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テトス1:10-16

'実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。 その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。 ' テトスへの手紙 1:10-11

割礼を受けている人たちは何を教えていたから「不従順な物、無益な話をする者、人を惑わす者」というレッテルをはられたのだろうか?ユダヤ系クリスチャンは、キリストを受け入れたとしてもモーセ律法を守り続けなければならないと信じていた。十戒を守らなければならない、安息日を厳守しなければならない、十一献金を捧げなければならない、割礼を受けなければならない。キリスト者は律法の下にいない(ローマ6:14) ことを理解していなかった。それは、キリストが十字架で律法を成就してくださったこと (ローマ10:4、マタイ5:17) を理解していなかったとも言える。ユダヤ系クリスチャンが他のキリスト者に律法を強いることによって、キリストの救いが完成されていることを濁していた。救われても律法を守り続けなければならないと惑わしていた。なので彼らは「不従順な者、無益な話をする者」とされていた。現代の教会においても、恵みよりも律法(ルール)を強いる人たちがいる。「その者たちを沈黙させなければなりません。」

'清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。 こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。' テトスへの手紙 1:15-16

汚れている人は知性と良心が汚れている。生きがいや達成したい目標は、インプットされた知性から導き出される。その知性や良心が汚れてしまうと、生きがいや目標も汚れたものとなる。これが行動として、「神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定する」ことになる。神の義ではなく、自分の義が目的ならば、それを他人に押し付ける行動に出る。しかし、神の義に焦点を当てるなら、まず自分から変わらなければならない (マタイ5:7)。

また、神礼拝でなく、式典を重視するのが目標であれば、言葉で神を礼拝しているかもしれないが、心は式典の進行に執着している。このような礼拝は「なまぬるい」だけなので、神は受け付けない (黙示録3:16)。本当の礼拝は何か?霊と真 (ヨハネ4:23)を伴う礼拝。

感情を伴わない真は、死んだ正統派と、人工的な崇拝者であふれた・・・教会を生み出します。・・・一方、真理を伴わない感情は、無意味な熱狂を生み、思考力を否定する浅はかな人を育てます。しかし、真の礼拝は、深い感情を持ち、健全な教理を愛する人々から生まれます。真理に根ざした神への強い愛情は、聖書的な礼拝の骨と髄です。

https://www.thegospelcoalition.org/article/what-does-it-mean-to-worship-god-in-spirit-and-truth/
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Church Titus

テトス1:1~9

'神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから――わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた人々の信仰を助け、彼らを信心に一致する真理の認識に導くためです。 これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。―― ' テトスへの手紙 1:1-3

「神に選ばれた人々」「永遠の昔にこの命を約束してくださった」ここに「神の選び」の証拠が明らかにされている。神はこの世が始まる前からキリスト者を選び、救われることを定めてくださった。最終的に人が神を選ぶのではなく、最初から神が人を選んでいる。それだけキリスト者は特別な存在で、信仰を持つことができた事実に大いに感謝するべき。

「信心に一致する真理の認識に導く」「宣教を通して御言葉を明らかにされました」「宣教をゆだねられ」キリスト者は選ばれたからこそ、それと伝えていく義務がある。「宣教を通して」知ることができて、同じ「宣教」をゆだねられている。キリストを伝えていくことこそが「信仰に一致する真理」。キリスト者だけで仲良く日曜日に礼拝するために救われたのではない。イエスを宣べ伝えるために救われたのである。

'教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。 ' テトスへの手紙 1:9

ここではパウロは長老についての要件について書いている。そのうちの一つとして、「教えをしっかり守る」ことと、「勧め」「敗退者の主張を論破」しなければならない。「これまで守ってきたことだから」と教えを押し付けることは「勧め」ではないし、教会員を洗脳するのと同じこと。また「伝統」に基づく議論は「論破」にはつながらない。みことばだけが真理を語り、人の考えを変えることができる。1~3節にあるような、聖書に基づく証拠を良く理解し、提示することができなければ長老は勤まらない。

'未熟な者は何事も信じこむ。 熟慮ある人は行く道を見分けようとする・・・ 浅はかな者は無知を嗣業とし 熟慮ある人は知識をその冠とする。 ' 箴言 14:15,18

1テサロニケ5:21にあるように、うのみにせず、聖書をしっかりと確認し、聖霊に理解を求め、考えて結論を出したのちに、その真理の上に立って守ることが「熟慮ある人」。このような行動をする人が長老として務めるのに相応しい。

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2テモテ4

'御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 ' テモテへの手紙二 4:2-8

何をすべきか

みことばを宣べ伝える。パウロはまずこれをテモテに対して進める。イエスの大宣教命令があるので当然のことだろう。これは福音を伝えるのはもちろんだが、聖書全体がみことばなので、聖書全体を宣べ伝えることでもある。「とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教える」みことばを語ることによって心が痛むことがあるかも知れない。すべてが励ましではない。それでもみことばを語ることを辞めず、忍耐強く、理解し受け入れるまで語り続けることが重要。

取り巻く環境

「折が良くても悪くても」みことばを伝えることの逆風があるのもまた当然のことである。国の政策だったり、職場のルールであったり、または宗教的リーダーの思惑によって、みことばを学んだり語ることを止める動きは多くある。「健全な教えを聞こうとしない時」はまさに今ある。これまでの伝統を守ることを重視しすぎるがため、聖書の教えを無視することが起きている。「好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行く」多くの人が同じ方向を向いていると、人は同じ方向を向こうと必死になる。「守ってきた」ことが大事であるがゆえに、同じ考えを持つ人と組んで、違う考えを持つ人を締め出す。このような環境下でみことばを語らなければならない。

どのように進めていくか

「どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」「身を慎む」=nepho=心に余裕を持つ、明確な判断力、節制、自制。どんなに環境が悪くても、聖書に思いを巡らして、しっかりとみことばの上に立つようにする。宗教的リーダーが間違ったことを教えても、聖書から正すことができるように準備しておく。仲間がいないことから苦しむかもしれないがそれを耐え忍び、福音宣教の仕事に励む。福音宣教はキリスト者全員の仕事であり、牧師や宣教師や伝道師だけがやっていれば良いことではない。福音宣教はキリスト者の勤めなので、それを果たさなければならない。

結果

この世においてマイナス面の結果はある。「いけにえとして献げられ」「世を去る時が近づきました」パウロにとっては国家によって福音のために処刑される次期が近づいていた。全く同じではないが、これまで「仲間」だと思っていた人たちから切り離され、排除されることはある。正しいことをすれば迫害は受ける (2テモテ3:12)。しかし、良い面としては「正しい審判者である主」から「義の栄冠を受ける」。神は必ず正しい判決を下し、報いと罰を正しく与える。報いの一つである「義の栄冠」とは何か?

報酬は、神の霊によってパウロにもたらされた義が評価されたもので、冠は義人のために用意されていますが、それは義からなる冠です。義はそれ自身が報酬となります(黙示録 22:11)。出エジプト記39:30と比較してください。人は、キリストの功績によって無償で義とされ、そのように義とされたとき、神はその人の行いを受け入れ、その人に与えられるべきものではなく、恵みによって与えられる報酬をもって、その人を讃えるのです。「神の人間に対する善意は非常に大きいので、人間の行いは神自身の贈り物にすぎないが、功徳となることを望んでおられる」[教皇セレスティヌス1世『書簡集』12]。

Jamieson-Fausset-Brown Bible Commentary
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2テモテ3:10~17

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。 テモテへの手紙二 3:12‭-‬14 新共同訳

「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていく」間違えや失言を認めず、謝罪を求めていても公の場では「言った覚えがない」「そう言ったつもりはない」と自分を守る行動にでる。こうやって、惑わす行為を続けていき、信用を失っていく。同時に、神の道に正しく生きようとする人、そしてそれを伝えようとする人を締め出し、影響力を留める行動に出る。まさに「信心深く生きようとする人は皆、迫害を受ける。」しかし、聖書や多くの神学者から「学んで確信したことから離れる」必要はない。いかに「教会」という組織が一つの教えに注力したとしても、それが間違っていると聖書から確信しているなら、それを曲げる必要はないし、むしろ正しい方向に向かうように指摘していきたい。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 テモテへの手紙二 3:15‭-‬17 新共同訳

聖書には絶対の自信をもつことができる。聖書は信仰問答や人の書いた本より優れているし、「救いに導く知識」を与えるのも聖書しかない。聖書に従う人は「神に仕える人」であり、本当の「善い業を行うことができるように、十分に整えられる」。アメリカのホテルや刑務所では信仰問答や人の書いた本は置かれていない。聖書が置かれている。聖書にはそれだけの力があるからだ。教会においても、聖書を読むのは礼拝の式典の中だけに留まらず、会議においても、学びにおいても、毎日のデボーションにおいても、聖書を読んで思いを巡らすことによって、聖書の力を体験することができる。キリスト者が全員そうすれば、一人の教えに頼り切ることも、イエスの教えよりも伝統を重んじることも軽減される。「悪人や詐欺師」に惑わされることはなくなる。

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2テモテ3:1~9

'しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。 ' テモテへの手紙二 3:1-5

「自分自身を愛し、金銭を愛し」自分のことだけに焦点が当たれば、自分のためだけに行動するようになる。金銭も同様、自分の懐を大きくすること、自分の礼拝する会堂が快適になるようになど、自分への投資が大きくなる。「ほらを吹き、高慢になり」自分を正当化するためになるべく多くの人に自分の主張を言いふらし、それに同意する人が増えるたびに高慢になっていく。「神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなる」自分中心になれば神のことは二の次。自分が立てあげてきたものを守るために神の意思を探らなくなり、結果的に神を畏れることを忘れ、あざけることにもなる。「情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になる、善を好まず、人を裏切り」他人の間違えや弱さに対して厳しい目でしか見なくなる。イエスが赦したことを忘れ、「正しさ」だけを追求する。「教会の秩序」を理由に、ろくな話し合いをせず切り離していく。「軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し」自分たちだけが正しいと思い込み、聖書を見直して自分たちの考えや方向性が正しいか確認することを怠る。「すでに聖書は学び終えた」という考えに陥る。「信心を装いながら、その実、信心のちからを否定するようになる」「礼拝」という名の式典を毎週行っていて、「学び」という名の読書感想会を行っているから信心があると勘違いしている。信心のちからを理解せず求めずに、知識や形だけを求めてしまう。

いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。

テモテへの手紙二 3:7
しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした。 ' テモテへの手紙二 3:9

「彼らの無知がすべての人々にあらわになる」聖書は生きていて、真理を示すことができる (ヘブル4:12-13)。聖書を読み、ルールやしきたりを吟味することによって、何が真理で何が伝統かを分けることができる。皆が神のみことばにひれ伏すとき、形にこだわることがいかに無知だということが分かる。また、間違った教えを押し通し、しきたりをベースに支配し続ける人々は厳しく裁かれる (ヤコブ3:1)。神の主権に任せ、聖書に示された真理を貫き通すことだけに注力したい。

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 

ヘブライ人への手紙 4:12-13
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2テモテ2:14~26

あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。 俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、 その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。 テモテへの手紙二 2:15‭-‬17 新共同訳

「資格者と認められて神の前に立つ者」。この場合はテモテで、牧師に向けられた言葉だと言えるが、同時に資格が認められて長老(役員)と選出された人たちにも当てはまる。「俗悪な無駄話」というのはなにか?この箇所で上げている例は、キリストが再臨し、先に死んだキリスト者の肉体がすでに復活した、という説が出回っていること。この教えは迫害の中で生きているキリスト者の信仰を揺さぶっていた。信仰を揺さぶる話は今も講壇から語られている。「日曜礼拝を守る」という名目で、日曜日に教会に来ていない人を責める。関係ない聖書箇所を利用して海外からの宣教師の働きを非難する。こういったキリスト者の信仰を揺さぶり、福音の働きを妨げる行為は「俗悪な無駄話」。悔い改めがない限り「不信心」に陥り、講壇から語られることによって「腫れ物」のように教会全体に広がってしまう。

語られることを注意深く吟味していないと、知らないうちに自分たちもリーダーのように他教会の福音の働きを理屈なく非難するようになる。自分たちの教会だけが正しいと思い、自分たちの教会の教えだけを守ることに注力、内面的思考に陥る。教会員が外部で何をしているか、何を学んでいるか監視する体制を作るようになる。まさにカルトのような状態。

しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。 テモテへの手紙二 2:19 新共同訳

このような「俗悪な無駄話」をする人たちに対して一つ希望をもてることは、「主はご自分の者たちを知っておられる」「主の名を呼ぶものは皆、不義から身を引く」こと。キリスト者はみな、すでに神の主権の中にある。神はキリスト者を選び、誰が本物か偽物かはすでに見分けている。まだ、キリスト者が最後まで信仰を守る通すようにしてくださる。「俗悪な無駄話」をする「不義から身を引く」ように働きかけてくださる。

神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。 テモテへの手紙二 2:22‭-‬26 新共同訳
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2テモテ2:1~13

そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。 テモテへの手紙二 2:1‭-‬2 新共同訳

パウロはテモテに、福音を伝える仕事を「教えることのできる忠実な人たちにゆだねる」ように指示している。牧師としてすべて背負い込まず、教会員も責任を担えるようにトレーニングすることを勧めた。大事なポイントは「教えることのできる」「(福音に)忠実な」人たち。このレベルに達していない人は長老(役員)の職につくべきなのか?この箇所の「できる」はギリシャ語で「hikanos=十分に能力がある、価値ある、適している、素質がある」という意味がある。リーダーになる人はただ物事を知識として知っていて、それを説明することのできる人を指しているのではない。教えるのに十分な能力があり、リーダーとしての素質があり、教会のビジョンと方向性を示すのに適している人でなければならない。

長老(役員)の資格は1テモテ3:1~7に記されている。このリストに当てはまらない人は長老(役員)候補のリストにも乗るべきではない。「礼拝に出席している」「献金している」はこのリストに乗っていないのも興味深い。要は、礼拝することと献金することは当たり前で、それ以上の資格が長老(役員)には求められている。ただ人数を満たすための役員会は必要なく、本当に資格のある人を長老(役員)候補として選出し、神の召しを自覚しているか当人と確認し、教会全体で確認することが、福音のために働ける長老(役員)を立てることになる。

次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」
ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないようにするためです。また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません。嘲られて、悪魔の罠に陥らないようにするためです。

テモテへの手紙第一 3章 1〜7節
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2テモテ1:8~18

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。 テモテへの手紙二 1:7 新共同訳

キリスト者に与えられている聖霊はおくびょうの霊ではない。世の中の人は、真剣に神を礼拝し、信仰を保つキリスト者をあざ笑う。しかし、私達は真理を知り受け入れているので、自信を持って信じていることを宣言することができる。イエス・キリストは人の罪のために死んで蘇ったことは真実である (1テサ4:14, 2コリ5:14-15, 2テモテ1:10)。なので信仰に関して誰とも妥協する必要はないし、神を優先した力強い生き方をすることができる。同時に、希望について説明できるように準備しておく必要がある (1ペテロ3:15)。また、不必要なルールよりも隣人を愛ることができるように、聖書を通してイエスが教えていることを理解しておかなければならない。

この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 テモテへの手紙二 1:11‭-‬12 新共同訳

パウロは宣教者、使徒、教師として任命され、それが理由で苦しみを受けていると書いている。信心深く生きようとするキリスト者も迫害を受ける (2テモテ3:12)。逆に、迫害を受けていないなら信心深く生きているか吟味しなければならない。パウロが神を信頼したほどに私達も神を信頼しているか。迫害を受けるほど証するクリスチャン人生を送っているか。神に委ねられている福音を述べ伝え、神の御国に貢献しているか。これらはキリストが成してくださった事に自信を持つことから始まる。

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2テモテ1:1~7

そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。 テモテへの手紙二 1:6 新共同訳

パウロがテモテに手を置いたことによって何が起きたのか?パウロになにか特別な力があったのか?逆に、この手を置く行為がないとテモテは賜物を発揮できなかったのか?

テモテに手が置かれたのは1テモテ4:14に記録されている。パウロ一人が手を置いたのではなく、長老と共に手を置いている。その行為によって「賜物」が与えられている。この「賜物」は何を指しているのか?「霊的賜物」は神によって与えられる (ローマ12:3) ので、手を置く行為によって与えられることはない。手を置くことによって長老たちはテモテの霊的賜物と神のみこころを確認していると言える。神はすでに「牧会」や「リーダーシップ」の霊的賜物をテモテに与えていた。それを発揮する機会(賜物)が長老によって与えられたと言える。長老たちはテモテを伝道師(牧師)の働きに専念するよう取り分けている。

パウロと長老には特別な力はないし、テモテに特別な力を与えることもなかった。手を置く行為は神がすでにテモテに与えた賜物と召しを確認することである。また、信仰が確認されているキリスト者なら誰でも手を置いて同じことが行える。長老に留まらず、教会全体に互いの霊的賜物を確認し、神の召しを認識し合う義務がある。

神が一人の人を召され、牧師としての資格を与えられるとき、それはその人にも教会の他の人々にも明らかになります。牧師になる人は、1テモテ3:1-16とテトス1:5-9に記載されている資格を満たしており、みことばを伝えたいという切実な願いを持っています(1コリント9:16)。教会の長老たちは、信徒たちとともに、召しを認め、受け入れる義務があります。その後、強制ではありませんが、正式な任命式である聖職授与式を行うのが適切です。叙任式自体は、何か特別な力を与えるものではなく、単に神様が選んだ指導者を公に認めるものです。

https://www.gotquestions.org/ordination.html
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1テモテ6:11~21

この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。 テモテへの手紙一 6:17‭-‬19 新共同訳

富は悪いことなのか?ヤコブでも、富んでいる者は「旅路の途中で消える」運命にあると書いている(ヤコブ1:11)。確かにいくら稼いでも足りなく、どれほどビジネスに成功しても終わりはない。ビジネスの世界でも、ビジネスはいずれ衰退するものだと広く理解されている。よく見ると、テモテの箇所では「不確かな富」に焦点を当てている。すべてを与えてくださる神に望みを置くように勧めている。そして富自体は悪いことではないようだ。「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる」ということは、富は楽しんで良いもだということがわかる。ただ、どのように楽しむかも言及されている。「善を行い、良い行いに冨み、物惜しみをせず、喜んで分け与える」。冨は自分たちだけが楽しむ物ではなく、分け与えて楽しむ物だ。それも惜しまず、喜んで分け与えること。義務から献金することや、先輩だから義務としておごることはできる。しかし、喜んで分け与えたときのみ、本当の喜びと楽しみを体験することができる。

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」 ルカによる福音書 16:10‭-‬13 新共同訳

富は霊的なことに直結する。仕事においては小さな仕事(文章やメール作成、顧客名簿の管理)をこなすことができれば、より大きな仕事が回ってくる可能性がある。同じように、神は私達にこの世において一部の富を預けた。その富を使ってどのように御国に貢献するか試している。この世の富に仕え、富のために生きるようであれば、いくら頑張っても満足はしないだろう。価値のないものだから。富を使って御国に〜神に〜貢献すれば、価値あるものが任される。それは仕事でより大きな影響力が与えられ、世の光・地の塩として大きく貢献できることかもしれない。もしくは、同僚に証をする機会が多く与えられることかもしれない。価値ある仕事が任されるには、責任感をもって日毎仕事をこなし、聖書を読むことによって証する機会の準備をしておく必要がある (1ペテロ3:15)。