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ヘブル2:10~18

事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 「わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、 集会の中であなたを賛美します」 と言い、 また、 「わたしは神に信頼します」 と言い、更にまた、 「ここに、わたしと、 神がわたしに与えてくださった子らがいます」 と言われます。 ヘブライ人への手紙 2:11‭-‬13 新共同訳

イエスが十字架にかかって罪の代価を支払ったことによって、私達の罪は赦された。罪が赦されたということは、私達は聖なる者とされ、神にとって特別な存在として取り分けられた。いわば「神の民」とされたのだが、それ以上にイエスに「兄弟」と呼ばれるようになった。ただ神の律法・ルールを守るだけの「神の民」ではなく、イエスと共に「兄弟」として歩む者とされた。かつてアダムとエバが神と自由に会話したように、私達も胸を張って神に近づくことができ (ヘブル4:16)、「アバ(パパ)、父」と呼ぶことができる (ガラテヤ4:6)。

ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。 ヘブライ人への手紙 2:14‭-‬15 新共同訳

「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった」死を恐れると他のことも恐れるようになる。迫害を受けること。組織に罰せられること。仲間はずれにされること。人にどう思われるか気にしてしまう。しかし、イエスは死を滅ぼした。私達は死を恐れる必要はない。「組織」や「仲間」はルールを重んじて人を罰する傾向にあるが、そのルールが神の意思に背いているなら神に従うしかない。それで迫害を受けたとしても、私達は神に従っていることを誇ることができる (2テモテ3:12)。迫害は受けるかもしれないが、この世の迫害よりもいずれ受ける栄光は比べ物にならない (2コリント4:17)。仲間はずれにされるかもしれないが、兄弟よりも私達と親密な関係を保ってくださるのがイエスだ (箴言18:24)。

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 ヘブライ人への手紙 2:17‭-‬18 新共同訳

イエスは地上で生活することによって、私達がいかに罪の影響下で苦しんでいるかを体験してくださった。だからこそ、私達のことを深く理解し、どのように助けるべきかを理解してくださっている。私達は、周りにいる弱者を理解しようとしているだろうか?彼らのいる場所に出向いて、彼らの体験していることを体験しようとしているだろうか?同じ立場に立った時に初めて、その人にとって何が本当の助けであるかを理解できる。イエスは私達に行動を通してこれを教えてくださった。

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ヘブル1:10~14

'ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。 ' ヘブライ人への手紙 2:9

イエスは神の子でありながら、人間としてこの世に来られた。人として私たちと生活を共にし、罪の影響下における体験をされた。私たちと同じように罪の誘惑にさらされながら、私たちに律法の大事な部分(神を愛する、隣人を愛する)ことと、そうでない部分(心を伴わない行動)を教えて下さった。十字架にかかることによって全人類の罪の罰 (ローマ6:23) を負って下さった。死から蘇ることによって、ご自身の栄光を表し、私たちに永遠の命を約束すると同時に死の恐怖を取り除いた。

イエスから教わることは多くあるが、神に従うことの大切さが最も重要に感じる。政治、仕事、宗教組織において人が権力によって、ルールを使って他人を縛り付けようとする時、私たちはイエスのように神の前にへりくだり、神に従うことを覚えたい。そしてイエスの教えに従って聖書の真理を追求し、隣人を罰せず愛し助け、大宣教命令に従って福音を伝えていきたい。「栄光と栄誉の冠を授かった」イエス・キリストの弟子として生きることが「クリスチャン」の求めることだ。

'キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 ' フィリピの信徒への手紙 2:6-11
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Hebrews Special Topics

ヘブル1:10~14

13神は、かつて天使のだれに向かって、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。 14天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。へブル1:10~14

聖書には天使の話がいくつかあるが、天使の存在はどのように体感できるのだろうか?天使は私たちの為に何をしてくれるのだろう?天使の行動から私たちは何を学べるだろう?こんなことを考えてみた。

天使の存在を体感

天使が存在することは聖書を読めば明らか。しかし、普段私たちは「天使」という存在を意識していない。どのように天使の存在を体感できるだろうか?一つは、他人をもてなすこと。ヘブル13:2には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」とある。天使は神の使いとして、かつてアブラハムがそうしたように、もてなすに相応しい存在である。同じように、私たちは他人をもてなすことによって、天使をもてなす体感をすることができる。もう一つは、エペソ6:12の言葉を忘れないこと。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」物質世界の戦いだけに注力せず、霊的世界の戦いに注目し、悪魔や罪と戦って行くことも、天使を体感する方法。

天使がしてくれること

天使は罪がない存在なため、「救い」という概念を理解していない (1ペテロ1:12)。しかし、一人の人が救われ、神の家族に加えられた時、天使たち全員が祝う (ルカ15:7)。私たちは、救われた人、その事実を象徴する洗礼を受ける人を見た時、どのように反応するだろうか?礼拝の「秩序」を気にして、静かに見守るだけだろうか?それとも、立ち上がって拍手し、大声で神を賛美するだろうか?天使たちは後者の方で、喜びをあらわにし、救われた人の価値を示してくれている。また、天使たちはパウロにしたように励ましの言葉を与える (使途27:23-24)。実際の必要(食料など)を与えることもあるし (1列王記9:3-8)、危機から救ってくれることもある (使途12:6-10)。そして、人が生涯を終える時、天使たちがその人を神の元に連れて行ってくれる (ルカ16:22)。

天使から学べる事

天使たちは神を賛美するために創られた (詩編148)。神に仕えるために創られた。私たちは日々の生活で神を賛美し、喜んで仕えているか?これは日曜礼拝の場だけの出来事ではない。会社で、学校で、家庭の中で、私たちは神を賛美し、神に仕えるようにしなければならない。また、天使は神のみことばを伝達する役割を担っている (ヘブル2:2)。私たちは聖書を読んで理解し、自分のものとした後、他人に伝えているか?天使たちほど神の言葉を忠実に伝る人間はいないだろう。人として天使たちを見習いたい。

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ヘブル1:1~9

'神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。 ' ヘブライ人への手紙 1:1-2

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」

旧約の時代では、神は人に直接、声が聞こえる形で (創世記2-3)、燃える木の中から (出エジプト3)、嵐のあとの小さな声で (1列王記19)、御使い(天使)を通して (ヨシュア5)、預言者を通して、レビ人(祭司たち)を通して、人に語りかけた。様々な方法で神が主導して人に語りかけ、人がその声に従った時に祝福が与えられた。また、神に背く方向に陥ってしまったときに、人に対して「悔い改め」と、神に立ち返るよう促した。旧約聖書と考えると厳格で畏れるべき神のイメージが強いが、神は常に人に関心を持ち、人を祝福の道に導いていることを考えると、それほどまで神は人を愛していることが分かる。

「 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」

神であるイエスが地上に来たことによって、神本人が人に語りかけて下さった。祈ることを教えてくださり (マタイ6)、律法を神を愛することと隣人を愛することに要約してくださり (マタイ22)、大宣教命令を与えて下さった (マタイ28)。直接語る以外にも、行動を通して罪を赦すこと (ヨハネ8)、人々の肉体的必要を満たすこと (マタイ14)、父なる神と静かな時間をもつこと (ルカ5, マタイ26) の重要性を教えて下さった。そして今も私たちに聖霊を通して語りかけてくださる (ヨハネ14)。聖霊はイエスが教えたことを私たちに思い起こさせてくださり、聖書を理解するよう助けてくださる。

今日においては、私たちは完成された聖書が与えられており、聖書によって私たちは神のことを知ることができ、私たちが過ちを理解することができ、神に立ち返ることができ、神に仕えることができるように備える。イエスの教えを思い起こさせる聖霊と真理を得られる聖書があるので、私たちは地上の他の人や書物に頼る必要はない。十分に神を知る手はずが整えられている。

'聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。' テモテへの手紙二 3:16-17