Categories
Obadiah

オバデア

オバデアは586 BCのエルサレムの崩壊後に書かれていて、2つの部分に分かれている。1〜16節では、エドムに対して裁きのことばが書かれている。エドムは死海の南東に住んでいたエサウの子孫だった。17〜21節では、イスラエルの救いと、最終的な神の国の建国が記されている。オバデアのメインテーマは、虐げられている神の民を励まし、神が宇宙の義なる支配者であることを示すことだと考えられる。悪人は裁かれ、義なる裁判官が全地上を支配し、全ての神の民が永遠と安全に暮らせる日が来る。

2〜16節

エドムが滅ぼされる理由は一点に限る。プライド。プライドによってエドムは全ての人の上をいくワシのように安全だと考えていた。しかし神はこういう、「わたしはそこからあなたを引きおろす」。しかも、エドムは強盗やぶどうを集める人のように何かを残す形で滅ぼされるのではなく、神によって完全に滅ぼされる (5節)。また、エドムは周りの同盟だった国々に裏切られ、逃げ場も失っていることに気づいていない (7節)。エドムの首都であったテマンは多くの知性と軍事力を備えていたが、神はそれをものともせずプライドをつぶし、知性と力のあるものを共に裁く (8-9節)。

プライドに陥っている人は、自分を他人より良く見せるために常に機会を狙っている。自分を正当化する機会や、他人を否定して自分より低くする機会。これは国であっても、教会組織であっても、大人でも子供でも皆同じことが言える。神の恵みなしでは、他人の失敗で常に喜びを得ている。自分たちの弱さを横に置き、成功を最大限に称える。エドムはユダの滅びを喜び、傍観し、嘲笑い、略奪し、逃げ遅れた人々を切り捨てた (10-14節)。

そしてオバデアは「主の日」ということばを使ってエドムの滅びを宣言する (15-16節)。これは神が必ず裁きを執行することを指しているが、同時に未来に来る、全ての不義が正される、全人類が体験する主の日のことも指している。

17~21節

後半でオバデアは、主の日にユダの人たちに希望があると告げている。ユダは不信仰によって捕虜となってしまったが、神の裁きを逃れ滅ぼされなかった人々の中には、神に立ち返り、神の慈悲深さに頼った人たちもいたと考えられる。この人たちはやがて約束の地に戻り、イスラエルの復興に取り掛かることになる。

今日において神の民はこの残されたユダヤ人ではなく、キリストに信頼を置く者全てが神の民とされている。「ユダヤ人もギリシャ人もなく・・・あなたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:28-29)。この神の民はオバデアが想像したよりはるかに多い数の人だが、それだけでなく約束の土地もさらに大きい。パレスチナの土地だけでなく、ローマ4:13によると、アブラハムの子孫は全世界を相続すると書いてある。「そして王国は主のものとなる。」

オバデアを私たちに当てはめると

  1. 神は今でも全世界を支配しており、国々と歴史を思いのままに動かしている。
  2. プライドは私たちを欺く (3節)。プライドは、私たちは独立していて、自己充足であり、無敵だと思わせてしまう。プライドに陥る人は欺きを持って考えたり感じたりするようになってしまう。プライドは歪んだ思いと人生観を持たせてしまう。
  3. 神はプライドを嫌い、プライドのある人を高いところから引き下ろす (4節)。
  4. プライドのある国々や人々は蒔いた種を刈り取る (15節)。プライドに身を任せ、神を忘れてしまうと、主の日においても独立したままになってしまう。神の恵みに頼ることはできなくなってしまう。
  5. 神は裁きから逃れる道を与えて下さっている (17節)。プライドから逃れ、聖なるへりくだりによって、主の日に安全を得ることができる。
上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/eagle-edom-will-come-down

Categories
Amos

アモス6, 8, 5

6:1 「わざわいなるかな、安らかにシオンにいる者、また安心してサマリヤの山にいる者、諸国民のかしらのうちの著名な人々で、イスラエルの家がきて従う者よ。
6 鉢をもって酒を飲み、いとも尊い油を身にぬり、ヨセフの破滅を悲しまない者たちよ。
13 あなたがたはロデバルを喜び、「われわれは自分の力で/カルナイムを得たではないか」と言う。

イスラエルは裕福だった。しかし、その裕福さが彼らを滅びへと導いてしまった。裕福さを愛し、自分たちの強さに誇りをもっていた。神はそんな誇りを嫌い、建て上げた宮殿を憎んだ (6:8)。神が心の拠り所でなくなると、この世の娯楽と快適さに執着してしまう。この快適さへの依存が、真実を曲げることにつながり、貧しい人に対して無関心にさせてしまう。

これは今日においてどんな人に当てはまるだろうか?快適を求めて生活し、建物を大きくすることにこだわり、滅びに向かっている人を悲しまず、安定した環境作りに固執し、自分を愛することと自分を正当化するのに長け、隣人を愛することと尊重することを二の次にしている。そんな人に対して神はこう言う:「わたしはまた冬の家と夏の家とを撃つ、象牙の家は滅び、大いなる家は消えうせる」(3:15)

8:4 あなたがた、貧しい者を踏みつけ、また国の乏しい者を滅ぼす者よ、これを聞け。5 あなたがたは言う、「新月はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは穀物を売ろう。安息日はいつ過ぎ去るだろう、そうしたら、われわれは麦を売り出そう。われわれはエパを小さくし、シケルを大きくし、偽りのはかりをもって欺き、6 乏しい者を金で買い、貧しい者をくつ一足で買いとり、また、くず麦を売ろう」。

4:1ではサマリアの裕福な人たちが貧しい人たちを虐げていることが描かれている。5:12では腐敗と無関心がおり混ざって、賄賂を受け取り、正しい人までも虐げているのが分かる。そして8:4-6では宗教的偽善と富への愛、不誠実と硬直性がおり混ざっていく。

教会に行っていても、礼拝に参加していても、心は神に向いておらず、反抗している。裕福と快適に依存している。真実を無視している。貧しい人へは無関心。これらはアモスの時代で神の怒りを買ったが、当時も今も同じ神が世を治めている。

5:6 あなたがたは主を求めよ、そして生きよ。
14 善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。15 悪を憎み、善を愛し、門で公義を立てよ。万軍の神、主は、あるいは/ヨセフの残りの者をあわれまれるであろう。

神に立ち返り、神を求めることが解決法だが、これは神に対する考えを変えるだけではない。快適さへの愛を、善と正義への愛に置き換えること。善を愛するようになれば、自分たちの富や伝統が脅かされたから怒るのでなく、人が飢えていることに怒り、それに対応するアクションを起こすようになる。正義を愛するようになれば、全員同じ考えを持った人を集め、制約を利用して考えの違った人を指摘・迫害するのではなく、互いを尊重し理解することに努め、相手を思いやる愛をもって本当の「純潔と平和と一致を守る」ことができる。

上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
Categories
Amos

アモス4

4 「あなたがたはベテルへ行って罪を犯し、ギルガルへ行って、とがを増し加えよ。朝ごとに、あなたがたの犠牲を携えて行け、三日ごとに、あなたがたの十分の一を携えて行け。5 種を入れたパンの感謝祭をささげ、心よりの供え物をふれ示せ。イスラエルの人々よ、あなたがたはこのようにするのを好んでいる」と/主なる神は言われる。

イスラエルはとても宗教熱心だった。毎日いけにえを捧げ、3日おきに十一献金を捧げ、感謝献金を捧げ、特別献金を募った。しかもこれを喜んで行っていた。しかし、彼らは「罪を犯し」「とがを増し加えた」。神が記した律法と似たようなことをしていて、同じYHWHという名を使って讃えているが、実際には偶像礼拝をしていた。

1 「バシャンの雌牛どもよ、この言葉を聞け。あなたがたはサマリヤの山におり、弱い者をしえたげ、貧しい者を圧迫し、またその主人に向かって、『持ってきて、わたしたちに飲ませよ』と言う。

そしてそれが生き方にも現れていた。イスラエルはとても裕福になっていて、その富を程なく愛していた。しかし、貧しい人を虐げ、圧迫した。

6〜11節では、神が複数回に渡ってイスラエルに立ち返るよう促していることが記されている。飢饉があった (6節)。神が雨を降らせなかったので干ばつがあった (7-8節)。草木を枯らし、いなごで彼らを撃った (9節)。疫病とつるぎをもたらした (10節)。ソドムとゴメラみたいに滅ぼし、火の中から取り出した (11節)。こんなことがあっても、「それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった と主は言われる。」神は複数回に渡って、本当の神なしに喜びを求めることをやめるよう、イスラエルの歩みを止めようとしていた。

12 「それゆえイスラエルよ、わたしはこのようにあなたに行う。わたしはこれを行うゆえ、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」。

神の裁きは確実に近づいていて、止めることはできない。そんな中で希望はある。「神に会う備えをせよ」。ベテルで聖さと真理を持って神に出会う準備をしないのであれば、最後の裁きで神と会う備えができる。その後はもう備えることはできない。

礼拝においても、クリスチャンは神に会う備えをする必要がある。この箇所から以下のことが考えられる。

  1. 真理(聖書)が尊重されている教会に行く。イスラエルは宗教熱心だったが本当の神を礼拝していなかった。通っている教会はただ宗教熱心なのか、本当の神を礼拝しているのか?
  2. 私たちの罪を全て神に告白する。イスラエルは他人を虐げながら神を礼拝しようとしていた。罪を隠したままだと礼拝はただの行事に成り下がってしまう。
  3. 神が私たちの人生でどう働いているか思い返す。神はイスラエルに立ち返るよう何度も促した。自分たちの思いでコントロールしようとするのではなく、神に立ち返り、神に信頼する道を歩むことによって礼拝に備えることができる。
  4. 心で神に近づく。イスラエルは宗教的行為は立派のように見えたが、心で神に近づいていなかった。神を礼拝する時、口だけで神を敬うことは避けたい (マタイ15:)。
上記はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/prepare-to-meet-your-god
Categories
Amos

アモス1-2

アモスは北の王国だったイスラエルに向けて神の予言を伝えた。1章ではまず、イスラエルの周りの国に対して裁きを予言した。まるでイスラエルの首の周りに縄を置き、徐々に締めていったようだ。それぞれの国に対して3つの咎、4つの咎とあるが、この数字は「完成されたも (3) のと溢れたもの (+1)」を表す。つまり、神はこの国々の罪を許してきたが、それが上限に達したので、溢れ出て裁かれることになる。

Kingdoms around Israel 830 map
830 B.C.ごろのパレスチナ

「咎」と訳されている言葉はヘブル語で「ペシャ」もしくは「パシャ」。意味は「法的な罪を犯すこと」。この国々は社会的に、道徳的に違反を犯していた。彼らの罪は次のものを含む: 残酷な社会的抑圧と経済的搾取 (1:3)、奴隷取引と人身売買 (1:6, 9)、親族の裏切りと容赦ない暴力 (1:11)、母と胎児に対する卑劣な残虐行為 (1:13)、死者の冒涜 (2:1)。

4 主はこう言われる、「ユダの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが主の律法を捨て、その定めを守らず、その先祖たちが従い歩いた/偽りの物に惑わされたからである。5 それゆえ、わたしはユダに火を送り、エルサレムのもろもろの宮殿を焼き滅ぼす」。

ユダは主の律法を捨てた。これは契約破棄であり、神の権威を拒絶する行為。ユダが契約破棄をしたので、神は呪いを執行する権利があると契約にある。それは罪に対して7倍の罰を与える権限があるということ。ユダが律法を捨てたことは、周りの国々が犯した罪と匹敵する。そしてユダに対する聖なる火の裁きは周りの国々と変わらないものとなる。

6 主はこう言われる、「イスラエルの三つのとが、四つのとがのために、わたしはこれを罰してゆるさない。これは彼らが正しい者を金のために売り、貧しい者をくつ一足のために売るからである。7 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、苦しむ者の道をまげ、また父子ともにひとりの女のところへ行って、わが聖なる名を汚す。8 彼らはすべての祭壇のかたわらに/質に取った衣服を敷いて、その上に伏し、罰金をもって得た酒を、その神の家で飲む。

イスラエルに対する裁きも周りの国々と匹敵する。イスラエルの罪は次のものを含む:人々を奴隷として売り飛ばす (2:6)、貧しい者を虐げる (2:7)、性的な罪を犯す (2:7)、正義を歪める (2:8)、酔っ払う (2:8)、ナザレ人に対する罪 (2:12)。この中で最も大きな罪は貧困層への虐待と抑圧である。

13 見よ、わたしは麦束をいっぱい積んだ車が/物を圧するように、あなたがたをその所で圧する。14 速く走る者も逃げ場を失い、強い者もその力をふるうことができず、勇士もその命を救うことができない。15 弓をとる者も立つことができず、足早の者も自分を救うことができず、馬に乗る者もその命を救うことができない。16 勇士のうちの雄々しい心の者も/その日には裸で逃げる」と/主は言われる。

この箇所では、イスラエルに対する裁きを火によるものとして現していないが、確実に裁かれることは書かれている。この違いは、聖なる裁きをより鮮明にするために、アモスは予言の表現に変化を加えている。アモス書はこのように複数のトピックとジャンルを織り交ぜることによって、予言の鮮明度を上げ、聞き手がより注目するようになっている。

また、アモス書は神の裁きがすぐそこまで来ていると訴えている。アッシリアによる捕虜は、アモスが予言した一世代後に起きようとしていた。神はイスラエルの民に対して哀れみをもって、裁きの出来事を前もって知らせている。実に、神は誰の死も喜ばない。

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないー神である主のことばー。だから立ち返って生きよ。

エゼキエル18:32
上記の内容はThe Gospel Coalitionの記事を引用している。
https://www.thegospelcoalition.org/commentary/amos/#section-29

Categories
John

ヨハネ 16:1-11

2 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。3 彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

クリスチャンであれば、キリストを告白し、キリストに従うことを促し、キリストが語ったことばを読んで思い起こす。しかし、人々が聖書を読んでキリストに従うようになれば、トップダウンでコントロールが難しくなる。リーダーの思い通りに人々が動かない場合があるかもしれない。組織のルールやしきたりに変更を余儀なくされるかも知れない。しかし、これはキリストに従うことや聖書を読むことが悪いのではなく、人間の作った組織が完璧でないから常にキリストが示す形に修正していく必要があるということ。残念ながらキリストに従えない人たちは、従おうとしている人たちを追い出すことが、組織を守ることだと勘違いしてしまう。イエスは言った、「彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。」

1 わたしがこれらのことを語ったのは、あなたがたがつまずくことのないためである。

キリストは、弟子たちが信頼していた祭司たちに追い出されることをわかっていた。信頼していた人たちに裏切られるのはとても心苦しいこと。特に神に仕えているはずの祭司たちに迫害されるのは、神を疑うきっかけになりかねない。実際、今日において教会のリーダーに迫害され、うつ病を発症して神を疑ってしまった人は少なくない。迫害され、神を疑いつまずきそうになったときのために、キリストはこれらのことを語って下さった。キリストはリーダーたちの間違いを指摘し、ご自身に従うように促した。キリストに従うことが父なる神に従うこと。キリストを知ることが父なる神を知る唯一の方法であるから。

7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。9 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。10 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。11 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。

そしてキリストは「助け主」である聖霊を与えて下さっている。聖霊は罪と義とさばきについて、人々が理解できるようにして下さる。

1) 罪。自分の罪と神の赦しを得る必要性を理解させて下さる。また、キリストを信じない、弟子たちを迫害している祭司たちの罪も見えるようにして下さる。彼らはイエスに従わない罪を犯し、罪を犯していることを理解できていなかった。

2) 義。父なる神は義なる神である。どんな理不尽な扱いを受けても、神は必ずそれを正して下さる。神に仕えていると思い込んでいる人たちは、自分たちの伝統を守るために自分たちの義に執着し、それを自分勝手に執行する。神の義を忘れ、キリストが唯一の執行者であることを忘れている。

3) さばき。そんな彼らに裁きは下る。彼らを惑わす「この世の君」である悪魔に対してまず裁きが下る。そしてキリストに従わない者も悪魔とともに裁かれる。キリストに従わないなら悪魔に従っていることになるから。

しかし、罪を気付かされ、キリストに立ち返り、キリストに従う道を選ぶのであれば、誰でも赦される。たとえキリスト者を迫害し、会堂から追い出した祭司たちや組織のリーダーたちであっても。それだけイエス・キリストの十字架は力強い。

Categories
Joel

ヨエル1-2

4 かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。

いなごが食い尽くした結果、酔う者の口から酒が断たれた(5節)。いちじくの木が折られた(7節)。主の家に捧げる穀物が足りないぐらいだった(9節)。なのでヨエルは主に向かって叫ぶことを促している(13節)。この悲惨な状態から、神の裁きと恐ろしい主の日が訪れることを予言していた。

神が世の中の出来事をとおして(いなごや裁きを含めて)神が示そうとしていることは何なのか?それは「あなたがたはイスラエルのうちに/わたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る」(2:27)。私たちは神の民として、すべての行いがこれにつながっていることを意識しなければならない。

もし心が神から離れることがあれば、神は私たちを引き戻すために戦って下さる。2:12に「心をつくして」立ち返ることを促している所を見ると、神は私たちの心すべてを求めていることが分かる。日曜日に心の一部、食事前に一部、寝る前に一部、ということではない。私たちが神の内にあるならば、心のすべてが、すべての時に神に向かっていることが求められている。そのために神は戦っている。

なので「衣類ではなく、心を裂く」ように、ヨエルは促している。「目を覚ます」(5節)、「泣き悲しむ」(8節)、「恥じて泣く」(11節)、「断食をし、主に向かって叫ぶ」(14節)。日頃の罪に罪悪感を感じるだけでなく、罪に背を向ける。そして、「恵みがあり、あわれみがあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊か」(2:13) な神に立ち返るよう促している。

最後に、神が2:28で約束した聖霊の注ぎのために祈りたい。確かに、ペンテコステでイエスの弟子たちに聖霊が下ったことはヨエルの予言どおりだとペテロは語っていた (使徒2:16)。しかしこれは、これから来る未来の出来事のほんの一部にすぎない。神のことを夢見る年長の人を何人知っているだろうか?神のビジョンを見る若者を何人知っているだろうか?私たちを導くための予言を語るべく、神の声を聞く息子や娘はどこにいるだろうか?モーセに与えられた希望は成就されたのだろうか?「主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」(民数記11:29)

教会は多くの問題を抱えているので聖霊の注ぎは完全に成就されていないと言える。そしてイスラエルは未だにキリストを信じていないので、神の民は完成されていない。教会のさらなる発展のために、そしてイスラエルの救いのために祈っていきたい。

上記の内容はジョン・パイパーが提供する記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/the-locust-horde-and-the-day-of-the-lord
Categories
Hosea

ホセア4

1 イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。

イスラエルは神を知らない状態だった。バアルを崇拝することによって、真実がなくなっていた。真の神を礼拝せず、全てを与えて下さった神に忠実ではなくなり、偽りをベースとした生き方をしていた。また、愛情もなくなっていた。真理から背くと自分が正しいと思った道だけを信じ、それ以外の考えを持つ人を否定し排除する。まさに2節にある「ただのろいと、偽りと、人殺しと、盗みと、姦淫することのみで、人々は皆荒れ狂い、殺害に殺害が続いている」状態。この状態に神の愛はない。

4 しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ。5 あなたは昼つまずき、預言者もまたあなたと共に夜つまずく。わたしはあなたの母を滅ぼす。6 わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てて、わたしの祭司としない。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。7 彼らは大きくなるにしたがって、ますますわたしに罪を犯したゆえ、わたしは彼らの栄えを恥に変える。

イスラエルの民も罪を犯したが、神が最も責めていたのは祭司だった。彼らは民に神の律法の知識を与えなかった。ただ自分たちが正しいと思うことを教え、神のみことばを知るように促さなかった。教会においても、信徒に聖書の知識を与えないリーダーたちは神に責められる。人々が無知な状態を保ち、聖書を読むことを推奨せず、外で学ぶことを否定することによって、リーダーたちは信徒をコントロールすることができるかもしれない。しかし、それによって信徒は「知識がないために滅ぼされる」。このような指導者は、ヤコブ3:1にあるように、より重い裁きを受ける。

10 彼らは食べても飽くことなく、淫行をなしてもその数を増すことがない。彼らは主を捨てて、淫行を愛したからである。11 酒と新しい酒とは思慮を奪う。

バアルに与えられたと思われるものを食べ、宗教行事による性的行為をしてもイスラエルの人数は増えず弱小化していった。その理由は、神を捨てて、みことばを捨てて、しきたりやルールを愛したから。この生き方に満足し、現状に酔いしれることによって、思考能力が奪われていった。クリスチャンの生き方や教会生活においても、ある一定のことをやっているから正しく、満足しきって改善を求めないことは、現状に酔っているのと同じ。考えることを辞め、教わったことだけを守るようになってしまう。

5:15 わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う
6:1「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。2 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。3 わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

こんな状態であっても、神はイスラエルが立ち返ることを望んでいる。立ち返れば、神は必ず癒して下さり、守って下さる。そして神は怒るのではなく対話してくださるようになり、どんな偶像が与えることができない潤しと満たしを与えて下さる。それを受けた人々は、神の前で生きるようになり、さらに神を深く知ることができ、自ら神を求めるようになる。神を知ることがさらなる潤しにつながり、満たされた人生となっていく。

Categories
Hosea

ホセア1-3

1:1 ユダヤの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。2 主が最初ホセアによって語られた時、主はホセアに言われた、「行って、淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受けいれよ。この国は主にそむいて、はなはだしい淫行をなしているからである」。3 そこで彼は行ってデブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって男の子を産んだ。

ホセアは神の預言者として神から特別な指示を受けた。それは、イスラエルの不貞を表すように「淫行の妻」と結婚すること。イスラエルはユダ(南の王国)とイスラエル(北の王国)に分かれた後、イスラエルは神を礼拝するのをやめ、周りの国々に影響されてバールという神に従うようになっていた。神がイスラエルをエジプトから救いだし、豊かな土地を与えたにも関わらず、イスラエルは神に不貞を犯してほかの神々に走った。この出来事をホセアはゴメルとの結婚を通して表している。

1:4 主はまた彼に言われた、「あなたはその子の名をエズレルと名づけよ。しばらくしてわたしはエズレルの血のためにエヒウの家を罰し、イスラエルの家の国を滅ぼすからである。5 その日、わたしはエズレルの谷でイスラエルの弓を折る」と。

ゴメルは3人の子供を生み、それぞれが神の裁きを表す。最初の子供は「エズレル」。かつてイスラエルの王だったエヒウがエズレルの町で、ヨラムとエゼベルとアハブの70人の息子を殺したことを、イスラエルに思い起こすためにこの名前をつけた。エヘウは神の裁きを徹底的に下したことで知られている。しかし、金の孔子を取り除かなかったことから、エヘウの心は完全に神に向いていなかったことが分かる。なので神はイスラエルの土地を徐々に縮小した。

1:6 ゴメルはまたみごもって女の子を産んだ。主はホセアに言われた、「あなたはその名をロルハマと名づけよ。わたしはもはやイスラエルの家をあわれまず、決してこれをゆるさないからである。7 しかし、わたしはユダの家をあわれみ、その神、主によってこれを救う。わたしは弓、つるぎ、戦争、馬および騎兵によって救うのではない」と。8 ゴメルはロルハマを乳離れさせたとき、またみごもって男の子を産んだ。9 主は言われた、「その子の名をロアンミと名づけよ。あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである」。

「ロルハマ」と「ロアンミ」の名前も、神に背いて不貞を犯したことは、神の哀れみを終わりに向かわせ、イスラエルを神の民とみなさなくしてしまったことを表す。神に忠実でない人々は、ある時点から自分たちの力では神に立ち戻れなくなってしまう。教会においても、イエスに従わないことが続けば、立ち戻ることが難しくなってしまう。

1:10 しかしイスラエルの人々の数は海の砂のように量ることも、数えることもできないほどになって、さきに彼らが「あなたがたは、わたしの民ではない」と言われたその所で、「あなたがたは生ける神の子である」と言われるようになる。11 そしてユダの人々とイスラエルの人々は共に集まり、ひとりの長を立てて、その地からのぼって来る。エズレルの日は大いなるものとなる。

しかし、この裁きは神の最後の言葉ではない。実際に裁きは下り、イスラエルは722 BCにアッシリアによって捕虜とされるが、それでも神はいずれ不貞の民を連れ戻す。捕虜となっている間バアルを拝んだ世代はいなくなり、残された神に忠実な人たちは、やがて約束の地に神によって連れ戻される。

2:5 彼らの母は淫行をなし、彼らをはらんだ彼女は恥ずべきことを行った。彼女は言った、『わたしはわが恋人たちについて行こう。彼らはパンと水と羊の毛と麻と油と飲み物とを、わたしに与える者である』と。
8 彼女に穀物と酒と油とを与えた者、またバアルのために用いた銀と金とを/多く彼女に与えた者は、わたしであったことを彼女は知らなかった。
13 また彼女が耳輪と宝石で身を飾り、その恋人たちを慕って行って、わたしを忘れ、香をたいて仕えたバアルの祭の日のために、わたしは彼女を罰すると主は言われる。

この3節ではイスラエルの悲劇が見られる。1) 神はイスラエルの夫でいたかったが、イスラエルは不貞を犯し他の神々を愛した。2) イスラエルが得たすべての物は本当の夫である神から与えられていたのだが、バアルから得られていたと勘違いしていた。3) 神はこの不貞を必ず裁く。

3:1 主はわたしに言われた、「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。

ゴメルは不貞を犯したのだから、離婚が成立するはず。彼女は結婚を破棄している。別の男といる。律法によるとホセアは彼女を石打にさせることもできる。しかし、神はイスラエルを諦めていなかった。この思いを象徴するように、神はホセアに妻を愛するように指示した。さらに、ゴメルの不倫相手に金銭を支払い、買い戻すように指示した。

私たちも律法によって罪ある者と定められている。私たちは神に背き、不貞を犯している。しかし、神はイエス・キリストを地上に送り、罪の代価を支払って下さった。それほどまでに神は私たちを愛している。まさに、ホセア2:14-23は私たちクリスチャンのために与えられている神の約束だと考えられる。どのような約束が与えられているだろうか?

2:14 それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。

神は私たちをいざなうことを約束する。「ねんごろに彼女に語ろう」はヘブル語で「彼女の心に語り掛ける」と訳せる。私たちは不貞の罪を犯すが、それでも神は私たちを引き寄せて心に語り掛けて下さる。これが本当の慈悲深さ。

2:15 その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう。

神は望みと安心を与えて下さることを約束する。18節にも続くように、不貞の妻である私たちが戻ってくれば、神である夫と共にパラダイスに住むことができる。神は野の獣と約束を結び、戦いと争いを取り除いて下さる。

2:19 またわたしは永遠にあなたとちぎりを結ぶ。すなわち正義と、公平と、いつくしみと、あわれみとをもってちぎりを結ぶ。

神は妻である私たちとの誓いを新たにし、私たちは神と純潔な関係をやり直すことができる。まさに婚約したころから再スタートできる。正義と、公平と、いつくしみと、あわれみをなベースにした関係を始められる。私たちがいるパラダイスという環境が良いだけでなく、神と私たちの関係が良くなる。神は常に私たちとこのような関係を望んでいたが、ついに両想いの関係になる。

2:20 わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。

「主を知る」というのはアダムとエバの夫婦関係においての「知る」と同じ言葉が使われている。つまり、神は私たちから何も差し控えることはない。私たちを近くに置いて下さる。罪によって全てが奪われた私たちは、神に立ち返ることによって神との最も近い交わりを得ることができる。

2:16 主は言われる、その日には、あなたはわたしを『わが夫』と呼び、もはや『わがバアル』とは呼ばない。

神に立ち返って交わりを得るにはどうすれば良いのだろうか?神を「わが夫」と呼ぶこと。つまり、神に対して愛する夫のように関わること。主人や所有者のように厳しい関係ではない。「わが夫」として心を明け渡し、神と心を通わして語ることによって、神との本当の愛の交わりを得ることができる。

上記はジョン・パイパーの記事を引用している。
https://www.desiringgod.org/messages/call-me-husband-not-baal