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1テサロニケ4:1~10

'さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。 ' テサロニケの信徒への手紙一 4:1

「現にそのように歩んでいますが、その歩みを今後も更に続ける」イエスに結ばれた者として歩んでいることは素晴らしいこと。しかし、どれだけ成長してもこの世では成長しきることはない。なので歩み続けることは大事だし、「更に」(= mallon、以前より多く、優先的に)歩みを進めていくことも必要。日曜日だけに礼拝しているのであれば、平日にも礼拝することができる。聖書をただ通して読んでいるなら、読んだ内容を精査して書き出してみることができる。イエスとの歩みを更に進めるためには何ができるかを考えたい。

'わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。 ' テサロニケの信徒への手紙一 4:2

パウロたちは主イエスによって命令していた。パウロが聖霊によって書いた内容は神のことばであり、イエスのことばや命令を同等 (2テモテ3:16)。現代において聖書は完成された形で提供されているので、パウロのように命令出来る人はいない。信仰問答であっても、神学者が書いた本であっても、聖書に勝る書物は存在しない。全てに勝る完成された神のことばがあるのだから、聖書を読んで神からのメッセージ、イエスの命令を理解したい。

'実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、 おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、 神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。 このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。 ' テサロニケの信徒への手紙一 4:3-6

「このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません」 どのような行いが兄弟を踏みつけたり、欺くのか?「みだらな行い」や「情欲におぼれる」こと。こういう行為は結局自分中心であることから始まる。自分の考えが正しくて、相手に理解させたい。相手の考えはどうでもよく、自分の背景や自分の主張を受け入れてほしい。こういう一方的なコミュニケーションも兄弟を踏みつけたり、欺く。

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1テサロニケ3:7~13

'あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです。 'テサロニケの信徒への手紙一 3:8

パウロとテサロニケ教会の関係は親密で、パウロが「生きている」ことが、テサロニケ教会がキリストに結ばれていること、困難の中に信仰を保っていることに起因している。指導者は信者の上に立ち、聖書解釈、礼拝式典、教会教育、宣教の全てにおいて治めて指示する立場にあると勘違いしがち。しかし、教会形成にとって大事なことはプログラムを生成することでなく、人々との繋がりを築くこと。共に苦しみ、共に喜ぶことがキリストの体であること。教会にとって秩序は大事だが、秩序を築き保つことに注力しすぎて人間性が無くなってしまっては秩序は形だけになり下がってしまう。

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

コリントの信徒への手紙一/ 12章 26節
'顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。 ' テサロニケの信徒への手紙一 3:10

パウロが手紙を出した教会の中でも、テサロニケの教会は最も賞賛を受け、他の教会が見習うべき存在となっていた。それでも「信仰に必要なもの」(=husterema=足りない、必要としている)があり、パウロはそれを補おうとしていた。どんなに成熟したキリスト者でも、どんなに過去に議論して定まった考えや文化や伝統があっても、この世にいる限りキリスト者や教会は足りない部分がある。常に成長し続けなければならない。その成長を促し、成長するための必要を満たすのが指導者の役目。

こうして、聖なる者たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を造り上げ、ついには、私たちすべてが、信仰と神の子の知識において一つとなり、完全な者となって、キリストの満ち溢れる成熟した年齢に達するのです。

エフェソの信徒への手紙/ 04章 12~13節
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1テサロニケ3:1~6

わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、 このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした。わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。 テサロニケの信徒への手紙一 3:2‭-‬3 新共同訳

パウロがテモテを派遣した理由は、「励まして、信仰を強め、苦難に遭っていても同様することのないようにするため」。指導者としての役割は、苦難に遭っても揺るがない信仰を確立させること。それは「日曜礼拝を守る」という端的なことではなく、日々の生活の中でキリストを宣言すること。職場の同僚に、キリストが人生の中でどう関わっているかを証する。親戚に、キリストの愛を見える形で現わす。他のキリスト者がいない環境こそ、揺るがない信仰が試される。

そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです。 テサロニケの信徒への手紙一 3:5 新共同訳

「誘惑する者」は常にキリスト者を惑わそうとしている。だから敵の存在を意識することと、それに対向するための措置を用意しておく必要がある。真理、正義、福音、信仰、救い、みことば(エペソ6:14~17)の神の武具をつけることと、「御霊によって祈る」「目を覚ましている」ことが重要。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

1ペテロ5:8
ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。 テサロニケの信徒への手紙一 3:6 新共同訳

何が嬉しい知らせだったのか?「あなたがたの信仰と愛」「好意をもって(パウロ)たちを覚えている」テサロニケ教会においてキリストに繋がる「信仰」の一致があり、キリストに愛されていることを実感した上で互いを愛していた。この溢れる愛が教会内に留まらず、外に目を向けるようになる。宣教師や教会外で働く人たちのために祈り、自分たちも宣教に対して好意を持ち、励むようになる。

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1テサロニケ2:10~20

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 テサロニケの信徒への手紙一 2:11‭-‬12 新共同訳

パウロとテサロニケ教会は親子の関係のようだった。指導者としてパウロは「こうだ」と示すときもあれば、「一人一人にい呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めた」。人はそれぞれ霊的成長の過程が違っていて、それぞれに合った接し方や言葉がある。自信がない人は励まし、進んでいる方向が正しいことを肯定すること。失敗をしてしまった人は慰め、イエスの赦しを示す。なかなか前に進まない、現状に満足している人には強く勧める。これをする目的は神の「国と栄光にあずかる」こと。つまり、福音を広めることによって神の国が広まることに貢献し、神の栄光を称える人生を送ること。

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。 テサロニケの信徒への手紙一 2:13‭, ‬19 新共同訳

「わたしたちから神の言葉を聞いたとき」 パウロが語った言葉は神の言葉だったのか?パウロは新約聖書の大半を書いていて、その書かれた言葉は間違いなく神の言葉である。

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

テモテへの手紙第二 3章 16〜17節

考えられることとして、パウロが語った言葉は神の言葉である旧約聖書を引用していた。また、パウロはキリストと直接会った使徒として、イエスの言葉を直接語ることもできた。そういう意味では、パウロは神の言葉を語っていた。それを証拠に、「信じている(テサロニケの人々)の中に現に働いている」。言葉が聖霊を通して人々の中に働き、キリストにある成長へとつながっていた。

では、説教は神の言葉なのか?上記の考え方でいくと、説教が聖書を語っている限り神の言葉であることは間違いない。しかし、聖書から脱線した話や、その聖書箇所と無関係な私的解釈は神の言葉とは言えない。ましてや、思い出話で体験を語ることも、人の心を動かすことはできるかもしれないが、神の言葉と宣言することはできない。説教者にとって神の言葉である聖書を忠実に語ることが求められている。

ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。 テサロニケの信徒への手紙一 2:15‭-‬16 新共同訳

「異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。」福音を妨げる人や、宣教活動をサポートせず批判しかしない人は、「自分たちの罪をあふれんばかりに増やしている。神の怒りは余すところなく彼らの上に臨む」。それだけ神は宣教に重きを置いていて、それを妨害する人に怒りを向ける。教会内の行事に重きを置きすぎて宣教活動を批判・妨害をしていないだろうか?罪を増やしていないか?神の怒りを買っていないだろうか?

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1テサロニケ2:1~9

わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 テサロニケの信徒への手紙一 2:4 新共同訳

「人に喜ばれるためではなく」福音に忠実でいるために、神に認められるために、人に喜ばれる福音の伝え方をしてはならないのか?教会でバザー、キャンプ、イベントなどを通して福音を伝えるのは相応しくないのか?

あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 テサロニケの信徒への手紙一 2:5‭-‬6 新共同訳

「相手にいへつらったり、口実をもうけてかすめ取ったり」ここで言っている人を喜ばせる動機は、自分の利益。自分が注目を浴びて、自分自身が満足すること。教会に多くの献金が集まり、財政が潤うこと。後者については、潤った財政をどう使っていくかによって善悪が問われるが、一旦は置いておこう。イベントをすることによって人ではなくイエス・キリストに焦点が当たっているか?バザーをすることによって財布ではなく魂が潤うようになるのか?これが問われている。

ちなみに、イベントをしなくても自分自身に焦点を当てている場面もある。自分たちが築き上げた文化や伝統を固く守ることも、聖書ではなく自分自身を満足させている。教会財政が潤っているのを良いことに新しい会堂を建てようと必死になり、本当に財政を必要としている人や宣教師や他教会が見えなくなる。ここまでくると、「汚れのない宗教」について聖書から学び直す必要がある。

父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。

ヤコブの手紙 1章 27節
わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 テサロニケの信徒への手紙一 2:7‭-‬8 新共同訳

「神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたい」福音を伝えることだけなら説教でもできいる。しかし命(psychas)を与える、もしくは人生や生活を分かち合う(metadounai) ことは、説教だと一方通行のメッセージなため、分かち合うことは不可能。本当に福音を分かち合うには礼拝以外、説教以外の場で「命を分かち合う」必要がある。そうすることによって初めて、単なる一方通行の人が語る言葉から、神に命を吹き込まれた福音のメッセージに変わる。

バザーやキャンプやイベントを通して福音を伝えるのは相応しいか?この聖書箇所を見る限り、相応しいだけでなく、分かち合いのためには不可欠。イベントをすることによって焦点がキリストに当たり、分かち合いの中で生きた福音を伝えていくことがポイントになる。生きた福音によって、イエスと聖霊によって変えられた人が、やがて礼拝と教会につながっていく。

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1テサロニケ1

そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 テサロニケの信徒への手紙一 1:6‭-‬7 新共同訳

パウロがテサロニケ教会と接したのは短い間だったが(使徒17:2)、どのようにして「すべての信者の模範となる」教会へと育つことができたのか?一つ考えられることは、パウロは一般信者が教会の中で機能するように育てたからだ。信者に成長するための装備を与え、リーダーを育て、信仰の文化を確立し、信者が神の働きに参画できる環境を作った。主にあって成長し、互いに仕え、互いを立てあげ、教会外へと手を伸ばす「健全な教会」を建て上げた。

「健全な教会」を考える時に5つのパラダイム変革が必要。

1. 誰が教会を建てるのか?

従来のパラダイム:リーダーが教会活動を行い、教会が建てられる。リーダーが教会を建てる。

新約聖書のパラダイム:人々が教会活動を行い、教会が建て上げられる。人々が教会を建てる。

2. 一般信者の役割は何か?

伝統的なパラダイム:人々は困っている存在で、リーダーの教会活動の受動的な受け手である。

新約聖書のパラダイム:人々は、ミニストリーの働きの中で積極的に機能する。

3. リーダーの役割は何か?

伝統的なパラダイム:リーダーの役割は、教会活動の全ての仕事をすること。

新約聖書のパラダイム:リーダーの役割は、人々に装備を与え、リーダーを育て、文化を形成し、人々が教会活動をするための環境を整えること。

4. 「教会」はいつ、どこで起こるのか?

伝統的なパラダイム:「教会」は日曜日の朝、建物の中で行われる。

新約聖書のパラダイム:「教会」は、一週間を通して、それぞれの家庭、職場、生活の中で行われる(使徒2:42-47)。

5. 健全な教会はどのようにして作られるのか?

伝統的なパラダイム。効果的な教会のプログラムを実行する。

新約聖書のパラダイム:人々を建て上げる。

A Portrait of a Healthy Church, Malcolm Webber