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Hebrews Special Topics

救いをもたらす悔い改めが不可能になるのはいつか?

Source: When Is Saving Repentance Impossible? John Piper
Permission granted by Desiring God on June 23, 2023.

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

へブル6:4-6

真剣でありながら、悲しくないこと

深刻になることと、悲しくなることには大きな違いがあります。悲しいの反対は幸せです。しかし、真剣の反対は口先だけの(あるいは冗談の)ことです。だから、真剣であることと、幸せであることは同時にできるのです。実際、C.S.ルイスは、「真剣になるような幸せと不思議がある」と言っています。コメディアンが感じさせてくれるものと、自分のために命を捨ててくれる友が感じさせてくれるものとの違いは、誰もが知っていることです。ディズニーワールドでの1日とグランドキャニオンでの1日の深い違いも、ほとんどの人が知っています。

ヘブル書は、私たちを真剣にさせる特別な方法を持っているように思います。とても身の引き締まる思いがする書です。悲しい書ではありません。しかし、真剣な書なのです。この書に書かれていることを聞けば、人生に対する口先だけの、陳腐な、つまらない態度は吹き飛んでしまいます。それは、私たちを悲しませるためではなく、神のもとで揺るぎなく幸せにするためです (ヘブル10:34、12:2、13:17参照)。

私たちを殺す幸福の種類

ヘブル書が私たちを心から幸せにする方法の一つは、偽りの安心に対する警告です。ある種の幸福は、私たちを殺すものです。ヘブル書は、この危険な幸福を暴き、その欺瞞から逃れ、決して失望させない確かな幸福を追い求めるようにと、執拗なまでの愛情をもって警告しています。つまり、ヘブル書は、神への保証の喜びを深め、強めるために書かれたものであり、その戦略のひとつは、偽りの保証やはかない喜びを暴くことにあります。

それが、ヘブル6:4~8に書かれていることです。この箇所では、悔い改めや救いを不可能にする霊的な状態があると言っています。そして、この状態は、いろいろな意味で救いのように見えるかもしれませんが、そうではない、と書かれています。そして、それは破滅へと導くのです。ですから、この箇所は、私たちの人生に宗教的な体験があっても、実が育たないのに、私たちが安全だと思い込まないようにという警告なのです。そして、この深刻な状況を示した理由は、私たちがそこから逃れ、確かな場所に文と炉まり、永続的な喜びに移行するためです。

思考の流れを見てみましょう。ヘブル6:1には、「成熟を目指して進もう」とあります。そして3節には、「神が許されるなら、先に進みましょう」とあります。つまり、私たちが生まれつきのプライドや反抗心、不信仰を克服する恵みを得られるかどうかは、最終的には神にかかっているのです。

さて、4節から8節は、悔い改めや成熟への押し進めが不可能な状況があることを示すことで、この神への全くの依存を説明しています。そして、不可能である以上、私たちはこのような状況に置かれることに戦慄し、3節の主権者である神に全く依存していることを確認する必要があります。

悔い改めが不可能なとき

悔い改めが不可能な状況とは、どのようなものなのでしょうか。それはこのように表現されています。

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

へブル6:4-6

その状況とは、こうです: まず、ある人が大きな祝福を受け、高い宗教的体験をします (4-5節)。そして、第2に、その人が堕落し、そうすることによって、神の子を再び十字架につけ、公然の恥にさらすのです。そして、第3に、その人を悔い改めさせることは不可能なのです。

この3つの部分の状況を見てみましょう。

1. 大きな祝福と高い宗教体験がある (4~5節)

4つ挙げています。第1に、「光に照らされ」(4節) ています。第2に、天の賜物を味わい、聖霊にあずかるようになりました (4節)。天の賜物とは、おそらく聖霊のことでしょう。3つ目は、神の良い言葉を味わっています (5節)。そして、第4に、来るべき時代の力を味わっています (5節、ヘブル2:4参照)。

2. このような祝福と経験にもかかわらず、この人はその後、堕落してしまう (6節)

つまり、キリストと御霊とみことばと来るべき時代の力から遠ざかってしまうのです。彼は、これらの偉大な現実の価値に背を向け、心で他のものを追い求めるのです。この変化の影響は、キリストを再び十字架につけ、公然の恥にさらすことです (6節)。なぜそれがもう一度十字架にかけることなのでしょうか?このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることである理由は、少なくとも2つあります。

一つは、キリストが最初に十字架にかけられたのは、民を清く聖なるものにするためだったということです。そのために血を流されたのです。ヘブル13:12には、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」とあります。私たちを聖別するために死なれたのです。私たちを聖くして、ご自分のものとするために死なれたのです (ヘブル9:14、テトス2:14参照)。ですから、十字架がもたらす純粋さと聖さと献身に背を向けるとき、私たちは、最初に彼を十字架に釘付けにした不純さと世俗と不信仰を肯定しているのです。つまり、私たちは再び彼を十字架につけることになるのです。

このような背信がキリストをもう一度十字架にかけることになる理由はもう一つあります。キリストに背く道を選び、この世の道や自分の意志の主権やこの世のはかない快楽に立ち返るとき、その人は事実上、これらはキリストの価値よりも価値があると言うのです。それらは、キリストの愛、キリストの知恵、キリストの力、そして神がキリストにおいて私たちのために約束してくださるすべてのものよりも価値があると言っているのです。そしてそれは、「私はイエスを十字架につけた人たちに同意する」と言っているのと同じことなのです。なぜなら、キリストの善意と知恵と力を味わい、それでも「いや、もっと良いもの、もっと望まれるものがある」と言うことは、それほどまでにキリストを辱める行為だからです。それはキリストを公衆の面前で辱めることにもなります。

信仰がない人がキリストに抵抗するのは、ある意味当たり前です。しかし、教会で啓発され、天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、神の良い言葉と来るべき時代の力を味わった人が、それらの祝福と経験の後に、「キリストよりも世の中のものの方が良いと思います」と言うのは、別のことです。それはイエスをもう一度十字架にかけることであり、真理を味わったことのない部外者ができる以上に、イエスを公の恥にさらすことなのです。

3. その結果、「(そのような人を)再び悔い改めさせることは不可能である」(6節) という結論に至った

先週、ヘブル12:16〜17にかけて、このことを説明しました。そこでは、ここと同じような警告が語られています。

また、誰も、一杯の食物と引き換えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

ヘブル12:16〜17

本物の悔い改めは神に拒絶されるのでしょうか?エサウが純粋に悔い改めたのに、神に拒絶されたと勘違いしないでください。神は純粋な悔い改めを拒否されることはありません。本文には、「悔い改めの機会が残っていませんでした」とはっきり書かれています。言い換えれば、彼は悔い改めることができなかったのです。ヘブル3:8、15;4:7参照)彼は、自分の人生をより良くするために叫びましたが、内心は神様の条件に従おうとはしませんでした。彼は16節にあるように、「淫らで俗悪な者」だったのです。

エサウは、ヘブル6:6で筆者がこの人を再び悔い改めに立ち返らせることは不可能だと言っていることの例証です。ここに、本書のすべての警告の背後にある恐ろしい見通しがあるのです。だから、漂流するのではなく、耳を傾けてイエスを考え、毎日励まし合い、不信仰と油断を恐れるようにと言っています。なぜでしょうか?本当に何か危ういのでしょうか?自分が選ばれ、召され、義とされていると信じているあなたや私が、無関心と頑なになる緩やかなプロセスに滑り込み、やがて堕落してキリストを拒絶し、公然と辱めるかもしれないという見通しがあるのです。私たちは、神から完全に見捨てられたのだから、もう戻れないというところまで来てしまうかもしれない。それが6節の「不可能」という言葉の意味です。今朝は、憐れみの追求を急がなければなりませんね!

「キリストにあずかる者」でありながら、義とされないことがあるのか?

さて、ここで皆が疑問に思うのは、堕落した人が本当に「救われた」、「義とされた」、「召された」、「新しく生まれた」かどうかということです。聖霊と神の言葉と来るべき時代の力を味わい、それにあずかる者でありながら、義とされないことがあるのでしょうか。つまり、この節は、本当に救われた人としての立場を失う可能性があると教えているのでしょうか。それとも、4節と5節にあるような体験をしても、救われたとは言えないと教えているのでしょうか。どちらの教えも衝撃的で、心が痛むものです。どちらが正しいのでしょうか?

この聖句の深刻さと警告を弱めることなく、私は、これらの祝福と経験をすべて持っていても、義とされず、新しく生まれず、救われないことは可能であると主張したいのです。その理由は5つだけ挙げますが、すべてヘブル人への手紙から取ったものです。また、ヘブル人への手紙以外にもたくさんあります (ローマ8:29-39、ユダ24-25、エペソ1:3-14、1ヨハネ2:19、1ペテロ1:5、フィリピ1:6、2:13、1コリント1:8-9、1テサロニケ5:23-24、エゼキエル11:19、36:27、申命記30:6、エレミア24:7、32:40)。

1. 7-8節を考えてみましょう

ここでは、離反する者たちの状況が絵に描いたように語られています。6節で背信者には悔い改めが不可能であることを述べた後、7-8節にはこう書かれています。

たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。

ここは、生命と植物があったのに、それを失った畑を描いているのではないのです。一つは実り豊かで祝福された畑、もう一つは不毛で呪われた畑なのです。つまり、光と御霊とみことばと神の働きが私たちにやってきて、私たちを祝福し、ある程度形にしてくれているのに、それに背を向けて教会に座っていたら、私たちは植物のない畑と同じで、裁きを受けることになるのです。私たちが飲んだ雨(光、御霊、みことば、力)は、畑に何の生命も生まなかったのです。

2. 9節を考えてみましょう

教会の中に背信を犯す者がいる可能性を現実のものとした上で、こう書かれています。

だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。

キーワードは 「救いにつながること」です。パウロが確信している「もっと良いこと」とは、常に救いとともにあるもの (文字通り、救いが持っているもの) です。救いに属するものなのです。つまり、彼が言っているのは、彼らが本当に「救われている」と信じているからこそ、背信を犯したり、不毛な畑になったりしない、ということなのです。彼らは実を結びます。堕落することはありません。「救いにつながること」という表現は、筆者が本当に彼らに救いがあると信じていて、それゆえに救いに必ずつながること、つまり忍耐強い信仰と実を結ぶことを信じていることを示しています。彼は、実を結ばないことや背信が救いに伴うとは考えていなません。もっと良いものがあるのです。

3. ヘブル3:14(と3:6)を考えてみましょう

私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。

ここで重要なのは、「私たちはキリストにあずかる者となっている」という動詞の時制です。私たちが 「これからキリストにあずかるものとなる」のではなく、「キリストにあずかる者となった」のでもなく、「キリストにあずかるものとなっているー確信をを持ち続けるなら」です。つまり、信仰の忍耐は、私たちがキリストにあずかる者となったことを証明するものです。つまり、もし私たちが信仰に耐えられないなら、それは私たちがキリストにあずかる者から脱落したことを示すのではなく、私たちがキリストにあずかる者になることはなかったことを示すのです。もし私たちが確証を堅持するならば、私たちはキリストにあずかる者となります。もし堅持せずに背信をするならば (ヘブル6:6が述べているように)、私たちはキリストにあずかる者とならなかったのです (ヘブル3:6の動詞の時制についても同じことが言えます)。 したがって、この著者は、私たちがキリストの中にいて、再び出て行くことができるとは考えていないことは明らかです。

4. ヘブル10:14を考えてみましょう

なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

もしヘブル6:6が、キリストの血によって義とされたのに、神とのその立場を失うことがあるという意味なら、この節は意味がありません。この節は、今聖化されている人 (つまり、今聖霊が内に住んでいて、神から生まれ、信仰によって聖さを増している人) にとって、十字架上のキリストの犠牲は、その人を永遠に完全なものとしたと言っています。永遠にです!言い換えれば十字架上のキリストの完成された、義認の働きを受け取ることは、神の目には完成された者となる、ということです。この現実は、ヘブル6:6が、キリストをもう一度十字架につける人々が、かつてイエスの血によって本当に義とされ、内なる霊的な意味で本当に聖別されていたことを意味しないことを示唆しています。

5. ヘブル13:20~21を考えてみましょう

永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世よ限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

20節では、イエスの血によって証印された永遠の契約について語られています。それが、本書が8章と9章で大きく取り上げた新しい契約です。新しい契約とは、神が私たちの中に新しい心を入れ、私たちが神の道に歩み、私たちに良いことをすることから目をそらさないようにしてくださるという約束です (エゼキエル11:19、36:27、エレミヤ24:7、32:40)。ですから、21節では、私たちが信仰を持ち続けて実を結ぶかどうかは、最終的には私たち次第ではない、と言っています。それは、最終的に神様に依存しているのです: 神は、ご自分のみこころにかなうことを私たちのうちに働かせてくださるのです。神は、私たちを守るために新しい契約を果たしておられるのです。

このことは、もし新しい契約の元で本当に義と認められた人が、背信を犯して拒絶されることを意味するならば、ヘブル6:6が新しい契約と矛盾することになります。それは、神が「みこころにかなうことを・・・渡したちのうちに行ってくださる」という約束を果たさなかったということになります。神は新しい契約を破ったことになるのです。

以上の5つの理由から、私は、もし人が堕落して神の子を再び十字架につけたなら、その人は元々義とされていなかったと結論付けます。その人の信仰は、救いをもたらすような信仰ではなかったのです。

では、これらの御言葉は私たちにとって何を意味するのでしょうか

鋭い指摘をするために、非常に個人的なことを言います。もし今後数年の間に私が背信を犯し、キリストから離れたとしても、それは私が神の言葉や神の霊や神の奇跡を味わったことがないからではありません。私は神の言葉を飲みました。御霊は私に触れました。私は神の奇跡を見てきたし、私は神の道具となってきました。

しかし、もし今後10年、20年の間に、ジョン・パイパーが霊的に冷め始め、霊的なことに興味を失い、金儲けとキリストのいない本を書くことに夢中になってしまったらー新しい妻は爽快で、子供たちは自立でき、キリストの教会は足手まといで、受肉は神話だと信じ、人生は一つだから食べて飲んで陽気になろうという嘘を買ってしまったらーそうなったら真実はこうだということを知っておいてください: ジョン・パイパーは、人生の最初の50年間、大いに欺かれていたのです。

彼の信仰は、父親の喜びの名残であり、異質なものだった。妻への貞節は一時的な情熱であり、社会的な圧力に従ったものでった。彼の父性は自然な本能のなせる業であった。彼の説教は、言葉と会衆への愛に駆られていた。彼の執筆は、名声への愛に満ちていた。そして、彼の祈りは、最も深い妄想であり、自分の虚栄心を神に供給してもらおうとする試みであった。

この可能性が、永遠の喜びを追い求める私を真剣に、そして警戒させないのであれば、何がそうさせるでしょうか?

この素晴らしい真理の実践的な結論は、来週の聖句で示されます。それまで、キリストがあなたの最高の喜びであるかどうか、口先だけでなく、真剣に考えることができるように祈ります。もし、あなたが本当にキリストに、キリスト内に希望を託すなら、キリストはあなたを手放さないでしょう。

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指導者に倣う

神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

へブル13:7~8

私たちはどのような指導者を敬い、従うべきなのだろうか?指導者が人間である限り、必ず何かしらの問題はある。しかし、聖書はそんな欠けのある指導者を「覚える」、もしくは「服従する」ように教えている。私たちはどのように指導者に従うべきだろうか?

神のことばをあなたがたに話した

まず7節でみられるのは、「神のことばをあなたがたに話した」とある。指導者は神のことばを語っているのだろうか?その言葉は実際に神のことばなのか、もしくは人間や組織が作り出したルールなのだろうか?「収入の10%を十一献金として捧げる」、「教会の音楽は聖歌のみ」、「公開説教でないと聖書を語っていない」などは、本当に神が教えていることなのだろうか?

答えは様々だが、それをしっかり吟味し、良いものを保つようにと聖書は教えている (1テサロニケ5:21)。私たちは指導者のことばをうのみにするのではなく、彼らの教えをしっかりと吟味し、どれが神のことばか、どれが人の教えなのかを見分けなければならない。

彼らの生き方から生まれたものをよく見て

次に、指導者の生き方から生まれたものを見ることだ。彼らの生き方は何を生み出しているだろうか?家庭はどのような状況だろうか?子供が、親が牧会している教会にとどまりたいと思っているだろうか?家庭環境が荒れていたり、子供が親の教会に行きたがらない状態があるなら、その指導者の教えや指示に注意を払う必要がある。

教会の実態も指導者の良し悪しを映し出す。教会は礼拝だけに真剣で、学びや宣教をおろそかにしていないだろうか?学びは聖書が中心なのか、教本が中心なのか?年々新しい人が教会に加わっているのか?教会を去った人はどのような理由で去ったのか?ルールやしきたりに執着せず、教会が成熟を目指すように指導しているのか?

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。

へブル6:1~2

その信仰に倣いなさい

もし指導者が神のことばを語り、彼の生き方から生まれたものが良いものであれば、その信仰に倣うことができる。この「倣う」ということばは、「真似する」という意味もある。つまり、その指導者と同じことを信じ(神のことばだから)、同じ生き方をすること(良いものが生まれているから)を進めている。

私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

へブル6:11~12

キリストが与える希望について確信を持ち続けることと、熱心に神を求めることが記されている。これは礼拝を熱心に捧げることはもちろんだが、成長するのには「固い食物」を取り入れることも必要。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

へブル5:13~14

成熟したクリスチャンは、善を悪を見分けることができる。指導者に頼る必要はなく、自分で聖書を読んで何が正しいかを判断することができる。もちろん、自分だけで判断していたら間違った方向に行く可能性もあるので他のクリスチャンとの交わりを通して、経験と訓練を積む必要もある。その交わりは、間違いを指摘しあうことではなく、愛を持って互いを成長に導き、キリストの体と経て上げるためのものである。

こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪だくみや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

エペソ4:14~16

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません

指導者が人である限り必ず欠けはある。しかし、神であるイエス・キリストという指導者には欠けが全くない。地上の指導者が神のことばを語らなければ、イエスのことばを読むことができる。地上の指導者の生き方から生まれたものが良いものでなければ、イエスの生き方を見ることができる。そして、指導者の信仰が足りない場合はイエスの信仰から倣うことができる。

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ヘブル13:9~25

'指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。 ' ヘブライ人への手紙 13:17

教会員の責務として「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従する」こと。しかし、その前提として指導者たちは「あなたがたの魂のために心を配っている。」教会規則を持ち出して違反していることを指摘することが魂の心配をしていることになるのか?礼拝に参加するだけでも辛い人に対して、複数人で一方的な違反宣言や質問攻めをするのは、その人の魂を養う働きなのか?ましてや、「戒規」を言い渡して、信者であるにもかかわらず聖餐を取ることを拒む教えは聖書にあるのだろうか?

John Piperが牧会していたBethlehem Baptist Churchの教会戒規の手順を参考にしてみた。

従順さを追求する代わりに、教会員は罪から逃げようとする努力をせずに、罪を犯す行動や態度に固執しています。これは、契約に違反して生きることを故意に決めたことになります。

この場合、最も親しい友である教会員は、可能であれば、その人が罪に陥った初期の段階でアプローチすべきです。悔い改めがない場合は、マタイ18:15-17のプロセスを継続して行うべきです。どの段階においても、違反者のため、教会の霊的健康のため、キリストの栄光のために、悔い改めと赦しと和解が目標となります。

愛する教会員が個人的に努力しても悔い改めが得られない場合には、教会の監督者を呼び寄せ、忍耐強く問いかけ、懇願するプロセスを踏むべきです。悔い改めが得られない場合は、教会の指導者たちが調査結果を教会全体に発表し、その人が目を覚まして悔い改めを勝ち取ることを期待して、その人を会員から外す措置がとられます(1コリント5:5、2コリント2:6-7、2テサロニケ3:14-15)。

https://www.desiringgod.org/articles/the-meaning-of-membership-and-church-accountability

やはり突然複数人で違反を言い渡すのではなく、「最も親しい友である教会員」がこのメッセージを伝え、説得することが最初のステップにある。マタイの箇所も同じことが書かれている。つまり、その親しい友も、違反があることに理解と納得を示し、その違反から立ち返ってほしいという思いから違反者を説得する必要がある。ほとんど接点のない第三者(指導者)にはこのような愛のある行動はできない。

教会戒規が聖書的に行われていないことを考えると、教会としての健全性が問われる。健全な教会とは何なのか?それを考えたときに次の4つの特徴を発見した。

1. 教会の指導者、長老、牧師は、神の言葉を完全に、そして忠実に宣べます。

2. 聖餐と洗礼を行います。

3. 教会戒規を行使し、福音に反する歩みをしたり、主を非難したりする者を会員から排除します。

4. 互いに愛し合い、地域社会を愛し、救われる人が起こされるように励み、世界の国民に福音を伝える。これは教会の使命です。

この4つの特徴のどれか1つでも欠けていれば、深刻な状態となり、それゆえに人は他の教会を探し始めることになります。

https://www.desiringgod.org/interviews/when-should-i-leave-my-church

どれも当然のように思えるが、教会として常に自分を評価し続けないと少しずつずれていってしまう。「教会の指導者、長老、牧師は、神の言葉を完全に、そして忠実に宣べます。」説教は聖書を忠実に語っているのか?個人的な思いや直面する問題に重きを置きすぎていないか?牧師以外の指導者たちは神の言葉を語れているか?それとも他人(牧師含めて)の言葉や書物に頼りすぎていないか?「教会戒規を行使し、福音に反する歩みをしたり、主を非難したりする者を会員から排除します。」戒規を行使する理由が、福音に反する歩みと神を避難する行為。「教会規則」ではなく、やはり聖書に明確に記されている「福音に反する歩み」や「神の避難」が前提となっている。「教会規則」ではなく、聖書の規準を見直す必要がある。「互いに愛し合い、地域社会を愛し、救われる人が起こされるように励み、世界の国民に福音を伝える」これが教会の使命。礼拝を第一にすることではない。救われる人が起こされるために福音を伝え、イエスが教えた愛を示す。「この4つの特徴のどれか1つでも欠けていれば、深刻な状態となる。」

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ヘブル13:1~8

'兄弟としていつも愛し合いなさい。 ' ヘブライ人への手紙 13:1

聖書に至るところで兄弟を愛することが書かれているが、具体的にどうやって愛すべきなのか?今回の箇所はいくつかヒントがあった。

'旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 ' ヘブライ人への手紙 13:2

これは以前も触れたことがあるが、まずもてなすこと。クリスチャンに対してもてなすことは言うまでもないが、クリスチャンとして新来会者を歓迎することも重要。クリスチャン同士で優しくしあっても、新たに教会を訪れた人を無視するようではただのクラブ活動にすぎない。知らない人をもてなした時にクリスチャンとしての良さを発揮できる。

'自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。 ' ヘブライ人への手紙 13:3

福音のために迫害を受けている人を思いやる。そのためには実態を知るために情報収集し、その情報を共有して共通認識を持ち、詳細に必要なことを祈る。もし可能であれば実際に手助けをする。食べ物や聖書を運ぶとか、直接献金をして支援をする。また政治に働きかけて救済を求めることも考えられる。

また「虐待されている人たち」のことを思いやる。家庭内での虐待も考えられるが、教会に向けて語られている言葉であることから、教会内での「虐待」も考えられる。つまり、弱い立場の人に対してどう思いやるのか。当時はやもめや孤児だったが、今日においては心理的に追い詰められている人かもしれない。そういう人に対して、教会として、特に教会のリーダーは何をすべきか。個人的な関係を持つように努力し、相手を理解することを心がけ、信頼関係ができた時に的確なアドバイスをする。兄弟として愛し合うことは、信頼関係をもつこと。

'結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。 ' ヘブライ人への手紙 13:4

兄弟として愛し合うのは夫婦の間でも同じ。夫婦である前に相手は兄弟姉妹なのだから。キリスト者としてキリストに結ばれ、夫婦として結ばれたカップルであるならば、互いを愛し、支え合う関係であるべき。妻のことを見下して何かをできないと決めつけることも、夫のことを「おじさん」と呼んで他人扱いするのも愛し合う関係とは言えない。心にあることが言葉として出てくるので、まず相手を心からキリストによって愛することに務め、その心をもって語る言葉を訂正していける。

'金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 ' ヘブライ人への手紙 13:5

クリスチャンとして金銭に執着せず、神に頼ることはいつも聞くこと。教会として金銭に執着せず神に頼ることも考えたい。多くの金銭を集めて建物を大きくしたいという考えは必ずしも悪くはないが、本当の教会である「人」が霊的に貧しいのであれば建物があっても宝の持ち腐れ。金銭に執着せず、神が与える恵みに目を向けるような教会(人たち)であるべき。

'あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 ' ヘブライ人への手紙 13:7-8

「神の言葉を語った指導者たち」それは聖書全体を通して、神が語った言葉、イエスが教えたこと、イエスが行動で示したことを語ってきた指導者たち。クリスチャンはみなキリストの弟子。キリストのようになることが目標なので、それを促す指導者のことを思い出すと良い。

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ヘブル 12:14-29

'すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。 ' ヘブライ人への手紙 12:14-15

平和と聖なる生活を追い求める、というのは異なった意見を排除して同じ考えを持った人たちだけで固めることではない。異なった意見がある時に対話し、双方の立場から歩み寄って一番良い道を共に探ること。これには「伝統」や「権限」関係なく、良い考えは誰からも出てくることを前提においている。「伝統」よりも神のみこころを求め (イザヤ55:6)、「権限」よりも全てのクリスチャンが祭司であることを覚える (1ペテロ2:9)。

「苦い根」はどこから来るのか?一つのヒントは子育ての箇所に記されている:子どもを怒らせないこと (エペソ6:4)。これは単に怒るだけでなく、子どもを追い詰めて怒りに導くこと。教会内でもリーダーが話を全く聞かず、わだかまりを解こうと努力しようとしないことが続くと、教会員も追い詰められていく。この苦い関係が広まっていき、リーダーとしては悩みの種となる。

これを取り除くには「戒規」や「除名」で排除することは簡単だが、イエスはどのように教えていたか?まず一対一で会話をして、状況確認と忠告を行う (マタイ18:15)。次に、一対一で話した人と、あと一人か二人(多くても3人)で話し合う (マタイ18:16)。それでも解決しなければ教会のリーダーとの話し合いになる (マタイ18:17)。いきなり「役員会」に呼ばれて「戒規」を言い渡すのではなく、まずは一対一の会話。少しでも会話が成り立つようだったら「兄弟を得た」とし、それ以上の追求はしない。ルールを守る・守らないの問題を突きつけて排除するのではなく、会話を通して「平和」の道を探る。

これが教会の頭であるイエス・キリストが教えたこと。「畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕える」(ヘブル12:28) には神の子であるイエスに聞き従う必要がある (ルカ9:35)。

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ヘブル12:1~13

'こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 ' ヘブライ人への手紙 12:1-3

「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」自分に定めらている競走は何か?神が私に求めているものは何か?それを見出すためになにをする必要があるのか?週に一度の礼拝、週に一度の祈祷会ではこれを見つけるのは無理だろう。日々の祈りと、聖書を読んで思いを巡らすことが必要。神との過ごす時間が長ければ長いほど、神のみこころを知ることができる。そしてそのみこころをが分かり、何がゴールか理解できたらそれに向かってひたすら走るだけ。この世において仕事や、世間体、所属する団体、そして時には教会組織にも、定められたゴールに向かう弊害となることがある。しかし、イエス・キリストが忍耐を持って十字架にかかったことを思い出し、「気力を失い疲れ果ててしまわない」働きを続けていきたい。

'あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 ‘ ヘブライ人への手紙 12:7-11

この箇所では罪との戦いについて「血を流すまで抵抗していない」と指摘していて、神の懲らしめ・鍛錬を軽んじないように指示している。これは、ヘブル人が罪と戦っていなかったことではなく、これまで紹介してきた殉教者(12:35-38) のような迫害はまだ受けていないということ。ローマ教会はネロの迫害を受けていたが、エルサレムにあるヘブル人の教会はまだこの影響を直接うけていなかった。しかしこのような迫害があったとしても、神からの鍛錬として捉えるように指示している。今日において迫害は友達の間や、職場の中で、世間にうわさされることによって、そして教会組織による排除活動によって受けることがある。しかし、これらの鍛錬をも神から来ると考えられたら耐えられるし、自分に対して良い結果がもたらされることが期待できる。

神の鍛錬は非難ではありません。鍛錬は忍耐をもって耐えられ、聖性を大いに促進します。私たちは、人の悪意によってもたらされた苦難を、賢明で恵み深い父が私たちの霊的な利益のために送ってくださった鍛錬と考えることを学びましょう。

https://biblehub.com/commentaries/mhc/hebrews/12.htm
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ヘブル11:32~40

'信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。 ' ヘブライ人への手紙 11:33-35

信仰によってこの世において神の約束を受けた人もいる。危険から守られ、励まされ、強められ、この世で不自由なく暮らした人もいる。神は、与えた物を忠実に管理する人に、さらに多くを与える(ルカ16:10)。愛と信仰を心に保つと、神と人の前で成功を示すことができる (箴言3:3-4)。信仰をもって神に仕え、神に祝福を与えられ、その祝福に感謝してさらに神に頼るようになるサイクルが、この世において神の約束を受けることだと言える。

'他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 ' ヘブライ人への手紙 11:35-38

逆に、信仰によって迫害を受ける人もいる。初代クリスチャンはローマ帝国によって迫害を受けた者もいるが、同じ神を信じているユダヤ人にも迫害を受けた。それは、かつてマルティン・ルターがカトリック教会に対して、民衆に聖書を読むべきだと促し、礼拝参画の行為でなく信仰によって救われることを訴えたことにより、カトリック教会から除名され、命をも狙われたことと重なる。現代でも、教会組織に相対すると叱責され、「戒規」という名の罰を言い渡され、排除される。確かに、キリストのために生きると迫害を受ける (2テモテ3:12)。

'ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。' ヘブライ人への手紙 11:39-40

神は「更にまさったものを計画してくださった」。旧約の人々が体験できなかったキリストとの交わり、聖霊に導かれること、そして完成された聖書が私たちに与えられている。律法(十戒)を読んで守るだけではもったいない。この時代を生きる私たちは神から多くを与えられている。それら全てを取り込み、学び、励まされ、キリストのうちに成長していきたい。そして、キリストと歩む喜びを伝えていきたい。

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ヘブル11:17~31

'信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。 ' ヘブライ人への手紙 11:17-19

アブラハムは神にイサクをいけにえとして捧げるように言われたときに、アブラハムは躊躇なく実行に踏み切ったように見える (創世記22)。それほどアブラハムは神の約束を信頼していた。神はアブラハムに、星の数ほどの子孫を与えると約束していて、イサクがその子孫だと伝えていた。その約束を信じ、アブラハムは迷わず神の指示に従おうとした。さらに、アブラハムは神の偉大な可能性も理解し信頼していた。イサクをいけにえとして捧げたとしても、イサクを死から生き返らせることもできると信じていた。それほどまで神の偉大さを理解し、神に100%の信頼をおいていた。

私たちはどうだろうか?これほどまでに神を理解し、神を信頼しているだろうか?

私たちは、聖書全体を通して神の約束を読むことができるし、先人たちの例を見て約束が必ず果たされることも知ることができる。イスラエルは約束の地にたどり着き、王国を築くことができた。アブラハムに約束したとおりに、彼の子孫(イエス・キリスト)によって全人類が祝福された。神は偉大な方で、神によれば不可能がないことも聖書を通して知ることができる。神の子が赤子として生まれるようにして下さった。多くの人を肉体的に癒やし、一度に数千人の人にパンと魚を分け与えた。ラザロのように死者をも生き返らせた。神に難しいことはない (エレミヤ32:17)。

約束は多くあるが、今心に置かれている約束はイザヤ55:11。

「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」 イザヤ55:11

宣教においてどのような形であれ、神のみことばが語られるのなら、それはむなしく帰ってこない。かならず神の「喜ぶところのことをなし、(神が)命じ送った事を果たす。」イベントに参加した人の心にみことばが残り、聖霊がそれを養って成長させ、やがて救いをもたらす。次の日曜日に礼拝に参加しなかったから「失敗」ではない。みことばは確実に伝えられたのだから、聖霊は働いてくださる。聖霊の働きを信じず、これまでやってきた「礼拝をする」「トラクトを配る」という伝統に逃げたくはない。神を信じて新たな宣教方法にチャレンジし、神が約束する結果をもたらしてくださることを信じていきたい。イエスが私たちに命じた大宣教命令を実行していきたい。

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ヘブル11:1~16

'信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 ' ヘブライ人への手紙 11:1

「信仰」が定義されている。私たちが何を望んでいるのか、何に向かっているのかを定義する。私たちの生きる意味や目的や進むべき道を、信仰によって確信する。そして、今は見えていないが確実に起きることを確認する。到達していない場所を示し、受けられる恵みを確認する。現時点では想像もできない素晴らしい体験が待っている。このような信仰があれば常に前に進もうとするだろう。立ち止まって過去からの伝統を守り通すのではなく、信仰の目標に向かってひたすら走るだろう。

  • 世界は目で見えない神の言葉によって創造された
  • アベルは死んだ者だが、信仰をもった行動(神への捧げもの)は今でも語られている
  • エノクは神が喜ぶほどの信仰があったので、死を体験せずに天に移された
  • ノアはその地域で見たこともない洪水を神に知らされ、信仰をもって方舟を作った
  • アブラハムはどこへ行けば良いかもわからずに、信仰によって旅立った
  • アブラハムは信仰によって神が築く王国を期待していた
  • サラは子どもを生める年齢ではなかったが、信仰によってイサクが与えられた
'この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 ' ヘブライ人への手紙 11:13

アベル、ノア、アブラハム、サラはみな、神の約束が成就されるのを地上で見る前に死んでいった。それでも、神を信頼して、逆境もありながら正しい方向に進んでいった。アベルは兄弟に殺されるほどに、ノアはおそらく地域に住む人達に嘲られ、アブラハムは自分の妻に笑われ、移動した先々の王たちから支援を得られなかった。私たちも身内から、教会組織から、地域から反対され、支援を得られないかもしれない。しかし、信仰をもって神の約束に向かって邁進していきたい。

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ヘブル10

'ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 ' ヘブライ人への手紙 10:8-10

神は律法に従って捧げられるものを望まない。いけにえや捧げものは実態であるイエス・キリストの影にすぎない。イスラエルがいけにえや捧げものをしたのは、イエス・キリストという完全ないけにえを見据えて、罪の赦しを得ていた。しかし、律法に従って献げられたにも関わらず、神はそれを望まず、好まれもしなかった。それは、いけにえや捧げ物にはキリストが欠如していたから罪が取り除かれることはなかった。いけにえや捧げ物によって何度も罪は赦されたが、完全に取り除かれるにはキリストの体が捧げられる必要があった。

'「『それらの日の後、わたしが 彼らと結ぶ契約はこれである』と、 主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いにそれを書きつけよう。 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。' ヘブライ人への手紙 10:16-18

モーセ律法による契約はイスラエルの民に向けられていたが、キリスト者と結ばれた契約は律法を明示的に与え、そのルールを守るような内容の契約ではない。「律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつける」。キリストが罪を取り除いたのだから、律法(=神を求める心)が植え付けられ、その心から神が喜ばれる行動が成される。ルールを守ろうとしているのではなく、神を喜ばせたい心から善い行いをする。

'更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 ' ヘブライ人への手紙 10:21-23

私たちはキリストによって聖なる者とされ、神に近づくことが可能となった。旧約のように神の前に現れると死ぬことを恐れずに、イエスを「信頼しきって真心から」近づくことができる。そしてキリストが約束して下さったことにしがみつき、希望を持ち続けることができる。神との親密な関係を、救われた時から天に召されるまで、地上で何があってもキリストが全てを解決してくださることに希望を持てる。

'互いに愛と善行に励むように心がけ、 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 ' ヘブライ人への手紙 10:24-25

キリスト者は「集会を怠らない」ように指示されている。これは「互いに愛と善行に励む」ように「励まし合う」こと。日曜礼拝でこれができることもあるが、教会以外の場所で集まって食事をしたり、教会学校で聖書の適用について語り合うこともできる。教会によっては小グループで聖書の学び、祈り、分かち合いをすることもある。ここでの焦点は「互いに」であり、「神礼拝」とは別の観点が示されている。