1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について―― 2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――
「いのちの言」もしくは「いのちの言葉」は「初めからあったもの」。創られた存在ではなく、父なる神と共に永遠に存在していた者。「わたしたち」、つまりヨハネと他の弟子たちが「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」とはイエス・キリストのことを指している。イエスは人としてこの世に来たが、初めから父なる神と共に存在していた。これイエスは神である証拠。このことを証し、告げ知らせるために聖書が与えられた。聖書の内容を参考書から学んで知識だけを増やし、礼拝行事を完璧に行うために聖書が与えられたのではない。イエス・キリストを証し、告げ知らせるために聖書は与えられた。
3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
イエスの地上での生き方や教えたことををヨハネと弟子たちは見聞きし、それを聖書に記した。その理由は、「わたしたちの交わりにあずかるようになるため」。イエスにつながり、イエスに従うよう生きている人たち、つまりクリスチャンの交わりに加わる方法と、交わりの中での生き方を知るために聖書が与えられている。クリスチャンの生き方は参考書や一人の牧師の教えだけでは正確に知ることができない。聖書を通してキリストから学ぶ必要がある。キリストの教えを理解し、受け入れた人だけが本当のクリスチャンの交わりに加えられる。聖書がベースでなければただの人間の集まり(クラブ活動)にすぎない。
4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。
イエスが与えるいのち、イエスの生き方、イエスの教えから学び、本当の交わりに加えられることによって「喜びが満ち溢れる」。または、「喜びを完璧なものにする。」この世の物や人には与えられない喜びと平安をイエスが与える。
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
ヨハネ14:27