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ヤコブ4:1-10

5 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

クリスチャンの内には聖霊が宿っている。聖霊の一つの役割はクリスチャンを聖化に導くこと。それは肉の働き(不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽)から離れ、御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制)を求めるようになること (ガラテヤ5:19-26)。

6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。

私たちは聖霊が宿っているから、自分の考えで「聖化」を求められる、と勘違いすることがある。自分の考えや力で完璧を求めようとすると、自分や周りの人に対して不必要なルールを強いるようになる。そのルールを守れているから他の人より優れていると思い込み、他人を裁くようになる。そのような人から神は「逃げ去る」。

守るべきルールより、御霊の実が備わっているか、という観点で考えると、どのクリスチャンもまだまだ足りないと理解できる。足りないから苦しみ、悲しみ、泣く。このへりくだった状態から、神は私たちに近づき、私たちを高くして下さる。

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ヤコブ3

わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。 わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 ヤコブの手紙 3:1‭-‬2‭

多くの者が教師になってはならない理由が、厳しい裁きを受けるから。何故厳しい裁きを受けるのか?「多くのあやまちを犯すものである」から。特に「言葉の上であやまちのない人」となるべき。教師やリーダーが発する言葉は教会全体を影響する。特に講壇から語られる言葉は教会員が「神の言葉」と捉え、教えを吟味して正しさを確かめなければそれに惑わされる。

ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。 ヤコブの手紙 8‭-‬10 

「舌を制しうる人は、ひとりもいない。」完璧な人はいない。「さんびとのろい」が同じ口から出て来ることはよくある。日曜日の礼拝を厳守していながら、会議で他教会や考えの違った人たちを呪う。どんなリーダーであっても間違いは犯す。だから教会員は目を覚ましていなければならない。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。 1ペテロ5:8
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。 ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。 ヤコブの手紙 3:14‭-‬16 

「ねたみや党派心」によって人々の思いを一つにまとめ、「一致」をさせたかのように思えるが、考える力を蓄えていない人々に思想を押し付け、異なった考えを排除していくのは「真理にそむいている」。実はカルトも同じ手口を使う。これは「上から下ってきたもの」と思い込むのではなく、「悪魔的なもの」として注意しておきたい。

しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。 義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。 ヤコブの手紙 3:17‭-‬18 

「上からの知恵」がどのようなものかテストできるリスト。語られていることばは寛容なのか?様々な意見を語って、よく検討して結論に至っているか?ルールを守れない人に対してのあわれみは示されているか?考えは偏っていないか?こういう「上からの知恵」が本当の「純潔と平和と一致」を生み出す。

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ヤコブ2:14-26

24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

パウロによると、私たちは信仰だけによって救われる。「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:28) しかし、ヤコブは信仰だけでなく、行いも必要だと書いている(24節)。 この2つは矛盾しているのか?

パウロは、人が他に何を持っていようと、主イエスを信じる信仰がなければ、その人は義と認められないと断言し、ヤコブは、人がどのような信仰を装っていようと、それが善い行いを生み出すのに適した信仰でなければ、義認の問題において何の価値もないと断言しています。これが本当の説明であり、これらが彼らがこの問題を見ている「立場」であるとすると、この二人の作家の和解は簡単です。罪人がどのようにして神の前で義とされるかという質問があれば、それは「律法の働きなしに」信仰だけによるものであるというパウロの答えになるのは、昔も今も変わりません。また、義とされる信仰とはどのようにして示すことができるかと問われれば、ヤコブの答えは、聖なる生活と実際的な従順を生み出すものだけであるというものです。

https://biblehub.com/commentaries/barnes/james/2.htm

ところで、ある人が救いを受け入れたかどうかはどのように確認できるだろうか?パウロはこう書いている、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9) では、特定の言葉、つまり「正解」を言えば救われていることになるのか?何度か諮問会に参加したことがあるが、こればかりが強調されているように思える。「イエス・キリストは十字架にかかって、私の罪のために死んでくださいました。このことを信じます」という言葉を聞けばOK。この一つでも、つまり「イエス・キリスト」とか「私の罪」という言葉を聞けなかったらNG、みたいな諮問会はよくある。

確かに一つのバロメータは正しい知識と、それを口に出すことだ。しかし、救いは「心」が試されている。それを確認する手段は、このヤコブ2章に含まれている。

23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。

アブラハムもラハブも、イエス・キリストの十字架を100%理解していたわけではないが、信仰とそれを表す行いによって義と認められた。つまり、本当の信仰があれば実を結ぶはず。その実を見ることができれば、その人が心全体でキリストを受け入れたかが確認できる。もちろん、これを見るにはその人に深く関わり、その人が考えていること、どのような行動をしているか、何故その行動をするのか、を理解する必要がある。「諮問会」という閉ざされた空間だけでは確認できない。リーダーは人と関わりをもって初めて人々の信仰をケアすることができる。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
ガラテヤ5
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ヤコブ2:1~13

2 たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。3 その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、4 あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。5 愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。

礼拝所は費用をかけずに建設したり維持したりすることはできないので、それに貢献する人々にはそれなりの便宜が図られるべきかもしれませんが、すべての人がより霊的な心を持っていれば、貧しい人々は通常の礼拝集会よりも注意を払って扱われるでしょう。 卑しい状態は、内的な平和と聖性の成長にとって最も好ましいものです。

Matthew Henry’s Concise Commentary
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 マタイ5:3

心が貧しいと、自分が本当に必要が何なのかを理解して、それを求めるようになる。それはイエス・キリストの恵み。同時に、イエス・キリストは虐げられている者に対して手を差し伸べている。立派な会堂で完璧な礼拝式典を行うよりも、霊的な心を持ってイエス・キリストが注目したことに注目し、心が貧しい人のようにイエスを求めるようになりたい。

8 しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。9 しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。

聖書は律法として、隣人を自分のように愛することをあげています。この律法は王の律法であり、王の王から出たものです。もしクリスチャンが不当な行為をするなら、律法によって違反者として有罪判決を受けることになります。自分の良い行いが悪い行いを償ってくれると考えることは、明らかに別の償いを求めることになります。

Matthew Henry’s Concise Commentary
3 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたの道とあなたがたの行いを改めるならば、わたしはあなたがたをこの所に住まわせる。4 あなたがたは、『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない。5 もしあなたがたが、まことに、その道と行いを改めて、互に公正を行い、6 寄留の他国人と、みなしごと、やもめをしえたげることなく、罪のない人の血をこの所に流すことなく、また、ほかの神々に従って自ら害をまねくことをしないならば、7 わたしはあなたがたを、わたしが昔あなたがたの先祖に与えたこの地に永遠に住まわせる。8 見よ、あなたがたは偽りの言葉を頼みとしているが、それはむだである。
エレミヤ7:3-8

「主の神殿だ」と言いながら立場的に、心理的に弱い人間を追い詰めるのは「偽りの言葉を頼みとしている」。いくら礼拝を捧げても、「良い行いが悪い行いを償ってくれる」ことはない。そう思い込むのはイエス・キリストの贖いでなく、「別の償いを求めること」。

13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

不敬虔な罪人に下される運命は、最終的には慈悲のない裁きです。しかし、神はご自身の法廷で正当に非難されるべき人々を赦し祝福することを、ご自身の栄光と喜びと考えておられます。そして、神の恵みは、その慈悲を受ける人々に、その行動を真似るように教えています。

Matthew Henry’s Concise Commentary

『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

マタイ9:13
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ヤコブ1:19~27

19 愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。20 人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。

この聖書箇所はヤコブがユダヤ系クリスチャンに語られていることから、一般的な言葉や怒りに関する事柄でないことが考えられる。彼らは律法の下に育ったので、それを伝えることに必死になっていた。その強い思いから、違った意見をもった人が現れると、相手を理解せず怒りをあらわにしていた。

  • 「聞くに早く」=人の言葉ではなく、聖書を聞く
  • 「語るにおそく」= よく理解していない聖書の事柄について
  • 「怒るにおそく」=違う意見をもった人に対して

「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」
正しいと思ったことを教え込みたい気持ちが抑えられないからこそ、相手にそれを押し付けてしまう。結果的に神の義がその人に全うされるのではなく、自分の思いが全うされるだけになる。押し込まれた相手は苦しまみれに教えられたことに同意し、信じてもいないことを公言する偽善者となってしまう。もしくは、真理だと思いこんでしまい、自分で真理を確認しなくなる、一種のマインドコントロール状態に陥ってしまう。

(上記の内容はBenson Commentaryから引用している)

21 だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。

みことばは、救われた時に聖霊によって植え付けられ、日々聖書を読む習慣によって深められ、幅広い教師に習うことによって視野が広められる。

22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

ただ聞くだけ、ただ学ぶだけ、ただ知識を蓄えるだけでなく、神のみこころを成す者となっていくことが、みことばを学ぶ目的。神のみこころは、「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(2ペテロ3:9) そのために私たちは学んだことを大宣教命令の実現に向けて行動に移す。

27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

ここにある「信心」は「宗教」とも訳されている。宣教はただ福音のメッセージで人に殴りかかることではない。窮屈な礼拝に引っ張り込んでじっと座らせることではない。困っている人を助け、世の中で生活する上でキリストの光を表す。人々がいる場所に出ていって福音を伝える。礼拝で座っているだけでは人々には届かない。

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ヤコブ1:12-18

'試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。 ' ヤコブの手紙 1:12

神は試練を与えるかもしれない。「キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(2テモテ3:12) しかし、これを耐え忍ぶ人には、神は命の冠を約束している。「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」(黙示録2:10) 幸い私たちのほとんどはクリスチャンとして命の危険にさらされることは無いが、キリストのために生きようとしたとき、聖書の真理を貫こうとしたとき、迫害に合うことがある。命の危険はないかも知れないが、精神的に追い詰められて命が削られるような思いをする。そんな時に、命の冠を与える神に目を向け、日々命を与えてくださるように願いたい。

'誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。 ' ヤコブの手紙 1:13

誘惑は神からこない。つまり、罪を犯す誘惑のこと。神は罪を犯すことはことはないし、罪に影響されることはない。よって、神は人に罪を犯すように唆したりはしない。

'良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。 ' ヤコブの手紙 1:17-18

むしろ、神は良い贈り物をくださる。先程の命の冠もそうだが、無傷で完璧な、完全な賜物を与えてくださる。そもそも私たちがクリスチャンになったのも、神が「真理の言葉」を与えて下さったからだ。それは、聖書にかかれている通り、イエス・キリストが私たちの罪の代価を支払って下さったことを信じて受け入れることによって、神の子どもとされること。この「福音」=「good news」こそ、神が私たちに与えて下さった最も完全な賜物。

'むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 ' ヤコブの手紙 1:14-15

人が欲望に引かれ、唆されて、姦淫に陥ると、生まれてくるのは罪。その罪が成長すると死を生む。私たちの身の回りの欲望は何だろうか?長年傷つけられてきたことを許せないことだろうか。守りたいものがあるから権力を利用して人を排除することだろうか。自分を良く見せるために、都合の良い嘘や情報統制を図ることだろうか。このような欲望に引かれると自分に対して、隣人に対して、そして影響する人に対して死を生むことになることを、常に覚えておきたい。

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ヤコブ1:1~18

2 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。

試練がある、ということは成長している、ということ。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル12:6) とあるように、神は私たちを愛しているからこそ、私たちに試練を与えて訓練してくださる。その結果として得られるものは霊的な価値がある。

3 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
4 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。

信仰が試されると忍耐が生み出される。信仰によって異教のしきたりに従わないと、「協調性がない」と言われるかもしれない。仲間はずれにされるかもしれない。昇進のチャンスや難しい調整を強いられるかもしれない。教会内でも、正しい事を主張すると迫害を受けるかも知れない。信仰が試される場は多々あるが、忍耐強くなる。神を理解しない世の中や、真理を求めないクリスチャンに対して、忍耐強く接することができる。キリストが全てを治めることに希望を持つ (1コリント15:25) ことができるので、その時まで忍耐強く信仰を生き抜くことができる。真理を求めない教師に対して厳しい裁きがある (ヤコブ3:1) ので、それを正す責務が自分にないことを覚え、神に任せることができる。

5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

知恵が不足しているのであれば、神に願うことができる。神は「とがめもせずに憎しみもなくすべての人に与える」。「こんなことも知らないのか」とか、「これを理解しないと次に進めない」ということは神は言わない。神のことは全て理解していなくて当たり前。だから私たちは祈りながら、他のクリスチャンと共に聖書を調べ、励まし合いながら成長していく。また、聖霊が理解を与えてくださることを信じて祈ることが重要。牧師でなくても、神学者でなくても、クリスチャンであれば聖霊によって聖書を理解することができる。

初期のクリスチャンは、霊的に成長するために(聖書を)一緒に読みました。彼らは、神の言葉が読み上げられるのを聞くために集まり、一緒に議論したり適用したりしました(使徒13:14-15)。聖書の著者たちが目指したように、彼らの目標は単に情報を得ることではなく、キリストの姿に似せていくことでした(ガラテヤ4:19)。そして、イエスはヨハネを通して私たちに「この預言の言葉を声に出して読む者は幸いであり、聞く者、またこの中に書かれていることを守る者は幸いである」(黙示録1:3)と語っています。

https://www.desiringgod.org/articles/read-the-bible-with-someone-else
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Hebrews

ヘブル13:9~25

'指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。 ' ヘブライ人への手紙 13:17

教会員の責務として「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従する」こと。しかし、その前提として指導者たちは「あなたがたの魂のために心を配っている。」教会規則を持ち出して違反していることを指摘することが魂の心配をしていることになるのか?礼拝に参加するだけでも辛い人に対して、複数人で一方的な違反宣言や質問攻めをするのは、その人の魂を養う働きなのか?ましてや、「戒規」を言い渡して、信者であるにもかかわらず聖餐を取ることを拒む教えは聖書にあるのだろうか?

John Piperが牧会していたBethlehem Baptist Churchの教会戒規の手順を参考にしてみた。

従順さを追求する代わりに、教会員は罪から逃げようとする努力をせずに、罪を犯す行動や態度に固執しています。これは、契約に違反して生きることを故意に決めたことになります。

この場合、最も親しい友である教会員は、可能であれば、その人が罪に陥った初期の段階でアプローチすべきです。悔い改めがない場合は、マタイ18:15-17のプロセスを継続して行うべきです。どの段階においても、違反者のため、教会の霊的健康のため、キリストの栄光のために、悔い改めと赦しと和解が目標となります。

愛する教会員が個人的に努力しても悔い改めが得られない場合には、教会の監督者を呼び寄せ、忍耐強く問いかけ、懇願するプロセスを踏むべきです。悔い改めが得られない場合は、教会の指導者たちが調査結果を教会全体に発表し、その人が目を覚まして悔い改めを勝ち取ることを期待して、その人を会員から外す措置がとられます(1コリント5:5、2コリント2:6-7、2テサロニケ3:14-15)。

https://www.desiringgod.org/articles/the-meaning-of-membership-and-church-accountability

やはり突然複数人で違反を言い渡すのではなく、「最も親しい友である教会員」がこのメッセージを伝え、説得することが最初のステップにある。マタイの箇所も同じことが書かれている。つまり、その親しい友も、違反があることに理解と納得を示し、その違反から立ち返ってほしいという思いから違反者を説得する必要がある。ほとんど接点のない第三者(指導者)にはこのような愛のある行動はできない。

教会戒規が聖書的に行われていないことを考えると、教会としての健全性が問われる。健全な教会とは何なのか?それを考えたときに次の4つの特徴を発見した。

1. 教会の指導者、長老、牧師は、神の言葉を完全に、そして忠実に宣べます。

2. 聖餐と洗礼を行います。

3. 教会戒規を行使し、福音に反する歩みをしたり、主を非難したりする者を会員から排除します。

4. 互いに愛し合い、地域社会を愛し、救われる人が起こされるように励み、世界の国民に福音を伝える。これは教会の使命です。

この4つの特徴のどれか1つでも欠けていれば、深刻な状態となり、それゆえに人は他の教会を探し始めることになります。

https://www.desiringgod.org/interviews/when-should-i-leave-my-church

どれも当然のように思えるが、教会として常に自分を評価し続けないと少しずつずれていってしまう。「教会の指導者、長老、牧師は、神の言葉を完全に、そして忠実に宣べます。」説教は聖書を忠実に語っているのか?個人的な思いや直面する問題に重きを置きすぎていないか?牧師以外の指導者たちは神の言葉を語れているか?それとも他人(牧師含めて)の言葉や書物に頼りすぎていないか?「教会戒規を行使し、福音に反する歩みをしたり、主を非難したりする者を会員から排除します。」戒規を行使する理由が、福音に反する歩みと神を避難する行為。「教会規則」ではなく、やはり聖書に明確に記されている「福音に反する歩み」や「神の避難」が前提となっている。「教会規則」ではなく、聖書の規準を見直す必要がある。「互いに愛し合い、地域社会を愛し、救われる人が起こされるように励み、世界の国民に福音を伝える」これが教会の使命。礼拝を第一にすることではない。救われる人が起こされるために福音を伝え、イエスが教えた愛を示す。「この4つの特徴のどれか1つでも欠けていれば、深刻な状態となる。」

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ヘブル13:1~8

'兄弟としていつも愛し合いなさい。 ' ヘブライ人への手紙 13:1

聖書に至るところで兄弟を愛することが書かれているが、具体的にどうやって愛すべきなのか?今回の箇所はいくつかヒントがあった。

'旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。 ' ヘブライ人への手紙 13:2

これは以前も触れたことがあるが、まずもてなすこと。クリスチャンに対してもてなすことは言うまでもないが、クリスチャンとして新来会者を歓迎することも重要。クリスチャン同士で優しくしあっても、新たに教会を訪れた人を無視するようではただのクラブ活動にすぎない。知らない人をもてなした時にクリスチャンとしての良さを発揮できる。

'自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。 ' ヘブライ人への手紙 13:3

福音のために迫害を受けている人を思いやる。そのためには実態を知るために情報収集し、その情報を共有して共通認識を持ち、詳細に必要なことを祈る。もし可能であれば実際に手助けをする。食べ物や聖書を運ぶとか、直接献金をして支援をする。また政治に働きかけて救済を求めることも考えられる。

また「虐待されている人たち」のことを思いやる。家庭内での虐待も考えられるが、教会に向けて語られている言葉であることから、教会内での「虐待」も考えられる。つまり、弱い立場の人に対してどう思いやるのか。当時はやもめや孤児だったが、今日においては心理的に追い詰められている人かもしれない。そういう人に対して、教会として、特に教会のリーダーは何をすべきか。個人的な関係を持つように努力し、相手を理解することを心がけ、信頼関係ができた時に的確なアドバイスをする。兄弟として愛し合うことは、信頼関係をもつこと。

'結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。 ' ヘブライ人への手紙 13:4

兄弟として愛し合うのは夫婦の間でも同じ。夫婦である前に相手は兄弟姉妹なのだから。キリスト者としてキリストに結ばれ、夫婦として結ばれたカップルであるならば、互いを愛し、支え合う関係であるべき。妻のことを見下して何かをできないと決めつけることも、夫のことを「おじさん」と呼んで他人扱いするのも愛し合う関係とは言えない。心にあることが言葉として出てくるので、まず相手を心からキリストによって愛することに務め、その心をもって語る言葉を訂正していける。

'金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 ' ヘブライ人への手紙 13:5

クリスチャンとして金銭に執着せず、神に頼ることはいつも聞くこと。教会として金銭に執着せず神に頼ることも考えたい。多くの金銭を集めて建物を大きくしたいという考えは必ずしも悪くはないが、本当の教会である「人」が霊的に貧しいのであれば建物があっても宝の持ち腐れ。金銭に執着せず、神が与える恵みに目を向けるような教会(人たち)であるべき。

'あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。 ' ヘブライ人への手紙 13:7-8

「神の言葉を語った指導者たち」それは聖書全体を通して、神が語った言葉、イエスが教えたこと、イエスが行動で示したことを語ってきた指導者たち。クリスチャンはみなキリストの弟子。キリストのようになることが目標なので、それを促す指導者のことを思い出すと良い。

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ヘブル 12:14-29

'すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。 神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。 ' ヘブライ人への手紙 12:14-15

平和と聖なる生活を追い求める、というのは異なった意見を排除して同じ考えを持った人たちだけで固めることではない。異なった意見がある時に対話し、双方の立場から歩み寄って一番良い道を共に探ること。これには「伝統」や「権限」関係なく、良い考えは誰からも出てくることを前提においている。「伝統」よりも神のみこころを求め (イザヤ55:6)、「権限」よりも全てのクリスチャンが祭司であることを覚える (1ペテロ2:9)。

「苦い根」はどこから来るのか?一つのヒントは子育ての箇所に記されている:子どもを怒らせないこと (エペソ6:4)。これは単に怒るだけでなく、子どもを追い詰めて怒りに導くこと。教会内でもリーダーが話を全く聞かず、わだかまりを解こうと努力しようとしないことが続くと、教会員も追い詰められていく。この苦い関係が広まっていき、リーダーとしては悩みの種となる。

これを取り除くには「戒規」や「除名」で排除することは簡単だが、イエスはどのように教えていたか?まず一対一で会話をして、状況確認と忠告を行う (マタイ18:15)。次に、一対一で話した人と、あと一人か二人(多くても3人)で話し合う (マタイ18:16)。それでも解決しなければ教会のリーダーとの話し合いになる (マタイ18:17)。いきなり「役員会」に呼ばれて「戒規」を言い渡すのではなく、まずは一対一の会話。少しでも会話が成り立つようだったら「兄弟を得た」とし、それ以上の追求はしない。ルールを守る・守らないの問題を突きつけて排除するのではなく、会話を通して「平和」の道を探る。

これが教会の頭であるイエス・キリストが教えたこと。「畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕える」(ヘブル12:28) には神の子であるイエスに聞き従う必要がある (ルカ9:35)。