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ピリピ2:19~30

ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。 そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。 わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。 フィリピの信徒への手紙 2:25‭-‬30 新共同訳

エパフロディトは誰だ?ピリピ教会がパウロの世話をするためにローマに送った人。また、パウロからの感謝の手紙をピリピ教会に持ち帰った人。そしてピリピ教会から献金を任されるほどの人だったことから、教会の中で信頼された存在(もしくはリーダー)だった可能性が高い。パウロといたときに「瀕死の重病」にかかったが、奇跡的に回復した。また、聖書においてはピリピだけに登場する。

「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。」エパフロディトは教会のビジョンと神学的方針を定める牧師や長老でなければ、教会内の動きを管理する執事でもなかった。(長老や執事であった可能性があるが、パウロを助けに行った時点で教会内の働きはできなくなっている)しかし、ピリピがある慣れ親しんだマケドニアの地を離れ、遠く離れた都会であるローマに行き、何もできないパウロの身の回りの世話をした。長老や執事のように教会全体に見られる舞台で、教会にとっては直接的な働きではないが、イエスが教えたように「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」エパフロディトのしたことは「大いに歓迎」するに値する働きだ。教会の礼拝奉仕をするよりも、教会に通えない弱い立場の人たちに奉仕することが「大いに歓迎」されるべき。そしてそのような人々を「敬い」、キリストの「隣人を愛する」教えを実行する者としてその人達から学びたい。

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ピリピ2:12~18

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。〜フィリピの信徒への手紙 2:12‭-‬13 新共同訳

「だから」は前の箇所にて「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つに」することをピリピ教会に促していることを指している。わだかまりを無かったことにせず、しっかりと対話し、一致することに務めることが教会に求められている。「一致」にたどり着くには牧師や長老ですべてを決め、それを教会員に発表する、という方法がある。しかし、それではトップから提示された方針に同意しない教会員と認識齟齬が生まれる。トップからのビジョンや神学的方向性は必要だが、それに対して教会員のインプットを得るとなお一致を生みやすい。トップダウン・ボトムアップを合わせることによって、全員参加型の教会を立てあげることが同じ方向を向いて、同じ目標に向かう結果を生み出す。

「自分の救いを達成するように努めなさい。」信じることによって救われることは間違いない。しかし、生まれたての赤ちゃんのままでいるのは神が望むことではない。教会の一致に参画するには一人ひとりの成長が不可欠。聖書を毎日読んで思いを巡らすことを促すデボーションやバイブルスタディ。毎日の祈りを通して神との関係を深めることを促すスモールグループや祈祷会。(祈祷会においては決められた内容だけでなく、互いのために祈ることも必要)一人ひとりが神のみこころを知り、理解できることの体制を築くことによって、全員参加型の一致した教会が可能になる。

最も、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である」ことを覚えたい。自分の力、能力、経験だけでは「救いを達成」できない。年長だから、長く教会に通っているから、神のみこころを成すことはできない。若いから、子育てを始めたばかりで大変だから、神のみこころを成すことができないわけではない。私達の内に働いている聖霊が私達に能力を与え(御霊の実)、私達が神のみこころを成すように突き動かして下さる。

聖霊に導かれる生き方が「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つ」キリスト者を生む。自分の力で成したことではないから「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができる」。(14~16節)

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ピリピ2:1~11

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 フィリピの信徒への手紙 2:1‭-‬2 新共同訳
「キリストによる励まし」=paraklesis=寄り添って助ける・励ます・慰める

キリストは天国に戻ってキリスト者と父なる神の間に立ってくださっている。代わりに聖霊 (助け主=parakletos) を送り、私達と寄り添い、助け、励まし、慰めてくれる。

「愛の慰め」=paramythion agapes=慈愛・善意・尊敬による励まし・勇気づけ

キリストによる愛(agape)は、私達を尊敬する、善意ある愛。私達を理解し、私達に最も有益なことを与えたいという動機がある。その動機をもって私達を励まし、勇気づけてくれる。

「霊による交わり」=koinonia pneumatos=聖霊と参画・パートナー・恩恵を受ける

キリストが送った聖霊とパートナーなり、共に聖霊の働きに参画することによって、自身が聖化されていく。キリストを求め、キリストの教えを学び取り入れ、キリストの行動に習うようになる。キリストのようになることが聖霊の恩恵。

「慈しみや憐れみ」=splancha kai oiktirmoi=内蔵・深い感情、憐れみ・慈しみ・好意・恵み

キリストは私達に対する深い感情を抱いている。それは人が軽はずみに使う「愛してる」とか「好き」とか「祈ってるよ」という言葉ではなく、言葉に迷い何も言わないことでもない。イエスは、腹の最も深い所から出てくる感情で私達を思っている。私達に好意を抱いているから私達を憐れみ、慈しみ、私達に恵みを与えて下さる。

キリストが私達に対する思いと「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つ」にするようピリピ教会に促している。垂直なキリストとの関係と、聖霊の助けを通してキリスト者は変えられていく。結果として内側が変えられ、横の関係にある隣人や他のキリスト者とこの思いを共有し、行動に移していきたい。

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ピリピ1:21~30

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。フィリピの信徒への手紙 1:21 新共同訳

キリスト者にとって、生きることは日曜日の朝に礼拝をすることではなく、生きることはキリスト。つまり生活全体を通してキリストを中心とした生き方をすること。それは神を愛し、隣人を愛すること。神を愛するなら聖書を読んで祈り、神のみこころを常に探る。そしてみこころを追い求め、聖霊によってそれを成して行くと同時に、自然に罪から自分を遠ざけていく。隣人を愛するならイエスが行動に起こしたように、世の中の弱い立場の人たちに手を差し伸べ、見える形で助ける。教会という組織や建物が潤うことを望むのではなく、教会としてどのように隣人愛を示すことができるか考え行動する。

けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。フィリピの信徒への手紙 1:22‭-‬24 新共同訳

パウロは常にキリストと共にいたいと思っていた。世の中にいると気をそらすことが多くあり、これがかなわない。なので「この世を去って」永遠にキリストと共にいたいと書いている。キリスト者の最も大きな望みは永遠の命を得ることではなく、永遠にキリストと共に過ごすことができること。これが願いでなければ本当にキリスト者かどうか吟味しなければならない。

この「キリストと共にいる」という言葉からいくつか確認できるポイントがある。

That this was the true reason why he wished to be away. It was his strong love to Christ; his anxious wish to be with him; his firm belief that in his presence was “fulness of joy.”
(キリストと共にいることが)パウロが本当にこの世を離れたい理由。キリストに対する強い愛、共にいたいという切実な願い、そしてキリストの臨在は喜びで溢れていることへの信仰がパウロにあった。

Paul believed that the soul of the Christian would be immediately with the Saviour at death. It was evidently his expectation that he would at once pass to his presence, and not that he would remain in an intermediate state to some far distant period.
パウロは、クリスチャンの魂は死の直後に救い主と共にいると信じていた。すぐにキリストの臨在に置かれると信じていて、ある一定期間、どこかの中間地帯に魂が待機するとは信じていなかった。

the soul does not sleep at death. Paul expected to be with Christ, and to be conscious of the fact – to see him, and to partake of his glory.
魂は死後眠るのではない。キリストと共にいて、意識がはっきりしていて、目で見て、栄光を共に分かち合うことができると、パウロは信じていた。

the soul of the believer is made happy at death. To be with Christ is synonymous with being in heaven – for Christ is in heaven, and is its glory.
キリスト者の魂は死後喜びで満たされる。キリストと共にいることは天国で共にいること。キリストは天国にいて、天国の栄光そのものである。

Barnes Notes on the Bible

これほど大きな喜びの望みが控えているのだから、パウロはこの世に留まって諸教会のために働くことができたのだろう。この喜びを自分だけに留めることはせず、より多くの人に伝えたい。諸教会にもこの喜びを理解し実感することによって、広め伝えていく原動力にしてほしい。そのような願いからもパウロは地上に残る活力を得たのだろう。

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。フィリピの信徒への手紙 1:27‭-‬28 新共同訳

「一つの霊によってしっかり立ち」
教会が一致してキリストの喜びを分かち合い、その喜びを伝えたいという思いを共有し、伝えることを行動に移し、祈り支える。これが理想的な教会における伝導の形。一部の人間が頑張って伝導しても、教会の支えがないと成り立たない。

「心を合わせて福音の信仰のために共に戦って」

これは世の中のすべてを否定し、敵視することではない。むしろ福音はすべての人に伝えるべきことであって、どのように伝えれば理解してもらえるか吟味しなければならない。同時に、福音の中核である「信じる者は救われる」というメッセージに不必要な情報(クリスチャンはこのようなルールを守らなければならない)を付け足さないよう気をつけたい。

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。フィリピの信徒への手紙 1:29 新共同訳

キリストを信じるだけで終わりではない。「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。」世の中でキリスト者として生きると苦しみを受ける。キリスト者として誠実に生きようとしても、会社ではグレーなことを要求される。福音を伝えたり教会に招待しようとすると「怪しい宗教」扱いされてしまう。しかし、キリストのためならそれは「恵み」と考えられるほど、キリストへの愛で満たされたい。

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ピリピ1:12~20

キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。 フィリピの信徒への手紙 1:15‭-‬18 新共同訳

「ねたみと争いの念にかられてする者」はキリスト教になったユダヤ人。彼らは福音(イエスを救い主として受け入れること)を伝えていたが、同時に割礼や律法を守る必要性も伝えていた。これまで信じていたことをを守るため、伝統を守るために必死だった。なぜなら、パウロの賜物や働きの結果を妬み、牢獄に繋がれているにも関わらず影響力が強いから。この妬みから、彼らはパウロを敵とまでみなしていた(ガラテヤ4:16~17)。

ユダヤ人のキリスト者が見せた行動は今日の教会でも見られる。福音を受け入れはしたが、その先の成長の過程でルールを守ることを重んじる様になってしまう。結果として、礼拝を「守る」ことを重視し、「礼拝を捧げる」ことを忘れ「礼拝」の形ばかりにこだわる。このルールにしがみつき、ルールに従わない人を排除する。これによってキリスト者でない人との間に壁を作り、宣教においては人との関係性よりも、ビラを配ることだけに限定されてしまう。しかもビラの内容が「私たちが礼拝しているのを見れば救われる人が起こされる」という上から目線。そしてこの問題を言及するキリスト者を敵視し、これもまた排除する。まさに「ねたみと争いの念にかられて」福音と伝統を守り通している。

「愛の動機から」福音を伝える者はこのように伝える。

“without any selfish end or sinister view of vain glory; not moved unto it by envy or ambition; not doing it in a contentious manner, and with an ill design; but of pure “good will” to the Gospel, having a real liking of it, an hearty love for it, a sincere desire to spread it, and promote the interest of a Redeemer, and the good of souls by it; having in a spiritual and experimental manner felt the power, and tasted the sweetness of it themselves: and so were inwardly affected and truly disposed to preach it, clear of all external motives and ambitious views”

「利己的な目的や、不吉な栄光を見ようとすることない。ねたみや野心に動かされることなく、争いや悪意をもって行うのではない。福音に対する純粋な “善意 “があり、福音に好意的であり、心からの愛があり、福音を広め、それによって贖い主の利益と魂の善を促進したいと心を願う。霊的な実体験を通してその力を感じ、味わい、外面的な動機や野心的な考えは一切なく、内的に影響を受け、真に福音を伝えようとする。」

Gill’s Exposition of the Entire Bible

本当にキリストに変えられたことを喜び、その溢れた愛から福音を伝えようとするカリスマ派の教会は多くみられる。教理に違いはあれど、この喜びと愛の姿勢、また聖霊に強く頼る行動からは多くを学べる。また、地域に根ざした教会として、地域と関わりを持ち、防災の取り組みやバザー、こども食堂や学童保育といった活動を通して、イエスが示したような人を愛する関係性を見える形で示す。このような「外面的な動機や野心的な考え」がない活動こそ、「愛の動機から」福音を伝えることだ。

どちらにせよ、「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。」どのような形で福音を伝えても、キリストがして下さったことと、キリストが教えたことが告げられているなら、キリスト者はそれを喜び祈りによってサポートしていきたい。

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Philippians

ピリピ1:1~11

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 フィリピの信徒への手紙 1:3‭-‬5 新共同訳

パウロが喜びをもって祈るのは、ピリピ教会は福音を聞き、キリストを受け入れ、キリストに仕え続けてきたことにある。ガラテヤ人のようにユダヤ教のしきたりに戻らず、エペソ人のようにユダヤ人とギリシャ人のわだかまりを作らず、コロサイ人のように文化に影響されて福音を歪ませることはせず、コリント人のように罪を対処しない体制ではなかった。

あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 フィリピの信徒への手紙 1:6 新共同訳

キリストは聖霊を与えることによって聖化のプロセスを始めた。「聖化」は単に罪を侵さないように「忍耐力」がつくことではない。聖なる者と変えられることによって、神が望む事柄を望むようになること。神のみことばである聖書を読んで理解しようとする。学んだことを取り入れてイエスのように「隣人を愛する」ことを行動に表す。常に神と繋がり、神と時間を過ごし、少しでも神に近づこうとする。これらに取り組むことによって自然と罪は追い求める必要のないものなっていく。

わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。 フィリピの信徒への手紙 1:9‭-‬11 新共同訳

聖書を知る力と見抜く力を身につける。神に対しての愛、キリスト者同士の愛、隣人への愛。神から与えられた愛が豊かになる。重要なことを見分ける=キリストが教えたことが何なのか見分ける。これがキリスト者に求められる成長の過程。

キリスト者が成長する理由は、「キリストの日」つまりキリストが地上に戻って王となる日に備える。そして最終目標は日曜日に限らず、生活のすべてを通して「神の栄光と誉れとをたたえる」こと。

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エペソ6:10~24

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 エフェソの信徒への手紙 6:11‭-‬13 新共同訳

First, he means that there is no such thing as a merely human adversary of the gospel; they don’t exist. While this world is under the sway of the evil one — “the whole world lies in the power of the evil one” (1 John 5:19) — unbelieving humans are always influenced by and in step with the devil. We don’t wrestle against mere human forces because there aren’t any.

福音に敵対するものは人間だけではない。この世は悪魔の支配下にある (1ヨハネ5:19)。不信仰な人間は常に悪魔の影響を受け、悪魔と歩調を合わせている。単なる人間の力と闘うのではない。

https://www.desiringgod.org/interviews/are-our-enemies-spiritual-human-or-both

Second, I think he mentions blood first in the pair — “we don’t wrestle against blood and flesh” — because he’s drawing our attention to the fact that this warfare is not like the ordinary battlefield warfare among people, marked by blood and gore. That’s not what he’s talking about, in other words. We don’t fight like that. It’s not a matter of chopping off arms or heads and blood and flesh. Our warfare is always fought at a level that includes the supernatural.

パウロが「血肉」で最初に血に言及しているのは、この戦いが、普通の戦場での人と人との戦いのように、血と血に彩られたものではないということに注意を向けているからだと思う・・・我々はそのような戦いはしない。腕や頭、血や肉を切り落としたりしない。私たちの戦いは、常に超自然的なものを含んだレベルで戦われる。

https://www.desiringgod.org/interviews/are-our-enemies-spiritual-human-or-both
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 エフェソの信徒への手紙 6:17‭-‬19 新共同訳

And he goes on and on, just speaking directly to us, to our minds, to our hearts, to our wills. In fact, he says, the great challenge for Christians is that we are new creatures in Christ by faith, and we need to put off the old self and put on the new self (Ephesians 4:22–24).

パウロは、ただひたすら私たちの知性に、心に、意志に直接語りかけている。実際、クリスチャンにとっての大きな課題は、私たちが信仰によってキリストにあって新しく造られた者であり、古い自分を捨てて新しい自分を身につける必要があることだと言っている(エペソ4:22-24)。

https://www.desiringgod.org/interviews/are-our-enemies-spiritual-human-or-both

So, Paul’s whole approach to helping Christians fight for holiness almost never mentions the devil. That’s not surprising, since three of the six pieces of spiritual armor are truth (Ephesians 6:14), gospel (Ephesians 6:15), and the word of God (Ephesians 6:17). And those are all things that Paul speaks directly into the human mind and the human heart. He doesn’t speak those things to the devil; he speaks them to people.
キリスト者が聖化のために戦うのを助けるためのパウロのアプローチ全体では、悪魔についてはほとんど言及されていない。霊的な武具の6つの部分のうち3つは、真理(エペソ6:14)、福音(エペソ6:15)、神の言葉(エペソ6:17)。これらはすべて、パウロが人間の知性や心に直接語りかけるもの。悪魔に向かってではなく、人に向かって語っている。

https://www.desiringgod.org/interviews/are-our-enemies-spiritual-human-or-both

この2つの考えを合わさえると

  • 人は悪魔と罪の影響を常に受けている
  • その影響の結果、自然的に罪に向かう性質がある
  • キリスト者が「敵」としているのは悪魔と罪の性質両方
  • その両者と戦うための武具は真理、正義、福音、信仰、救い、みことば
  • この内3つ(真理、福音、みことば)は悪魔ではなく人の知性や心に語りかける
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エペソ6:1~9

子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。 エフェソの信徒への手紙 6:1‭, ‬4 新共同訳

子供は両親に従い、両親は子供を怒らせず、諭されるように育てる。子供が従うためには親が正しく育てる必要がある。

怒らせる=parorgizo=挑発して怒るように仕向ける、常にまとわりついて苛立たせる。

ガミガミ言うことや、子供の人権を傷つける言葉、必要以上の体罰などが考えられる。

しつけ=paideia=訓練や教育、指導、懲らしめ、矯正
諭される=nouthesia=警告、諭し、助言

怒らせてはならないが、しつけはすべき。言葉が通じない小さい頃は懲らしめ(お尻を叩く)ことも必要。paideiaのような親からの一方的な指導は必要だし、nouthesiaのように助言をして子供に判断させる場面も必要。

奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。 エフェソの信徒への手紙 6:5‭, ‬9 新共同訳

奴隷と主人の関係も双方の歩み寄りが必要。奴隷は従い、主人は脅さない。立場は違ってもどちらも人であって、どちらも神の権威の下にある。どちらも天に主人がいて、天の主人に従うことが最終目的。

主人への指示はリーダーの立場にいる人にも当てはまる。脅して従わせ、権力で人々を黙らせる。批判を受け入れず、自分たちだけの考えだけで押し進む。このようなリーダーシップには限界があるし、そもそも人としての尊厳を無視している。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話しなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れ模範となりなさい。

1ペテロ5:2~3

教会のリーダーに対しての指示ではあるが、主人の立場にいる世の中の人にも当てはまる。「神に従って自発的に」部下や同僚を世話する。「卑しい利得を求めてではなく」、自分が評価されるのを求めるのではなく、部下や同僚が成長でき、評価され、キャリアを進められるように手助けする。支配ではなく模範となる。こういうリーダーには自然と従いたくなる。

人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。 エフェソの信徒への手紙 6:7‭-‬8 新共同訳

リーダーが駄目でも、人ではなく主に仕える。教会においては、キリスト者はキリストに仕えている。教会(人)でなければそのリーダーでもない。キリストに仕え、「善いことを行えば、だれでも主から報いを受ける」。主からの報い=主に満たされることに期待したい。

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エペソ5:22-33

'また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。 ' エフェソの信徒への手紙 5:24

教会はキリストに仕えている。この箇所で「教会」=ekklesias=ekklesiaの複数形。つまり、教会はいくつもあるが、どれもキリストに仕えている。教団でなければ、その教団を治める人達でもない。教会はキリストに仕えている。キリストが何を教えたか、何を求めているか理解し、教会で行われていることがキリストの教えに沿っているか吟味する。キリストは神を愛し、隣人を愛せよと教えた(マタイ22:36-40)。キリストは全ての国民を弟子とし、バプテスマを授け、キリストが教えた事を教える様に命じた (マタイ28:16-20)。礼拝することが全てではないし、人道的な働きをして隣人を助けるのも全てではない。どちらもキリストの弟子として生きるのに欠かせない。

'夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。 ' エフェソの信徒への手紙 5:25-27

キリストは教会(=キリスト者)を神のために取り分け(=聖なるものとし)た。そのために御自分が十字架にかかって罪の代価を支払った。キリスト者はこれを外見的に表すために水を用いて洗礼を受ける、と同時に聖霊によって清くされていく(聖化)。この事実を伝達するのは言葉=聖書。聖書を読んで聖霊に聖化されることによって、キリストの前に「聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」となることができる。

'わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 ' エフェソの信徒への手紙 5:29

キリストは教会(=キリスト者)の頭で、教会はキリストの体。キリストは体(教会)を養い、いたわる。キリストに養ってもらうにはキリストに注目しなければならない。自分たちが正しい方向だと思いこんで進む、もしくは伝統を守る、ということではマルタのように自分のことで精一杯になること(ルカ10:38-42)。マリアのようにイエスの足元で学びたい。

'「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 ' エフェソの信徒への手紙 5:31-32

夫婦が一体となる、という神秘があるように、キリストと教会も一体である。キリストの教えと戒めに従っていない教会はキリストと一体と言えるのだろうか?キリストと一体となっていない教会は教会なのだろうか?

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エペソ5:1~21

5 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。

みだらな行い (porneia, 1コリント7:2, 6:18, マタイ15:19)、身を汚す行為 (エペソが陥っていた性的状況, ローマ1:24, 26-27)、貪欲 (ヘブル13:5, 1テモテ6:8)。これらは「偶像礼拝」とされている。何故なら、これらの行いは自分に目を向けている。自分の欲を満たす性的行い (ポルノ)、自分が正しいと思った性の形 (「自然に反するもの」)、自分が望むものを追い求める。自分に目を向けた状態というのは、神を王座から引きずり下ろしているのと同じこと。神の主権、神の意思を無視して生きることが偶像礼拝。このような生き方をする人たちに「神の怒り」が下る。

11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。 13 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。 死者の中から立ち上がれ。 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

キリスト者として、これらの「業に加わらない」のと「明るみに」する役割がある。ただし、目的を忘れてはならない。それは「明らかにされるものはみな、光となる」こと。世の中と距離をおいて、全く関わらないことは難しいことではない。しかし、それではキリストの光を当てることはできない。間違っていることを指摘することは簡単。しかし、それでは相手が「光となる」目的を達成することはできない。むしろ、つまづきを与えてしまい、キリスト者が罪を犯すことになる(ローマ14:12-13)。地の塩、世の光として生きることがキリスト者の役割。

15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

「賢い者」として生きるのは、細かく気を配り、時をよく用いること。これは11節の明らかにして光とすることからつながっている。生活の中で、職場で、隣人との付き合いの中で、どのような「時」があるだろうか?どのような話が出たらキリストを伝えられるか?どのような状況にあったらキリスト者としての生き方を証できるか?誰に対してキリストの愛を示すことができるか?「細かく気を配り、時をよく用いる」のはキリストの味をいかなる場面で出すことによって「賢い者として生きる」こと。

18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

酒で満たされ、酒の力を借りて本音で話すことは楽かもしれない。しかし、聖霊で満たされることが求められているし、聖霊で満たされるのは酒よりも多くの利点がある。聖霊で満たされることによって神に向かうことができる。神に向いたままお互いを見ることができ、人間として欠けている部分は見ないようになれる。人に対する言葉でなく、神に対する「詩篇と賛美と霊的な歌」を用いて互いと会話することができ、キリストに仕えるように互いに仕える事ができる。

ちなみに、「詩篇と賛美と霊的な歌」は「賛美歌」や「聖歌」だけに限らない。聖書にある詩篇はもちろん、聖霊に動かされて語る「霊的な歌」も神への賛美にふさわしい。