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Zephaniah

ゼパニヤ

ゼパニヤはヨシヤがユダの王だった時に神の予言を伝えた。ヨシヤは律法の書を発見し、人々に悔い改めを促した王。ゼパニヤもユダ、特にエルサレムに、悔い改めを促すためのメッセージを語った。

ゼパニヤは以下のような構成になっている。

  • 1章:ユダとエルサレムに対する裁きが記されている (4節)。
  • 2:1-3:ユダが神に立ち返るよう促している。特に3節に「義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ」とある。
  • 2:4-15:ユダの周りの国々にも神の裁きがあると記されている(ピリシテ、モアブ、アンモン、クシュ、アッシリア)。
  • 3:1-7:エルサレムに対しての裁きが記されている。
  • 3:8-20:民が神に立ち返ることを宣言し(9節)、イスラエルが悔い改め再び集められ (10節)、神の喜びの中で栄光を受けることについて記されている。

ゼパニヤのポイントは2:3にあると思われる。その他の箇所はこのゴールに向けさせるために警告と約束を動機として与えている。

「すべてこの国の、主のさばきを行う柔和な者たちよ、主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。」

エルサレムに対する裁きは罪によるものだった。マナセはバアルのための祭壇を至る所だけでなく、神の神殿の中でも作った。ヨシヤはこの祭壇を壊したが、バアル崇拝者は残った。この人達は主の日に滅ぼされる (1:4)。また、ユダは主だけでなくミルコム(またの名をモレク、アモンの神)も拝んでいた (1:5)。二人の主人に仕えることはできないのだが (マタイ6:24)、ユダはそうしようとしていた。

エルサレムの過ちは3:2に要約されている。「呼びかけを聞こうともせず、戒めを受け入れようともせず、主に拠り頼まず、神に近づこうともしない。」主に対する罪の根幹にあるのは、自己満足。全ての人に大きな存在を崇拝したい気持ちはある。同時に、自分自身で全てを成し遂げたいという気持ちもある。なので、神礼拝をやめると、人は自分の思いと一致する「神」を作り出し、それを拝むようになる。要求を押し付けることがなく、自分を肯定しかしない神を崇めるようになる。エルサレムは神に拠り頼まないから裁かれる。

また1:18では、金銭に望みを置き、金銭を愛する人も裁かれるとある。「彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らをすく出せない。」金銭への愛は傲慢と自己満足と偶像礼拝と変わらない。どれも神の報いと裁きを無視している。

2章では神に立ち返ることを促している。ゼパニヤが呼びかけているのは義と柔和 (2:3)。この預言書を読む人は皆へりくだり、その立場から神に拠り頼むことによって、義に生きることができる。何故義と柔和に生きるべきかが、2:4-15にかかれている。

  • 主の日から逃れることはできないから。どの方向を向いても周りの国々は神に裁かれている。自分で何とかしようとしても、他人に頼ろうとしても、主の日から逃れることはできない。へりくだり、神に頼ることが唯一安全を得られる方法。
  • 主の日を生き抜く「残り者」が約束されているから。悔い改めはまだ可能なので、今のうちに神に立ち返ることを促している。この「残り者」は救われ、やがてユダの地を治める (2:7, 9)。
  • プライドと傲慢は裁かれるから。ユダの周りの国々は裁かれる。裁かれることが分かれば悔い改めるはず。神の裁きを逃れるためには神の前にへりくだるしか方法はない。

3章では神に従う者が栄光を受けるとが書かれている。ほとんどの内容がイスラエルについて書かれている (3:10)が、イスラエルから出た祝福がすべてのクリスチャンに適用されることも新約聖書に記されている (ガラテヤ3:29)。この約束を得られた人々は2:3に記されている呼びかけに応じた者。神に拠り頼む人は裁きを免れるだけでなく、聖なる喜びを得ることができる。

もう一つ素晴らしい約束が3:17に記されている:「主はあなたのことを多いに喜び、その愛によってあなたにやすらぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」神は私たちを告発するのではなく、愛で私たちと接し、私たちを喜ぶ。99人の義人より、罪人が一人悔い改めると天国全体が喜ぶ (ルカ15:7)。

上記はジョン・パイパーの提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-lord-will-rejoice-over-you

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