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みことばの扱いとCS(日曜学校)について

「みことばが語られ、朗読されるのは礼拝でしかない。それをサポートするのはCSの学びである。」

この言葉の背景には、聖職者(牧師)しかみことばを扱えない、という考えがある。神学校に行き、教団の教師試験に合格し、按手を受けた者のみがみことばを扱える。つまり、教会においては牧師だけがみことばを読んで解釈し、その解釈を教会員に教える事ができる。その教える場が礼拝の説教であり、CS(日曜学校)は説教を理解するために必要な基礎知識や、説教についての分かち合いをする場としている。

この考えに対して聖書はどう教えているのだろうか?

みことばを扱える人

まず、みことばを扱えるのは聖職者(牧師)だけなのだろうか?聖書を見る前に考えてみると、これを正とするとしたら大きな問題に当たる。それは、牧師の聖書解釈や神学が正しいことに頼り切ってしまうことだ。もし牧師が間違った神学を教えていれば、マルティン・ルターが直面していた状態と同になる。聖書が言っていないことを教会の中でルール化し、権力を持って人々を縛ることが起きる。だからこそルターは一般信徒も聖書を読めるようにドイツ語に訳し、当時のカトリック教会と聖書を用いて戦った。ルターのように、一般信徒も聖書を用いて戦うことができるようになるべきだと、聖書を見なくても考えられる。

私達はみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。

エペソ4:13

聖書によると、キリスト者はいつまでも赤子のように牧師にミルクを飲ませてもらうのではなく(ヘブル5:12)、キリストの身丈にまで成長する必要がある。こうなるためには、牧師に手取り足取り教えてもらっているだけでは足りない。一人ひとりが聖書を読んで、「真理のみことばをまっすぐに解き明かす」ことに「最善を尽くす」必要がある。そうすれば「努めにふさわしいと認められる人」(2テモテ2:15)になれる。特に教師、執事、長老を担う人たちはふさわしいと認められる人となることを求めるべきである。

(テモテへの手紙は牧師に向けて書かれているので、「みことばをまっすぐに解き明かす」は牧師のみに当てられていると思いがちだが、パウロがテモテの教えたように、テモテも牧会している教会員に同じことを教えていることから、テモテへの手紙で書かれている内容は信徒全員にも向けられることが考えられる。そもそも、成熟することは聖書の他の箇所でも進められているので、テモテへの手紙が牧師だけに書かれているとしても成長の必要性があることには代わりはない。)

私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

ローマ15:14

成熟する目的としてキリストのようになる以外にも、互いを訓練し合うことも上げられている。ローマの信者たちは互いを訓戒し合うことができるほどに知識に満たされていた。一人ひとりが成熟するだけでなく、得られた知識を互いのために使っていた。また、キリスト者は体験談に基づく証だけではなく、信じている事柄を聖書を用いて説明できるようにしておく必要がある(1ペテロ3:15)。

もちろん、教会には使徒、預言者、伝道師、牧師、教師と様々な役割がある(エペソ4:11〜12)。すべての人が同じ知識レベル・成熟度にある必要はないし、それぞれの役割や賜物が違う。その中で牧師は特別にみことばを扱う役割だと考えがちだが、成熟しキリストの身丈(13節)になるのは全員に課せられている。また、牧師だけがみことばを扱う、ということは聖書に書かれていない。むしろ群れの模範となることが強調されている(1テモテ4:12)。模範として牧師は個人的な神学を押し付けて支配するのではなく、聖書を常に学び続ける姿勢を信徒に見せ、同じように聖書を扱うことができるように訓練することが役割である。

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

1ペテロ5:2〜3

CS (日曜学校) について

ここまでで分かったのは、みことばを扱えるのは牧師だけではないし、信徒一人ひとりが成熟していることが求められていることだ。これを受けてCS(日曜学校)はどのような場であるべきだろうか?

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

コロサイ3:16

この箇所でまず分かるのが、キリストのことばは一人ひとりに宿っていることだ。牧師だけに宿っているのではなく、信徒一人ひとりに宿っている。上記でも述べているが、牧師に頼らずともキリストのことば(みことば)を扱うことができる。みことばから得る知恵を互いに教え、忠告し合うことが進められている。誰がが書いた本、もしくは牧師の語ったことだけに焦点を当てて話し合うのではなく、一人ひとりがみことばから学んでいるキリストのことばを共有することだ。また、学びの結果として神を賛美することが進められている。学んで知識を得ることは良いが、それだけではただの勉強会にすぎない。学んだ結果、神への感謝に溢れ、形にこだわらない心からの賛美へと変わる。このような学びの流れがCSに求められている。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。

エペソ4:29

CSにおいて互いの接し方も考慮する必要がある。互いになにかを伝える時にはまず、その助言が必要なタイミングを見極める。いつでも厳しい言葉を語れば受け入れられるわけではないし、逆につまずきになる可能性もある。次に、成長に役立つことばを語る。特に教師は学んでいる人に対して、「これを理解しないと前に進めない」などと言ってはならない。これは成長を促すどころか、学ぶ意欲を無くしてしまう。最後に、恵みを与えることを目的とする。互いに聖書を学び共有することによって、知識を蓄えるだけでなく、恵みを与えることを常に考えなければならない。学びの時間の終わりに、参加者が「恵みを受けた」とリアクションしているとしたらCSの時間は有意義であったと言える。

この2つの聖書箇所から見れるように、CS(教会学校)の時間は信徒一人ひとりが聖書を読んで互いに知恵を出し合う時間であり、互いの成長に役立つことを語ることによって恵みを得る時間である。これは人が語る説教や、人が書いた本である程度担えるかもしれないが、神のことばである聖書を理解するほどの恵みは受けられない。聖書をベースとした、本当の恵みが得られる学びこそ、教会教育の場で最も必要とされている内容だ。

デボーションの必要性

これまでキリスト者としての成熟とCSのあり方を考えてきたが、どちらもキリスト者が普段から聖書を読むことを前提としている。イエス・キリストも普段から父なる神と時間を過ごし、祈りを通して父の意向を確認しながら地上での生活を送った(マタイ26:36、マルコ1:35、ルカ5:16)。イエスのおかげで私達は義と認められ、胸を貼って父なる神に近づくことができる(ヘブル10:22)のだから、キリスト者として私達も父なる神と時間を過ごすことが重要である。聖書を読んだり祈ることによって神に近づき(ヤコブ4:8)、神との関係を築いていくことがキリスト者としての努めである。

デボーションにおいて聖書を読むことが一つの大事な内容であるが、ジョン・パイパーのミニストリー「Desiring God」の記事で「聖書を自分で読む方法」が投稿されているので以下に要点を訳す。

  1. 自分の解釈でなく、作者の解釈をを探る
  2. 聖書の宝を発掘するためにいくつかの問をしながら読む
    1. 単語の意味は?
    2. 文節の意味は?
    3. 命題と周辺の文節の関係は?(接続詞に注意する)
    4. 文脈による単語や文節の意味は?
    5. 他の聖書箇所との関係は?
    6. どのように適用できるだろうか?
    7. 心はどのように応答すべきか?(頭だけでない)
  3. どのページにおいても神の助けを祈る

最後に

そもそも教会は礼拝の式典を行うだけの場所ではない。「教会」という言葉はギリシャ後の「エクレシア」から来ていて、「会衆、呼び出された者たち」という意味が含まれている。教会は建物や場所でなく人である。この呼び出された者たちが集まるたびに、愛し合うこと(1ヨハネ4:12)、互いを励ますこと(ヘブル3:13)、善い行いをするように促すこと(ヘブル10:24)、互いに仕えること(ガラテヤ5:13)、互いに教えること(ローマ15:14)、互いを尊敬すること(ローマ12:10)、互いに優しく寛容をもって接すること(エペソ4:32)が進められている。

神を礼拝し、復活のイエス・キリストを祝うのはもちろんだ。しかし神を愛し、他人を愛することがイエスが教えた律法であるように、キリスト者は神との縦の関係と、互いの横の関係を大事にすることが求められている。迷いそうになったら初代教会の動きを再確認しよう。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた・・・そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から行為を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。

使徒2:42,46〜47

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