)によって全人類が祝福された。神は偉大な方で、神によれば不可能がないことも聖書を通して知ることができる。神の子が赤子として生まれるようにして下さった。多くの人を肉体的に癒やし、一度に数千人の人にパンと魚を分け与えた。ラザロのように死者をも生き返らせた。神に難しいことはない (エレミヤ32:17)。

約束は多くあるが、今心に置かれている約束はイザヤ55:11。

「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」 イザヤ55:11

宣教においてどのような形であれ、神のみことばが語られるのなら、それはむなしく帰ってこない。かならず神の「喜ぶところのことをなし、(神が)命じ送った事を果たす。」イベントに参加した人の心にみことばが残り、聖霊がそれを養って成長させ、やがて救いをもたらす。次の日曜日に礼拝に参加しなかったから「失敗」ではない。みことばは確実に伝えられたのだから、聖霊は働いてくださる。聖霊の働きを信じず、これまでやってきた「礼拝をする」「トラクトを配る」という伝統に逃げたくはない。神を信じて新たな宣教方法にチャレンジし、神が約束する結果をもたらしてくださることを信じていきたい。イエスが私たちに命じた大宣教命令を実行していきたい。

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ヘブル11:1~16

'信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 ' ヘブライ人への手紙 11:1

「信仰」が定義されている。私たちが何を望んでいるのか、何に向かっているのかを定義する。私たちの生きる意味や目的や進むべき道を、信仰によって確信する。そして、今は見えていないが確実に起きることを確認する。到達していない場所を示し、受けられる恵みを確認する。現時点では想像もできない素晴らしい体験が待っている。このような信仰があれば常に前に進もうとするだろう。立ち止まって過去からの伝統を守り通すのではなく、信仰の目標に向かってひたすら走るだろう。

  • 世界は目で見えない神の言葉によって創造された
  • アベルは死んだ者だが、信仰をもった行動(神への捧げもの)は今でも語られている
  • エノクは神が喜ぶほどの信仰があったので、死を体験せずに天に移された
  • ノアはその地域で見たこともない洪水を神に知らされ、信仰をもって方舟を作った
  • アブラハムはどこへ行けば良いかもわからずに、信仰によって旅立った
  • アブラハムは信仰によって神が築く王国を期待していた
  • サラは子どもを生める年齢ではなかったが、信仰によってイサクが与えられた
'この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 ' ヘブライ人への手紙 11:13

アベル、ノア、アブラハム、サラはみな、神の約束が成就されるのを地上で見る前に死んでいった。それでも、神を信頼して、逆境もありながら正しい方向に進んでいった。アベルは兄弟に殺されるほどに、ノアはおそらく地域に住む人達に嘲られ、アブラハムは自分の妻に笑われ、移動した先々の王たちから支援を得られなかった。私たちも身内から、教会組織から、地域から反対され、支援を得られないかもしれない。しかし、信仰をもって神の約束に向かって邁進していきたい。

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ヘブル10

'ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 ' ヘブライ人への手紙 10:8-10

神は律法に従って捧げられるものを望まない。いけにえや捧げものは実態であるイエス・キリストの影にすぎない。イスラエルがいけにえや捧げものをしたのは、イエス・キリストという完全ないけにえを見据えて、罪の赦しを得ていた。しかし、律法に従って献げられたにも関わらず、神はそれを望まず、好まれもしなかった。それは、いけにえや捧げ物にはキリストが欠如していたから罪が取り除かれることはなかった。いけにえや捧げ物によって何度も罪は赦されたが、完全に取り除かれるにはキリストの体が捧げられる必要があった。

'「『それらの日の後、わたしが 彼らと結ぶ契約はこれである』と、 主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いにそれを書きつけよう。 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。' ヘブライ人への手紙 10:16-18

モーセ律法による契約はイスラエルの民に向けられていたが、キリスト者と結ばれた契約は律法を明示的に与え、そのルールを守るような内容の契約ではない。「律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつける」。キリストが罪を取り除いたのだから、律法(=神を求める心)が植え付けられ、その心から神が喜ばれる行動が成される。ルールを守ろうとしているのではなく、神を喜ばせたい心から善い行いをする。

'更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 ' ヘブライ人への手紙 10:21-23

私たちはキリストによって聖なる者とされ、神に近づくことが可能となった。旧約のように神の前に現れると死ぬことを恐れずに、イエスを「信頼しきって真心から」近づくことができる。そしてキリストが約束して下さったことにしがみつき、希望を持ち続けることができる。神との親密な関係を、救われた時から天に召されるまで、地上で何があってもキリストが全てを解決してくださることに希望を持てる。

'互いに愛と善行に励むように心がけ、 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 ' ヘブライ人への手紙 10:24-25

キリスト者は「集会を怠らない」ように指示されている。これは「互いに愛と善行に励む」ように「励まし合う」こと。日曜礼拝でこれができることもあるが、教会以外の場所で集まって食事をしたり、教会学校で聖書の適用について語り合うこともできる。教会によっては小グループで聖書の学び、祈り、分かち合いをすることもある。ここでの焦点は「互いに」であり、「神礼拝」とは別の観点が示されている。

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ヘブル9:11-28

'なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 ' ヘブライ人への手紙 9:13-14

モーセ律法の規定により、イスラエルは動物のいけにえを捧げ、その血と灰を人々に振りかけることによって罪の赦しを得た。これを「身を清める」行為とされていたが、内面的な清めよりも、体を清めることに焦点を当てている。しかし、イエスの血によって私たちの良心 (正しさを判断する能力) が変えられ、私たちは「死んだ業」でなく「生ける神を礼拝するようにさせる」。この「礼拝」は「仕える」とも訳せる。つまり、私たちの良心が本当に変えられたのであれば、肉による行動をとおして神に仕えることに注力せず、生き生きとした形で神に日々仕えるようになる。日曜日の朝に儀式だけを行うことは「死んだ業」と変わらない。

'というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。 ' ヘブライ人への手紙 9:19-22

なぜ「血」が必要だったのだろうかか?前提として、罪の報酬は死 (ローマ3:23)。そして、血を流さなければ罪の赦しはない。イエスはご自分の血によって私たちの罪を洗い流してくださった (黙示録1:5)。

'このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 ' ヘブライ人への手紙 9:23-24

モーセ律法、そして祭司の働きはすべて「天にあるものの写し」である。キリストはこれらの実体であり、これらに勝るいけにえである。十字架にかかり、罪を背負い、蘇り、天に登り、天にいる神の前に現れてくださった。大祭司が毎年行わなければいけない儀式を、イエスは一度の行動で成就した。そして今も私たちと父なる神の間に立ってとりなしてくださる (1テモテ2:5)。私たちが罪を侵したとき、神から離れようとしたとき、イエスは「あの人のために罪を贖った」と父なる神に取りなして下さる。

'また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 ' ヘブライ人への手紙 9:25-26

キリストは一度だけ十字架にかかり、それが全ての罪を赦すのに十分だった。大祭司がしたように何度もいけにえとして捧げられる必要はない。私たちの罪はすでにイエスに赦されている。罪を侵すたびに「戒規」という「罰」を受ける必要はないし、教会のリーダーの前で罪を打ち明けて赦してもらう必要もない。私たちはイエスが一度だけ成したことによって赦されている。

'また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。' ヘブライ人への手紙 9:27-28

人は一度死ぬことが定められている。裁きを受けることが定められている。しかし、キリストは罪の代価を支払ってくださり、信じることによって救われる道を与えてくださった。そしてイエスが二度目に来て全被造物に裁きを下すとき、私たちはその裁きから救われる。

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ヘブル9:1~10

'さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。 ' ヘブライ人への手紙 9:1-2

モーセ律法には礼拝の規定が定められていた。どのようなものを用意し、備え、どのような手順で礼拝すべきかが細かく書かれていた。そして「聖所」という場所も定義されていた。礼拝する場所は他の場所から取り分けられている特別な場所。そこでしか神を礼拝することはできないし、その場所に相応しい方法と手順で礼拝する事が義務付けられていた。

'また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。 ' ヘブライ人への手紙 9:3-5

その中でも最も聖なる場所として「至聖所」が設けられていた。垂れ幕に隠され、最も高価とされている「金」が使われていた。その中でも、神が宿っていた契約の箱があり、荒野での神の蓄えを覚えるマナがあり、神がアロンを最初の大祭司として任命したことを証明する杖があり、十戒を含める神のイスラエルとの契約が刻まれている石板があり、そして神の栄光と存在を示すためのケルビム(天使のような像)があった。これらは全て、神がこの「至聖所」に宿ることを現わしており、神の偉大さを思い出させるために置かれていた。

'以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。 ' ヘブライ人への手紙 9:6

礼拝を行うのは複数の祭司だった。イスラエルの一般人は幕屋に入ることはなく、入るのは祭司だけと決まっていた。「神の民」とされているイスラエルでさえ、神が宿る場所に近づくことができなかった。特別な役割を担う祭司だけがそれを許されていた。それだけ神は聖なる方である。

'しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 ' ヘブライ人への手紙 9:7-8

第一の幕屋には複数人の祭司が入れたが、第二の幕屋、つまり神が宿っていた場所には、大祭司が年に一度しかはいることができなかった。しかも、取り分けられているとはいえ、大祭司も人間。罪を侵すことはある。そんな人間が神の前に現れたら神の義の前では死んでしまう。だからこそ、「自分自身のためと民の過失のために捧げる血を、必ず携えて行く。」罪の報酬は死である (ローマ3:23)ように、動物犠牲の血を持って神の前に行く必要があった。ここで再度、「第一幕屋がなお存在しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないこと」が確認される。一般人は幕屋にも入れず、祭司でさえ神の前に行くことはできず、大祭司も罪の贖いが無いと神の前に行くことはできなかった。

'この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。 ' ヘブライ人への手紙 9:9-10

これらが細かく書かれたのには理由がある。それは、神を礼拝する上で、供え物やいけにえがあっても、神に近づくことができないことを現わすため。これらは「肉の規定にすぎない。」新札を用意して献金しても、新品のピアノやオルガンを購入しても、車が故障して遠い道のりを歩いて礼拝前の祈りに参加しても、「肉の規定」に従っているにすぎない。神は礼拝に何を求めているか?何が適切な供え物といけにえなのか?何が礼拝者の良心を完全にすることができるか?これを考え、求めることが本当の礼拝につながる。

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。詩編51:17
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。マタイ9:13
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。ヨハネ4:24
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ヘブル8

'この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。 ' ヘブライ人への手紙 8:5-6

祭司たちが行っていたことは「天にあるものの写しであり影である」。神からモーセに、そしてモーセからイスラエルに与えられた一時的な律法の下に行動をしていた。しかし、私たちの大祭司イエス・キリストは「優れた務めを得ておられます」。律法より優れた神の約束をベースにイエスはこの世で生活し、人々を教え、罪の代価を十字架で支払い、蘇りによって力を示した。イエスによってモーセ律法は私たちキリスト者が守らなければならないものではなくなった。

キリスト者はモーセ律法の下にいるのではなく、恵みの下にあり (ローマ6:14)、「キリストの律法」の下にある (1コリント9:20-21)。「キリストの律法」は愛することが含まれている (マタイ5:44; ガラテヤ6:2; ヤコブ2:8; ローマ13:8–10)。キリストの行動から (ヨハネ13:34; ピリピ2:4–12)、キリストの教えと戒めから (マタイ28:20; 2ペテロ3:2)、新約聖書の教えと戒めから (2ペテロ3:2; エペソ2:20; ユダ1:17; 1ヨハネ5:3)、そしてキリストを起点とした解釈の上で聖書全体から (マタイ5:17-18; ルカ24:27, 44; 2テモテ3:16–17) 「キリストの律法」学ぶことができる。

「キリストの律法」についての考えは「新約神学」に基づいている。

新約神学は、モーセ律法を全体としてとらえ、それがキリストにおいてすべて成就したと見なします(ここまでは契約神学と一致しています)。しかし、新約神学はモーセ律法を全体として見ているので、モーセ律法の道徳的側面もキリストにおいて成就され、もはやキリスト者には適用されないと見ています。十戒に要約されているモーセ律法の道徳的側面の下にいるのではなく、キリストの律法の下にいるのです(1コリント9:21)。キリストの律法とは、キリストが福音書の中で具体的に述べた戒め(山上の説教など)のことです。つまり、新約神学では、モーセ経済全体は脇に置かれており、もはやキリスト者には何の適用もありません。契約神学では、神の民と救いの道に関して旧約と新約の間に連続性があると考えています。しかし新約神学では、古いモーセ契約とキリストを仲保者とした新約の違いに焦点を当て、旧約と新約の間にはっきりと線を引いています。旧約は(モーセ法の道徳的側面を含めて)廃止され、その道徳を支配するキリストの律法を持つ新約に取って代わられます。

https://www.gotquestions.org/new-covenant-theology.html
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ヘブル7:11~28

'その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:18-19

律法は「弱く無益なために廃止」された。律法が定める動物犠牲、祭司制度、その他様々なルールは、私たちを完全に罪から開放することはできない。安息日を守っても、什一献金を捧げても、奉仕に時間を費やしても、神に近づくことはできない。神が求めるのはルールを守ることでも、身を切る奉仕でもない。神は行動でなく心を求めている。その心があってこそ、神に近づき希望を得ることができる。

'もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 ' 詩編 51:18-19
'律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:26-28

教会のルールに罰せられて、教会のリーダーによって赦されるという制度は、祭司が生贄を捧げていたのと変わらない。人に頼る罪の赦しには限度があり、毎日「いけにえ」を捧げても神の規準は満たせない。私たちに必要なのは「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」であるイエス。イエスは罪がないゆえに自分のために生贄を捧げる必要はなく、民のために生贄を捧げ続ける必要もない。一度だけ十字架にかかったことによって私たちの罪の生贄になってくださった。イエスの生贄によって、私たちは罪赦される。

'それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。 ' ヘブライ人への手紙 7:25

イエスは完全に私たちを救うことができる。人の赦しではなくイエスの赦しを求め、ルールにすがるのではなくイエスの教えにすがることが、キリストの弟子として生きることの目的である。