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1 John

1ヨハネ1:5-10

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

「神は光であって、神には少しの暗いところもない。」
神は罪をもって誘惑することはない。「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」(ヤコブ1:13)

「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。」
いくら「礼拝を守っている」と主張しても、聖書を読まず、イエスの教えに従っていないのであれば、その「礼拝」は偽りの行為。闇の中を歩いているのと同じ。真理を理解していると主張しながら「愛」という大前提から離れて「裁き」を主張するのは、闇の中でしか行われない。

「光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち」
もし光の中を歩くのであれば、交わりを持つことができる。この交わりはイエスの十字架によって与えられた。また神との垂直な交わりと同時に、人との横の交わりが与えられた。だからイエスは律法を、神を愛することと、隣人を愛することに要約した。

「光の中を歩くならば・・・御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめ」
光の中を歩くのであれば、罪の赦しがある。どんな罪を犯しても、イエスの血が私たちを清めて下さる。人はみな罪人だから、人の手では罪を裁けない。神の裁きはイエスの十字架で成就されている。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

主張を正当化し、スケープゴートを探して人を悪者に仕立てる。たとえ偽りが混ざっているとしても、悪く見せるためのストーリーを組み立てる。自分は全く悪くない。罪はない。このような考えは「自分を欺くことであって、真理は・・・ない。」むしろ、自分の間違えを認められないのであれば、「神を偽り者とする」行為で、神に対する冒涜。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

闇の中で歩んでいても、神を冒涜したとしても、罪を告白すれば神は罪を赦してくださる。それだけ神の愛は深く、それだけキリストの十字架は効力を発揮する。

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