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Habakkuk

ハバクク

ハバククは、南の王国ユダがカルデヤ(バビロンと同じ人達)に侵略される直前に書かれた。ユダや自らの罪のため、神によって裁かれる。やがて586 BCにエルサレムはネブカドネザルによって滅ぼされる。ヨエルやゼパニヤやアモスと違い、ハバククでは滅びを避けられる可能性は書かれていない。人々に悔い改めるように促すことはしていない。もう手遅れだからである。裁きを通しても命を守る方法は、信仰しかない。国が滅びても、個人が神を信頼することによって望みが残されている。

(1:2-4) ユダは暴行と不法で溢れていた。「みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです」(4節)。

(1:5-11) これを受けて神はこう反応する。「見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する」(6節)。

(1:12) しかし、神は民を完全に滅ぼすことはしないとハバククは信じている。「あなたは昔から主ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ、私たちが死ぬことはありません。主よ、あなたはさばきのために、彼を建てられました。岩なる方よ、あなたは懲らしめるために、彼を据えられました。」神は民を滅ぼすためにカルデア人を起こしたのではなく、正し、懲らしめるために起こした。

(1:13-17) カルデア人は神の裁きを執行したのだが、ユダより正しかったわけではない。彼らにもプライドがあり、暴行を繰り返し、偶像を拝んだ。そのためにハバククは神に訴える:「彼は自分の網を空にし続けながら、諸国の民を容赦なく殺すのでしょうか。」

この問に対して神は答えるのだが、その答えは記されていない。しかし、その答えの中にあったことばは2:4の確信につながったに違いない。「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐではない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

(2:6-19) カルデアに対する嘲りが記されている。カルデアの支配はいずれ終わる。その理由は2:14に記されているように、「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることでみたされる」から。だから諸国はカルデアを恐れるのではなく、全てを治める神を恐れるべき。「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前にしずまれ」(2:20)。

3章はハバククが神の言葉を受けた上での反応が記されている。ただこれは個人的な祈りにとどまらず、賛美と礼拝においてこの言葉が使われることが想定されている。「シグヨノテの調べにのせて」(3:1) 「指揮者のために。弦楽器に合わせて」(3:19) というのは伴奏と共に歌われること。「セラ」と3節、9節、13節に入れていることも賛美の歌を現している。歌にすることによって、ハバククは私たちにも、神の裁きに直面した時に同じように祈り歌うことを促している。

(3:2) ハバククは神の裁きに対して健全な恐れをいだいていた。裁きの中であっても、神が憐れむように祈っている。

(3:3-15) 神は救うことができるほど力があると記している。「あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出てこられます。あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます」 (13節)。過去の神の働きを見て、未来において神が完全に勝利することに自信をもっていた。なので、来る侵略に震えてはいるが、「静かに待ちます」(16節) と記している。

(3:17-19) ハバククは信仰の歌を綴っている。

いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

カルデアの侵略によってどんな試練が訪れても、ハバククは神を信頼し続ける。神は裁きを下しても、信頼し、どんな状況に陥っても神のみに喜ぶ者には、神は慈悲深さを示す。

ハバククの書のポイントは2つある。マイナス面においては、プライドのある者、その強さと賢さがその者の「神」であるならば、その者は必ず滅びること。一時期裕福な時を過ごし、神に選ばれた者だと酔いしれることがあったとしても、いずれは神の裁きを受ける。プラス面においては、「正しい人はその信仰によって生きる」こと。どんなことがあっても、神に信頼することができるし、そこに本当の希望がある。

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