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ヘブル4:12~16

'というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 ' ヘブライ人への手紙 4:12-13

ここまで語られて来たイエスの権威と永遠の安息と、「神の言葉」(聖書)はどのような関係があるのだろうか?

一つは、イエスが「ことば」であることが思い浮かぶ (ヨハネ1)。イエスはこの世が始まる前から存在していた神で、この世を「ことば」によって創造した。創造する力をも持つ「ことば」には大きな権威があり、聞き従うことが当然のことである。権威ある、創造の力をもつこの「ことば」は、私たちの外面と内面を刺し通して影響し、私たちを変えていく。

2つ目は、11節に「安息にあずかるように努力」することが促されている。これは日曜日に教会に行くことではなく、神に絶対の信頼を寄せ、神により頼む人生を送ることによって、天地創造の7日目に神が表したあるべき姿の安息を指している。この「安息にあずかる」にはどうすれば良いのか?単に日曜日に説教を聞いて、水曜日に祈祷会に参加するだけではたどり着くことはできない。生きている神の言葉、聖書を読み、思いを巡らすことが必要。そうすることによって「精神と霊、関節と骨髄」という内面と外面の変化を起こし、全体が神により頼むようになっていく。

'この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。' ヘブライ人への手紙 4:15-16

しかし私たちは弱い。罪を犯してしまう。この世に望みをおいてしまう。イエスはこの誘惑を理解している。イエスは憐れみと恵みを授けてくださり、私たちが自信をもって神に近づくことができるようにして下さった。私たちも、特に教会のリーダーは、罪に陥った人に対してキリストに習い、憐れみと恵みを示す必要がある。ルールに照らして罰則を与るのではなく、寄り添って理解を示すことがキリストが行動を持って示したこと。

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ヘブル4:1~11

'もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。 ' ヘブライ人への手紙 4:3-5

4章は3章から続いて、天の御国がクリスチャンにとって永遠の「安息」であることを語っている。信仰をもった人たちのみが「安息」を得ることができ、そうでない人は「安息」を得ることができないと神は宣言している (3節)。この背景の中で、何故「天地創造」の話をしているのか?神が6日働いた後7日目に休まれたことと、永遠の安息とどのような関係があるのか?

ヘブルで語られている事実を整理すると分かりやすくなる。

1. 神の民であるイスラエルは、カナンの地で安息が約束されていました。しかし、彼らは不信仰のためにそれを果たせませんでした。

2. 筆者の目的は、それよりずっと後に神の民になされた同様の約束があり、その約束には「全て」の神の民が招かれていたことを証明することでした。

3. その安息とは、約束の地のものではなく、創造の仕事を終えたときに「神がご自身で持たれた」ものでした。それは特に「神の安息」であり、労苦や倦怠のない、神のすべての「仕事」が終わった後の休息であった。

4. 神の民は、同じ「安息」、すなわち神の休息に招かれ、神の幸福にあずかり、創造の仕事を終えたときに「神」が楽しんだその至福に入るのです。聖徒の幸福はそうあるように意図されていたのです。労苦からの休息であり、彼らがしなければならないすべてのことが終わったときに享受されるものでした。

https://biblehub.com/commentaries/barnes/hebrews/4.htm
'そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 心をかたくなにしてはならない」 とダビデを通して語られたのです。 ' ヘブライ人への手紙 4:6-7

イスラエルが安息の地に入れなかったのは神の声を聞かなかったから。クリスチャンであれば神の声に聞き従い、神の安息に入ることを求めるべき。その安息は単に「仕事から休む」とか「日曜日に教会に行く」ではない。神が天地創造を終えた時に完成された被造物を見て楽しんだように、神が私たちの生活の中で成して下さることを振り返り感謝し、神ご自身の臨在を楽しむことが本当の「安息」。それを永遠に経験できるのが天の御国で、心を神に明け渡して信仰によって聞き従う者が得られる喜びである。

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ヘブル3

'どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。 ' ヘブライ人への手紙 3:4-6

イエスはモーセより栄光を受けるにふさわしい。イエスは神の子なので、普通に考えたら当たり前だが、これは大きな意味がある。モーセは神の律法を守り、神の民を約束の地に導く使命が与えられていた。モーセは「仕える者として神の家全体の中で忠実でした」。一人の人間として忠実だったのは評価されているが、それだけにとどまる。モーセの言動や行いは結局人のすることで、それに従うとなると問題がないか吟味してから従わなければならない。しかし、イエスは「御子として神の家を忠実の治める」方。神に忠実に仕える人ではなく、イエスご自身が神であることを示している。神であるイエスが教えたことは直接受け入れられるし、安心して従うことができる。人の教えに頼らず、神であるイエスの教えに頼りたい。

' 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 神に反抗したときのように、 心をかたくなにしてはならない。」 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。' ヘブライ人への手紙 3:15,18-19

ここの「安息にあずかる」というのはイスラエルが約束の地にたどり着くことを指しているが、新約においては「永遠の安息」である天の御国を指している。つまり、イエスの教えに従わない者、または従い続けない者はクリスチャン(=キリストに従う者)とは言えず、約束の地にたどり着くことはできない。人が作ったルールや教えに惑わされず、伝統にしがみついて心をかたくなにせず、イエスの声に耳と心を傾けて、従うことを心がけたい。そして、「罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合う」(3:13) ことを続けていきたい。

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ヘブル2:10~18

事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 「わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、 集会の中であなたを賛美します」 と言い、 また、 「わたしは神に信頼します」 と言い、更にまた、 「ここに、わたしと、 神がわたしに与えてくださった子らがいます」 と言われます。 ヘブライ人への手紙 2:11‭-‬13 新共同訳

イエスが十字架にかかって罪の代価を支払ったことによって、私達の罪は赦された。罪が赦されたということは、私達は聖なる者とされ、神にとって特別な存在として取り分けられた。いわば「神の民」とされたのだが、それ以上にイエスに「兄弟」と呼ばれるようになった。ただ神の律法・ルールを守るだけの「神の民」ではなく、イエスと共に「兄弟」として歩む者とされた。かつてアダムとエバが神と自由に会話したように、私達も胸を張って神に近づくことができ (ヘブル4:16)、「アバ(パパ)、父」と呼ぶことができる (ガラテヤ4:6)。

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。 ヘブライ人への手紙 2:14‭-‬15 新共同訳

「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった」死を恐れると他のことも恐れるようになる。迫害を受けること。組織に罰せられること。仲間はずれにされること。人にどう思われるか気にしてしまう。しかし、イエスは死を滅ぼした。私達は死を恐れる必要はない。「組織」や「仲間」はルールを重んじて人を罰する傾向にあるが、そのルールが神の意思に背いているなら神に従うしかない。それで迫害を受けたとしても、私達は神に従っていることを誇ることができる (2テモテ3:12)。迫害は受けるかもしれないが、この世の迫害よりもいずれ受ける栄光は比べ物にならない (2コリント4:17)。仲間はずれにされるかもしれないが、兄弟よりも私達と親密な関係を保ってくださるのがイエスだ (箴言18:24)。

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 ヘブライ人への手紙 2:17‭-‬18 新共同訳

イエスは地上で生活することによって、私達がいかに罪の影響下で苦しんでいるかを体験してくださった。だからこそ、私達のことを深く理解し、どのように助けるべきかを理解してくださっている。私達は、周りにいる弱者を理解しようとしているだろうか?彼らのいる場所に出向いて、彼らの体験していることを体験しようとしているだろうか?同じ立場に立った時に初めて、その人にとって何が本当の助けであるかを理解できる。イエスは私達に行動を通してこれを教えてくださった。

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ヘブル1:10~14

'ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。 ' ヘブライ人への手紙 2:9

イエスは神の子でありながら、人間としてこの世に来られた。人として私たちと生活を共にし、罪の影響下における体験をされた。私たちと同じように罪の誘惑にさらされながら、私たちに律法の大事な部分(神を愛する、隣人を愛する)ことと、そうでない部分(心を伴わない行動)を教えて下さった。十字架にかかることによって全人類の罪の罰 (ローマ6:23) を負って下さった。死から蘇ることによって、ご自身の栄光を表し、私たちに永遠の命を約束すると同時に死の恐怖を取り除いた。

イエスから教わることは多くあるが、神に従うことの大切さが最も重要に感じる。政治、仕事、宗教組織において人が権力によって、ルールを使って他人を縛り付けようとする時、私たちはイエスのように神の前にへりくだり、神に従うことを覚えたい。そしてイエスの教えに従って聖書の真理を追求し、隣人を罰せず愛し助け、大宣教命令に従って福音を伝えていきたい。「栄光と栄誉の冠を授かった」イエス・キリストの弟子として生きることが「クリスチャン」の求めることだ。

'キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 ' フィリピの信徒への手紙 2:6-11
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Hebrews Special Topics

ヘブル1:10~14

13神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。 14天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。へブル1:10~14

聖書には天使の話がいくつかあるが、天使の存在はどのように体感できるのだろうか?天使は私たちの為に何をしてくれるのだろう?天使の行動から私たちは何を学べるだろう?こんなことを考えてみた。

天使の存在を体感

天使が存在することは聖書を読めば明らか。しかし、普段私たちは「天使」という存在を意識していない。どのように天使の存在を体感できるだろうか?一つは、他人をもてなすこと。ヘブル13:2には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」とある。天使は神の使いとして、かつてアブラハムがそうしたように、もてなすに相応しい存在である。同じように、私たちは他人をもてなすことによって、天使をもてなす体感をすることができる。もう一つは、エペソ6:12の言葉を忘れないこと。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」物質世界の戦いだけに注力せず、霊的世界の戦いに注目し、悪魔や罪と戦って行くことも、天使を体感する方法。

天使がしてくれること

天使は罪がない存在なため、「救い」という概念を理解していない (1ペテロ1:12)。しかし、一人の人が救われ、神の家族に加えられた時、天使たち全員が祝う (ルカ15:7)。私たちは、救われた人、その事実を象徴する洗礼を受ける人を見た時、どのように反応するだろうか?礼拝の「秩序」を気にして、静かに見守るだけだろうか?それとも、立ち上がって拍手し、大声で神を賛美するだろうか?天使たちは後者の方で、喜びをあらわにし、救われた人の価値を示してくれている。また、天使たちはパウロにしたように励ましの言葉を与える (使途27:23-24)。実際の必要(食料など)を与えることもあるし (1列王記9:3-8)、危機から救ってくれることもある (使途12:6-10)。そして、人が生涯を終える時、天使たちがその人を神の元に連れて行ってくれる (ルカ16:22)。

天使から学べる事

天使たちは神を賛美するために創られた (詩編148)。神に仕えるために創られた。私たちは日々の生活で神を賛美し、喜んで仕えているか?これは日曜礼拝の場だけの出来事ではない。会社で、学校で、家庭の中で、私たちは神を賛美し、神に仕えるようにしなければならない。また、天使は神のみことばを伝達する役割を担っている (ヘブル2:2)。私たちは聖書を読んで理解し、自分のものとした後、他人に伝えているか?天使たちほど神の言葉を忠実に伝る人間はいないだろう。人として天使たちを見習いたい。

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ヘブル1:1~9

'神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。 ' ヘブライ人への手紙 1:1-2

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」

旧約の時代では、神は人に直接、声が聞こえる形で (創世記2-3)、燃える木の中から (出エジプト3)、嵐のあとの小さな声で (1列王記19)、御使い(天使)を通して (ヨシュア5)、預言者を通して、レビ人(祭司たち)を通して、人に語りかけた。様々な方法で神が主導して人に語りかけ、人がその声に従った時に祝福が与えられた。また、神に背く方向に陥ってしまったときに、人に対して「悔い改め」と、神に立ち返るよう促した。旧約聖書と考えると厳格で畏れるべき神のイメージが強いが、神は常に人に関心を持ち、人を祝福の道に導いていることを考えると、それほどまで神は人を愛していることが分かる。

「 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」

神であるイエスが地上に来たことによって、神本人が人に語りかけて下さった。祈ることを教えてくださり (マタイ6)、律法を神を愛することと隣人を愛することに要約してくださり (マタイ22)、大宣教命令を与えて下さった (マタイ28)。直接語る以外にも、行動を通して罪を赦すこと (ヨハネ8)、人々の肉体的必要を満たすこと (マタイ14)、父なる神と静かな時間をもつこと (ルカ5, マタイ26) の重要性を教えて下さった。そして今も私たちに聖霊を通して語りかけてくださる (ヨハネ14)。聖霊はイエスが教えたことを私たちに思い起こさせてくださり、聖書を理解するよう助けてくださる。

今日においては、私たちは完成された聖書が与えられており、聖書によって私たちは神のことを知ることができ、私たちが過ちを理解することができ、神に立ち返ることができ、神に仕えることができるように備える。イエスの教えを思い起こさせる聖霊と真理を得られる聖書があるので、私たちは地上の他の人や書物に頼る必要はない。十分に神を知る手はずが整えられている。

'聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。' テモテへの手紙二 3:16-17
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Esther

エステル

'急使はこの勅書を全国に送り届け、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、しかもその日のうちに、ユダヤ人は老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、その持ち物は没収されることとなった。 ' エステル記 3:13

ハマンはペルシア帝国の高い地位についたが、モルデカイはハマンに対して「ひざまずかず、敬礼しなかった」。ハマンはモルデカイに対して権威者だったが何故敬意を示さなかったか?二つ理由が考えられる。一つは、ハマンはアガグ人(またの名はアマレク人)であり、アマレク人はかつて神がイスラエルに根絶やしに(忘れられたように)するように命じた人々 (申命記25:17-19, 出エジプト17:8-16)。アマレク人であるハマンは「忘れるべき」存在なので、敬意を示すことはできなかった。二つ目に、当時権威者として置かれた人は神格化されていて、その人に敬意を示すということは、その「神」を崇拝する行為になってしまう。この二つの理由から、モルデカイはハマンに敬意を示さなかった。結果として、ハマンはモルデカイのみならず、モルデカイの民であるユダヤ人全員を根絶やしにするよう、王に働きかけた。

人は高い地位に置かれると高慢になりがち。それは政治のみならず、「先生」と呼ばれる立場、リーダーや管理者と言う立場などでもなりうる。自分の振舞いに関係なく、周りから敬意をもとめ、自分が特別な存在だと勘違いする。しかし、敬意を得るためにはまず自分がリーダーとしての素質を現わさなければならない。その中心的な素質はイエスがみせたサーバント・リーダーシップ(ピリピ2) と創世記1:28に書かれているkabashを実行すること。kabashというのは「支配し、耕し、組織化」することもあるが、対象者が「繁栄し、成長し、栄えるようにする」責任がある。敬意を求めるのではなく、相手の得を高めることがリーダーとしての役目。

'こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。 ' エステル記 8:11

ペルシアのルールとして王の指輪で印を押された文章は取り消すことができない。ユダヤ人を根絶やしにする文章はまだ有効であったが、エステルの働きにより、王はユダヤ人に自分たちを守る権利を与えた。ユダヤ人は自分たちから攻撃することができなかったが、攻撃されたときに身を守ることができた。また、攻撃する側に与えられた権利と同じ権利がユダヤ人に与えられた:「女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取る」。

ここから得られることとしては

  • 神を敬う人は権威も敬う (ローマ13:1)。ユダヤ人は王の命令が無ければ命を守るための集合はしなかった。命令があって初めて身を守るよう集合した。キリスト者は神が与えた権威に従うことによって、神に従っていることを自覚する。
  • 可能な限り周りの人との平和と保つ (ローマ12:18)。エステル書を見る限り、ユダヤ人はペルシア帝国にいる人たちと平和に暮らしていて、モリデカイのように王に仕えている人もいた。キリスト者はこの世と敵対するのではなく、世の中で起きていることを理解し、世の光としてキリストのために影響し、地の塩として神の創造を守る役割を担う。
  • 命の守る (ヤコブ1:27)。ユダヤ人が王の命令を受けて自分たちの命を守ったように、キリスト者も自分たちの命はもちろん、周りの人たちの命をも守る義務がある。特に立場の弱い人たちに手を差し伸べて、形のある支援を提供する必要がある。
  • いのちを守る (1ペテロ3:15, 2テモテ2:24-25)。ユダヤ人はペルシア帝国の支配下であっても、神の律法を守り続けた (エステル3:8)。キリスト者も、信じていることを聖書を通して説明できるように準備し、聖書の教えや福音を伝える行動に出なければならない。
'こうして王の命令によって、どの町のユダヤ人にも自分たちの命を守るために集合し、自分たちを迫害する民族や州の軍隊を女や子供に至るまで一人残らず滅ぼし、殺し、絶滅させ、その持ち物を奪い取ることが許された。 モルデカイが紫と白の王服に、大きな黄金の冠と白と赤の上着を着け、王の前から退出してくると、スサの都は歓声に包まれた。 それはユダヤ人にとって輝かしく、祝うべきこと、喜ばしく、誉れあることであった。 王の命令とその定めが届くと、州という州、町という町で、ユダヤ人は喜び祝い、宴会を開いて楽しくその日を過ごした。その地の民族にもユダヤ人になろうとする者が多く出た。ユダヤ人に対する恐れに襲われたからである。' エステル記 8:11,15-17

ユダヤ人を根絶やしにする命令が、ユダヤ人に命を守る命令で帳消しにされ、さらにモルデカイやエステルの政治的影響力を恐れ、ユダヤ人となった人が大勢いた。それぞれの動機は違うし、安心のためにユダヤ人となった人もいたかもしれない。しかし、「神の民」と呼ばれる人が増えたことを喜び、神の権威がペルシア帝国をも動かした偉大さを称えるきっかけとなる。

ペルシャ人の多くはユダヤ教に帰依したが、彼らが割礼を受けたかどうかは定かではない。しかし、彼らが偶像崇拝を放棄し、真の神を崇拝するようになったことは確かです。このような改宗者はいつの時代にもいましたが、特にユダヤ人の生活が非常に豊かだったダビデやソロモンの時代にはいました。ハマンはユダヤ人を絶滅させようと考えましたが、問題の中で、彼らの数が非常に増え、多くの人が彼らに加わったことが証明されています。ユダヤ人が喜びと楽しみを持っていたとき、人々の多くがユダヤ人になったことを覚えておいてください。宗教を公言している人々の聖なる陽気さは、彼らの信仰にとって大きな装飾であり、他の人々に宗教心を持つように誘い、励ますものです。しかし、この時期に多くの人々がユダヤ人になった理由として、別の理由も挙げられています。それは、ユダヤ人の恐れが彼らに及んだということです。彼らは、この重大な局面において、神の摂理がいかに素晴らしく彼らを所有し、彼らのために働いたかを見て、彼らは偉大であり、彼らの中にいた者は幸せであると考えた。そして、彼らは自分たちが手に負えない存在であり、自分たちが敵対することは惨めであると考えた。彼らは、ハマンの運命を見て、ユダヤ人に危害を加える者がいれば、それは彼らの危険につながることをはっきりと理解し、それゆえ、自分たちの安全のために、彼らに加わったのです。イスラエルの神と争おうと考えるのは愚かなことであり、したがって、神に服従しようと考えるのは賢明なことです。

https://biblehub.com/commentaries/benson/esther/8.htm

キリスト者になる、教会に加わる、ということになるまで様々なきっかけがある。礼拝で説教を聞いた、というのも一つかもしれないし、日常の生活でクリスチャンとの関わりや、教会主催のコンサートやキャンプでもイエスに導かれる。「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」ピリピ1:18

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テトス3

'人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならないこと、 また、だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。 ' テトスへの手紙 3:1-2

「支配者や権威者に服し、これに従い、すべての善い業を行う用意がなければならない」

どんな支配者や権威者であっても服すべきなのか?信仰に反することを強要されても従うべきなのか?ローマ12からヒントを得られる。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身にさばきを招くでしょう。実際、支配者は善を行う者にはそうではないが、悪を行う者にはおそろしい存在です。 ローマ12:1-3

「神に由来しない権威はない」神はすべての権威を立てている。この権威を通して神は悪に対して裁きを下す。かつてイスラエルを支配したペルシア帝国でさえ、イスラエルの敵であるハマンに裁きを下した。民主主義においては、司法を通して裁きを下す。神が立てた権威者だからそれに従う。しかし、権威者は神の下にあることがポイント。神の権威はどの地上の権威者よりも上にあり、神の権威に従うことが優先される。なので信仰に反することが強要される場合は神の権威に従う。

テトスから見られるもう一つのポイントが、「善い業を行う用意」。権威者に従う上で「善い業を行う」ことが前提。権威者に従うことを通して「善い業」を行うことができるだろうか?「争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接する」ことができるだろうか?世の中の権威者、教会内での権威者において、「善い業」を行う妨げとなる要求をされる場合がある。その時は地上の権威者でなく、神に従うことが優先される。

'愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。 あなたも知っているとおり、このような人は心がすっかりゆがんでいて、自ら悪いと知りつつ罪を犯しているのです。 ' テトスへの手紙 3:9-11

では、この「善い業」は何を基準にしているのか?律法なのか?9~11節には「愚かなギロ、系図の詮索、争い、律法」について言及している。律法に記されている細かい規定を議論し、それをルールとして人々に強いる「愚かな議論」。長年の模索して見出した「文化」や「伝統」を守るための「系図の詮索」。「安息日=礼拝を守る」「十一献金」「十戒」の「律法」を新約に直接適用すること。これらは「無益で、むなしいもの」で、分裂を引き起こす。この状態が続くと「悪いとしりつつ罪を犯す」ことになる。なので、これらは「善い業」の基準ではないことが分かる。

'神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 ' テトスへの手紙 3:5-7

「キリストの憐れみ」が基準。キリストが私たちを「新たに造りかえて」くださったことから私たちは「善い業」をすることができる。また、私たちの力だけでは「善い業」はできない。注いで下さった聖霊によって行うことができるので、聖霊に頼ることを覚えなければならない。

また、私たちは永遠の命を受け継ぐ者なので、この世の権威を畏れる必要はない。自信をもってキリストを伝え、キリストを教えを、「善い業」を、実行することができる。

'この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。 ' テトスへの手紙 3:8
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テトス2

'しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい。 ' テトスへの手紙 2:1

健全な教えに適う行動について、テトス2:2~10ではいくつかのグループに対して勧めをしている。

  • 年老いた男は「節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように」
  • 年老いた女は「聖なる努めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教えるように」
  • 若い女は「夫を愛し、子供を愛し、 分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うように」
  • 若い男は「思慮深くふるまうように・・・良い行いの模範となり・・・教えるときには、清廉で品位を保ち、 非難の余地のない健全な言葉を語る」
  • 奴隷は「あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、 盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように」

しかしこれは健全な教えを受けた結果の行動であって、健全な教え自体が何なのか明らかにしていない。この健全な教えについて、続く箇所で明らかにしている。

'実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。' テトスへの手紙 2:11-13

健全な教えは以下が含まれている。

  • 「救いをもたらす神の恵み」
    イエスの十字架によって、私たちは恵みによって救われている。
  • 「不信心と現世的な欲望を捨てる」
    罪の生活から救い出されたのだから、罪と戦い戻らないように努める。聖霊の力によってイエスのようになっていくよう務める。
  • 「この世で思慮深く、正しく、信心深く生活する」
    この世で生きる上で、キリストの名にふさわしい生き方をし、キリストを述べ伝えるには何をすべきか模索する。
  • 「キリストの栄光の現れを待ち望む」
    今の世の中は一時的なもので、いつかキリストの支配に戻されることを待ち望むことによって、希望に満ちた生き方ができる。
'キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。' テトスへの手紙 2:14-15

私たちは「あらゆる不法から贖い出された」。そして、「良い行いに熱心」になるようにされた。この健全な教えを「十分な権威をもってこられのことを語り、勧め戒める」。