Categories
James

ヤコブ1:19~27

19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

この聖書箇所はヤコブがユダヤ系クリスチャンに語られていることから、一般的な言葉や怒りに関する事柄でないことが考えられる。彼らは律法の下に育ったので、それを伝えることに必死になっていた。その強い思いから、違った意見をもった人が現れると、相手を理解せず怒りをあらわにしていた。

  • 「聞くに早く」=人の言葉ではなく、聖書を聞く
  • 「語るにおそく」= よく理解していない聖書の事柄について
  • 「怒るにおそく」=違う意見をもった人に対して

「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」
正しいと思ったことを教え込みたい気持ちが抑えられないからこそ、相手にそれを押し付けてしまう。結果的に神の義がその人に全うされるのではなく、自分の思いが全うされるだけになる。押し込まれた相手は苦しまみれに教えられたことに同意し、信じてもいないことを公言する偽善者となってしまう。もしくは、真理だと思いこんでしまい、自分で真理を確認しなくなる、一種のマインドコントロール状態に陥ってしまう。

(上記の内容はBenson Commentaryから引用している)

21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

みことばは、救われた時に聖霊によって植え付けられ、日々聖書を読む習慣によって深められ、幅広い教師に習うことによって視野が広められる。

22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

ただ聞くだけ、ただ学ぶだけ、ただ知識を蓄えるだけでなく、神のみこころを成す者となっていくことが、みことばを学ぶ目的。神のみこころは、「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(2ペテロ3:9) そのために私たちは学んだことを大宣教命令の実現に向けて行動に移す。

27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ここにある「信心」は「宗教」とも訳されている。宣教はただ福音のメッセージで人に殴りかかることではない。窮屈な礼拝に引っ張り込んでじっと座らせることではない。困っている人を助け、世の中で生活する上でキリストの光を表す。人々がいる場所に出ていって福音を伝える。礼拝で座っているだけでは人々には届かない。

Categories
James

ヤコブ1:12-18

'試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 ' ヤコブの手紙 1:12

神は試練を与えるかもしれない。「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(2テモテ3:12) しかし、これを耐え忍ぶ人には、神は命の冠を約束している。「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」(黙示録2:10) 幸い私たちのほとんどはクリスチャンとして命の危険にさらされることは無いが、キリストのために生きようとしたとき、聖書の真理を貫こうとしたとき、迫害に合うことがある。命の危険はないかも知れないが、精神的に追い詰められて命が削られるような思いをする。そんな時に、命の冠を与える神に目を向け、日々命を与えてくださるように願いたい。

'誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 ' ヤコブの手紙 1:13

誘惑は神からこない。つまり、罪を犯す誘惑のこと。神は罪を犯すことはことはないし、罪に影響されることはない。よって、神は人に罪を犯すように唆したりはしない。

'良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。 ' ヤコブの手紙 1:17-18

むしろ、神は良い贈り物をくださる。先程の命の冠もそうだが、無傷で完璧な、完全な賜物を与えてくださる。そもそも私たちがクリスチャンになったのも、神が「真理の言葉」を与えて下さったからだ。それは、聖書にかかれている通り、イエス・キリストが私たちの罪の代価を支払って下さったことを信じて受け入れることによって、神の子どもとされること。この「福音」=「good news」こそ、神が私たちに与えて下さった最も完全な賜物。

'むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 ' ヤコブの手紙 1:14-15

人が欲望に引かれ、唆されて、姦淫に陥ると、生まれてくるのは罪。その罪が成長すると死を生む。私たちの身の回りの欲望は何だろうか?長年傷つけられてきたことを許せないことだろうか。守りたいものがあるから権力を利用して人を排除することだろうか。自分を良く見せるために、都合の良い嘘や情報統制を図ることだろうか。このような欲望に引かれると自分に対して、隣人に対して、そして影響する人に対して死を生むことになることを、常に覚えておきたい。

Categories
James

ヤコブ1:1~18

2 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。

試練がある、ということは成長している、ということ。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル12:6) とあるように、神は私たちを愛しているからこそ、私たちに試練を与えて訓練してくださる。その結果として得られるものは霊的な価値がある。

3 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
4 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。

信仰が試されると忍耐が生み出される。信仰によって異教のしきたりに従わないと、「協調性がない」と言われるかもしれない。仲間はずれにされるかもしれない。昇進のチャンスや難しい調整を強いられるかもしれない。教会内でも、正しい事を主張すると迫害を受けるかも知れない。信仰が試される場は多々あるが、忍耐強くなる。神を理解しない世の中や、真理を求めないクリスチャンに対して、忍耐強く接することができる。キリストが全てを治めることに希望を持つ (1コリント15:25) ことができるので、その時まで忍耐強く信仰を生き抜くことができる。真理を求めない教師に対して厳しい裁きがある (ヤコブ3:1) ので、それを正す責務が自分にないことを覚え、神に任せることができる。

5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

知恵が不足しているのであれば、神に願うことができる。神は「とがめもせずに憎しみもなくすべての人に与える」。「こんなことも知らないのか」とか、「これを理解しないと次に進めない」ということは神は言わない。神のことは全て理解していなくて当たり前。だから私たちは祈りながら、他のクリスチャンと共に聖書を調べ、励まし合いながら成長していく。また、聖霊が理解を与えてくださることを信じて祈ることが重要。牧師でなくても、神学者でなくても、クリスチャンであれば聖霊によって聖書を理解することができる。

初期のクリスチャンは、霊的に成長するために(聖書を)一緒に読みました。彼らは、神の言葉が読み上げられるのを聞くために集まり、一緒に議論したり適用したりしました(使徒13:14-15)。聖書の著者たちが目指したように、彼らの目標は単に情報を得ることではなく、キリストの姿に似せていくことでした(ガラテヤ4:19)。そして、イエスはヨハネを通して私たちに「この預言の言葉を声に出して読む者は幸いであり、聞く者、またこの中に書かれていることを守る者は幸いである」(黙示録1:3)と語っています。

https://www.desiringgod.org/articles/read-the-bible-with-someone-else
Categories
Hebrews

ヘブル13:9~25

'指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。 ' ヘブライ人への手紙 13:17

教会員の責務として「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従する」こと。しかし、その前提として指導者たちは「あなたがたの魂のために心を配っている。」教会規則を持ち出して違反していることを指摘することが魂の心配をしていることになるのか?礼拝に参加するだけでも辛い人に対して、複数人で一方的な違反宣言や質問攻めをするのは、その人の魂を養う働きなのか?ましてや、「戒規」を言い渡して、信者であるにもかかわらず聖餐を取ることを拒む教えは聖書にあるのだろうか?

John Piperが牧会していたBethlehem Baptist Churchの教会戒規の手順を参考にしてみた。

従順さを追求する代わりに、教会員は罪から逃げようとする努力をせずに、罪を犯す行動や態度に固執しています。これは、契約に違反して生きることを故意に決めたことになります。

この場合、最も親しい友である教会員は、可能であれば、その人が罪に陥った初期の段階でアプローチすべきです。悔い改めがない場合は、マタイ18:15-17のプロセスを継続して行うべきです。どの段階においても、違反者のため、教会の霊的健康のため、キリストの栄光のために、悔い改めと赦しと和解が目標となります。

愛する教会員が個人的に努力しても悔い改めが得られない場合には、教会の監督者を呼び寄せ、忍耐強く問いかけ、懇願するプロセスを踏むべきです。悔い改めが得られない場合は、教会の指導者たちが調査結果を教会全体に発表し、その人が目を覚まして悔い改めを勝ち取ることを期待して、その人を会員から外す措置がとられます(1コリント5:5、2コリント2:6-7、2テサロニケ3:14-15)。

https://www.desiringgod.org/articles/the-meaning-of-membership-and-church-accountability

やはり突然複数人で違反を言い渡すのではなく、「最も親しい友である教会員」がこのメッセージを伝え、説得することが最初のステップにある。マタイの箇所も同じことが書かれている。つまり、その親しい友も、違反があることに理解と納得を示し、その違反から立ち返ってほしいという思いから違反者を説得する必要がある。ほとんど接点のない第三者(指導者)にはこのような愛のある行動はできない。

教会戒規が聖書的に行われていないことを考えると、教会としての健全性が問われる。健全な教会とは何なのか?それを考えたときに次の4つの特徴を発見した。

1. 教会の指導者、長老、牧師は、神の言葉を完全に、そして忠実に宣べます。

2. 聖餐と洗礼を行います。

3. 教会戒規を行使し、福音に反する歩みをしたり、主を非難したりする者を会員から排除します。

4. 互いに愛し合い、地域社会を愛し、救われる人が起こされるように励み、世界の国民に福音を伝える。これは教会の使命です。

この4つの特徴のどれか1つでも欠けていれば、深刻な状態となり、それゆえに人は他の教会を探し始めることになります。

https://www.desiringgod.org/interviews/when-should-i-leave-my-church

どれも当然のように思えるが、教会として常に自分を評価し続けないと少しずつずれていってしまう。「教会の指導者、長老、牧師は、神の言葉を完全に、そして忠実に宣べます。」説教は聖書を忠実に語っているのか?個人的な思いや直面する問題に重きを置きすぎていないか?牧師以外の指導者たちは神の言葉を語れているか?それとも他人(牧師含めて)の言葉や書物に頼りすぎていないか?「教会戒規を行使し、福音に反する歩みをしたり、主を非難したりする者を会員から排除します。」戒規を行使する理由が、福音に反する歩みと神を避難する行為。「教会規則」ではなく、やはり聖書に明確に記されている「福音に反する歩み」や「神の避難」が前提となっている。「教会規則」ではなく、聖書の規準を見直す必要がある。「互いに愛し合い、地域社会を愛し、救われる人が起こされるように励み、世界の国民に福音を伝える」これが教会の使命。礼拝を第一にすることではない。救われる人が起こされるために福音を伝え、イエスが教えた愛を示す。「この4つの特徴のどれか1つでも欠けていれば、深刻な状態となる。」

Categories
Hebrews

ヘブル13:1~8

'兄弟としていつも愛し合いなさい。 ' ヘブライ人への手紙 13:1

聖書に至るところで兄弟を愛することが書かれているが、具体的にどうやって愛すべきなのか?今回の箇所はいくつかヒントがあった。

'旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 ' ヘブライ人への手紙 13:2

これは以前も触れたことがあるが、まずもてなすこと。クリスチャンに対してもてなすことは言うまでもないが、クリスチャンとして新来会者を歓迎することも重要。クリスチャン同士で優しくしあっても、新たに教会を訪れた人を無視するようではただのクラブ活動にすぎない。知らない人をもてなした時にクリスチャンとしての良さを発揮できる。

'自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。 ' ヘブライ人への手紙 13:3

福音のために迫害を受けている人を思いやる。そのためには実態を知るために情報収集し、その情報を共有して共通認識を持ち、詳細に必要なことを祈る。もし可能であれば実際に手助けをする。食べ物や聖書を運ぶとか、直接献金をして支援をする。また政治に働きかけて救済を求めることも考えられる。

また「虐待されている人たち」のことを思いやる。家庭内での虐待も考えられるが、教会に向けて語られている言葉であることから、教会内での「虐待」も考えられる。つまり、弱い立場の人に対してどう思いやるのか。当時はやもめや孤児だったが、今日においては心理的に追い詰められている人かもしれない。そういう人に対して、教会として、特に教会のリーダーは何をすべきか。個人的な関係を持つように努力し、相手を理解することを心がけ、信頼関係ができた時に的確なアドバイスをする。兄弟として愛し合うことは、信頼関係をもつこと。

'結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。 ' ヘブライ人への手紙 13:4

兄弟として愛し合うのは夫婦の間でも同じ。夫婦である前に相手は兄弟姉妹なのだから。キリスト者としてキリストに結ばれ、夫婦として結ばれたカップルであるならば、互いを愛し、支え合う関係であるべき。妻のことを見下して何かをできないと決めつけることも、夫のことを「おじさん」と呼んで他人扱いするのも愛し合う関係とは言えない。心にあることが言葉として出てくるので、まず相手を心からキリストによって愛することに務め、その心をもって語る言葉を訂正していける。

'金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 ' ヘブライ人への手紙 13:5

クリスチャンとして金銭に執着せず、神に頼ることはいつも聞くこと。教会として金銭に執着せず神に頼ることも考えたい。多くの金銭を集めて建物を大きくしたいという考えは必ずしも悪くはないが、本当の教会である「人」が霊的に貧しいのであれば建物があっても宝の持ち腐れ。金銭に執着せず、神が与える恵みに目を向けるような教会(人たち)であるべき。

'あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 ' ヘブライ人への手紙 13:7-8

「神の言葉を語った指導者たち」それは聖書全体を通して、神が語った言葉、イエスが教えたこと、イエスが行動で示したことを語ってきた指導者たち。クリスチャンはみなキリストの弟子。キリストのようになることが目標なので、それを促す指導者のことを思い出すと良い。

Categories
Hebrews

ヘブル 12:14-29

'すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。 ' ヘブライ人への手紙 12:14-15

平和と聖なる生活を追い求める、というのは異なった意見を排除して同じ考えを持った人たちだけで固めることではない。異なった意見がある時に対話し、双方の立場から歩み寄って一番良い道を共に探ること。これには「伝統」や「権限」関係なく、良い考えは誰からも出てくることを前提においている。「伝統」よりも神のみこころを求め (イザヤ55:6)、「権限」よりも全てのクリスチャンが祭司であることを覚える (1ペテロ2:9)。

「苦い根」はどこから来るのか?一つのヒントは子育ての箇所に記されている:子どもを怒らせないこと (エペソ6:4)。これは単に怒るだけでなく、子どもを追い詰めて怒りに導くこと。教会内でもリーダーが話を全く聞かず、わだかまりを解こうと努力しようとしないことが続くと、教会員も追い詰められていく。この苦い関係が広まっていき、リーダーとしては悩みの種となる。

これを取り除くには「戒規」や「除名」で排除することは簡単だが、イエスはどのように教えていたか?まず一対一で会話をして、状況確認と忠告を行う (マタイ18:15)。次に、一対一で話した人と、あと一人か二人(多くても3人)で話し合う (マタイ18:16)。それでも解決しなければ教会のリーダーとの話し合いになる (マタイ18:17)。いきなり「役員会」に呼ばれて「戒規」を言い渡すのではなく、まずは一対一の会話。少しでも会話が成り立つようだったら「兄弟を得た」とし、それ以上の追求はしない。ルールを守る・守らないの問題を突きつけて排除するのではなく、会話を通して「平和」の道を探る。

これが教会の頭であるイエス・キリストが教えたこと。「畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕える」(ヘブル12:28) には神の子であるイエスに聞き従う必要がある (ルカ9:35)。

Categories
Hebrews

ヘブル12:1~13

'こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。 ' ヘブライ人への手紙 12:1-3

「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」自分に定めらている競走は何か?神が私に求めているものは何か?それを見出すためになにをする必要があるのか?週に一度の礼拝、週に一度の祈祷会ではこれを見つけるのは無理だろう。日々の祈りと、聖書を読んで思いを巡らすことが必要。神との過ごす時間が長ければ長いほど、神のみこころを知ることができる。そしてそのみこころをが分かり、何がゴールか理解できたらそれに向かってひたすら走るだけ。この世において仕事や、世間体、所属する団体、そして時には教会組織にも、定められたゴールに向かう弊害となることがある。しかし、イエス・キリストが忍耐を持って十字架にかかったことを思い出し、「気力を失い疲れ果ててしまわない」働きを続けていきたい。

'あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 ‘ ヘブライ人への手紙 12:7-11

この箇所では罪との戦いについて「血を流すまで抵抗していない」と指摘していて、神の懲らしめ・鍛錬を軽んじないように指示している。これは、ヘブル人が罪と戦っていなかったことではなく、これまで紹介してきた殉教者(12:35-38) のような迫害はまだ受けていないということ。ローマ教会はネロの迫害を受けていたが、エルサレムにあるヘブル人の教会はまだこの影響を直接うけていなかった。しかしこのような迫害があったとしても、神からの鍛錬として捉えるように指示している。今日において迫害は友達の間や、職場の中で、世間にうわさされることによって、そして教会組織による排除活動によって受けることがある。しかし、これらの鍛錬をも神から来ると考えられたら耐えられるし、自分に対して良い結果がもたらされることが期待できる。

神の鍛錬は非難ではありません。鍛錬は忍耐をもって耐えられ、聖性を大いに促進します。私たちは、人の悪意によってもたらされた苦難を、賢明で恵み深い父が私たちの霊的な利益のために送ってくださった鍛錬と考えることを学びましょう。

https://biblehub.com/commentaries/mhc/hebrews/12.htm
Categories
Hebrews

ヘブル11:32~40

'信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、 燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。 女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。 ' ヘブライ人への手紙 11:33-35

信仰によってこの世において神の約束を受けた人もいる。危険から守られ、励まされ、強められ、この世で不自由なく暮らした人もいる。神は、与えた物を忠実に管理する人に、さらに多くを与える(ルカ16:10)。愛と信仰を心に保つと、神と人の前で成功を示すことができる (箴言3:3-4)。信仰をもって神に仕え、神に祝福を与えられ、その祝福に感謝してさらに神に頼るようになるサイクルが、この世において神の約束を受けることだと言える。

'他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。 また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。 ' ヘブライ人への手紙 11:35-38

逆に、信仰によって迫害を受ける人もいる。初代クリスチャンはローマ帝国によって迫害を受けた者もいるが、同じ神を信じているユダヤ人にも迫害を受けた。それは、かつてマルティン・ルターがカトリック教会に対して、民衆に聖書を読むべきだと促し、礼拝参画の行為でなく信仰によって救われることを訴えたことにより、カトリック教会から除名され、命をも狙われたことと重なる。現代でも、教会組織に相対すると叱責され、「戒規」という名の罰を言い渡され、排除される。確かに、キリストのために生きると迫害を受ける (2テモテ3:12)。

'ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。 神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。' ヘブライ人への手紙 11:39-40

神は「更にまさったものを計画してくださった」。旧約の人々が体験できなかったキリストとの交わり、聖霊に導かれること、そして完成された聖書が私たちに与えられている。律法(十戒)を読んで守るだけではもったいない。この時代を生きる私たちは神から多くを与えられている。それら全てを取り込み、学び、励まされ、キリストのうちに成長していきたい。そして、キリストと歩む喜びを伝えていきたい。

Categories
Hebrews

ヘブル11:17~31

'信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。 ' ヘブライ人への手紙 11:17-19

アブラハムは神にイサクをいけにえとして捧げるように言われたときに、アブラハムは躊躇なく実行に踏み切ったように見える (創世記22)。それほどアブラハムは神の約束を信頼していた。神はアブラハムに、星の数ほどの子孫を与えると約束していて、イサクがその子孫だと伝えていた。その約束を信じ、アブラハムは迷わず神の指示に従おうとした。さらに、アブラハムは神の偉大な可能性も理解し信頼していた。イサクをいけにえとして捧げたとしても、イサクを死から生き返らせることもできると信じていた。それほどまで神の偉大さを理解し、神に100%の信頼をおいていた。

私たちはどうだろうか?これほどまでに神を理解し、神を信頼しているだろうか?

私たちは、聖書全体を通して神の約束を読むことができるし、先人たちの例を見て約束が必ず果たされることも知ることができる。イスラエルは約束の地にたどり着き、王国を築くことができた。アブラハムに約束したとおりに、彼の子孫(イエス・キリスト)によって全人類が祝福された。神は偉大な方で、神によれば不可能がないことも聖書を通して知ることができる。神の子が赤子として生まれるようにして下さった。多くの人を肉体的に癒やし、一度に数千人の人にパンと魚を分け与えた。ラザロのように死者をも生き返らせた。神に難しいことはない (エレミヤ32:17)。

約束は多くあるが、今心に置かれている約束はイザヤ55:11。

「このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」 イザヤ55:11

宣教においてどのような形であれ、神のみことばが語られるのなら、それはむなしく帰ってこない。かならず神の「喜ぶところのことをなし、(神が)命じ送った事を果たす。」イベントに参加した人の心にみことばが残り、聖霊がそれを養って成長させ、やがて救いをもたらす。次の日曜日に礼拝に参加しなかったから「失敗」ではない。みことばは確実に伝えられたのだから、聖霊は働いてくださる。聖霊の働きを信じず、これまでやってきた「礼拝をする」「トラクトを配る」という伝統に逃げたくはない。神を信じて新たな宣教方法にチャレンジし、神が約束する結果をもたらしてくださることを信じていきたい。イエスが私たちに命じた大宣教命令を実行していきたい。

Categories
Hebrews

ヘブル11:1~16

'信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 ' ヘブライ人への手紙 11:1

「信仰」が定義されている。私たちが何を望んでいるのか、何に向かっているのかを定義する。私たちの生きる意味や目的や進むべき道を、信仰によって確信する。そして、今は見えていないが確実に起きることを確認する。到達していない場所を示し、受けられる恵みを確認する。現時点では想像もできない素晴らしい体験が待っている。このような信仰があれば常に前に進もうとするだろう。立ち止まって過去からの伝統を守り通すのではなく、信仰の目標に向かってひたすら走るだろう。

  • 世界は目で見えない神の言葉によって創造された
  • アベルは死んだ者だが、信仰をもった行動(神への捧げもの)は今でも語られている
  • エノクは神が喜ぶほどの信仰があったので、死を体験せずに天に移された
  • ノアはその地域で見たこともない洪水を神に知らされ、信仰をもって方舟を作った
  • アブラハムはどこへ行けば良いかもわからずに、信仰によって旅立った
  • アブラハムは信仰によって神が築く王国を期待していた
  • サラは子どもを生める年齢ではなかったが、信仰によってイサクが与えられた
'この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 ' ヘブライ人への手紙 11:13

アベル、ノア、アブラハム、サラはみな、神の約束が成就されるのを地上で見る前に死んでいった。それでも、神を信頼して、逆境もありながら正しい方向に進んでいった。アベルは兄弟に殺されるほどに、ノアはおそらく地域に住む人達に嘲られ、アブラハムは自分の妻に笑われ、移動した先々の王たちから支援を得られなかった。私たちも身内から、教会組織から、地域から反対され、支援を得られないかもしれない。しかし、信仰をもって神の約束に向かって邁進していきたい。