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ヘブル10

'ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、 次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 ' ヘブライ人への手紙 10:8-10

神は律法に従って捧げられるものを望まない。いけにえや捧げものは実態であるイエス・キリストの影にすぎない。イスラエルがいけにえや捧げものをしたのは、イエス・キリストという完全ないけにえを見据えて、罪の赦しを得ていた。しかし、律法に従って献げられたにも関わらず、神はそれを望まず、好まれもしなかった。それは、いけにえや捧げ物にはキリストが欠如していたから罪が取り除かれることはなかった。いけにえや捧げ物によって何度も罪は赦されたが、完全に取り除かれるにはキリストの体が捧げられる必要があった。

'「『それらの日の後、わたしが 彼らと結ぶ契約はこれである』と、 主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いにそれを書きつけよう。 もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」 罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。' ヘブライ人への手紙 10:16-18

モーセ律法による契約はイスラエルの民に向けられていたが、キリスト者と結ばれた契約は律法を明示的に与え、そのルールを守るような内容の契約ではない。「律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつける」。キリストが罪を取り除いたのだから、律法(=神を求める心)が植え付けられ、その心から神が喜ばれる行動が成される。ルールを守ろうとしているのではなく、神を喜ばせたい心から善い行いをする。

'更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。 約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 ' ヘブライ人への手紙 10:21-23

私たちはキリストによって聖なる者とされ、神に近づくことが可能となった。旧約のように神の前に現れると死ぬことを恐れずに、イエスを「信頼しきって真心から」近づくことができる。そしてキリストが約束して下さったことにしがみつき、希望を持ち続けることができる。神との親密な関係を、救われた時から天に召されるまで、地上で何があってもキリストが全てを解決してくださることに希望を持てる。

'互いに愛と善行に励むように心がけ、 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。 ' ヘブライ人への手紙 10:24-25

キリスト者は「集会を怠らない」ように指示されている。これは「互いに愛と善行に励む」ように「励まし合う」こと。日曜礼拝でこれができることもあるが、教会以外の場所で集まって食事をしたり、教会学校で聖書の適用について語り合うこともできる。教会によっては小グループで聖書の学び、祈り、分かち合いをすることもある。ここでの焦点は「互いに」であり、「神礼拝」とは別の観点が示されている。

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ヘブル9:11-28

'なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 ' ヘブライ人への手紙 9:13-14

モーセ律法の規定により、イスラエルは動物のいけにえを捧げ、その血と灰を人々に振りかけることによって罪の赦しを得た。これを「身を清める」行為とされていたが、内面的な清めよりも、体を清めることに焦点を当てている。しかし、イエスの血によって私たちの良心 (正しさを判断する能力) が変えられ、私たちは「死んだ業」でなく「生ける神を礼拝するようにさせる」。この「礼拝」は「仕える」とも訳せる。つまり、私たちの良心が本当に変えられたのであれば、肉による行動をとおして神に仕えることに注力せず、生き生きとした形で神に日々仕えるようになる。日曜日の朝に儀式だけを行うことは「死んだ業」と変わらない。

'というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。 また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。 こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。 ' ヘブライ人への手紙 9:19-22

なぜ「血」が必要だったのだろうかか?前提として、罪の報酬は死 (ローマ3:23)。そして、血を流さなければ罪の赦しはない。イエスはご自分の血によって私たちの罪を洗い流してくださった (黙示録1:5)。

'このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。 ' ヘブライ人への手紙 9:23-24

モーセ律法、そして祭司の働きはすべて「天にあるものの写し」である。キリストはこれらの実体であり、これらに勝るいけにえである。十字架にかかり、罪を背負い、蘇り、天に登り、天にいる神の前に現れてくださった。大祭司が毎年行わなければいけない儀式を、イエスは一度の行動で成就した。そして今も私たちと父なる神の間に立ってとりなしてくださる (1テモテ2:5)。私たちが罪を侵したとき、神から離れようとしたとき、イエスは「あの人のために罪を贖った」と父なる神に取りなして下さる。

'また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 ' ヘブライ人への手紙 9:25-26

キリストは一度だけ十字架にかかり、それが全ての罪を赦すのに十分だった。大祭司がしたように何度もいけにえとして捧げられる必要はない。私たちの罪はすでにイエスに赦されている。罪を侵すたびに「戒規」という「罰」を受ける必要はないし、教会のリーダーの前で罪を打ち明けて赦してもらう必要もない。私たちはイエスが一度だけ成したことによって赦されている。

'また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。' ヘブライ人への手紙 9:27-28

人は一度死ぬことが定められている。裁きを受けることが定められている。しかし、キリストは罪の代価を支払ってくださり、信じることによって救われる道を与えてくださった。そしてイエスが二度目に来て全被造物に裁きを下すとき、私たちはその裁きから救われる。

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ヘブル9:1~10

'さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。 すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。 ' ヘブライ人への手紙 9:1-2

モーセ律法には礼拝の規定が定められていた。どのようなものを用意し、備え、どのような手順で礼拝すべきかが細かく書かれていた。そして「聖所」という場所も定義されていた。礼拝する場所は他の場所から取り分けられている特別な場所。そこでしか神を礼拝することはできないし、その場所に相応しい方法と手順で礼拝する事が義務付けられていた。

'また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。 ' ヘブライ人への手紙 9:3-5

その中でも最も聖なる場所として「至聖所」が設けられていた。垂れ幕に隠され、最も高価とされている「金」が使われていた。その中でも、神が宿っていた契約の箱があり、荒野での神の蓄えを覚えるマナがあり、神がアロンを最初の大祭司として任命したことを証明する杖があり、十戒を含める神のイスラエルとの契約が刻まれている石板があり、そして神の栄光と存在を示すためのケルビム(天使のような像)があった。これらは全て、神がこの「至聖所」に宿ることを現わしており、神の偉大さを思い出させるために置かれていた。

'以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。 ' ヘブライ人への手紙 9:6

礼拝を行うのは複数の祭司だった。イスラエルの一般人は幕屋に入ることはなく、入るのは祭司だけと決まっていた。「神の民」とされているイスラエルでさえ、神が宿る場所に近づくことができなかった。特別な役割を担う祭司だけがそれを許されていた。それだけ神は聖なる方である。

'しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 ' ヘブライ人への手紙 9:7-8

第一の幕屋には複数人の祭司が入れたが、第二の幕屋、つまり神が宿っていた場所には、大祭司が年に一度しかはいることができなかった。しかも、取り分けられているとはいえ、大祭司も人間。罪を侵すことはある。そんな人間が神の前に現れたら神の義の前では死んでしまう。だからこそ、「自分自身のためと民の過失のために捧げる血を、必ず携えて行く。」罪の報酬は死である (ローマ3:23)ように、動物犠牲の血を持って神の前に行く必要があった。ここで再度、「第一幕屋がなお存在しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないこと」が確認される。一般人は幕屋にも入れず、祭司でさえ神の前に行くことはできず、大祭司も罪の贖いが無いと神の前に行くことはできなかった。

'この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。 ' ヘブライ人への手紙 9:9-10

これらが細かく書かれたのには理由がある。それは、神を礼拝する上で、供え物やいけにえがあっても、神に近づくことができないことを現わすため。これらは「肉の規定にすぎない。」新札を用意して献金しても、新品のピアノやオルガンを購入しても、車が故障して遠い道のりを歩いて礼拝前の祈りに参加しても、「肉の規定」に従っているにすぎない。神は礼拝に何を求めているか?何が適切な供え物といけにえなのか?何が礼拝者の良心を完全にすることができるか?これを考え、求めることが本当の礼拝につながる。

神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。詩編51:17
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。マタイ9:13
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。ヨハネ4:24
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Proverbs

箴言25:6-12

王の前でうぬぼれるな。 身分の高い人々の場に立とうとするな。 高貴な人の前で下座に落とされるよりも 上座に着くようにと言われる方がよい。 箴言25:6-7

身分をわきまえることが大事。「身分の高い人々の場に立とうとするな。」自分がどのような立場なのかをまず良く考えなければならない。それは時に身分が低い場所かもしれないし、周りの人と同じ立場かもしれない。自分の立場をそれ以上だと思わないことがポイント(ローマ12:3)。時に教会の中で、立場が他の人と変わらないのに、「自分の正義」を保つために相手を指摘し回る人がいる。監督の立場ではなく、周りと同じ立場にいることを忘れてはならない。

何ごとかを目にしても 性急に争いの場に引き出そうとするな。 そのため友人に嘲られることになったら 将来どうするつもりか。

自分のことについて友人と言い争うのはよいが 他人の秘密を漏らしてはならない。 それを聞いた人があなたを恥に落とし あなたの悪評は去らないであろう。

箴言25:7b-10

「争いの場」に物事を持って行く時も、良く状況を理解しなければならない。指摘したい相手の立場や言動や行動は、何故そのようになっているのか?自分は何故それを指摘したいと思うのか?「自分の正義」ではなく聖書に基づいた指摘なのか?「争いの場」という公の場に持って行く前に、その人と直接対話したのだろうか?キリスト者の会話のベースは聖書であり、聖書に基づいた議論をし、それをもって「正しさ」を定義していく必要がある (1テサロニケ5:21)。伝統や先入観では結論にたどり着かない。そして互いにキリストのようにへりくだる姿勢を持って会話に臨まなければならない (ピリピ2)。

時宜にかなって語られる言葉は 銀細工に付けられた金のりんご。 聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは 金の輪、純金の飾り。 箴言 25:11-12

良いタイミングで (伝道者の書3) 祈りに包まれた言葉は「喜ばしい」(箴言15:23)。相手をけなすのではなく、相手を言葉によって支えること (イザヤ50:4) と、言葉を通して建て上げていく (エペソ4:29) ことを目標にすべき。伝統や先入観では人は変えられないが、聖書は人を変えられる (2テモテ4:2) ことを信じて語り続けたい。

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ヘブル8

'この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。 ' ヘブライ人への手紙 8:5-6

祭司たちが行っていたことは「天にあるものの写しであり影である」。神からモーセに、そしてモーセからイスラエルに与えられた一時的な律法の下に行動をしていた。しかし、私たちの大祭司イエス・キリストは「優れた務めを得ておられます」。律法より優れた神の約束をベースにイエスはこの世で生活し、人々を教え、罪の代価を十字架で支払い、蘇りによって力を示した。イエスによってモーセ律法は私たちキリスト者が守らなければならないものではなくなった。

キリスト者はモーセ律法の下にいるのではなく、恵みの下にあり (ローマ6:14)、「キリストの律法」の下にある (1コリント9:20-21)。「キリストの律法」は愛することが含まれている (マタイ5:44; ガラテヤ6:2; ヤコブ2:8; ローマ13:8–10)。キリストの行動から (ヨハネ13:34; ピリピ2:4–12)、キリストの教えと戒めから (マタイ28:20; 2ペテロ3:2)、新約聖書の教えと戒めから (2ペテロ3:2; エペソ2:20; ユダ1:17; 1ヨハネ5:3)、そしてキリストを起点とした解釈の上で聖書全体から (マタイ5:17-18; ルカ24:27, 44; 2テモテ3:16–17) 「キリストの律法」学ぶことができる。

「キリストの律法」についての考えは「新約神学」に基づいている。

新約神学は、モーセ律法を全体としてとらえ、それがキリストにおいてすべて成就したと見なします(ここまでは契約神学と一致しています)。しかし、新約神学はモーセ律法を全体として見ているので、モーセ律法の道徳的側面もキリストにおいて成就され、もはやキリスト者には適用されないと見ています。十戒に要約されているモーセ律法の道徳的側面の下にいるのではなく、キリストの律法の下にいるのです(1コリント9:21)。キリストの律法とは、キリストが福音書の中で具体的に述べた戒め(山上の説教など)のことです。つまり、新約神学では、モーセ経済全体は脇に置かれており、もはやキリスト者には何の適用もありません。契約神学では、神の民と救いの道に関して旧約と新約の間に連続性があると考えています。しかし新約神学では、古いモーセ契約とキリストを仲保者とした新約の違いに焦点を当て、旧約と新約の間にはっきりと線を引いています。旧約は(モーセ法の道徳的側面を含めて)廃止され、その道徳を支配するキリストの律法を持つ新約に取って代わられます。

https://www.gotquestions.org/new-covenant-theology.html
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ヘブル7:11~28

'その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:18-19

律法は「弱く無益なために廃止」された。律法が定める動物犠牲、祭司制度、その他様々なルールは、私たちを完全に罪から開放することはできない。安息日を守っても、什一献金を捧げても、奉仕に時間を費やしても、神に近づくことはできない。神が求めるのはルールを守ることでも、身を切る奉仕でもない。神は行動でなく心を求めている。その心があってこそ、神に近づき希望を得ることができる。

'もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 ' 詩編 51:18-19
'律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:26-28

教会のルールに罰せられて、教会のリーダーによって赦されるという制度は、祭司が生贄を捧げていたのと変わらない。人に頼る罪の赦しには限度があり、毎日「いけにえ」を捧げても神の規準は満たせない。私たちに必要なのは「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」であるイエス。イエスは罪がないゆえに自分のために生贄を捧げる必要はなく、民のために生贄を捧げ続ける必要もない。一度だけ十字架にかかったことによって私たちの罪の生贄になってくださった。イエスの生贄によって、私たちは罪赦される。

'それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。 ' ヘブライ人への手紙 7:25

イエスは完全に私たちを救うことができる。人の赦しではなくイエスの赦しを求め、ルールにすがるのではなくイエスの教えにすがることが、キリストの弟子として生きることの目的である。

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ヘブル7:1~10

先日の投稿でメルキゼデクがイエスを象徴していることに触れたが、この箇所ではメルキゼデクがいかに律法で定められているレビ族より優れていることが掘り下げられている。律法によるとレビ族はイスラエルの中で特別な存在で、神に100%仕える人たちとして、イスラエルは彼らを経済的に支えていた。

'アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。 ' ヘブライ人への手紙 7:2

イスラエルにとって一番驚くポイントとして、イスラエルの起点であるアブラハムがメルキゼデクに十分の一を捧げたこと。まだ律法も祭司制度が制定されていない時代で、イスラエル人でもないメルキゼデクという人に、アブラハムは捧げものをしたこと。

ユダヤ人はこれについて色々な捉え方としている。一つは、祭司は元々メルキゼデクの家系から出るように神に定められていて、これを機にアブラハムに伝承されたとされている。もう一つは、メルキゼデクは割礼を受けた者として、アブラハムにトーラ(創世記〜申命記)について教えたとされている。他にも色々な説はあるが、どれも聖書自体には記されておらず、ユダヤ教学者の解釈にすぎない。

メルキゼデクは「義の王」「平和の王」とされている。人間に対して「義」「平和」「王」を同時に使って表すのはめったに見ない。それほどメルキゼデクは立派な人間だったのか、メルキゼデクは単なる人以上の存在を象徴している。神を畏れていて栄華を極めたソロモン王でさえ、「義の王」「平和の王」と呼ばれることはなかった。族長のアブラハムが十分の一を捧げるほど、メルキゼデクは「偉大であった」(4説)。

'彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。 ' ヘブライ人への手紙 7:3

メルキゼデクはイスラエルの家系にいない。当時父や母の名前を用いて「名前、誰々の子(父)、母は誰々だった」という自己紹介が一般的だった。しかし、メルキゼデクにおいてはそのようなことはなく、本人だけの紹介にとどまっている。しかもレビ族の血統でないにも関わらず、祭司が受けるべき十分の一を受け、祭司が授けるべき祝福の言葉を与えている (6説)。イエスは人としてこの世に来てくださり、その家系はレビ族ではなくダビデ王の家系だった。同時にイエスは神であり、父なる神と位の差がなく同等な存在でもある。始まりも終わりもなく、永遠に存在する神の子。その権威をもって、レビ族のような一時的な祭司ではなく、永遠なる祭司として役割を担ってくださる。

'更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:8

レビ族は役割では取り分けられているが、他のイスラエル人と同じ人間だった。人間は誰でもいつかは死ぬが、レビ族は死んでいく人として十分の一を受けていた。一方、メルキゼデクは「生きている者と証しされている」。永遠に生きる神であるイエスが、祭司が受けるに相応しい十分の一を受ける。(しかし、これは今日の教会において十分の一を捧げ戒めにはならない)

メルキゼデクはイエスの永遠の祭司の役割を象徴している。イエスはレビ族の祭司と、その制度を制定する律法を凌駕していて、キリストの弟子であるクリスチャンは律法でなくキリストの下に置かれている。律法から見いだせるルール(十一献金など)に注力せず、イエスの教えを常に再確認したい。

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ヘブル6:13~20

神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。 こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。 ヘブライ人への手紙 6:13‭-‬15 新共同訳

神が救いの約束をしてくださり、ご自身にかけて誓ってくださった。この「誓い」という言葉で思い出すのがヤコブに書かれていること。

'わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。’ ヤコブの手紙 5:12

クリスチャンとして、私たちは「誓い」をしてはいけないのか?結婚式や裁判所での「誓い」はどうなのか?「誓い」をすることは悪いことではないと考えられる。このヤコブの箇所では、誓いを立てないと真理が語られないという環境を現わしている。教会員の間でも、友人関係でも、私たちは常に真理を語らなければならない。何もなかったかのように笑ってごまかしたり、問題を残したまま会話せず人を避けたりするのは問題の解決にならないし、真理を語り合っていない。こういう環境だと「誓い」が必要となってしまうかもしれないが、本来は真理を語れる環境であるべき。神が救いの約束をしたのと同様、私たちも真理を語り、ことばにおいて信頼できる人でありたい。

それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 ヘブライ人への手紙 6:18‭-‬20 新共同訳

「二つの不変の事柄によって力強く励まされる」この二つの不変の事柄とは何だろう?一つは、神がアブラハムに対して「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」(13節)と約束したこと。そして単に子孫を増やしてイスラエルの民を作っただけでなく、その民を通して全世界の人々が祝福されることも約束した (創世記22:18)。この祝福とは、イスラエルの血筋を持って生まれてくるイエス・キリストが、全人類のために十字架にかかり、罪の代価を支払ってくださったこと。

二つ目は、神がこの約束を誓ったこと。一般的に誓う場合、誓う人よりも権威ある者によって誓いをするのだが(結婚式の場合は神の前で誓う)、神より上はいないのでご自身の名において誓った。つまり、神の約束はすべてご自身で責任を負っているので、人がどう反応するかは関係ない。私たちは全知全能の神が約束を果たして下さることを信頼し、この確かな土台に錨を下して流されないようにすることができる。

「至聖所の垂れ幕の内側に入って行く」約束が果たされる利点として私たちは神との親密な関係が回復する。垂れ幕の中は神殿の中で神が宿った場所であり、大祭司しか入れなかった。大祭司も罪を贖っていなければ垂れ幕に入った瞬間に死んでしまう。イエスが先に垂れ幕に入り、仲保者となってくださったので、私達は自由に垂れ幕の中、すなわち神の前に行くことができる。

神に信頼をおくことができ、神との親密な関係が回復する。それはすべて神の約束と誓いがあってこそ実現している。

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ヘブル6:1~12

'だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。' ヘブライ人への手紙 6:1-2

「死んだ行いの悔い改め (ローマ6:23) 、神への信仰 (ローマ10:13)、種々の洗礼についての教え (マタイ28:19, 使徒2:38, 1ペテロ3:21, 1コリント12:13)、手を置く儀式 (使徒6:6, 13:2, 1テモテ4:14, 5:22)、死者の復活 (1テサロニケ4:17)、永遠の審判 (2テモテ4:1, 黙示録20:11-15)」は「基本的な教え」とされている。これはいわば、信仰をもつことと、普遍的教会に加えられること。教会教育において、この基本的な教えはされているだろうか?また「学んだ」とされている人はこれらを聖書から説明できるだろうか?基本的な教えなので、聖書箇所を改めて確認したい。

'一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。 ' ヘブライ人への手紙 6:4-6

「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」これはどのような人を指しているのだろうか?まず、その人は宗教的に良い体験をする。次に、その宗教から脱落する。そして最後に、イエスを十字架につけ侮辱する。教会に行き、聖霊が動く体験をし、周りのクリスチャンと良い関係を持ち、有意義な楽しい時間を過ごしていた。しかし、その後教会を離れ、キリストよりもこの世の楽しみにしがみつくようになる。まるでキリストを十字架にかけて侮辱するかのうようだ。

ここで問題なのが、「救われて教会に行くようになった人がキリストの救いから外れることはあるのだろうか?」一つ分かることは、7~8節にあるように、本当に救われた人は良い実を実らせる。本当にイエスを受け入れて変えられた人は「成熟を目指し」「豊作物をもたらす」。また救いの結果として、御霊の実が備わる (ガラテヤ5:22~23)。もう一つ分かることは、「最初の信仰を最後までしっかりと持ち続ける」(3:14)。本当にキリストを受け入れて変えられたのであれば、最後まで信仰を持ち続ける。もし持ち続けることができないのであれば、最初から救いを受け入れていないと言える。神の偉大さを体験したのに受け入れず、実がないのであれば、裁きを受けることになる (8節)。

'しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。' ヘブライ人への手紙 6:9-12

「聖なる者たちに仕える」キリスト者が互いに仕える。「最後まで熱心さを示す」マンネリ化した礼拝式典ではなく、信仰の実を実らせる熱心さ。「怠け者とならず」現状に満足せず、イエスのようになるよう押し進む。このような生き方が、キリスト者に求められている。

'兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 ' フィリピの信徒への手紙 3:13-14
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Gospel Hebrews

ヘブル5

'また、神は他の個所で、 「あなたこそ永遠に、 メルキゼデクと同じような祭司である」 と言われています。 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 ' ヘブライ人への手紙 5:6-10

イエスは「メルキゼデクと同じような大祭司」とされている。「メルキゼデク」とは誰なのか?その人は大祭司としてどのようにイエスの登場を予兆したのか?

メルキゼデクは創世記14:18~20に登場する。彼はサレム(いずれエルサレムになる場所)の王であり、「いと高き神の祭司」だった。アブラムはメルキゼデクが祭司だと理解していたので、戦利品の十分の一を彼に送った(創世記14:16)。面白いことに、メルキゼデクはアロンによる祭司制度が制定する前に祭司とされていた。メルキゼデクはイスラエルという民が存在していなかったので、イスラエルの祭司でもなかった。それでも祭司として神と人々との仲保者の役割を担っていた。

詩篇110では、「メルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司」を語っている。これは将来、イエスが永遠に地上を治めることを指していると同時に、祭司として神と人の間に立っていることも指している。祭司は本来王ではなく祭司だけの職務を担っていたが、メルキゼデクの場合王であり、祭司でもあった。メルキゼデクの存在はイエスが永遠に担う王と祭司の役割を象徴している。

メルキゼデクの存在はモーセ律法が不十分だったことを示している。律法の元に制定された祭司制度は、動物犠牲を通して人の罪の贖いをし続けることによって神の赦しを一時的に得る職務だった(レビ記16:1-28)。しかし、罪が永遠に赦されるためには永遠の存在であるイエスに贖ってもらう必要があった。律法の祭司制度が成し得なかった完璧な罪の赦しをイエスは十字架によって担って下さり、永遠な仲保者として神と人との間に立って下さっている。