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Haggai

ハガイ

エルサレムは586 BCにバビロンによって滅ぼされ、神殿は破壊され、多くのユダヤ人が捕虜として囚われた。その50年後ペルシア帝国がバビロンを滅ぼし、翌年の538 BCにユダヤ人を開放し、エルサレムで神殿を再建することが許された。エルサレムに戻ったユダヤ人の中にハガイとザカリヤがいた。この二人の行いはエズラ5:1-2に記されている。

1 さて預言者ハガイおよびイドの子ゼカリヤのふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に向かって、彼らの上にいますイスラエルの神の名によって預言した。2 そこでシャルテルの子ゼルバベルおよびヨザダクの子エシュアは立ちあがって、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも、彼らと共にいて彼らを助けた。

ハガイは4つの神からのメッセージで構成されていて、最初 (1章)と3つ目 (2:10-19)のメッセージと、2つ目 (2:1-9) と4つ目 (2:20-23)のメッセージが対になっている。

1:4 「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。5 それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。6 あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。

最初のメッセージでは、人々は神殿をないがしろにして生活を良くしようとしているので、いつまでも満足できないと指摘している。いくら働いても、食べても、飲んでも、衣類をまとっても、キリストの体の働きをないがしろにすれば、いつまでも満足しない。神の栄光のために働かず、この世の快楽だけを求めて働くのは、常に欲求不満がまとわりつく。

8 山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。

この不満の解決法は、神の栄光に焦点を当てること。旧約聖書の神殿は神の栄光のために存在した。今日において、教会は神の栄光のために存在する (エペソ1:6, 12, 14)。教会の霊的な状態と成長をないがしろにすることは、神の栄光に焦点を当てていないことを示している。

2:14 そこで、ハガイは言った、「主は言われる、この民も、この国も、わたしの前では、そのようである。またその手のわざもそのようである。その所で彼らのささげるものは、汚れたものである。

2:10-19の3つ目のメッセージによると、神殿の工事がなかなか進んでいない事が読み取れる。理由は、人々は罪の中に生きているから。神に従って神殿の工事を行っても、罪のせいでその仕事は祝福されていない。これに対してハガイは人々に、神殿の工事を始める前の、虚しい、満たされていない状態を思い出すよう促す (2:15-17)。また、神に従って神殿の工事を始め、祝福されたことを考えるように促した (2:18-19)。神はこれからも祝福し続けたい。なので、その祝福を受け続けるためにも生活を見直し、罪を悔い改め、神殿の工事を続けていくように促している。

1つ目と3つ目のメッセージは、ユダヤ人に神殿を再建するように促した。神に従う前は満たされない状態だったが、工事を続けて罪の生活を悔い改めれば、神は必ず祝福してくださる。すべては物理的な建物ではなく、神の栄光のため。

2:3 『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。

2:1-9の2つ目のメッセージに戻ると、神殿の工事が完全に止まっていた事がわかる。理由は、過去の栄光を思い起こしていたから。70年前の神殿はソロモンの傑作で、数百年にわたって神礼拝の中心だった。今やっている工事は、いくら頑張ってもソロモンの神殿と同等のものは作れない。そのレベルに達することができないなら建て直さず、思い出に残す方がマシ。

キリストのために働く人も同じ思いをすることがあるだろう。いくら働いてもみすぼらしく感じる。毎週、毎月頑張るが、収穫がとても小さい。歴史を見返したり、周りを見渡すと大きな成功を治めている人がいる。それに比べて自分の働きはほとんど成果がない。気落ちしてしまって、諦めてしまいたい。

2:4 主は言われる、ゼルバベルよ、勇気を出せ。ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。

神は働きの結果について違った視点をもっている。神殿の工事は意味のないことではない。「勇気を出せ。働け」と励ますと同時に、2つの励ましを与えてくださっている。

1つ目の励ましは、神は常に働く者と共にいること (2:4-5)。心を励ましてくださる (1:13)。かつてイスラエルに約束した神は今日も同じ神 (2:5)。そしてソロモンが神殿を建てたときに励ました神が、同じように私たちを励ましている (1歴代志28:20)。

2つ目の励ましは、働きの結果は見える範囲にとどまらないこと (2:6-9)。神は働きをご自身の栄光で満たし、思い描ける以上に結果を伴うようにしてくださる。この神の業に信頼し、恐れず働くことができる。

実際に神殿の再建は、キリストが活動を初めたころには素晴らしい建造物になっていた。AD70にこの神殿も破壊されたが、建物でなくキリストを通して私たちは神と交わることができるようになる。一部の神学者は、キリストが1000年間地上を治めるときに、エルサレムに神殿が建てられると解釈している。そして、世の終わりには神ご自身が神殿となるので建物は必要なくなる (黙示録21:22)。

神は小さな不完全なものを、ご自信の栄光のために住処として築かれるのです。ああ、私たちは自分の小さな影響力の領域で、どれほど勇気を持つべきなのでしょう。

このブログはジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/take-courage-you-build-more-than-you-see
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Zephaniah

ゼパニヤ

ゼパニヤはヨシヤがユダの王だった時に神の予言を伝えた。ヨシヤは律法の書を発見し、人々に悔い改めを促した王。ゼパニヤもユダ、特にエルサレムに、悔い改めを促すためのメッセージを語った。

ゼパニヤは以下のような構成になっている。

  • 1章:ユダとエルサレムに対する裁きが記されている (4節)。
  • 2:1-3:ユダが神に立ち返るよう促している。特に3節に「義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ」とある。
  • 2:4-15:ユダの周りの国々にも神の裁きがあると記されている(ピリシテ、モアブ、アンモン、クシュ、アッシリア)。
  • 3:1-7:エルサレムに対しての裁きが記されている。
  • 3:8-20:民が神に立ち返ることを宣言し(9節)、イスラエルが悔い改め再び集められ (10節)、神の喜びの中で栄光を受けることについて記されている。

ゼパニヤのポイントは2:3にあると思われる。その他の箇所はこのゴールに向けさせるために警告と約束を動機として与えている。

「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。」

エルサレムに対する裁きは罪によるものだった。マナセはバアルのための祭壇を至る所だけでなく、神の神殿の中でも作った。ヨシヤはこの祭壇を壊したが、バアル崇拝者は残った。この人達は主の日に滅ぼされる (1:4)。また、ユダは主だけでなくミルコム(またの名をモレク、アモンの神)も拝んでいた (1:5)。二人の主人に仕えることはできないのだが (マタイ6:24)、ユダはそうしようとしていた。

エルサレムの過ちは3:2に要約されている。「呼びかけを聞こうともせず、戒めを受け入れようともせず、主に拠り頼まず、神に近づこうともしない。」主に対する罪の根幹にあるのは、自己満足。全ての人に大きな存在を崇拝したい気持ちはある。同時に、自分自身で全てを成し遂げたいという気持ちもある。なので、神礼拝をやめると、人は自分の思いと一致する「神」を作り出し、それを拝むようになる。要求を押し付けることがなく、自分を肯定しかしない神を崇めるようになる。エルサレムは神に拠り頼まないから裁かれる。

また1:18では、金銭に望みを置き、金銭を愛する人も裁かれるとある。「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らをすく出せない。」金銭への愛は傲慢と自己満足と偶像礼拝と変わらない。どれも神の報いと裁きを無視している。

2章では神に立ち返ることを促している。ゼパニヤが呼びかけているのは義と柔和 (2:3)。この預言書を読む人は皆へりくだり、その立場から神に拠り頼むことによって、義に生きることができる。何故義と柔和に生きるべきかが、2:4-15にかかれている。

  • 主の日から逃れることはできないから。どの方向を向いても周りの国々は神に裁かれている。自分で何とかしようとしても、他人に頼ろうとしても、主の日から逃れることはできない。へりくだり、神に頼ることが唯一安全を得られる方法。
  • 主の日を生き抜く「残り者」が約束されているから。悔い改めはまだ可能なので、今のうちに神に立ち返ることを促している。この「残り者」は救われ、やがてユダの地を治める (2:7, 9)。
  • プライドと傲慢は裁かれるから。ユダの周りの国々は裁かれる。裁かれることが分かれば悔い改めるはず。神の裁きを逃れるためには神の前にへりくだるしか方法はない。

3章では神に従う者が栄光を受けるとが書かれている。ほとんどの内容がイスラエルについて書かれている (3:10)が、イスラエルから出た祝福がすべてのクリスチャンに適用されることも新約聖書に記されている (ガラテヤ3:29)。この約束を得られた人々は2:3に記されている呼びかけに応じた者。神に拠り頼む人は裁きを免れるだけでなく、聖なる喜びを得ることができる。

もう一つ素晴らしい約束が3:17に記されている:「主はあなたのことを多いに喜び、その愛によってあなたにやすらぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」神は私たちを告発するのではなく、愛で私たちと接し、私たちを喜ぶ。99人の義人より、罪人が一人悔い改めると天国全体が喜ぶ (ルカ15:7)。

上記はジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-lord-will-rejoice-over-you

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Habakkuk

ハバクク

ハバククは、南の王国ユダがカルデヤ(バビロンと同じ人達)に侵略される直前に書かれた。ユダや自らの罪のため、神によって裁かれる。やがて586 BCにエルサレムはネブカドネザルによって滅ぼされる。ヨエルやゼパニヤやアモスと違い、ハバククでは滅びを避けられる可能性は書かれていない。人々に悔い改めるように促すことはしていない。もう手遅れだからである。裁きを通しても命を守る方法は、信仰しかない。国が滅びても、個人が神を信頼することによって望みが残されている。

(1:2-4) ユダは暴行と不法で溢れていた。「みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです」(4節)。

(1:5-11) これを受けて神はこう反応する。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する」(6節)。

(1:12) しかし、神は民を完全に滅ぼすことはしないとハバククは信じている。「あなたは昔から主ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ、私たちが死ぬことはありません。主よ、あなたはさばきのために、彼を建てられました。岩なる方よ、あなたは懲らしめるために、彼を据えられました。」神は民を滅ぼすためにカルデア人を起こしたのではなく、正し、懲らしめるために起こした。

(1:13-17) カルデア人は神の裁きを執行したのだが、ユダより正しかったわけではない。彼らにもプライドがあり、暴行を繰り返し、偶像を拝んだ。そのためにハバククは神に訴える:「彼は自分の網を空にし続けながら、諸国の民を容赦なく殺すのでしょうか。」

この問に対して神は答えるのだが、その答えは記されていない。しかし、その答えの中にあったことばは2:4の確信につながったに違いない。「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐではない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

(2:6-19) カルデアに対する嘲りが記されている。カルデアの支配はいずれ終わる。その理由は2:14に記されているように、「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることでみたされる」から。だから諸国はカルデアを恐れるのではなく、全てを治める神を恐れるべき。「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前にしずまれ」(2:20)。

3章はハバククが神の言葉を受けた上での反応が記されている。ただこれは個人的な祈りにとどまらず、賛美と礼拝においてこの言葉が使われることが想定されている。「シグヨノテの調べにのせて」(3:1) 「指揮者のために。弦楽器に合わせて」(3:19) というのは伴奏と共に歌われること。「セラ」と3節、9節、13節に入れていることも賛美の歌を現している。歌にすることによって、ハバククは私たちにも、神の裁きに直面した時に同じように祈り歌うことを促している。

(3:2) ハバククは神の裁きに対して健全な恐れをいだいていた。裁きの中であっても、神が憐れむように祈っている。

(3:3-15) 神は救うことができるほど力があると記している。「あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出てこられます。あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます」 (13節)。過去の神の働きを見て、未来において神が完全に勝利することに自信をもっていた。なので、来る侵略に震えてはいるが、「静かに待ちます」(16節) と記している。

(3:17-19) ハバククは信仰の歌を綴っている。

いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

カルデアの侵略によってどんな試練が訪れても、ハバククは神を信頼し続ける。神は裁きを下しても、信頼し、どんな状況に陥っても神のみに喜ぶ者には、神は慈悲深さを示す。

ハバククの書のポイントは2つある。マイナス面においては、プライドのある者、その強さと賢さがその者の「神」であるならば、その者は必ず滅びること。一時期裕福な時を過ごし、神に選ばれた者だと酔いしれることがあったとしても、いずれは神の裁きを受ける。プラス面においては、「正しい人はその信仰によって生きる」こと。どんなことがあっても、神に信頼することができるし、そこに本当の希望がある。

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Nahum

ナホム

ナホムは、北の王国イスラエルがアッシリアに722 BCに滅ぼされた後に書かれた。アッシリアは多くの国を占領して領土を広げていったが、ナホムはこのアッシリアの首都だったニネベが滅ぼされることについて予言している。

1章の冒頭ではまず神の聖なる威厳について書かれている。この事実は全ての罪人に悔い改めを促し、全ての聖徒に喜びを与える。

  • (1:2) 神の義は絶対である。神の義は全ての人に公平に適用される。神の性質がそうさせるのと、神の敵は義による裁きを受けることになる。
  • (1:3-8) 神の力は否定できない。3節によると神は力強い者。神の力は無限で、神は全能である。
  • (1:7) 神の善は計り知れない。神は裁きにおいて力強いだけでなく、恵みでも力強い。神は善であり、常に赦す準備ができている (詩篇86:5)。

1:12-13で、ナホムはユダの救いについて書いている。アッシリアは平和と富を手に入れたように見えたが、全てが変わろうとしていた。アッシリアは強い敵で無敵のようだったが、神の前には無力である。神はユダをアッシリアの支配から自由にし、アッシリアは二度と神の民を脅かすことはない。

アッシリアはイスラエルに対する裁きとして神に遣わされたが、今度はアッシリアが裁きを受ける側になった。

  • (2:9–10) 略奪する者が略奪される側になった。アッシリアは多くの富を獲得し、イスラエルを含む支配した国々から貢ぎ物を受けていた。しかし、この多くの富は侵略者の手に渡ってしまう。
  • (2:11-12) 捕食者が捕食される側になった。ニネベはライオンの巣のように例えられている。メスライオンとその子供は十分すぎる食料を与えられているようだ。
  • (2:13) 攻撃する者が攻撃される側になった。アッシリアは神が攻撃するための「憤りの杖」とされていた (イザヤ10:4-6)。しかし、イスラエルが裁かれた今、アッシリアは神の怒りを受ける側になった。

3章では、ニネベの滅亡は、神と人類に対する極悪非道な罪と犯罪のために正当化されている。アッシリアはそれまで支配していた国々から軽蔑され、笑いものにされる結果となる。彼らの滅亡は、彼らが受けるべき正当な報いであった。神から罪の裁きを受けることほど怖いことはない。

  • (3:1) アッシリアは、他国に対する残虐な行為によって滅ぼされた。彼らは人間の尊厳に無関心で、私利私欲だけを求めていた。
  • (3:4) アッシリアは淫乱と妖術の罪を犯していた。これらは悪の典型として頻繁に聖書に記されている。さらに、この罪が発展して人身売買にも手を出し、私利私欲を果たしていた。

ナホムは最後に、ニネベを誹謗する形で彼らが裁きを逃れることができないことを現している。ニネベは自分たちを守るすべはない。酔っぱらいが安全な場所を求めて隠れるようだ (3:11-14)。いなごのように数が増えても、敵が現れたら逃げてしまう (3:15-19)。アッシリアは必ず滅亡し、復興することはない。そしてアッシリアの滅亡のニュースが広まるにつれ、彼らの悪事を知る人々は拍手する。アッシリアが勢力を広めるにつれ国々は恐れを抱いたが、アッシリアの滅亡は喜びをもたらす。

面白いことに、ナホムはヨナのように質問で予言を締めくくる。ヨナ書では、神はヨナに対して何故悔い改める人を赦せないのかを問いている。ナホム書では、神が何故悔い改めない人を裁かないのかを問いている。ヨナのメッセージは、神は悔い改めと信仰を持つものを必ず受け入れるということ。ナホムのメッセージは、神は義によって悔い改めない者を必ず裁くこと。どちらの予言者も真実を語る。神の義によって裁かれるより、神の恵みと慈悲深さを体験する方が望ましい。

上記はThe Gospel Coalitionが提供している参考書を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/nahum/
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Micah

ミカ7

7 しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。8 わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。

ミカの時代は、1~6節にあるように罪がはびこっている時代だった。殺し合いが頻繁におき (2節)、リーダーは賄賂を求め (3節)、正しく生きていると主張する人はいるがその人を信頼するより茨の方が耐えられる状態 (4節)、隣人や友は信頼できない (5節)、そして家庭内でも反乱がおきている (6節)。ちなみに、イエスも6節をマタイ10:34-36で引用し、新約でも同じ状態であったことを現している。

この罪を犯しているのは神の民だったので、神はその罪を罰した。クリスチャンも罪を犯すと、神はそれを罰することがある。1コリント11:29-32に例があるが、聖餐を取る時に御体をわきまえずに取ったクリスチャンが病にかかって死んだと記されている。私たちは神の罰をどう受け止めるべきだろうか?その答えが今日の箇所に書かれている。

クリスチャンが罪を犯した時にまず起きることが、敵が私たちを欺くこと。クリスチャンなのに何故こんな罪を犯したのか?後ろ指を刺されて罵られる。そんな時、私たちは「主を仰ぎ見、救いの神を待つ」ことができる。自分の罪悪感に押しつぶされそうな時、自己卑下に陥るのではなく、救いをもたらしてくださる神を見上げることができる。

確かに罪を犯した私たちは「倒れた」。そして「暗やみの中にすわって」しまっている。その結果「主の怒りを負わなければならない。」罪を犯した以上、義なる神の罰を受けるのは当然のことである。罪の事実とその罰を受け止め、心を砕かれる必要はある。

同時に、敵は「わたしについて喜ぶ」道理はない。なぜなら、私たちは「起きあがる」から。「主はわが光」となり、「主はわが訴えを取りあげ」てくださる。罪の罰を受けた砕かれた状態から、神は私たちを引き上げてくださる。そして「わたしのためにさばきを行われる」。私たちに「対して」ではなく、私たちの「ために」裁きを行う。神が私たちを裁くのは、私たちがより罪悪感に陥るためでなく、神に立ち返り、救いの神にすがるためである。それを証拠に、「主はわたしを光に導き出してくださる」とある。そして結果的に「主の正義を見る」ことを通して、私たちは生きるべき道が示される。

罪を理解し、罰によって心が砕かれる。同時に、神が光へ導いてくださると胸を張って言える。このへりくだりと神への自信が、クリスチャンが神の裁きを受け止める方法といえる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/labs/how-to-rise-after-we-fall-into-sin 

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Micah

ミカ

1:1 ユダの王ヨタム、アハズおよびヒゼキヤの世に、モレシテびとミカが、サマリヤとエルサレムについて示された主の言葉。

ミカはヨタム、アハズ、ヘゼキヤの時代に生きていたので、735-700 BCだと推測される。北の王国だったイスラエルがアッシリアに占領されたのが720 BCで、その後アッシリアは南の王国ユダの首都だったエルサレムをも包囲した。そんな時代にミカはサマリヤ(イスラエルの首都)とエルサレムに対して予言していた。

1:6 このゆえにわたしはサマリヤを野の石塚となし、ぶどうを植える所となし、またその石を谷に投げ落し、その基をあらわにする。7 その彫像はみな砕かれ、その獲た価はみな火で焼かれる。わたしはその偶像をことごとくこわす。これは遊女の価から集めたのだから、遊女の価に帰る。

サマリヤが裁かれたのは、偶像礼拝によるものだった。神はこの世をご自身の栄光のために創造したので、神に反して偶像を拝むことによって裁きを受けるのは当然のこと。神は義なる方なので、不信仰に無関心でいることはできない。偶像礼拝は必ず罪に繋がり、人の命を脅かす。

2:2 彼らは田畑をむさぼってこれを奪い、家をむさぼってこれを取る。彼らは人をしえたげてその家を奪い、人をしえたげてその嗣業を奪う。3 それゆえ、主はこう言われる、見よ、わたしはこのやからにむかって/災を下そうと計る。あなたがたはその首を/これから、はずすことはできない。また、まっすぐに立って歩くことはできない。これは災の時だからである。

彼らは貪欲と盗みと虐げとプライドを働かせていた。偶像礼拝と傲慢は、ともに貪欲と盗みと虐げを促す。貪欲の心はサマリヤだけでなく、エルサレムにも広がっていた。

3:9 ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家のつかさたちよ、すなわち公義を憎み、すべての正しい事を曲げる者よ、これを聞け。10 あなたがたは血をもってシオンを建て、不義をもってエルサレムを建てた。11 そのかしらたちは、まいないをとってさばき、その祭司たちは価をとって教え、その預言者たちは金をとって占う。しかもなお彼らは主に寄り頼んで、「主はわれわれの中におられるではないか、だから災はわれわれに臨むことがない」と言う。

貪欲は正義をも歪めていて、リーダーや祭司や予言者までも賄賂を受け取るようになっていた。リーダーは正義を憎み、公平を曲げ、血を流し、賄賂を受け取った。祭司は金のために教え、予言者は金を払えば聞きたいことを何でも告げた。

これらに対してミカは破滅を約束した。サマリヤは722 BCに廃墟となり (1:6)、エルサレムは586 BCにバビロンに捕虜として連れて行かれた (4:10)。

6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

しかし、この暗いメッセージの合間に、悔い改めへりくだる人々には栄光が与えられていることが語られている。この栄光を受け取るには3つに条件がある。一つ目は、へりくだって神と共に歩むこと。子供のように神にすがり、全てを神に任せながら生きること。二つ目は、いつくしみを愛すること。つまり、慈悲深さをもって愛する心を持ち、隣人を思うこと。三つ目は、義を行うこと。特に虐げられている人々に対して働きかけること。これらはイエス・キリストがパリサイ人に語った言葉と似ている。神の慈悲深さにすがると、私たちの心は他人にたいして慈悲深さを現し、虐げられている人には義を求めるようになる。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

マタイ23:23

そしてミカの予言は、神の慈悲深さで締めくくられている。

7:18 だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために/とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を/海の深みに投げ入れ、20 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。

クリスチャンに最も中心的な希望として、イエス・キリストの予言がミカの中で記されている。キリストが送られたことは神について次のことを現している:1)神は自由と慈悲深さを通してご自身の栄光を現している。2)神はどんなに暗い時代にあっても約束は必ず守る。3)神は神の民を守る。キリストによって神は栄光を現し、救いの約束を成就し、神の民とされたクリスチャンの信仰を世の終わりまで守ってくださる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/eagle-edom-will-come-down
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Obadiah

オバデア

オバデアは586 BCのエルサレムの崩壊後に書かれていて、2つの部分に分かれている。1〜16節では、エドムに対して裁きのことばが書かれている。エドムは死海の南東に住んでいたエサウの子孫だった。17〜21節では、イスラエルの救いと、最終的な神の国の建国が記されている。オバデアのメインテーマは、虐げられている神の民を励まし、神が宇宙の義なる支配者であることを示すことだと考えられる。悪人は裁かれ、義なる裁判官が全地上を支配し、全ての神の民が永遠と安全に暮らせる日が来る。

2〜16節

エドムが滅ぼされる理由は一点に限る。プライド。プライドによってエドムは全ての人の上をいくワシのように安全だと考えていた。しかし神はこういう、「わたしはそこからあなたを引きおろす」。しかも、エドムは強盗やぶどうを集める人のように何かを残す形で滅ぼされるのではなく、神によって完全に滅ぼされる (5節)。また、エドムは周りの同盟だった国々に裏切られ、逃げ場も失っていることに気づいていない (7節)。エドムの首都であったテマンは多くの知性と軍事力を備えていたが、神はそれをものともせずプライドをつぶし、知性と力のあるものを共に裁く (8-9節)。

プライドに陥っている人は、自分を他人より良く見せるために常に機会を狙っている。自分を正当化する機会や、他人を否定して自分より低くする機会。これは国であっても、教会組織であっても、大人でも子供でも皆同じことが言える。神の恵みなしでは、他人の失敗で常に喜びを得ている。自分たちの弱さを横に置き、成功を最大限に称える。エドムはユダの滅びを喜び、傍観し、嘲笑い、略奪し、逃げ遅れた人々を切り捨てた (10-14節)。

そしてオバデアは「主の日」ということばを使ってエドムの滅びを宣言する (15-16節)。これは神が必ず裁きを執行することを指しているが、同時に未来に来る、全ての不義が正される、全人類が体験する主の日のことも指している。

17~21節

後半でオバデアは、主の日にユダの人たちに希望があると告げている。ユダは不信仰によって捕虜となってしまったが、神の裁きを逃れ滅ぼされなかった人々の中には、神に立ち返り、神の慈悲深さに頼った人たちもいたと考えられる。この人たちはやがて約束の地に戻り、イスラエルの復興に取り掛かることになる。

今日において神の民はこの残されたユダヤ人ではなく、キリストに信頼を置く者全てが神の民とされている。「ユダヤ人もギリシャ人もなく・・・あなたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:28-29)。この神の民はオバデアが想像したよりはるかに多い数の人だが、それだけでなく約束の土地もさらに大きい。パレスチナの土地だけでなく、ローマ4:13によると、アブラハムの子孫は全世界を相続すると書いてある。「そして王国は主のものとなる。」

オバデアを私たちに当てはめると

  1. 神は今でも全世界を支配しており、国々と歴史を思いのままに動かしている。
  2. プライドは私たちを欺く (3節)。プライドは、私たちは独立していて、自己充足であり、無敵だと思わせてしまう。プライドに陥る人は欺きを持って考えたり感じたりするようになってしまう。プライドは歪んだ思いと人生観を持たせてしまう。
  3. 神はプライドを嫌い、プライドのある人を高いところから引き下ろす (4節)。
  4. プライドのある国々や人々は蒔いた種を刈り取る (15節)。プライドに身を任せ、神を忘れてしまうと、主の日においても独立したままになってしまう。神の恵みに頼ることはできなくなってしまう。
  5. 神は裁きから逃れる道を与えて下さっている (17節)。プライドから逃れ、聖なるへりくだりによって、主の日に安全を得ることができる。
上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/eagle-edom-will-come-down

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Amos

アモス6, 8, 5

6:1 「わざわいなるかな、安らかにシオンにいる者、また安心してサマリヤの山にいる者、諸国民のかしらのうちの著名な人々で、イスラエルの家がきて従う者よ。
6 鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。
13 あなたがたはロデバルを喜び、「われわれは自分の力で/カルナイムを得たではないか」と言う。

イスラエルは裕福だった。しかし、その裕福さが彼らを滅びへと導いてしまった。裕福さを愛し、自分たちの強さに誇りをもっていた。神はそんな誇りを嫌い、建て上げた宮殿を憎んだ (6:8)。神が心の拠り所でなくなると、この世の娯楽と快適さに執着してしまう。この快適さへの依存が、真実を曲げることにつながり、貧しい人に対して無関心にさせてしまう。

これは今日においてどんな人に当てはまるだろうか?快適を求めて生活し、建物を大きくすることにこだわり、滅びに向かっている人を悲しまず、安定した環境作りに固執し、自分を愛することと自分を正当化するのに長け、隣人を愛することと尊重することを二の次にしている。そんな人に対して神はこう言う:「わたしはまた冬の家と夏の家とを撃つ、象牙の家は滅び、大いなる家は消えうせる」(3:15)

8:4 あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。5 あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、6 乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう」。

4:1ではサマリアの裕福な人たちが貧しい人たちを虐げていることが描かれている。5:12では腐敗と無関心がおり混ざって、賄賂を受け取り、正しい人までも虐げているのが分かる。そして8:4-6では宗教的偽善と富への愛、不誠実と硬直性がおり混ざっていく。

教会に行っていても、礼拝に参加していても、心は神に向いておらず、反抗している。裕福と快適に依存している。真実を無視している。貧しい人へは無関心。これらはアモスの時代で神の怒りを買ったが、当時も今も同じ神が世を治めている。

5:6 あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。
14 善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。15 悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。万軍の神、主は、あるいは/ヨセフの残りの者をあわれまれるであろう。

神に立ち返り、神を求めることが解決法だが、これは神に対する考えを変えるだけではない。快適さへの愛を、善と正義への愛に置き換えること。善を愛するようになれば、自分たちの富や伝統が脅かされたから怒るのでなく、人が飢えていることに怒り、それに対応するアクションを起こすようになる。正義を愛するようになれば、全員同じ考えを持った人を集め、制約を利用して考えの違った人を指摘・迫害するのではなく、互いを尊重し理解することに努め、相手を思いやる愛をもって本当の「純潔と平和と一致を守る」ことができる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
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Amos

アモス4

4 「あなたがたはベテルへ行って罪を犯し、ギルガルへ行って、とがを増し加えよ。朝ごとに、あなたがたの犠牲を携えて行け、三日ごとに、あなたがたの十分の一を携えて行け。5 種を入れたパンの感謝祭をささげ、心よりの供え物をふれ示せ。イスラエルの人々よ、あなたがたはこのようにするのを好んでいる」と/主なる神は言われる。

イスラエルはとても宗教熱心だった。毎日いけにえを捧げ、3日おきに十一献金を捧げ、感謝献金を捧げ、特別献金を募った。しかもこれを喜んで行っていた。しかし、彼らは「罪を犯し」「とがを増し加えた」。神が記した律法と似たようなことをしていて、同じYHWHという名を使って讃えているが、実際には偶像礼拝をしていた。

1 「バシャンの雌牛どもよ、この言葉を聞け。あなたがたはサマリヤの山におり、弱い者をしえたげ、貧しい者を圧迫し、またその主人に向かって、『持ってきて、わたしたちに飲ませよ』と言う。

そしてそれが生き方にも現れていた。イスラエルはとても裕福になっていて、その富を程なく愛していた。しかし、貧しい人を虐げ、圧迫した。

6〜11節では、神が複数回に渡ってイスラエルに立ち返るよう促していることが記されている。飢饉があった (6節)。神が雨を降らせなかったので干ばつがあった (7-8節)。草木を枯らし、いなごで彼らを撃った (9節)。疫病とつるぎをもたらした (10節)。ソドムとゴメラみたいに滅ぼし、火の中から取り出した (11節)。こんなことがあっても、「それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった と主は言われる。」神は複数回に渡って、本当の神なしに喜びを求めることをやめるよう、イスラエルの歩みを止めようとしていた。

12 「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。

神の裁きは確実に近づいていて、止めることはできない。そんな中で希望はある。「神に会う備えをせよ」。ベテルで聖さと真理を持って神に出会う準備をしないのであれば、最後の裁きで神と会う備えができる。その後はもう備えることはできない。

礼拝においても、クリスチャンは神に会う備えをする必要がある。この箇所から以下のことが考えられる。

  1. 真理(聖書)が尊重されている教会に行く。イスラエルは宗教熱心だったが本当の神を礼拝していなかった。通っている教会はただ宗教熱心なのか、本当の神を礼拝しているのか?
  2. 私たちの罪を全て神に告白する。イスラエルは他人を虐げながら神を礼拝しようとしていた。罪を隠したままだと礼拝はただの行事に成り下がってしまう。
  3. 神が私たちの人生でどう働いているか思い返す。神はイスラエルに立ち返るよう何度も促した。自分たちの思いでコントロールしようとするのではなく、神に立ち返り、神に信頼する道を歩むことによって礼拝に備えることができる。
  4. 心で神に近づく。イスラエルは宗教的行為は立派のように見えたが、心で神に近づいていなかった。神を礼拝する時、口だけで神を敬うことは避けたい (マタイ15:)。
上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
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Amos

アモス1-2

アモスは北の王国だったイスラエルに向けて神の予言を伝えた。1章ではまず、イスラエルの周りの国に対して裁きを予言した。まるでイスラエルの首の周りに縄を置き、徐々に締めていったようだ。それぞれの国に対して3つの咎、4つの咎とあるが、この数字は「完成されたも (3) のと溢れたもの (+1)」を表す。つまり、神はこの国々の罪を許してきたが、それが上限に達したので、溢れ出て裁かれることになる。

Kingdoms around Israel 830 map
830 B.C.ごろのパレスチナ

「咎」と訳されている言葉はヘブル語で「ペシャ」もしくは「パシャ」。意味は「法的な罪を犯すこと」。この国々は社会的に、道徳的に違反を犯していた。彼らの罪は次のものを含む: 残酷な社会的抑圧と経済的搾取 (1:3)、奴隷取引と人身売買 (1:6, 9)、親族の裏切りと容赦ない暴力 (1:11)、母と胎児に対する卑劣な残虐行為 (1:13)、死者の冒涜 (2:1)。

4 主はこう言われる、「ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた/偽りの物に惑わされたからである。5 それゆえ、わたしはユダに火を送り、エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす」。

ユダは主の律法を捨てた。これは契約破棄であり、神の権威を拒絶する行為。ユダが契約破棄をしたので、神は呪いを執行する権利があると契約にある。それは罪に対して7倍の罰を与える権限があるということ。ユダが律法を捨てたことは、周りの国々が犯した罪と匹敵する。そしてユダに対する聖なる火の裁きは周りの国々と変わらないものとなる。

6 主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。7 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。8 彼らはすべての祭壇のかたわらに/質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。

イスラエルに対する裁きも周りの国々と匹敵する。イスラエルの罪は次のものを含む:人々を奴隷として売り飛ばす (2:6)、貧しい者を虐げる (2:7)、性的な罪を犯す (2:7)、正義を歪める (2:8)、酔っ払う (2:8)、ナザレ人に対する罪 (2:12)。この中で最も大きな罪は貧困層への虐待と抑圧である。

13 見よ、わたしは麦束をいっぱい積んだ車が/物を圧するように、あなたがたをその所で圧する。14 速く走る者も逃げ場を失い、強い者もその力をふるうことができず、勇士もその命を救うことができない。15 弓をとる者も立つことができず、足早の者も自分を救うことができず、馬に乗る者もその命を救うことができない。16 勇士のうちの雄々しい心の者も/その日には裸で逃げる」と/主は言われる。

この箇所では、イスラエルに対する裁きを火によるものとして現していないが、確実に裁かれることは書かれている。この違いは、聖なる裁きをより鮮明にするために、アモスは予言の表現に変化を加えている。アモス書はこのように複数のトピックとジャンルを織り交ぜることによって、予言の鮮明度を上げ、聞き手がより注目するようになっている。

また、アモス書は神の裁きがすぐそこまで来ていると訴えている。アッシリアによる捕虜は、アモスが予言した一世代後に起きようとしていた。神はイスラエルの民に対して哀れみをもって、裁きの出来事を前もって知らせている。実に、神は誰の死も喜ばない。

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないー神である主のことばー。だから立ち返って生きよ。

エゼキエル18:32
上記の内容はThe Gospel Coalitionの記事を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/amos/#section-29