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2ペテロ2:10-22

10 こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。11 しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。

にせ預言者は「栄光ある者たち」をそしる。「栄光ある者たち」というのは、神とキリストのことを指している。それに比べて御使い=天使たちは、にせ予言者たちをそしらず、裁きを神に委ねている。にせ預言者と天使たちの対応に大きな差が見える。一方は自分たちが正しいと主張し、自分たちの考えをベースに神が愛する人たちを (「戒規」という名のプロセスにを利用して) 裁く。もう一方は裁く権利があったとしても神に裁きを委ねる。

12 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。

また、にせ予言者は動物のように例えられている。自分たちが何を語っているか理解せず、その発する言葉でキリストの栄光をそしっている。この人達は動物のように「必ず滅ぼされてしまう」。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:12)。私たちは自分に満足せず、辿り着いた場所におごらず、絶えず神の恵みに頼ることを覚えるべき。

13 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。14 その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は・欲に慣れ、のろいの子となっている。15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。

まるで教会内で宴会が開かれていて、にせ予言者たちは「しみ」や「きず」でありながら平然と参加している (3:14とは正反対)。その人達は常に淫行の目で教会をを見渡し、弱い立場の人を誘惑し、金銭的な欲に潰れる。それはまるでモアブの王がバラムという予言者にに呪いを語らせるように金銭を支払ったかのうよう (民数記22:7)。にせ予言者は、特別な教えを授ける代わりに金銭を要求していたと思われる。誰だって金を払えば、その対価を真面目に受け取るだろう。教会に投資すれば投資するほど、間違った教えにも耳を貸してしまう。

そして、にせ予言者は14節にあるように「定まらない者を誘惑」する。18節でも同じようなことが書かれている。「迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し」つまり、クリスチャンになったばかりの人や、真理が定まっていない人のことを指している。ここで語られているのはまず、自分自身が聖書をしっかりと理解して真理の土台を築くこと。そして自分の子どもたちや新たなクリスチャンに対しても聖書の真理に立てるように育てることが急務。教会として互いに聖書に根付くように励まし合うことが重要。

17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。

教会内で水のない井戸と、生ける水の区別がつくようになる必要がある。一方は永遠の命が溢れ出る。もう一方は闇に落ちていき、泣き叫びや歯がみがあるところに導いてしまう。見極められる人たちになりたい。

18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

にせ予言者は自由を約束して新たなクリスチャンや定まっていない人たちを誘惑する (19節)。しかし、本当の自由は 1) キリストの十字架によって私たちを罪の力から開放したこと、2) 自分の力で律法を守る必要がなくなったこと、3) 聖霊に新たな心が与えられ、聖なる者になることに喜ぶこと。

あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

ガラテヤ5:13
20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

キリストを知れば知るほど、キリストに従わない罰は重くなる。知らなかった状態の方がむしろ良かったと思えるほどになる。ここでは神が選びだしたクリスチャンは救いを無くすことができるとは教えていない。しかし、教会員の中では、信仰を告白し、教会の行事に参加し、教会のルールを守っていても救われていない人もいる可能性があることを指している。ルールに従ってもキリストに従っていなければクリスチャンではない。世の中の人はルールに縛られる生き方に常に戻りがち。まさに「犬は自分の吐いた物に帰り」、豚はどうきれいにしても豚のままであることが分かる。

19 彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。

1ヨハネ2:19

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

ヘブル3:14

救われた者は最後まで信仰を保つ(=キリストに従う)、と聖書は示している。2ペテロ2章は救いを確認するための箇所でもある。私たちを贖った主を否定しないように警告し(1節)、霊的な高慢と自己満足 (11−13節)、金銭を愛すること (14-16節)、みだらな行い(2, 7, 14, 18節) の誘惑に陥らないよう力づけてくれる。

上記の多くはジョン・パイパーが提供するサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/better-never-to-have-known-the-way

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