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ヘブル6:1~12

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた

'だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。' ヘブライ人への手紙 6:1-2

「死んだ行いの悔い改め (ローマ6:23) 、神への信仰 (ローマ10:13)、種々の洗礼についての教え (マタイ28:19, 使徒2:38, 1ペテロ3:21, 1コリント12:13)、手を置く儀式 (使徒6:6, 13:2, 1テモテ4:14, 5:22)、死者の復活 (1テサロニケ4:17)、永遠の審判 (2テモテ4:1, 黙示録20:11-15)」は「基本的な教え」とされている。これはいわば、信仰をもつことと、普遍的教会に加えられること。教会教育において、この基本的な教えはされているだろうか?また「学んだ」とされている人はこれらを聖書から説明できるだろうか?基本的な教えなので、聖書箇所を改めて確認したい。

'一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。 ' ヘブライ人への手紙 6:4-6

「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」これはどのような人を指しているのだろうか?まず、その人は宗教的に良い体験をする。次に、その宗教から脱落する。そして最後に、イエスを十字架につけ侮辱する。教会に行き、聖霊が動く体験をし、周りのクリスチャンと良い関係を持ち、有意義な楽しい時間を過ごしていた。しかし、その後教会を離れ、キリストよりもこの世の楽しみにしがみつくようになる。まるでキリストを十字架にかけて侮辱するかのうようだ。

ここで問題なのが、「救われて教会に行くようになった人がキリストの救いから外れることはあるのだろうか?」一つ分かることは、7~8節にあるように、本当に救われた人は良い実を実らせる。本当にイエスを受け入れて変えられた人は「成熟を目指し」「豊作物をもたらす」。また救いの結果として、御霊の実が備わる (ガラテヤ5:22~23)。もう一つ分かることは、「最初の信仰を最後までしっかりと持ち続ける」(3:14)。本当にキリストを受け入れて変えられたのであれば、最後まで信仰を持ち続ける。もし持ち続けることができないのであれば、最初から救いを受け入れていないと言える。神の偉大さを体験したのに受け入れず、実がないのであれば、裁きを受けることになる (8節)。

'しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。' ヘブライ人への手紙 6:9-12

「聖なる者たちに仕える」キリスト者が互いに仕える。「最後まで熱心さを示す」マンネリ化した礼拝式典ではなく、信仰の実を実らせる熱心さ。「怠け者とならず」現状に満足せず、イエスのようになるよう押し進む。このような生き方が、キリスト者に求められている。

'兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 ' フィリピの信徒への手紙 3:13-14

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