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1テモテ2

Discipleship Journal Reading Planに沿ってデーボションを勧め、思ったこと、感じたことを書いてみた。

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 テモテへの手紙一 2:1‭-‬4 新共同訳

神は、本当にすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでいるのか?ならば、何故全ての人が救われないのか?神の救いの選びとどう関係しているのか?

以下の考えはJohn Piper作のDoes God Desire All To Be Saved?から要約している。

まず、神が何かの事柄について望むと同時に拒絶することがある。最も大きな出来事としてイエスの十字架。神の子であるイエスが殺されることは許されないことだが、この救いの計画は神が意図したこと。もう一つは黙示録における戦い。悪魔とその手先が神に反乱を起こして戦いが生じる。神に対して反乱するのは罪だが、それが起きることを神は許している。もう一つはファラオの心が頑なにされたこと。イスラエルの民がエジプトから出るのを拒んだファラオだが、一時は心を入れ替えた。しかし、神がファラオの心を頑なにしたと書いてある。イスラエルがカナンの地に行くことが神の意思だったが、ファラオの心を頑なにしてそれを止めたのも神。

聖書からもう一つ考えられることは、時に神はご自身が認めない事柄を起こすこと。創世記20では、アビメレクがサラに対して罪を侵さないように神はアビメレクを抑制した。このように、罪を犯すことを抑制することも、罪を犯すことを許すことも、どちらも神の意思。

王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。 箴言 21章 1節

神の意思は全てを支配していて、この考えは昔からある (箴言16:1, 9, 33, 19:21, エレミヤ10:23, マタイ10:29)。災難や災害さえも神のコントロール下にある (イザヤ45:6-7, 哀歌3:37-38)。神の意思を探り、そのために生きることが良しとされている (1ペテロ2:15, 4:2)。迫害も神の意思の中にある (1ペテロ3:17, 4:19)。神が「許すなら」という生き方がキリスト者に求められている (使途18:21, 1コリ4:19, 16:7, へブル6:3, ヤコブ4:13-15)。神の意思が全てを支配していることによって、預言者がそうであったように (イザヤ46:9-1, 43:13, ダニエル4:35, ヨブ42:2, 詩編115:3)、私たちも神に絶対の自信と信頼を置くことができる 。

上記を踏まえて確認しておきたいポイントはまず、神は罪を容認しないこと (ヤコブ1:13)。悪い出来事を容認したとしても罪を侵すことはしていない。

ある行為が邪悪な行為であっても、そのような行為が実現することが良いことであると考えることは、何の矛盾もありません。例えば、キリストを十字架につけることは悪いことかもしれません。しかし、キリストを十字架にかけることが実現したのは良いことである。

ちなみにアルミニウスも同じ結論に至っている。

すべての人は、神がご自身の命令に違反することを妨げないことがあることを認めなければならない. . .

神は被造物の自由に任せることを望んでおられるので、罪を容認していると言えるかも知れない。もし妨げるなら被造物の自然な形と反するから。

神は絶対的に罪を意志するのではなく、自然の法則や自由な主体の性質を変えないために、罪を意志する。神は、ある特定の部分で卓越性に反することよりも、一般的な卓越性と秩序を意志する。

では、1テモテ2:4にあるように、全ての人が救われることを望むがそれが起きないのはどのような意味があるのか?一つの可能性は、神より大きな存在がいて、神のコントロール下にないことが起きてしまう事。これは改革派もアルミン派のどちらも信じていない。もう一つの可能性は、神は全ての人を救いたいと「願っている」こと。これなら、改革派もアルミン派も合意できる。「何故全員救われないのか」と聞かれたら、神は全ての人の救い以上に重要なことに神は専念していると、改革派もアルミン派も答える。この神の二つの意思については考えの違いはないが、神は何を重要視しているかについて違いはある。神は全ての人を救うことを重要視しているのか?(アルミン派) それとも神の栄光が怒りと寛容によって現わされていることなのか?(ローマ9:22-23)(改革派) 1テモテ2:4ではどちらの考えを容認も否定もしていないので難しい問題だ。

一つのたとえ話として、ジョージ・ワシントンが下した死刑の決断について。ジョン・アンドレーは国家を危機にもたらす行為をしたので死刑が下った。ワシントンはアンドレーのことを心から同情していて、死刑を免れるよう赦すこともできた。しかし、彼の知恵、責任感、愛国心、と道徳によってそれができなかった。

神に救おうとする[有効な]意志がないからといって、必ずしも同情心がないとは限らない。

ヨハネ3:16と1テモテ2:4から言えることは、神は世界を愛していて、全ての人に救われてほしいこと。同時に、神はこの世の礎から誰を救うか決めている。この時点で私たちが決めなければならないのは、神は人に自由意志を与えていてその決定に拘束されている(アルミン派)か、神が全ての人を救うことはご自身の主権と恵みによって拘束されているか(エペソ1:6, 12, 14; ローマ9:22-23)。この選択は哲学的な考えからでなく、聖書に書かれていることからしなければならない。

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