Categories
Colossians

コロサイ2:16~23

'だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。' コロサイの信徒への手紙 2:16

「食べ物や飲み物のこと・・・でだれにも評価されてはなりません」

教会によって聖餐の考え方やとり方は違う。ルーテル教会では「実体共存説」(consubstantiation) に基づいて、パンとブドウ酒と共にキリストが共存する、という考えで聖餐をとっているので、聖職者がパンとブドウ酒を祝福し、聖別する必要がある。改革派は聖餐を「印」としていて、「神の民」として一つのパンを分け合って、民の一員であることを覚えるので、実際に一つの場所に集まって聖餐を取る以外に方法はない。

もう一つの考えは、聖餐はイエスの十字架を覚える機会であること。イエスはパンとブドウ酒を弟子たちに渡したとき、「覚える」ことを言葉の中心に置いている (1コリ11:24)。「覚える」= anamnesis = 思い起こす、起きた出来事(イエスの十字架)の効力を認識し感謝する。パンとブドウ酒自体に特別な効力はない。イエスの十字架に効力がある。「神の民」を重要視するイベントではない。イエスの十字架を覚えるのが重要。こう考えると、「教会」と呼ばれる建物で集まって聖餐を取る必要はなく、「覚える」事を重要視できる環境が整えば十分なはず。なので、リモートで個別にパンとブドウ酒を準備し、他のキリスト者と心を合わせて聖餐をとることも考えられる。また、家庭内で親と子供がキリストを覚えて聖餐を取ることも考えられる。

'あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。 'コロサイの信徒への手紙 2:20-23

「手をつけるな。味わうな。触れるな」

舌触りの良い食べ物は一切許さず、乾いた粗いパンを食べ、水しか飲まなかった。彼らの多くは、日没まで何も食べず、自分の宗派に属さない人が触れると、最も深く汚されたかのように身を洗った。

Barnes’ Notes on the Bible

ユダヤ人の律法学者は宗教的に清くあることを常に追求し、他人にも要求していた。律法に書かれている通りの生き方に留まらず、さらに飛躍した解釈によって人々を縛った。かつて免罪符を売ったカトリック教会もこのような動きがあったが、今日でも「教会戒規」という「脅し」を使って、人々を教会に縛り付ける事が見られる。神の言葉(律法、聖書)を人々が読まないことを良いことに、リーダーは無知な人々に不必要なルールを押し付ける。しかし、「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」人が作ったルールは「肉」を満足させるだけ。「天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)。

Categories
Colossians

コロサイ2:8~15

'人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。 ' コロサイの信徒への手紙 2:8

神の存在を否定する「科学」にのっとった教育。神は様々な所に宿っていて、気を付けながら生きなければならない文化。神を信じるならば様々なルールを守らなければならないという、人間の努力を中心とした信仰。神のみことばが与えられているにもかかわらず、神を理解するには専門家の話を聞く必要があるという他人だよりの宗教。どれをとっても、「人間の言い伝えにすぎない哲学・・・むなしいだまし事」。

'あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、 洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。 ' コロサイの信徒への手紙 2:11-12

ユダヤ人は「神の民」とされていて、それを証明するために割礼を受けた。新約のキリスト者も「神の民」と証明する必要はあるのか?これが「洗礼」だという人がいるが、教会が「救い」を確認し、それを「承認」する行為として洗礼を授けている。割礼のように人に頼る肉体的なプロセスになり下がっている。私たちは「肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」た。キリストが私たちを肉の行いに頼ることから解放して下さった。また、洗礼は「キリストと共に葬られ・・・キリストと共に復活させられた」ことを象徴する行為。キリスト者が「神の民」であることを証明する「印」ではないし、教会の判断に頼る行為でもない。「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じ」る、この一点に限る。

'肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。 そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。 ' コロサイの信徒への手紙 2:13-15

「肉に割礼を受けず」にいても、キリストは私たちの罪を赦した。洗礼という「印」を受けなくても「神の民」とされた。「規則によって・・・訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにし」た。もはや律法はキリスト者を拘束する力はなく、キリストによって赦され、生かされた存在となる。「安息日」、「十戒」、「十一献金」、「割礼=洗礼」。どれも神がイスラエルに与えた律法であり、キリスト者には良い「規範」(神が求めたことは理解できる)ではあるが、「規則」(絶対守らないと罰せられるルール)ではない。キリスト者の「規則」はキリストが教えたこと。それを守れない人たちには、キリストと同じように愛をもって接することが求められる。

Categories
Colossians

コロサイ2:1~7

'知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。 わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。 ' コロサイの信徒への手紙 2:3-4

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内」にある。信仰問答や解説本は人が神の言葉を解釈して書いたものであり、時代的背景や筆者の主観が含まれている。よって、常に聖書を確認し、正しさを吟味しなければならない。ろくに考えもせず、「専門家」や「先生」の言うことや書くことをうのみにするのはカルトと同じ状態。聖書を読み、キリストが言っていることを常に見出さなければならない。

すべてを吟味し、良いものを大切にしなさい。

1テサロニケ5:21
'あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 ' コロサイの信徒への手紙 2:6-7

「キリストに根を下して」ー根を下すところは揺らぎない場所でなければならない。偉い先生、信頼する友人に根を下しても、キリストほど頼れない。むしろ、人は間違いを起こし、簡単に裏切る生き物である。キリストという岩に根を下すと倒れることはない。希望を無くすことはない。キリストに結ばれて歩むことによって、キリスト者として造り上げられ成長し、信仰を守るだけでなく感謝にあふれる。この生き方が本当の証になる。

我が身の望みは ただ主にかかれり
主イェスの外(ほか)には 依(よ)るべき方なし
我が君イェスこそ 救いの岩なれ 救いの岩なれ

「我が身の望みは」讃美歌280番
'わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。 ' コロサイの信徒への手紙 2:5

パウロは、牢につながれているときにコロサイ人への手紙を書いた。それでも「離れていても、霊ではあなたがたと共に」いた。実際に一つの場所に集まらなくても霊と心を一つにすることができる。一つの場所に集まっていたとしても心が一つにならず、礼拝中寝ている人がいたり、礼拝終了後全く会話をせず帰る人もいる(教会員だけでなく、リーダーも同じ動きをする)。これと比べて、オンライン体制をしっかりとり、礼拝中もチャットを通して礼拝への参画を促したり、礼拝後にSmall Groupでディスカッションをるすなど、信者同士が親密に語り合っている事実の方が、霊を一つにしているように見える。

Categories
Colossians

コロサイ1:15~29

'御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。 ' コロサイの信徒への手紙 1:15-17

神の姿は誰も見ることができない。神の顔を見た人は死ぬと言われてきた (出エジプト33:20)。イエス・キリストは「しもべの姿をとり、人間と同じ様になられました。人としての姿をもってあらわれ」た (ピリピ2:7)。だからこそイエスは私達の弱さに同情できる (ヘブル4:15)。イエスは、人間が神になった者ではないし、神によって創られたのではない。イエスは「神の姿」であって、神である。父と聖霊とは違う役割を担い、父と聖霊と世の始まりから存在している。

イエスはこの世の全てのものを造り、全てを支配している。そして全てを支えている。巻時計のようにこの世を創って、放っておいているのではない。この世がどんなに悲惨な状況でも、イエスは全てを支えている。イエスの許しなしに起きることはないし、イエスはどんな状況も変える力と権威がある。

造られたものは全てイエスのために存在する。自然が、私達が創られた理由は、イエスのために生きるため。グランドキャニオンやナイアガラの滝のような大自然を体験すると、まさに石ころが神を讃えていることが理解できる(ルカ19:40)。私達も自然に負けず、日曜日のみならず人生全てを通して神を讃えていきたい。

'また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。 ' コロサイの信徒への手紙 1:18-20

イエスは教会=「呼び出されたキリスト者」の頭。イエスが死から蘇ったように、教会も死に向かうだけの罪の中から呼び出され(ローマ6:23)、イエスのために生きるようにされた。神がこの世を見ると罪の影響しか見ることが出来ないが、イエスの内にある教会は聖なる者とされている(ヘブル10:10)。聖なる神と顔をあわせることも出来ない私達だったが、イエスによって神と胸を張って対面することができ、「アバ、父」と呼ぶことができる(ヘブル4:16, ローマ8:15)。神父に罪を打ち明ける必要もなければ、礼拝の場で懺悔する必要もない。私達はすでに赦されている。

'ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。 ' コロサイの信徒への手紙 1:23

本当に救いを味わった者は信仰に踏みとどまる。自分の罪をよく理解し、罪に対してどうしようもない状態を実感する。その罪の報酬は死であることをしっかり認識し、神の義を受け入れる。それに対してイエスが十字架で死に、私達の罪の代価を支払ってくださった愛を知る。その事実を受け入れて、蘇ったイエスのために生涯を捧げる。この一連の考えとイエスへのコミットメントをした人が、信仰から迷いでることはないはず。もしそうであれば、罪の意識、イエスの愛、救いの事実、イエスに仕える意思、のどれかが欠如している。(Perseverance of the Saints =「聖徒の永遠堅持」)

最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば・・・私たちはキリストにあずかる者となる

ヘブル3:14
'このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。' コロサイの信徒への手紙 1:28-29

全てを治めていながら全てを支えている。人の姿をとり、私達を理解してくださっている。私達のために救いをもたらしてくださった。この素晴らしいキリストを宣べ伝えたくならないだろうか?礼拝という限られた場所だけにとどめても良いのだろうか?「知恵を尽くしてすべての人を論じ、教えていく」ことが必要。教会内での奉仕に疲れることがあるが、「労苦」すべきことはキリストを宣べ伝えるとき。それも「キリストの力によって戦う」ことができる。