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1 John

1ヨハネ3:1-10

1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。

キリストの十字架によって、私たちは「神の子」と呼ばれるようになった。そして世の中が私たちのアイデンティティを理解できないのは、父なる神を知らないから。聖書の時代、子供は親によって知られていた。名前に「だれだれの子」をつけるぐらいだった。子供が誰だから知らない、ということは親が誰だか分からない、ということに結びついていた。クリスチャンは神の子なので、私たちの生き方や行動は父なる神の性質を表すものでなければならない。だから自らを清くすることに努力しようとするが、自分の力では完璧にならない。キリストがいつか再臨して私たちを完璧にさせて下さることに望みを置きつつ、日々キリストに習っていきたい。

4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。

「罪を犯す者は、不法を行う者である。」私たちは不法を行うもの。そんな不法者のために、イエスは十字架で罪を取り除いて下さった。だから罪を犯し続けるのではなく、聖霊に罪を気付かされてそこから悔い改めるよう努力する。しかし、罪を認めず、罪を正当化し、神に立ち返らない者はイエスをしらない。つまり、その人はイエスを「知ったこともない者」で、そもそもクリスチャンではなかったことになる。

7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

クリスチャンはどのように見分けることができるのか?

「義を行う者は義人である」クリスチャンは義を行う。神に対して、隣人に対して善い行いをする。自分と神だけを考えて、隣人をおろそかにしていないか?人の目を気にしすぎて、神との関係を深めることをおろそかにしていないか?クリスチャンであれば、神と隣人どちらにも義を行うようになる。

「罪を犯さない」もしくは、「罪を犯し続けない。」「神の種」、つまり聖霊が内に宿っているので、罪を犯したら必ず聖霊に罪悪感を植え付けられる。神が悲しむことを理解し、イエスの十字架に立ち返るようになる。

「兄弟を愛する者」愛にはいくつかの形がある。正しい方向に修正する愛があり、哀れみを持って相手を理解しようとする愛がある。自分が正しいことを押し付けるのは愛ではない。キリストが弟子たちと接したように、寄り添って同じ目線で会話し、その中で神の愛と神の求めることを示していきたい。

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1 John

1ヨハネ2:26-27

26 わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書きおくった。27 あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。

「あなたがたを惑わす者たち」とは誰だろう?「私たちから出ていった」(19節)反キリストを指している。

この人達は真理を知ってキリストを受け入れ、その後にキリストに背いたのではない。もともと「私たちに属する者ではなかった」から、実際にはキリストを受け入れていなかったことになる。だから彼らは、イエスがキリスト(油注がれた選ばれた者)であることと、神であることを否定する。否定の形は様々で、イエスの権威を否定することから、イエスの教えを否定すること、またイエスの生き方から学びイエスのようになろうとしない者もイエスを否定している。さらにイエスのことを聖書から学ばず、人が作り上げた教えだけに従うのも、イエスを否定することと言える。このような反キリスト的な行動をする人たちがクリスチャンを惑わす。

「キリストからいただいた油がとどまっている」

キリストの油とは何だろうか?旧約聖書で油は、王や祭祀を特別に選び、取り分けるために使われた。神に選ばれた者として、特別な存在として、その人を特定の役割に任命ことを表すために、油を頭から注がれた。同じように、神に選ばれてクリスチャンとされた私たちは、キリストの油を注がれている。私たちは罪を赦され、神の子供とされ、天の国を相続する者とされた。これは確定していることで、誰も私たちを神から引き離すことはできない。(ヨハネ10:28)

「だれにも教えてもらう必要はない。」

何を教えてもらう必要がないのか?キリストの油を注がれ、クリスチャンとされた事実は、誰にも教わることも否定されることもできない。聖書に掲示された救いのプロセスを理解し、キリストを受け入れてキリストに従う者とされたことは、確実に起きたこと。神がその人を選び、キリストがその人のために十字架にかかり、聖霊がその人に信じる心を与えた。これは教会が教え込んで救いを起こさせることではなく、教会がその人が救われたと断定することでもない。信仰はあくまで神が与えている。教会はこの大前提に立って洗礼を授け、会員として受け入れる判断をしなければならない。「正しい答え」や「特定の言葉」、「牧師の承認」は判断材料にはならない。

「その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい」

神に選ばれ、神の確かな救いを私たちに授けて下さったのだから、私たちはキリストの内にとどまる使命がある。ときにそれは、キリストにとどまらない行動を指示されたら、キリストの教えを確認した上でその指示にあらがう必要もある。それを正しく判断するためには、人からではなく聖書から学び、間違いを感知できるように目を覚ましていなければならない。(1ペテロ5:8) 反キリストは教会の中に潜んでいるので、惑わされないように注意しておきたい。

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1 John

1ヨハネ2:1-11

1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

「これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。」
これは1章に記されていることを指していて、闇の中で歩み、罪が無いと思い込むこと。この罪を犯さないようにヨハネは警告している。

「罪を犯す者があれば・・・イエス・キリストがおられる。」
罪を犯したとしても、イエス・キリストは十字架でその罪の代価を支払っている。「あがないの供え物」となって下さった。それは私たちの罪だけでなく、私たちに対して罪を犯す多くの人、イエスを信じる全世界の人のために代価が支払われた。それだけイエスの十字架は大きな効力を発揮している。なので私たちは自分の手で罪を裁くことや、復習することに注力しなくても良い。十字架によってすでに赦されているから。

3 もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。

「彼を知っている」というのはイエス・キリストを知っていること。イエスの教えや生きざまを聖書から学び理解していて、それと同じように生きようとしている。それが本当のクリスチャン。イエスに従わず、自分でルールを作って正当化する人は「偽り者」とされている。

5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである。6 「彼におる」と言う者は、彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである。

イエスに従う者であれば「神の愛が真に全うされる」。イエスが愛したように神を愛する。日曜礼拝以外に神と時間を過ごし、祈りと聖書を通して深い関係を育む。イエスが愛したように隣人を愛する。「清い」とされている人たちだけでなく、世の中から見放された人たちや、組織と違う考えの持った人たちに対しても寄り添って接した。その関係の中から組織や指導者へではなく、神へと導いた。

7 愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。8 しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。

「わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。」
神を愛する事、隣人を愛することは旧約の戒めから変わっていない。十戒においても、これを厳密に言葉通り守るというよりも、十戒のそれぞれが神を愛すること、隣人を愛することにどう繋がっているか考え、適用していくことが重要。ヨハネが新たに記している理由は、キリストの十字架の業が完成され、キリストを信じ従う者が起こされているので、古い戒めに戻らないように注意するため。

9 「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。10 兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。

「兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいる」
お互いキリストに従う兄弟であるのなら、お互いを愛する必要がある。聖書の解釈が違っても、教会の役割や方向性の意見が違っても、宣教の範囲に関する見解が違っても、互いを愛する。憎む者は闇の中で、キリストを知らない存在。愛する者は光の中で、キリストに導かれて躓くことはない。

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1 John

1ヨハネ1:5-10

5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。

「神は光であって、神には少しの暗いところもない。」
神は罪をもって誘惑することはない。「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」(ヤコブ1:13)

「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。」
いくら「礼拝を守っている」と主張しても、聖書を読まず、イエスの教えに従っていないのであれば、その「礼拝」は偽りの行為。闇の中を歩いているのと同じ。真理を理解していると主張しながら「愛」という大前提から離れて「裁き」を主張するのは、闇の中でしか行われない。

「光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち」
もし光の中を歩くのであれば、交わりを持つことができる。この交わりはイエスの十字架によって与えられた。また神との垂直な交わりと同時に、人との横の交わりが与えられた。だからイエスは律法を、神を愛することと、隣人を愛することに要約した。

「光の中を歩くならば・・・御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめ」
光の中を歩くのであれば、罪の赦しがある。どんな罪を犯しても、イエスの血が私たちを清めて下さる。人はみな罪人だから、人の手では罪を裁けない。神の裁きはイエスの十字架で成就されている。

8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

主張を正当化し、スケープゴートを探して人を悪者に仕立てる。たとえ偽りが混ざっているとしても、悪く見せるためのストーリーを組み立てる。自分は全く悪くない。罪はない。このような考えは「自分を欺くことであって、真理は・・・ない。」むしろ、自分の間違えを認められないのであれば、「神を偽り者とする」行為で、神に対する冒涜。

9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

闇の中で歩んでいても、神を冒涜したとしても、罪を告白すれば神は罪を赦してくださる。それだけ神の愛は深く、それだけキリストの十字架は効力を発揮する。

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1 John

1ヨハネ1:1-4

1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― 2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――

「いのちの言」もしくは「いのちの言葉」は「初めからあったもの」。創られた存在ではなく、父なる神と共に永遠に存在していた者。「わたしたち」、つまりヨハネと他の弟子たちが「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」とはイエス・キリストのことを指している。イエスは人としてこの世に来たが、初めから父なる神と共に存在していた。これイエスは神である証拠。このことを証し、告げ知らせるために聖書が与えられた。聖書の内容を参考書から学んで知識だけを増やし、礼拝行事を完璧に行うために聖書が与えられたのではない。イエス・キリストを証し、告げ知らせるために聖書は与えられた。

3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

イエスの地上での生き方や教えたことををヨハネと弟子たちは見聞きし、それを聖書に記した。その理由は、「わたしたちの交わりにあずかるようになるため」。イエスにつながり、イエスに従うよう生きている人たち、つまりクリスチャンの交わりに加わる方法と、交わりの中での生き方を知るために聖書が与えられている。クリスチャンの生き方は参考書や一人の牧師の教えだけでは正確に知ることができない。聖書を通してキリストから学ぶ必要がある。キリストの教えを理解し、受け入れた人だけが本当のクリスチャンの交わりに加えられる。聖書がベースでなければただの人間の集まり(クラブ活動)にすぎない。

4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

イエスが与えるいのち、イエスの生き方、イエスの教えから学び、本当の交わりに加えられることによって「喜びが満ち溢れる」。または、「喜びを完璧なものにする。」この世の物や人には与えられない喜びと平安をイエスが与える。

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

ヨハネ14:27
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Peter

2ペテロ3:10-18

10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。

この世はいずれ焼かれてなくなってしまう。終わりの日に神は今の天地をなくし、新たな天地を創造される。この日に残されるものは立派な建物や伝統や組織ではない。「きよく信心深い行い」だけが残される。私たちは永遠を中心においた生き方をしなければならない。神の見方で物事をみなければならない。そして、燃やされるものではなく、残されるものに身を投じる必要がある。

12節の別の訳では、「神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません」とある。「到来を早める」にはどうすれば良いのか?9節によると、神は「すべての人が悔い改めに進む」ことを忍耐しているため来臨を遅らせている、と書かれている。つまり、福音が述べ伝えられ、悔い改めに進み、「きよく信心深い行い」をする人が増えることが、来臨を早めることにつながる。

13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。

主の日によって焼かれていくものにではなく、「新しい天と新しい地」を得られることに注力することが進められている。そして「新しい天と新しい地」を得られるのだから、私たちは「しみもなくぎずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励む」ことが進められている。どのように励めば良いのか?1ヨハネ1:7にヒントが書かれている。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」イエスの血がすべての罪をきよめて下さるから、私たちはシミも傷もない。光の中を歩んで互いに交わりを持つことによって「安らかな心」をもつことができる。

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Peter

2ペテロ3:1-9

3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

クリスチャンの希望の一つはキリストの再臨。キリストは天に戻る前に、天で私たちの場所を用意してくださることと、また地上に来ることを約束している。しかし、キリストが天に戻って2000年以上経過している。キリストは本当に戻って来るのか?約束を成就して下さるのか?と不安に思う人もいるかもしれない。それこそキリストを信じていない人は、「主の来臨の約束はどうなったのか」とクリスチャンをののしり、キリスト教だけでなく宗教自体の存在を、心の安心のために作り上げた空想の話に引き下げてしまうことがある。

そんな時、キリストの言葉を覚えておきたい。キリストの言葉と約束は絶対で、必ず成就する。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

ヨハネ14:1-4
5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

神は天地をことばによって創造したが、同じことばによって不信仰な人が裁かれ、滅ぼされる。この裁きのことばはまだ実行されていない。ある特定の日のために残されている。今虐げられているクリスチャンにとっては、神が全てを裁き、全てを正す日を待ち望むことができる。だからクリスチャンは復讐せず、他人を裁かない。「自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ローマ12:19)。

8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

同時に、神は哀れみの神でもある。神の一日は千年のようであるので、2000年といえばまだ2日ほどしか経っていない。神は「すべての者が悔い改めに至ることを望」んでいる。罪を悔い改め、キリストに信頼をおくならば、神は必ず赦して下さる。神が用意していた裁きはキリストの十字架によって成就されたものとされる。全てを正して下さる神に感謝しつつ、すべての人が悔い改めることを望む神の忍耐力から学んでいきたい。

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Peter

2ペテロ2:10-22

10 こういう人々は、大胆不敵なわがまま者であって、栄光ある者たちをそしってはばかるところがない。11 しかし、御使たちは、勢いにおいても力においても、彼らにまさっているにかかわらず、彼らを主のみまえに訴えそしることはしない。

にせ預言者は「栄光ある者たち」をそしる。「栄光ある者たち」というのは、神とキリストのことを指している。それに比べて御使い=天使たちは、にせ予言者たちをそしらず、裁きを神に委ねている。にせ預言者と天使たちの対応に大きな差が見える。一方は自分たちが正しいと主張し、自分たちの考えをベースに神が愛する人たちを (「戒規」という名のプロセスにを利用して) 裁く。もう一方は裁く権利があったとしても神に裁きを委ねる。

12 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそしり、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。

また、にせ予言者は動物のように例えられている。自分たちが何を語っているか理解せず、その発する言葉でキリストの栄光をそしっている。この人達は動物のように「必ず滅ぼされてしまう」。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:12)。私たちは自分に満足せず、辿り着いた場所におごらず、絶えず神の恵みに頼ることを覚えるべき。

13 彼らは、真昼でさえ酒食を楽しみ、あなたがたと宴会に同席して、だましごとにふけっている。彼らは、しみであり、きずである。14 その目は淫行を追い、罪を犯して飽くことを知らない。彼らは心の定まらない者を誘惑し、その心は・欲に慣れ、のろいの子となっている。15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。

まるで教会内で宴会が開かれていて、にせ予言者たちは「しみ」や「きず」でありながら平然と参加している (3:14とは正反対)。その人達は常に淫行の目で教会をを見渡し、弱い立場の人を誘惑し、金銭的な欲に潰れる。それはまるでモアブの王がバラムという予言者にに呪いを語らせるように金銭を支払ったかのうよう (民数記22:7)。にせ予言者は、特別な教えを授ける代わりに金銭を要求していたと思われる。誰だって金を払えば、その対価を真面目に受け取るだろう。教会に投資すれば投資するほど、間違った教えにも耳を貸してしまう。

そして、にせ予言者は14節にあるように「定まらない者を誘惑」する。18節でも同じようなことが書かれている。「迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し」つまり、クリスチャンになったばかりの人や、真理が定まっていない人のことを指している。ここで語られているのはまず、自分自身が聖書をしっかりと理解して真理の土台を築くこと。そして自分の子どもたちや新たなクリスチャンに対しても聖書の真理に立てるように育てることが急務。教会として互いに聖書に根付くように励まし合うことが重要。

17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている。

教会内で水のない井戸と、生ける水の区別がつくようになる必要がある。一方は永遠の命が溢れ出る。もう一方は闇に落ちていき、泣き叫びや歯がみがあるところに導いてしまう。見極められる人たちになりたい。

18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

にせ予言者は自由を約束して新たなクリスチャンや定まっていない人たちを誘惑する (19節)。しかし、本当の自由は 1) キリストの十字架によって私たちを罪の力から開放したこと、2) 自分の力で律法を守る必要がなくなったこと、3) 聖霊に新たな心が与えられ、聖なる者になることに喜ぶこと。

あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

ガラテヤ5:13
20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

キリストを知れば知るほど、キリストに従わない罰は重くなる。知らなかった状態の方がむしろ良かったと思えるほどになる。ここでは神が選びだしたクリスチャンは救いを無くすことができるとは教えていない。しかし、教会員の中では、信仰を告白し、教会の行事に参加し、教会のルールを守っていても救われていない人もいる可能性があることを指している。ルールに従ってもキリストに従っていなければクリスチャンではない。世の中の人はルールに縛られる生き方に常に戻りがち。まさに「犬は自分の吐いた物に帰り」、豚はどうきれいにしても豚のままであることが分かる。

19 彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。

1ヨハネ2:19

14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

ヘブル3:14

救われた者は最後まで信仰を保つ(=キリストに従う)、と聖書は示している。2ペテロ2章は救いを確認するための箇所でもある。私たちを贖った主を否定しないように警告し(1節)、霊的な高慢と自己満足 (11−13節)、金銭を愛すること (14-16節)、みだらな行い(2, 7, 14, 18節) の誘惑に陥らないよう力づけてくれる。

上記の多くはジョン・パイパーが提供するサイトから引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/better-never-to-have-known-the-way
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James

2ペテロ2:1-9

2章のポイントは1節、3節、12節、17節に記されているが、そのうちの2つが今日の箇所に含まれている。1節には、主を否定して自分たちに滅びに至らせているとある。3節には、「彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」とある。つまり2章では、にせ預言者とそれに従う人たちに滅びがあることを警告している。

1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。3 彼らは、欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。

まず分かるのは、「民の間に、にせ預言者が起こった」こと。外から来たのではなく、すでに集まっていた人たちの中からにせ預言者が現れた。長年リーダーをやっていた人。昔からいて影響力が強い人。取り組んできたことに自信を持ちすぎて「すでに学んだ」と主張する人。こういう人たちからにせ預言者が現れる。

このにせ預言者たちは「自分たちをあがなって下さった主を否定する」。すでに学びきっていると思い込み、自分が正しいと思い込み、違う意見はすべて間違っていると宣言してしまう。そうなるとイエスの教えを見直して自己吟味することを忘れてしまう。イエスが教えたように弱い人に寄り添い、身を低くして同じ目線で会話し、赦しの姿勢を常に保つ、ということを忘れ、否定さえもする。つまりイエスが十字架でしてくださったことを否定していて、イエスご自身をも否定していることになる。

「大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至る」リーダーの中ににせ預言者がいると教会全体に影響してしまう。リーダーは教会の模範であるべきだが、悪い模範だとそれに見習って教会員も同じ振る舞いをしてしまう。「あの教会はうちと違うからダメなんだ」「あの人はうちと違う考えを持っているから勝手に出ていったんだ」自己吟味をせず相手を批判し続けることによって、いつの間にか自分たちもリーダーのようににせ預言者となってしまう。

このようなにせ預言者に対抗するための措置として以下が考えられる。

  • 教会内ににせ預言者が起こされることを理解し、聖書を自分たちでしっかりと理解し、にせ預言者を正していく。(ヘブル4:12)
  • 「彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」ことを覚え、にせ預言者に対する裁きの重大さを受け止める。
  • 裁きを逃れるためには悔い改めしかない。誰でも間違いは犯すが、自己吟味し、イエス・キリストに赦しを求めるならば、必ず赦される。(1ヨハネ1:9)
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Peter

2ペテロ1:12-21

16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。17 イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

クリスチャンは単なる「宗教」信じているのではない。実際にイエス・キリストと共に過ごし、十字架上の死を目の当たりにし、死から復活したイエスと話して食事をし、天に帰るイエスを見送った目撃者の証言をベースにしている。その目撃者がクリスチャンの集まりだけにとどまり、礼拝を捧げるだけを重要視し、世の中の全てを否定しただけではキリストの教えは広まらない。彼らは、迫害されても、投獄されても、殺されても、福音を宣べ伝えることに人生を注いだ。隠れてプライベートで宗教を守る人は多くいるが、迫害されても信仰を生き抜く人はそれほどいないだろう。その信仰の姿勢を見て、多くの人はキリストに人生を明け渡し、クリスチャンとなってきた。

​​16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。18 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。19 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。20 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

マタイ7:16-20
19 こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。20 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。21 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。

予言の言葉は神から与えられ、神に選ばれた人がそれを聖書に記している。そのみことばが私たちの「心の中を照らす」ときに、私たちはキリストを受け入れることができる。だから私たちはみことばに「目をとめている」必要がある。また、聖書を理解するために聖霊の働きは不可欠。なぜなら、人間の書いた神学書や参考書や信仰問答の解釈で聖書を読むと、聖書を自分勝手に解釈することにつながるから。聖書そのものを読み、聖霊による理解を得ることによって、みことばは生きたものとなり、私たちを変えていく。

12 神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。

ヘブル4:12