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Proverbs

箴言25:6-12

王の前でうぬぼれるな。 身分の高い人々の場に立とうとするな。 高貴な人の前で下座に落とされるよりも 上座に着くようにと言われる方がよい。 箴言25:6-7

身分をわきまえることが大事。「身分の高い人々の場に立とうとするな。」自分がどのような立場なのかをまず良く考えなければならない。それは時に身分が低い場所かもしれないし、周りの人と同じ立場かもしれない。自分の立場をそれ以上だと思わないことがポイント(ローマ12:3)。時に教会の中で、立場が他の人と変わらないのに、「自分の正義」を保つために相手を指摘し回る人がいる。監督の立場ではなく、周りと同じ立場にいることを忘れてはならない。

何ごとかを目にしても 性急に争いの場に引き出そうとするな。 そのため友人に嘲られることになったら 将来どうするつもりか。

自分のことについて友人と言い争うのはよいが 他人の秘密を漏らしてはならない。 それを聞いた人があなたを恥に落とし あなたの悪評は去らないであろう。

箴言25:7b-10

「争いの場」に物事を持って行く時も、良く状況を理解しなければならない。指摘したい相手の立場や言動や行動は、何故そのようになっているのか?自分は何故それを指摘したいと思うのか?「自分の正義」ではなく聖書に基づいた指摘なのか?「争いの場」という公の場に持って行く前に、その人と直接対話したのだろうか?キリスト者の会話のベースは聖書であり、聖書に基づいた議論をし、それをもって「正しさ」を定義していく必要がある (1テサロニケ5:21)。伝統や先入観では結論にたどり着かない。そして互いにキリストのようにへりくだる姿勢を持って会話に臨まなければならない (ピリピ2)。

時宜にかなって語られる言葉は 銀細工に付けられた金のりんご。 聞き分ける耳に与えられる賢い懲らしめは 金の輪、純金の飾り。 箴言 25:11-12

良いタイミングで (伝道者の書3) 祈りに包まれた言葉は「喜ばしい」(箴言15:23)。相手をけなすのではなく、相手を言葉によって支えること (イザヤ50:4) と、言葉を通して建て上げていく (エペソ4:29) ことを目標にすべき。伝統や先入観では人は変えられないが、聖書は人を変えられる (2テモテ4:2) ことを信じて語り続けたい。

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Hebrews

ヘブル8

'この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。 しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。 ' ヘブライ人への手紙 8:5-6

祭司たちが行っていたことは「天にあるものの写しであり影である」。神からモーセに、そしてモーセからイスラエルに与えられた一時的な律法の下に行動をしていた。しかし、私たちの大祭司イエス・キリストは「優れた務めを得ておられます」。律法より優れた神の約束をベースにイエスはこの世で生活し、人々を教え、罪の代価を十字架で支払い、蘇りによって力を示した。イエスによってモーセ律法は私たちキリスト者が守らなければならないものではなくなった。

キリスト者はモーセ律法の下にいるのではなく、恵みの下にあり (ローマ6:14)、「キリストの律法」の下にある (1コリント9:20-21)。「キリストの律法」は愛することが含まれている (マタイ5:44; ガラテヤ6:2; ヤコブ2:8; ローマ13:8–10)。キリストの行動から (ヨハネ13:34; ピリピ2:4–12)、キリストの教えと戒めから (マタイ28:20; 2ペテロ3:2)、新約聖書の教えと戒めから (2ペテロ3:2; エペソ2:20; ユダ1:17; 1ヨハネ5:3)、そしてキリストを起点とした解釈の上で聖書全体から (マタイ5:17-18; ルカ24:27, 44; 2テモテ3:16–17) 「キリストの律法」学ぶことができる。

「キリストの律法」についての考えは「新約神学」に基づいている。

新約神学は、モーセ律法を全体としてとらえ、それがキリストにおいてすべて成就したと見なします(ここまでは契約神学と一致しています)。しかし、新約神学はモーセ律法を全体として見ているので、モーセ律法の道徳的側面もキリストにおいて成就され、もはやキリスト者には適用されないと見ています。十戒に要約されているモーセ律法の道徳的側面の下にいるのではなく、キリストの律法の下にいるのです(1コリント9:21)。キリストの律法とは、キリストが福音書の中で具体的に述べた戒め(山上の説教など)のことです。つまり、新約神学では、モーセ経済全体は脇に置かれており、もはやキリスト者には何の適用もありません。契約神学では、神の民と救いの道に関して旧約と新約の間に連続性があると考えています。しかし新約神学では、古いモーセ契約とキリストを仲保者とした新約の違いに焦点を当て、旧約と新約の間にはっきりと線を引いています。旧約は(モーセ法の道徳的側面を含めて)廃止され、その道徳を支配するキリストの律法を持つ新約に取って代わられます。

https://www.gotquestions.org/new-covenant-theology.html
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ヘブル7:11~28

'その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:18-19

律法は「弱く無益なために廃止」された。律法が定める動物犠牲、祭司制度、その他様々なルールは、私たちを完全に罪から開放することはできない。安息日を守っても、什一献金を捧げても、奉仕に時間を費やしても、神に近づくことはできない。神が求めるのはルールを守ることでも、身を切る奉仕でもない。神は行動でなく心を求めている。その心があってこそ、神に近づき希望を得ることができる。

'もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 ' 詩編 51:18-19
'律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:26-28

教会のルールに罰せられて、教会のリーダーによって赦されるという制度は、祭司が生贄を捧げていたのと変わらない。人に頼る罪の赦しには限度があり、毎日「いけにえ」を捧げても神の規準は満たせない。私たちに必要なのは「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」であるイエス。イエスは罪がないゆえに自分のために生贄を捧げる必要はなく、民のために生贄を捧げ続ける必要もない。一度だけ十字架にかかったことによって私たちの罪の生贄になってくださった。イエスの生贄によって、私たちは罪赦される。

'それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。 ' ヘブライ人への手紙 7:25

イエスは完全に私たちを救うことができる。人の赦しではなくイエスの赦しを求め、ルールにすがるのではなくイエスの教えにすがることが、キリストの弟子として生きることの目的である。

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ヘブル7:1~10

先日の投稿でメルキゼデクがイエスを象徴していることに触れたが、この箇所ではメルキゼデクがいかに律法で定められているレビ族より優れていることが掘り下げられている。律法によるとレビ族はイスラエルの中で特別な存在で、神に100%仕える人たちとして、イスラエルは彼らを経済的に支えていた。

'アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。 ' ヘブライ人への手紙 7:2

イスラエルにとって一番驚くポイントとして、イスラエルの起点であるアブラハムがメルキゼデクに十分の一を捧げたこと。まだ律法も祭司制度が制定されていない時代で、イスラエル人でもないメルキゼデクという人に、アブラハムは捧げものをしたこと。

ユダヤ人はこれについて色々な捉え方としている。一つは、祭司は元々メルキゼデクの家系から出るように神に定められていて、これを機にアブラハムに伝承されたとされている。もう一つは、メルキゼデクは割礼を受けた者として、アブラハムにトーラ(創世記〜申命記)について教えたとされている。他にも色々な説はあるが、どれも聖書自体には記されておらず、ユダヤ教学者の解釈にすぎない。

メルキゼデクは「義の王」「平和の王」とされている。人間に対して「義」「平和」「王」を同時に使って表すのはめったに見ない。それほどメルキゼデクは立派な人間だったのか、メルキゼデクは単なる人以上の存在を象徴している。神を畏れていて栄華を極めたソロモン王でさえ、「義の王」「平和の王」と呼ばれることはなかった。族長のアブラハムが十分の一を捧げるほど、メルキゼデクは「偉大であった」(4説)。

'彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。 ' ヘブライ人への手紙 7:3

メルキゼデクはイスラエルの家系にいない。当時父や母の名前を用いて「名前、誰々の子(父)、母は誰々だった」という自己紹介が一般的だった。しかし、メルキゼデクにおいてはそのようなことはなく、本人だけの紹介にとどまっている。しかもレビ族の血統でないにも関わらず、祭司が受けるべき十分の一を受け、祭司が授けるべき祝福の言葉を与えている (6説)。イエスは人としてこの世に来てくださり、その家系はレビ族ではなくダビデ王の家系だった。同時にイエスは神であり、父なる神と位の差がなく同等な存在でもある。始まりも終わりもなく、永遠に存在する神の子。その権威をもって、レビ族のような一時的な祭司ではなく、永遠なる祭司として役割を担ってくださる。

'更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。 ' ヘブライ人への手紙 7:8

レビ族は役割では取り分けられているが、他のイスラエル人と同じ人間だった。人間は誰でもいつかは死ぬが、レビ族は死んでいく人として十分の一を受けていた。一方、メルキゼデクは「生きている者と証しされている」。永遠に生きる神であるイエスが、祭司が受けるに相応しい十分の一を受ける。(しかし、これは今日の教会において十分の一を捧げ戒めにはならない)

メルキゼデクはイエスの永遠の祭司の役割を象徴している。イエスはレビ族の祭司と、その制度を制定する律法を凌駕していて、キリストの弟子であるクリスチャンは律法でなくキリストの下に置かれている。律法から見いだせるルール(十一献金など)に注力せず、イエスの教えを常に再確認したい。

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Hebrews

ヘブル6:13~20

神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。 こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。 ヘブライ人への手紙 6:13‭-‬15 新共同訳

神が救いの約束をしてくださり、ご自身にかけて誓ってくださった。この「誓い」という言葉で思い出すのがヤコブに書かれていること。

'わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。’ ヤコブの手紙 5:12

クリスチャンとして、私たちは「誓い」をしてはいけないのか?結婚式や裁判所での「誓い」はどうなのか?「誓い」をすることは悪いことではないと考えられる。このヤコブの箇所では、誓いを立てないと真理が語られないという環境を現わしている。教会員の間でも、友人関係でも、私たちは常に真理を語らなければならない。何もなかったかのように笑ってごまかしたり、問題を残したまま会話せず人を避けたりするのは問題の解決にならないし、真理を語り合っていない。こういう環境だと「誓い」が必要となってしまうかもしれないが、本来は真理を語れる環境であるべき。神が救いの約束をしたのと同様、私たちも真理を語り、ことばにおいて信頼できる人でありたい。

それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。 イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。 ヘブライ人への手紙 6:18‭-‬20 新共同訳

「二つの不変の事柄によって力強く励まされる」この二つの不変の事柄とは何だろう?一つは、神がアブラハムに対して「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」(13節)と約束したこと。そして単に子孫を増やしてイスラエルの民を作っただけでなく、その民を通して全世界の人々が祝福されることも約束した (創世記22:18)。この祝福とは、イスラエルの血筋を持って生まれてくるイエス・キリストが、全人類のために十字架にかかり、罪の代価を支払ってくださったこと。

二つ目は、神がこの約束を誓ったこと。一般的に誓う場合、誓う人よりも権威ある者によって誓いをするのだが(結婚式の場合は神の前で誓う)、神より上はいないのでご自身の名において誓った。つまり、神の約束はすべてご自身で責任を負っているので、人がどう反応するかは関係ない。私たちは全知全能の神が約束を果たして下さることを信頼し、この確かな土台に錨を下して流されないようにすることができる。

「至聖所の垂れ幕の内側に入って行く」約束が果たされる利点として私たちは神との親密な関係が回復する。垂れ幕の中は神殿の中で神が宿った場所であり、大祭司しか入れなかった。大祭司も罪を贖っていなければ垂れ幕に入った瞬間に死んでしまう。イエスが先に垂れ幕に入り、仲保者となってくださったので、私達は自由に垂れ幕の中、すなわち神の前に行くことができる。

神に信頼をおくことができ、神との親密な関係が回復する。それはすべて神の約束と誓いがあってこそ実現している。

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Hebrews

ヘブル6:1~12

'だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。' ヘブライ人への手紙 6:1-2

「死んだ行いの悔い改め (ローマ6:23) 、神への信仰 (ローマ10:13)、種々の洗礼についての教え (マタイ28:19, 使徒2:38, 1ペテロ3:21, 1コリント12:13)、手を置く儀式 (使徒6:6, 13:2, 1テモテ4:14, 5:22)、死者の復活 (1テサロニケ4:17)、永遠の審判 (2テモテ4:1, 黙示録20:11-15)」は「基本的な教え」とされている。これはいわば、信仰をもつことと、普遍的教会に加えられること。教会教育において、この基本的な教えはされているだろうか?また「学んだ」とされている人はこれらを聖書から説明できるだろうか?基本的な教えなので、聖書箇所を改めて確認したい。

'一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。 ' ヘブライ人への手紙 6:4-6

「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」これはどのような人を指しているのだろうか?まず、その人は宗教的に良い体験をする。次に、その宗教から脱落する。そして最後に、イエスを十字架につけ侮辱する。教会に行き、聖霊が動く体験をし、周りのクリスチャンと良い関係を持ち、有意義な楽しい時間を過ごしていた。しかし、その後教会を離れ、キリストよりもこの世の楽しみにしがみつくようになる。まるでキリストを十字架にかけて侮辱するかのうようだ。

ここで問題なのが、「救われて教会に行くようになった人がキリストの救いから外れることはあるのだろうか?」一つ分かることは、7~8節にあるように、本当に救われた人は良い実を実らせる。本当にイエスを受け入れて変えられた人は「成熟を目指し」「豊作物をもたらす」。また救いの結果として、御霊の実が備わる (ガラテヤ5:22~23)。もう一つ分かることは、「最初の信仰を最後までしっかりと持ち続ける」(3:14)。本当にキリストを受け入れて変えられたのであれば、最後まで信仰を持ち続ける。もし持ち続けることができないのであれば、最初から救いを受け入れていないと言える。神の偉大さを体験したのに受け入れず、実がないのであれば、裁きを受けることになる (8節)。

'しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。' ヘブライ人への手紙 6:9-12

「聖なる者たちに仕える」キリスト者が互いに仕える。「最後まで熱心さを示す」マンネリ化した礼拝式典ではなく、信仰の実を実らせる熱心さ。「怠け者とならず」現状に満足せず、イエスのようになるよう押し進む。このような生き方が、キリスト者に求められている。

'兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 ' フィリピの信徒への手紙 3:13-14
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Gospel Hebrews

ヘブル5

'また、神は他の個所で、 「あなたこそ永遠に、 メルキゼデクと同じような祭司である」 と言われています。 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。 ' ヘブライ人への手紙 5:6-10

イエスは「メルキゼデクと同じような大祭司」とされている。「メルキゼデク」とは誰なのか?その人は大祭司としてどのようにイエスの登場を予兆したのか?

メルキゼデクは創世記14:18~20に登場する。彼はサレム(いずれエルサレムになる場所)の王であり、「いと高き神の祭司」だった。アブラムはメルキゼデクが祭司だと理解していたので、戦利品の十分の一を彼に送った(創世記14:16)。面白いことに、メルキゼデクはアロンによる祭司制度が制定する前に祭司とされていた。メルキゼデクはイスラエルという民が存在していなかったので、イスラエルの祭司でもなかった。それでも祭司として神と人々との仲保者の役割を担っていた。

詩篇110では、「メルキゼデクの位にしたがってとこしえに祭司」を語っている。これは将来、イエスが永遠に地上を治めることを指していると同時に、祭司として神と人の間に立っていることも指している。祭司は本来王ではなく祭司だけの職務を担っていたが、メルキゼデクの場合王であり、祭司でもあった。メルキゼデクの存在はイエスが永遠に担う王と祭司の役割を象徴している。

メルキゼデクの存在はモーセ律法が不十分だったことを示している。律法の元に制定された祭司制度は、動物犠牲を通して人の罪の贖いをし続けることによって神の赦しを一時的に得る職務だった(レビ記16:1-28)。しかし、罪が永遠に赦されるためには永遠の存在であるイエスに贖ってもらう必要があった。律法の祭司制度が成し得なかった完璧な罪の赦しをイエスは十字架によって担って下さり、永遠な仲保者として神と人との間に立って下さっている。

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ヘブル4:12~16

'というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 ' ヘブライ人への手紙 4:12-13

ここまで語られて来たイエスの権威と永遠の安息と、「神の言葉」(聖書)はどのような関係があるのだろうか?

一つは、イエスが「ことば」であることが思い浮かぶ (ヨハネ1)。イエスはこの世が始まる前から存在していた神で、この世を「ことば」によって創造した。創造する力をも持つ「ことば」には大きな権威があり、聞き従うことが当然のことである。権威ある、創造の力をもつこの「ことば」は、私たちの外面と内面を刺し通して影響し、私たちを変えていく。

2つ目は、11節に「安息にあずかるように努力」することが促されている。これは日曜日に教会に行くことではなく、神に絶対の信頼を寄せ、神により頼む人生を送ることによって、天地創造の7日目に神が表したあるべき姿の安息を指している。この「安息にあずかる」にはどうすれば良いのか?単に日曜日に説教を聞いて、水曜日に祈祷会に参加するだけではたどり着くことはできない。生きている神の言葉、聖書を読み、思いを巡らすことが必要。そうすることによって「精神と霊、関節と骨髄」という内面と外面の変化を起こし、全体が神により頼むようになっていく。

'この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。' ヘブライ人への手紙 4:15-16

しかし私たちは弱い。罪を犯してしまう。この世に望みをおいてしまう。イエスはこの誘惑を理解している。イエスは憐れみと恵みを授けてくださり、私たちが自信をもって神に近づくことができるようにして下さった。私たちも、特に教会のリーダーは、罪に陥った人に対してキリストに習い、憐れみと恵みを示す必要がある。ルールに照らして罰則を与るのではなく、寄り添って理解を示すことがキリストが行動を持って示したこと。

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ヘブル4:1~11

'もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。 ' ヘブライ人への手紙 4:3-5

4章は3章から続いて、天の御国がクリスチャンにとって永遠の「安息」であることを語っている。信仰をもった人たちのみが「安息」を得ることができ、そうでない人は「安息」を得ることができないと神は宣言している (3節)。この背景の中で、何故「天地創造」の話をしているのか?神が6日働いた後7日目に休まれたことと、永遠の安息とどのような関係があるのか?

ヘブルで語られている事実を整理すると分かりやすくなる。

1. 神の民であるイスラエルは、カナンの地で安息が約束されていました。しかし、彼らは不信仰のためにそれを果たせませんでした。

2. 筆者の目的は、それよりずっと後に神の民になされた同様の約束があり、その約束には「全て」の神の民が招かれていたことを証明することでした。

3. その安息とは、約束の地のものではなく、創造の仕事を終えたときに「神がご自身で持たれた」ものでした。それは特に「神の安息」であり、労苦や倦怠のない、神のすべての「仕事」が終わった後の休息であった。

4. 神の民は、同じ「安息」、すなわち神の休息に招かれ、神の幸福にあずかり、創造の仕事を終えたときに「神」が楽しんだその至福に入るのです。聖徒の幸福はそうあるように意図されていたのです。労苦からの休息であり、彼らがしなければならないすべてのことが終わったときに享受されるものでした。

https://biblehub.com/commentaries/barnes/hebrews/4.htm
'そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 心をかたくなにしてはならない」 とダビデを通して語られたのです。 ' ヘブライ人への手紙 4:6-7

イスラエルが安息の地に入れなかったのは神の声を聞かなかったから。クリスチャンであれば神の声に聞き従い、神の安息に入ることを求めるべき。その安息は単に「仕事から休む」とか「日曜日に教会に行く」ではない。神が天地創造を終えた時に完成された被造物を見て楽しんだように、神が私たちの生活の中で成して下さることを振り返り感謝し、神ご自身の臨在を楽しむことが本当の「安息」。それを永遠に経験できるのが天の御国で、心を神に明け渡して信仰によって聞き従う者が得られる喜びである。

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ヘブル3

'どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、 キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。 ' ヘブライ人への手紙 3:4-6

イエスはモーセより栄光を受けるにふさわしい。イエスは神の子なので、普通に考えたら当たり前だが、これは大きな意味がある。モーセは神の律法を守り、神の民を約束の地に導く使命が与えられていた。モーセは「仕える者として神の家全体の中で忠実でした」。一人の人間として忠実だったのは評価されているが、それだけにとどまる。モーセの言動や行いは結局人のすることで、それに従うとなると問題がないか吟味してから従わなければならない。しかし、イエスは「御子として神の家を忠実の治める」方。神に忠実に仕える人ではなく、イエスご自身が神であることを示している。神であるイエスが教えたことは直接受け入れられるし、安心して従うことができる。人の教えに頼らず、神であるイエスの教えに頼りたい。

' 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 神に反抗したときのように、 心をかたくなにしてはならない。」 いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。 このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。' ヘブライ人への手紙 3:15,18-19

ここの「安息にあずかる」というのはイスラエルが約束の地にたどり着くことを指しているが、新約においては「永遠の安息」である天の御国を指している。つまり、イエスの教えに従わない者、または従い続けない者はクリスチャン(=キリストに従う者)とは言えず、約束の地にたどり着くことはできない。人が作ったルールや教えに惑わされず、伝統にしがみついて心をかたくなにせず、イエスの声に耳と心を傾けて、従うことを心がけたい。そして、「罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合う」(3:13) ことを続けていきたい。