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Nahum

ナホム

ナホムは、北の王国イスラエルがアッシリアに722 BCに滅ぼされた後に書かれた。アッシリアは多くの国を占領して領土を広げていったが、ナホムはこのアッシリアの首都だったニネベが滅ぼされることについて予言している。

1章の冒頭ではまず神の聖なる威厳について書かれている。この事実は全ての罪人に悔い改めを促し、全ての聖徒に喜びを与える。

  • (1:2) 神の義は絶対である。神の義は全ての人に公平に適用される。神の性質がそうさせるのと、神の敵は義による裁きを受けることになる。
  • (1:3-8) 神の力は否定できない。3節によると神は力強い者。神の力は無限で、神は全能である。
  • (1:7) 神の善は計り知れない。神は裁きにおいて力強いだけでなく、恵みでも力強い。神は善であり、常に赦す準備ができている (詩篇86:5)。

1:12-13で、ナホムはユダの救いについて書いている。アッシリアは平和と富を手に入れたように見えたが、全てが変わろうとしていた。アッシリアは強い敵で無敵のようだったが、神の前には無力である。神はユダをアッシリアの支配から自由にし、アッシリアは二度と神の民を脅かすことはない。

アッシリアはイスラエルに対する裁きとして神に遣わされたが、今度はアッシリアが裁きを受ける側になった。

  • (2:9–10) 略奪する者が略奪される側になった。アッシリアは多くの富を獲得し、イスラエルを含む支配した国々から貢ぎ物を受けていた。しかし、この多くの富は侵略者の手に渡ってしまう。
  • (2:11-12) 捕食者が捕食される側になった。ニネベはライオンの巣のように例えられている。メスライオンとその子供は十分すぎる食料を与えられているようだ。
  • (2:13) 攻撃する者が攻撃される側になった。アッシリアは神が攻撃するための「憤りの杖」とされていた (イザヤ10:4-6)。しかし、イスラエルが裁かれた今、アッシリアは神の怒りを受ける側になった。

3章では、ニネベの滅亡は、神と人類に対する極悪非道な罪と犯罪のために正当化されている。アッシリアはそれまで支配していた国々から軽蔑され、笑いものにされる結果となる。彼らの滅亡は、彼らが受けるべき正当な報いであった。神から罪の裁きを受けることほど怖いことはない。

  • (3:1) アッシリアは、他国に対する残虐な行為によって滅ぼされた。彼らは人間の尊厳に無関心で、私利私欲だけを求めていた。
  • (3:4) アッシリアは淫乱と妖術の罪を犯していた。これらは悪の典型として頻繁に聖書に記されている。さらに、この罪が発展して人身売買にも手を出し、私利私欲を果たしていた。

ナホムは最後に、ニネベを誹謗する形で彼らが裁きを逃れることができないことを現している。ニネベは自分たちを守るすべはない。酔っぱらいが安全な場所を求めて隠れるようだ (3:11-14)。いなごのように数が増えても、敵が現れたら逃げてしまう (3:15-19)。アッシリアは必ず滅亡し、復興することはない。そしてアッシリアの滅亡のニュースが広まるにつれ、彼らの悪事を知る人々は拍手する。アッシリアが勢力を広めるにつれ国々は恐れを抱いたが、アッシリアの滅亡は喜びをもたらす。

面白いことに、ナホムはヨナのように質問で予言を締めくくる。ヨナ書では、神はヨナに対して何故悔い改める人を赦せないのかを問いている。ナホム書では、神が何故悔い改めない人を裁かないのかを問いている。ヨナのメッセージは、神は悔い改めと信仰を持つものを必ず受け入れるということ。ナホムのメッセージは、神は義によって悔い改めない者を必ず裁くこと。どちらの予言者も真実を語る。神の義によって裁かれるより、神の恵みと慈悲深さを体験する方が望ましい。

上記はThe Gospel Coalitionが提供している参考書を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/nahum/
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Micah

ミカ7

7 しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。8 わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。

ミカの時代は、1~6節にあるように罪がはびこっている時代だった。殺し合いが頻繁におき (2節)、リーダーは賄賂を求め (3節)、正しく生きていると主張する人はいるがその人を信頼するより茨の方が耐えられる状態 (4節)、隣人や友は信頼できない (5節)、そして家庭内でも反乱がおきている (6節)。ちなみに、イエスも6節をマタイ10:34-36で引用し、新約でも同じ状態であったことを現している。

この罪を犯しているのは神の民だったので、神はその罪を罰した。クリスチャンも罪を犯すと、神はそれを罰することがある。1コリント11:29-32に例があるが、聖餐を取る時に御体をわきまえずに取ったクリスチャンが病にかかって死んだと記されている。私たちは神の罰をどう受け止めるべきだろうか?その答えが今日の箇所に書かれている。

クリスチャンが罪を犯した時にまず起きることが、敵が私たちを欺くこと。クリスチャンなのに何故こんな罪を犯したのか?後ろ指を刺されて罵られる。そんな時、私たちは「主を仰ぎ見、救いの神を待つ」ことができる。自分の罪悪感に押しつぶされそうな時、自己卑下に陥るのではなく、救いをもたらしてくださる神を見上げることができる。

確かに罪を犯した私たちは「倒れた」。そして「暗やみの中にすわって」しまっている。その結果「主の怒りを負わなければならない。」罪を犯した以上、義なる神の罰を受けるのは当然のことである。罪の事実とその罰を受け止め、心を砕かれる必要はある。

同時に、敵は「わたしについて喜ぶ」道理はない。なぜなら、私たちは「起きあがる」から。「主はわが光」となり、「主はわが訴えを取りあげ」てくださる。罪の罰を受けた砕かれた状態から、神は私たちを引き上げてくださる。そして「わたしのためにさばきを行われる」。私たちに「対して」ではなく、私たちの「ために」裁きを行う。神が私たちを裁くのは、私たちがより罪悪感に陥るためでなく、神に立ち返り、救いの神にすがるためである。それを証拠に、「主はわたしを光に導き出してくださる」とある。そして結果的に「主の正義を見る」ことを通して、私たちは生きるべき道が示される。

罪を理解し、罰によって心が砕かれる。同時に、神が光へ導いてくださると胸を張って言える。このへりくだりと神への自信が、クリスチャンが神の裁きを受け止める方法といえる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-to-rise-after-we-fall-into-sin 

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Micah

ミカ

1:1 ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。

ミカはヨタム、アハズ、ヘゼキヤの時代に生きていたので、735-700 BCだと推測される。北の王国だったイスラエルがアッシリアに占領されたのが720 BCで、その後アッシリアは南の王国ユダの首都だったエルサレムをも包囲した。そんな時代にミカはサマリヤ(イスラエルの首都)とエルサレムに対して予言していた。

1:6 このゆえにわたしはサマリヤを野の石塚となし、ぶどうを植える所となし、またその石を谷に投げ落し、その基をあらわにする。7 その彫像はみな砕かれ、その獲た価はみな火で焼かれる。わたしはその偶像をことごとくこわす。これは遊女の価から集めたのだから、遊女の価に帰る。

サマリヤが裁かれたのは、偶像礼拝によるものだった。神はこの世をご自身の栄光のために創造したので、神に反して偶像を拝むことによって裁きを受けるのは当然のこと。神は義なる方なので、不信仰に無関心でいることはできない。偶像礼拝は必ず罪に繋がり、人の命を脅かす。

2:2 彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてその家を奪い、人をしえたげてその嗣業を奪う。3 それゆえ、主はこう言われる、見よ、わたしはこのやからにむかって/災を下そうと計る。あなたがたはその首を/これから、はずすことはできない。また、まっすぐに立って歩くことはできない。これは災の時だからである。

彼らは貪欲と盗みと虐げとプライドを働かせていた。偶像礼拝と傲慢は、ともに貪欲と盗みと虐げを促す。貪欲の心はサマリヤだけでなく、エルサレムにも広がっていた。

3:9 ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家のつかさたちよ、すなわち公義を憎み、すべての正しい事を曲げる者よ、これを聞け。10 あなたがたは血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建てた。11 そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う。しかもなお彼らは主に寄り頼んで、「主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない」と言う。

貪欲は正義をも歪めていて、リーダーや祭司や予言者までも賄賂を受け取るようになっていた。リーダーは正義を憎み、公平を曲げ、血を流し、賄賂を受け取った。祭司は金のために教え、予言者は金を払えば聞きたいことを何でも告げた。

これらに対してミカは破滅を約束した。サマリヤは722 BCに廃墟となり (1:6)、エルサレムは586 BCにバビロンに捕虜として連れて行かれた (4:10)。

6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

しかし、この暗いメッセージの合間に、悔い改めへりくだる人々には栄光が与えられていることが語られている。この栄光を受け取るには3つに条件がある。一つ目は、へりくだって神と共に歩むこと。子供のように神にすがり、全てを神に任せながら生きること。二つ目は、いつくしみを愛すること。つまり、慈悲深さをもって愛する心を持ち、隣人を思うこと。三つ目は、義を行うこと。特に虐げられている人々に対して働きかけること。これらはイエス・キリストがパリサイ人に語った言葉と似ている。神の慈悲深さにすがると、私たちの心は他人にたいして慈悲深さを現し、虐げられている人には義を求めるようになる。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

マタイ23:23

そしてミカの予言は、神の慈悲深さで締めくくられている。

7:18 だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために/とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を/海の深みに投げ入れ、20 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。

クリスチャンに最も中心的な希望として、イエス・キリストの予言がミカの中で記されている。キリストが送られたことは神について次のことを現している:1)神は自由と慈悲深さを通してご自身の栄光を現している。2)神はどんなに暗い時代にあっても約束は必ず守る。3)神は神の民を守る。キリストによって神は栄光を現し、救いの約束を成就し、神の民とされたクリスチャンの信仰を世の終わりまで守ってくださる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/eagle-edom-will-come-down
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Obadiah

オバデア

オバデアは586 BCのエルサレムの崩壊後に書かれていて、2つの部分に分かれている。1〜16節では、エドムに対して裁きのことばが書かれている。エドムは死海の南東に住んでいたエサウの子孫だった。17〜21節では、イスラエルの救いと、最終的な神の国の建国が記されている。オバデアのメインテーマは、虐げられている神の民を励まし、神が宇宙の義なる支配者であることを示すことだと考えられる。悪人は裁かれ、義なる裁判官が全地上を支配し、全ての神の民が永遠と安全に暮らせる日が来る。

2〜16節

エドムが滅ぼされる理由は一点に限る。プライド。プライドによってエドムは全ての人の上をいくワシのように安全だと考えていた。しかし神はこういう、「わたしはそこからあなたを引きおろす」。しかも、エドムは強盗やぶどうを集める人のように何かを残す形で滅ぼされるのではなく、神によって完全に滅ぼされる (5節)。また、エドムは周りの同盟だった国々に裏切られ、逃げ場も失っていることに気づいていない (7節)。エドムの首都であったテマンは多くの知性と軍事力を備えていたが、神はそれをものともせずプライドをつぶし、知性と力のあるものを共に裁く (8-9節)。

プライドに陥っている人は、自分を他人より良く見せるために常に機会を狙っている。自分を正当化する機会や、他人を否定して自分より低くする機会。これは国であっても、教会組織であっても、大人でも子供でも皆同じことが言える。神の恵みなしでは、他人の失敗で常に喜びを得ている。自分たちの弱さを横に置き、成功を最大限に称える。エドムはユダの滅びを喜び、傍観し、嘲笑い、略奪し、逃げ遅れた人々を切り捨てた (10-14節)。

そしてオバデアは「主の日」ということばを使ってエドムの滅びを宣言する (15-16節)。これは神が必ず裁きを執行することを指しているが、同時に未来に来る、全ての不義が正される、全人類が体験する主の日のことも指している。

17~21節

後半でオバデアは、主の日にユダの人たちに希望があると告げている。ユダは不信仰によって捕虜となってしまったが、神の裁きを逃れ滅ぼされなかった人々の中には、神に立ち返り、神の慈悲深さに頼った人たちもいたと考えられる。この人たちはやがて約束の地に戻り、イスラエルの復興に取り掛かることになる。

今日において神の民はこの残されたユダヤ人ではなく、キリストに信頼を置く者全てが神の民とされている。「ユダヤ人もギリシャ人もなく・・・あなたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:28-29)。この神の民はオバデアが想像したよりはるかに多い数の人だが、それだけでなく約束の土地もさらに大きい。パレスチナの土地だけでなく、ローマ4:13によると、アブラハムの子孫は全世界を相続すると書いてある。「そして王国は主のものとなる。」

オバデアを私たちに当てはめると

  1. 神は今でも全世界を支配しており、国々と歴史を思いのままに動かしている。
  2. プライドは私たちを欺く (3節)。プライドは、私たちは独立していて、自己充足であり、無敵だと思わせてしまう。プライドに陥る人は欺きを持って考えたり感じたりするようになってしまう。プライドは歪んだ思いと人生観を持たせてしまう。
  3. 神はプライドを嫌い、プライドのある人を高いところから引き下ろす (4節)。
  4. プライドのある国々や人々は蒔いた種を刈り取る (15節)。プライドに身を任せ、神を忘れてしまうと、主の日においても独立したままになってしまう。神の恵みに頼ることはできなくなってしまう。
  5. 神は裁きから逃れる道を与えて下さっている (17節)。プライドから逃れ、聖なるへりくだりによって、主の日に安全を得ることができる。
上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/eagle-edom-will-come-down

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Amos

アモス6, 8, 5

6:1 「わざわいなるかな、安らかにシオンにいる者、また安心してサマリヤの山にいる者、諸国民のかしらのうちの著名な人々で、イスラエルの家がきて従う者よ。
6 鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。
13 あなたがたはロデバルを喜び、「われわれは自分の力で/カルナイムを得たではないか」と言う。

イスラエルは裕福だった。しかし、その裕福さが彼らを滅びへと導いてしまった。裕福さを愛し、自分たちの強さに誇りをもっていた。神はそんな誇りを嫌い、建て上げた宮殿を憎んだ (6:8)。神が心の拠り所でなくなると、この世の娯楽と快適さに執着してしまう。この快適さへの依存が、真実を曲げることにつながり、貧しい人に対して無関心にさせてしまう。

これは今日においてどんな人に当てはまるだろうか?快適を求めて生活し、建物を大きくすることにこだわり、滅びに向かっている人を悲しまず、安定した環境作りに固執し、自分を愛することと自分を正当化するのに長け、隣人を愛することと尊重することを二の次にしている。そんな人に対して神はこう言う:「わたしはまた冬の家と夏の家とを撃つ、象牙の家は滅び、大いなる家は消えうせる」(3:15)

8:4 あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。5 あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、6 乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう」。

4:1ではサマリアの裕福な人たちが貧しい人たちを虐げていることが描かれている。5:12では腐敗と無関心がおり混ざって、賄賂を受け取り、正しい人までも虐げているのが分かる。そして8:4-6では宗教的偽善と富への愛、不誠実と硬直性がおり混ざっていく。

教会に行っていても、礼拝に参加していても、心は神に向いておらず、反抗している。裕福と快適に依存している。真実を無視している。貧しい人へは無関心。これらはアモスの時代で神の怒りを買ったが、当時も今も同じ神が世を治めている。

5:6 あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。
14 善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。15 悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。万軍の神、主は、あるいは/ヨセフの残りの者をあわれまれるであろう。

神に立ち返り、神を求めることが解決法だが、これは神に対する考えを変えるだけではない。快適さへの愛を、善と正義への愛に置き換えること。善を愛するようになれば、自分たちの富や伝統が脅かされたから怒るのでなく、人が飢えていることに怒り、それに対応するアクションを起こすようになる。正義を愛するようになれば、全員同じ考えを持った人を集め、制約を利用して考えの違った人を指摘・迫害するのではなく、互いを尊重し理解することに努め、相手を思いやる愛をもって本当の「純潔と平和と一致を守る」ことができる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
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Amos

アモス4

4 「あなたがたはベテルへ行って罪を犯し、ギルガルへ行って、とがを増し加えよ。朝ごとに、あなたがたの犠牲を携えて行け、三日ごとに、あなたがたの十分の一を携えて行け。5 種を入れたパンの感謝祭をささげ、心よりの供え物をふれ示せ。イスラエルの人々よ、あなたがたはこのようにするのを好んでいる」と/主なる神は言われる。

イスラエルはとても宗教熱心だった。毎日いけにえを捧げ、3日おきに十一献金を捧げ、感謝献金を捧げ、特別献金を募った。しかもこれを喜んで行っていた。しかし、彼らは「罪を犯し」「とがを増し加えた」。神が記した律法と似たようなことをしていて、同じYHWHという名を使って讃えているが、実際には偶像礼拝をしていた。

1 「バシャンの雌牛どもよ、この言葉を聞け。あなたがたはサマリヤの山におり、弱い者をしえたげ、貧しい者を圧迫し、またその主人に向かって、『持ってきて、わたしたちに飲ませよ』と言う。

そしてそれが生き方にも現れていた。イスラエルはとても裕福になっていて、その富を程なく愛していた。しかし、貧しい人を虐げ、圧迫した。

6〜11節では、神が複数回に渡ってイスラエルに立ち返るよう促していることが記されている。飢饉があった (6節)。神が雨を降らせなかったので干ばつがあった (7-8節)。草木を枯らし、いなごで彼らを撃った (9節)。疫病とつるぎをもたらした (10節)。ソドムとゴメラみたいに滅ぼし、火の中から取り出した (11節)。こんなことがあっても、「それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった と主は言われる。」神は複数回に渡って、本当の神なしに喜びを求めることをやめるよう、イスラエルの歩みを止めようとしていた。

12 「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。

神の裁きは確実に近づいていて、止めることはできない。そんな中で希望はある。「神に会う備えをせよ」。ベテルで聖さと真理を持って神に出会う準備をしないのであれば、最後の裁きで神と会う備えができる。その後はもう備えることはできない。

礼拝においても、クリスチャンは神に会う備えをする必要がある。この箇所から以下のことが考えられる。

  1. 真理(聖書)が尊重されている教会に行く。イスラエルは宗教熱心だったが本当の神を礼拝していなかった。通っている教会はただ宗教熱心なのか、本当の神を礼拝しているのか?
  2. 私たちの罪を全て神に告白する。イスラエルは他人を虐げながら神を礼拝しようとしていた。罪を隠したままだと礼拝はただの行事に成り下がってしまう。
  3. 神が私たちの人生でどう働いているか思い返す。神はイスラエルに立ち返るよう何度も促した。自分たちの思いでコントロールしようとするのではなく、神に立ち返り、神に信頼する道を歩むことによって礼拝に備えることができる。
  4. 心で神に近づく。イスラエルは宗教的行為は立派のように見えたが、心で神に近づいていなかった。神を礼拝する時、口だけで神を敬うことは避けたい (マタイ15:)。
上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
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Amos

アモス1-2

アモスは北の王国だったイスラエルに向けて神の予言を伝えた。1章ではまず、イスラエルの周りの国に対して裁きを予言した。まるでイスラエルの首の周りに縄を置き、徐々に締めていったようだ。それぞれの国に対して3つの咎、4つの咎とあるが、この数字は「完成されたも (3) のと溢れたもの (+1)」を表す。つまり、神はこの国々の罪を許してきたが、それが上限に達したので、溢れ出て裁かれることになる。

Kingdoms around Israel 830 map
830 B.C.ごろのパレスチナ

「咎」と訳されている言葉はヘブル語で「ペシャ」もしくは「パシャ」。意味は「法的な罪を犯すこと」。この国々は社会的に、道徳的に違反を犯していた。彼らの罪は次のものを含む: 残酷な社会的抑圧と経済的搾取 (1:3)、奴隷取引と人身売買 (1:6, 9)、親族の裏切りと容赦ない暴力 (1:11)、母と胎児に対する卑劣な残虐行為 (1:13)、死者の冒涜 (2:1)。

4 主はこう言われる、「ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた/偽りの物に惑わされたからである。5 それゆえ、わたしはユダに火を送り、エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす」。

ユダは主の律法を捨てた。これは契約破棄であり、神の権威を拒絶する行為。ユダが契約破棄をしたので、神は呪いを執行する権利があると契約にある。それは罪に対して7倍の罰を与える権限があるということ。ユダが律法を捨てたことは、周りの国々が犯した罪と匹敵する。そしてユダに対する聖なる火の裁きは周りの国々と変わらないものとなる。

6 主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。7 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。8 彼らはすべての祭壇のかたわらに/質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。

イスラエルに対する裁きも周りの国々と匹敵する。イスラエルの罪は次のものを含む:人々を奴隷として売り飛ばす (2:6)、貧しい者を虐げる (2:7)、性的な罪を犯す (2:7)、正義を歪める (2:8)、酔っ払う (2:8)、ナザレ人に対する罪 (2:12)。この中で最も大きな罪は貧困層への虐待と抑圧である。

13 見よ、わたしは麦束をいっぱい積んだ車が/物を圧するように、あなたがたをその所で圧する。14 速く走る者も逃げ場を失い、強い者もその力をふるうことができず、勇士もその命を救うことができない。15 弓をとる者も立つことができず、足早の者も自分を救うことができず、馬に乗る者もその命を救うことができない。16 勇士のうちの雄々しい心の者も/その日には裸で逃げる」と/主は言われる。

この箇所では、イスラエルに対する裁きを火によるものとして現していないが、確実に裁かれることは書かれている。この違いは、聖なる裁きをより鮮明にするために、アモスは予言の表現に変化を加えている。アモス書はこのように複数のトピックとジャンルを織り交ぜることによって、予言の鮮明度を上げ、聞き手がより注目するようになっている。

また、アモス書は神の裁きがすぐそこまで来ていると訴えている。アッシリアによる捕虜は、アモスが予言した一世代後に起きようとしていた。神はイスラエルの民に対して哀れみをもって、裁きの出来事を前もって知らせている。実に、神は誰の死も喜ばない。

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないー神である主のことばー。だから立ち返って生きよ。

エゼキエル18:32
上記の内容はThe Gospel Coalitionの記事を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/amos/#section-29

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John

ヨハネ 16:1-11

2 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。3 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

クリスチャンであれば、キリストを告白し、キリストに従うことを促し、キリストが語ったことばを読んで思い起こす。しかし、人々が聖書を読んでキリストに従うようになれば、トップダウンでコントロールが難しくなる。リーダーの思い通りに人々が動かない場合があるかもしれない。組織のルールやしきたりに変更を余儀なくされるかも知れない。しかし、これはキリストに従うことや聖書を読むことが悪いのではなく、人間の作った組織が完璧でないから常にキリストが示す形に修正していく必要があるということ。残念ながらキリストに従えない人たちは、従おうとしている人たちを追い出すことが、組織を守ることだと勘違いしてしまう。イエスは言った、「彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」

1 わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。

キリストは、弟子たちが信頼していた祭司たちに追い出されることをわかっていた。信頼していた人たちに裏切られるのはとても心苦しいこと。特に神に仕えているはずの祭司たちに迫害されるのは、神を疑うきっかけになりかねない。実際、今日において教会のリーダーに迫害され、うつ病を発症して神を疑ってしまった人は少なくない。迫害され、神を疑いつまずきそうになったときのために、キリストはこれらのことを語って下さった。キリストはリーダーたちの間違いを指摘し、ご自身に従うように促した。キリストに従うことが父なる神に従うこと。キリストを知ることが父なる神を知る唯一の方法であるから。

7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。9 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。10 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。11 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。

そしてキリストは「助け主」である聖霊を与えて下さっている。聖霊は罪と義とさばきについて、人々が理解できるようにして下さる。

1) 罪。自分の罪と神の赦しを得る必要性を理解させて下さる。また、キリストを信じない、弟子たちを迫害している祭司たちの罪も見えるようにして下さる。彼らはイエスに従わない罪を犯し、罪を犯していることを理解できていなかった。

2) 義。父なる神は義なる神である。どんな理不尽な扱いを受けても、神は必ずそれを正して下さる。神に仕えていると思い込んでいる人たちは、自分たちの伝統を守るために自分たちの義に執着し、それを自分勝手に執行する。神の義を忘れ、キリストが唯一の執行者であることを忘れている。

3) さばき。そんな彼らに裁きは下る。彼らを惑わす「この世の君」である悪魔に対してまず裁きが下る。そしてキリストに従わない者も悪魔とともに裁かれる。キリストに従わないなら悪魔に従っていることになるから。

しかし、罪を気付かされ、キリストに立ち返り、キリストに従う道を選ぶのであれば、誰でも赦される。たとえキリスト者を迫害し、会堂から追い出した祭司たちや組織のリーダーたちであっても。それだけイエス・キリストの十字架は力強い。

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Joel

ヨエル1-2

4 かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。

いなごが食い尽くした結果、酔う者の口から酒が断たれた(5節)。いちじくの木が折られた(7節)。主の家に捧げる穀物が足りないぐらいだった(9節)。なのでヨエルは主に向かって叫ぶことを促している(13節)。この悲惨な状態から、神の裁きと恐ろしい主の日が訪れることを予言していた。

神が世の中の出来事をとおして(いなごや裁きを含めて)神が示そうとしていることは何なのか?それは「あなたがたはイスラエルのうちに/わたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る」(2:27)。私たちは神の民として、すべての行いがこれにつながっていることを意識しなければならない。

もし心が神から離れることがあれば、神は私たちを引き戻すために戦って下さる。2:12に「心をつくして」立ち返ることを促している所を見ると、神は私たちの心すべてを求めていることが分かる。日曜日に心の一部、食事前に一部、寝る前に一部、ということではない。私たちが神の内にあるならば、心のすべてが、すべての時に神に向かっていることが求められている。そのために神は戦っている。

なので「衣類ではなく、心を裂く」ように、ヨエルは促している。「目を覚ます」(5節)、「泣き悲しむ」(8節)、「恥じて泣く」(11節)、「断食をし、主に向かって叫ぶ」(14節)。日頃の罪に罪悪感を感じるだけでなく、罪に背を向ける。そして、「恵みがあり、あわれみがあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊か」(2:13) な神に立ち返るよう促している。

最後に、神が2:28で約束した聖霊の注ぎのために祈りたい。確かに、ペンテコステでイエスの弟子たちに聖霊が下ったことはヨエルの予言どおりだとペテロは語っていた (使徒2:16)。しかしこれは、これから来る未来の出来事のほんの一部にすぎない。神のことを夢見る年長の人を何人知っているだろうか?神のビジョンを見る若者を何人知っているだろうか?私たちを導くための予言を語るべく、神の声を聞く息子や娘はどこにいるだろうか?モーセに与えられた希望は成就されたのだろうか?「主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」(民数記11:29)

教会は多くの問題を抱えているので聖霊の注ぎは完全に成就されていないと言える。そしてイスラエルは未だにキリストを信じていないので、神の民は完成されていない。教会のさらなる発展のために、そしてイスラエルの救いのために祈っていきたい。

上記の内容はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-locust-horde-and-the-day-of-the-lord
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ホセア4

1 イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。

イスラエルは神を知らない状態だった。バアルを崇拝することによって、真実がなくなっていた。真の神を礼拝せず、全てを与えて下さった神に忠実ではなくなり、偽りをベースとした生き方をしていた。また、愛情もなくなっていた。真理から背くと自分が正しいと思った道だけを信じ、それ以外の考えを持つ人を否定し排除する。まさに2節にある「ただのろいと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、人々は皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている」状態。この状態に神の愛はない。

4 しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ。5 あなたは昼つまずき、預言者もまたあなたと共に夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。6 わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てて、わたしの祭司としない。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。7 彼らは大きくなるにしたがって、ますますわたしに罪を犯したゆえ、わたしは彼らの栄えを恥に変える。

イスラエルの民も罪を犯したが、神が最も責めていたのは祭司だった。彼らは民に神の律法の知識を与えなかった。ただ自分たちが正しいと思うことを教え、神のみことばを知るように促さなかった。教会においても、信徒に聖書の知識を与えないリーダーたちは神に責められる。人々が無知な状態を保ち、聖書を読むことを推奨せず、外で学ぶことを否定することによって、リーダーたちは信徒をコントロールすることができるかもしれない。しかし、それによって信徒は「知識がないために滅ぼされる」。このような指導者は、ヤコブ3:1にあるように、より重い裁きを受ける。

10 彼らは食べても飽くことなく、淫行をなしてもその数を増すことがない。彼らは主を捨てて、淫行を愛したからである。11 酒と新しい酒とは思慮を奪う。

バアルに与えられたと思われるものを食べ、宗教行事による性的行為をしてもイスラエルの人数は増えず弱小化していった。その理由は、神を捨てて、みことばを捨てて、しきたりやルールを愛したから。この生き方に満足し、現状に酔いしれることによって、思考能力が奪われていった。クリスチャンの生き方や教会生活においても、ある一定のことをやっているから正しく、満足しきって改善を求めないことは、現状に酔っているのと同じ。考えることを辞め、教わったことだけを守るようになってしまう。

5:15 わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う
6:1「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。2 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。3 わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

こんな状態であっても、神はイスラエルが立ち返ることを望んでいる。立ち返れば、神は必ず癒して下さり、守って下さる。そして神は怒るのではなく対話してくださるようになり、どんな偶像が与えることができない潤しと満たしを与えて下さる。それを受けた人々は、神の前で生きるようになり、さらに神を深く知ることができ、自ら神を求めるようになる。神を知ることがさらなる潤しにつながり、満たされた人生となっていく。